第5話 これでいい

「『真夜中の祠』っていう都市伝説を知ってる?」


 和恵にそれを聞いたのは、顔見知りの看護師、水瀬だった。

 怪我をした子供を診察してもらった帰りに、少しゆっくり話をしましょうと言われて向かった病院内のカフェスペースでのことだった。


『追い詰められて立ちすくむ時、袋小路に閉じ込められた時、未来に希望が見えなくなった時。真夜中の祠においで。心からの祈りを捧げれば、親切な神様がきっと助けてくれるから……』


 『真夜中の祠』はそんな子供だましの都市伝説だ。

 だからこそ、看護師である水瀬がそれを口にしたことに違和感を覚えた。


「昔ね、お世話になったの。子供を妊娠したばかりの頃に色々あって悩んでて、『真夜中の祠』で神さまから助言をいただいて助けてもらったのよ。井口さんも、どうにもならなくなったら一度訪ねてみて……。案外近い場所にあるのよ」


 そう言って、手書きの地図が書かれた紙切れを渡された。

 もしかして宗教の勧誘かと身構えたのだが、水瀬はその後『真夜中の祠』の話はせず、子育てに関する助言だけをしてくれた。

 そして今、追い詰められた和恵は、ぐっすり眠っている三歳になったばかりの息子を乗せたベビーカーを押しながら『真夜中の祠』に向かっている。


(別に信じてるわけじゃないけど、他に行くところがないし……)


 和恵は酔った夫の暴力から、隙を見て逃げてきたのだ。酔いが醒めて理性が戻れば夫の暴力も少し控えめになる。それまで避難する場所が必要だった。

 家族に恵まれなかった和恵にはあのアパートの部屋以外に帰る場所がない。子供をつれて街中をうろうろするとどうしても目立つ。少し前までは近所の公園に避難していたが、真夜中に子連れの女がいると誰かが通報したらしく警官が見回りに来て声を掛けられてしまった。

 下手なことを言ってそれが夫に知られれば、また酷い目に遭わされる。

 居場所を失った和恵は、看護師の勧めを思い出し『真夜中の祠』に向かうことにしたのだ。


「……ここよね?」


 灰色の鳥居を見上げて、和恵は誰にともなくつぶやく。

 そのままベビーカーを押して中に入りベンチを捜したが、境内には小さな祠がぽつんとあるだけで座れそうな場所はどこにもない。


(困ったな。できればどこかに腰かけて仮眠をとりたかったのに……)


 他にどこかいい場所は無いかと記憶をさらっていると、不意に背後から声を掛けられた。


「こんばんは。えっと、おねえさんは、ここがどういう場所か知ってる?」

「知ってるわよ。『真夜中の祠』なんでしょう」


 和恵は声を掛けてきた少年に向き直った。

 小学校高学年ぐらいだろうか。色白で綺麗な顔をしている。


(この顔、どこかで見たことがあるような……)


 それも、たぶんつい最近。どこかですれ違ったか、それとも似た顔の誰かに会ったのか。

 もやもやとした記憶をつかみ取ろうとしたが、どうにも思い出せなかった。


「この祠のこと、どれぐらい知ってる?」

「都市伝説で言われてることぐらいしか知らないわ。ねえ、ここらへんでベンチのある場所知らない? なるべく人目につかない場所がいいんだけど……」


 お金がなく、しかも子連れだから本当に休める場所がないのだ。


「僕、ここ以外はあんまり詳しくないんだ」

「こんな真夜中に徘徊してるくせに、役に立たないわね」

「ごめんなさい。……赤ちゃん……じゃないね。幼児かな。いつまでも外にいたら風邪ひいちゃう。おねえさん、早く『真夜中の祠』の神さまに祈って家に帰ったほうがいいよ」

「家に帰れないから聞いてるのよ。この子なら厚着させてるから平気。……ってか、あんた都市伝説を本気で信じてるの?」

「もちろん。ここの神さまは本物だもの。僕は曾お祖父ちゃんからこの祠のこと色々聞いたせいか、神さまから説明係に選ばれちゃったみたいなんだ。今までここを訪ねてきた沢山の人達に会ってきたんだよ」

「こんな小さな祠のなにを説明するっていうのよ」

「神さまに祈る作法とか。あと、祈りを捧げると、ふたつの夢を見せられることとか」


 この祠の神さまに真剣な祈りを捧げると、ふたつの道、ふたつの可能性を見せられる。

 この祠に封じられている神さまは元々が荒魂だから、神様の御厚意を無駄にしないよう、ふたつの道を示されたものは必ず、そのどちらかをえらばなくてはならない。

 そうしないと、神さまが怒るから……。


「怒るって、罰が当たるってこと?」

「そうみたい。決まりを守らないと、神さまに惑わされるみたいだよ。でも決まりを守りさえすれば、神さまはちゃんと助かる道を示してくれるんだ」

「……あたしでも助けてもらえるのかしら」

「もちろんだよ。あの鳥居をくぐれたってことは、その資格があるってことだもの。――悩みがあるんだよね?」

「あるわよ。夫がちょっとDV気味で困ってるのよ」


 つき合っている頃からその傾向はあった。でも軽く肩を突かれたり、痛くない力加減で頭をはたかれたりする程度だったから平気だと思っていたのだ。でも違った。結婚して時間が経つにつれ、和恵を叩く夫の力は強くなっていった。特に酔うと酷い。痣になるぐらいの力で殴られたり蹴られたりする。

 しかも暴力をふるわれるのは、人から見えない服に隠れる場所ばかり。

 保身を意識しているのだから、夫はただ衝動的に殴っているわけではないのだろう。悔しいけれど、苛立ちをぶつけるサンドバッグ代わりに使われているのだ。

 友達からは何度も別れろと言われたが、どうしても決断できなかった。

 和恵は元々親から暴力で支配され金蔓扱いされていた。夫と別れればまた金蔓に逆戻りすることになる。身体を売って金を稼いでこいと言われないだけ、夫との暮らしは親と暮らしていた頃よりマシだ。

 だが最近、困った事が起きた。

 しゃべるようになった子供の存在だ。

 テレビを見てはしゃぐ子供の声が苛立つのか、夫は子供を殴るようになった。子供が泣いたり怯えたりすれば、それも気に触るようでまた殴る。

 そして怪我をした子供を病院につれていけば、医者や看護師相手にパパから叩かれたと素直に話してしまうから、それを誤魔化すのも一苦労だ。


(児相が来たりしたら、また酷く殴られる)


 小心者の夫は、自分のDV癖を人に知られるのを好まない。

 だからといって、まだ小さな子供にパパの気に触ることはするなと言いきかせることは不可能だ。

 和恵は追い詰められていた。


「……祈れば、助かるの?」

「うん。そうだよ」

「だったら、祈ってみようかな」


 ここには賽銭箱もないから、祈るだけならただだ。

 和恵は少年から祈る作法を聞いて、その通りにして手を合わせてみた。


(あの男をなんとかしてよ)


 ――そなた自身をなんとかせよ。


 頭の中で性別不詳の低い声が聞こえて、和恵の意識はばっさり刈り取られた。





     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 





第1章は、この話「これでいい」を含めて残り二話。

このお話はちょっとしんどい展開になっていきます。女性や子供に対する暴力等、苦手な方は用心して薄目を開けて読んでやってください。

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