9(END)

 須藤の自宅に裁判所から調停の呼び出し状が届いた。ということは、元妻へも同じ書状が届いているということだ。

 元妻の行動を恐れていた須藤は、その日から厳重な警戒をはじめた。

 娘にお願いして、一時的に位置情報を知ることができるアプリをスマホに入れてもらい、仕事が終わると車で娘が暮らす家の近くに行って見守り続けた。もちろん一晩中起きていることなどできないから、スマホを握りしめての車中泊だ。

 登下校の時間帯も心配ではあるが、日中だし人目もあるから大丈夫だと娘が言うので、なにかあったらすぐに近くの店に飛び込むか、周囲の大人に助けを求めるようにと言っておいた。

 桜居の知り合いの刑事がうまく話してくれたようで、娘が言うには近所の派出所の警察官も昼夜関係なく頻繁に見回りしてくれているとかで少し安心した。


「調停は一月後なんでしょう? 毎晩車中泊じゃ体力持たないですよ」


 心配した高木がたまに見張りを変わってくれる。桜居も居酒屋の定休日には助けてくれた。

 『真夜中の祠』で見たふたつ目の夢、その中で娘が元妻からどんな仕打ちを受けたか覚えているから、過剰とも思える警戒をしてしまう須藤をふたりとも笑わない。当然のような顔でサポートしてくれるのが本当に有り難かった。

 そんな中、元妻が動いた。

 学校帰りの娘の前に現れた元妻は、車に乗れと娘に命じたらしい。だが娘はそれを拒んだ。すると元妻と一緒に居た男に腕を捕まれて、無理矢理車に乗せられそうになったらしい。

 娘は迷わず防犯ブザーを鳴らし、周囲の大人に助けを求めた。駆けつけてくれた人々を見て元妻と男は慌てて逃げ出していった。


「逃げるからには、なにか疚しいことがあったのかもしれません」


 とは、娘を保護してくれた近所の派出所の警察官の言葉だ。

 児相などと相談した結果、特例で須藤の家で娘と一緒に暮らせることになった。

 先程の不自然な連れ去り未遂に加え、親権を持ちながら元妻が娘と同居していないこと、そしてまったく育児実績がなかったこと、さらにはあらかじめ近所の派出所に事情を伝えておいたことも功を奏したのだ。

 学校への送り迎えなど色々と解決しなければならない問題もあったが、思いがけず娘と暮らせるようになったことを須藤は喜んだ。


 調停の前日の夜のことだ。

 娘が眠った後、風呂に入っていた須藤の頭の中に、『真夜中の祠』で聞いた性別不詳の低い声が響いた。


 ――娘に絡みついていた悪縁は断ち切れた。今後も、しかと娘を守るがよい。馳走になったな。


「なっ……断ち切れたって、どういう意味だ?」


 問いかけても答えはない。

 その答えが分かったのは翌日だった。

 その日、元妻は裁判所に現れなかった。


(負けを認めて逃げたのか?)


 だが、あの悪魔のような女が、そう簡単に負けを認めるとは思えない。須藤は、元妻がなにか企んでいるのではと警戒した。

 その直後に、桜居の知人だという刑事からスマホに連絡が入った。


『元奥さんの遺体が発見されました』

「え?」


 一瞬、『真夜中の祠』で見たふたつ目の夢を思い出してしまったが、それはないと自分に言いきかせる。

 辛い目に遭う前に、娘は救い出したのだから……。


「事故か、病気で?」

『いえ、殺人です』


 シティホテルの部屋で、元妻の絞殺死体が発見されたのだと刑事が言う。娘の親権を争っていることから、一応須藤も当日のアリバイ等を聞かれたが、元妻がチェックインした時間にちょうど娘とスーパーで買い物をしていたこともあって疑いを掛けられることはなかった。

 母親の死が殺人であることを娘に告げるかどうかは少し悩んだ。だが報道されてしまうことで、否応もなくどこかから耳に入ってしまうだろう。せめて自分の口で直接伝えることにした。


「……誰に殺されたの?」

「まだわからない。警察が捜査してくれてる。お葬式は明後日だそうだ。一緒に行こうな」

「うん」


 その日から娘は酷く無口になった。葬式の最中も唇を引き結んだまま、祖父母に会っても表情を変えなかった。

 葬式からの帰りの車の中、「大丈夫か?」と娘に聞くと、娘は黙ったまま頷いた。


「私ね、ママにつねられたり叩かれて痛かったこと全部覚えてるの。大人になってママより強くなったら、怒ってやろうと思ってたんだよ」

「そうか。……残念だったな」

「うん。ママ、謝らずに死んじゃうなんて……狡いよね」

「そうだな」


 その夜、娘は早々におやすみなさいをして部屋に戻った。

 そしてどうやら枕かクッションを叩くか投げるかして少し暴れたようで、その後に声を上げてひとりで泣いていた。


(あんな女でも母親だったんだ。やっぱり複雑なんだろうな)


 なんとか娘を殺人犯にも、殺人犯の身内にもせずに済んだ。だが残念ながら犯罪被害者の身内にはなってしまった。


(父親として、どうやって支えていったらいいものか……)


 答えが出ないまま娘の部屋の前に立ち尽くしていると、泣きつかれて喉が渇いたのか、ドアを開けて出てきた娘が須藤を見つけて、びっくりした顔をした。


「パパ、ここでなにしてるの?」

「……なにをしたらいいかわからなくて困ってるんだ」

「じゃあ、一緒にジュースを飲もうよ」

「結愛は歯を磨いた後だろう」

「いいからいいから」


 背中をぐいぐい押されてキッチンに向かう。

 多分こんな調子でいいのかもしれないと須藤は思った。




 元妻の事件は未解決のまま一月経ち、須藤は世話になった礼を兼ねて、居酒屋の定休日に高木と桜居を夕食に招いた。


「寿司以外の料理は娘と一緒に作ったんだ。遠慮せず食ってくれ」

「マジですか。須藤さんがこんなに料理できるなんてびっくりですよ」

「パパは料理上手ですよ。私が小さい時はずっとパパがご飯食べさせてくれてたんですから」


 須藤とのふたり暮らしにすっかり馴染んだ娘を見て、高木と桜居は嬉しそうな顔をしてくれた。

 夕食後、娘が部屋に引っ込んだ後で大人だけで乾杯をする。


「元奥さんの事件のこともあるから複雑でしょうが、親権を取れたことはめでたいってことで。――乾杯!」

「そうだな。ふたりとも色々と本当にありがとう」

「どういたしまして」


 久しぶりに口にしたビールはしみじみ美味かった。だからといって、もう飲み過ぎるような真似はしない。酒を飲んで晴らしたい憂さがもう須藤にはないのだから……。


「そういえば、まだ話してなかったな。実は調停の前日の夜に『真夜中の祠』の神の声が聞こえたんだ」


 ――娘に絡みついていた悪縁は断ち切れた。今後も、しかと娘を守るがよい。馳走になったな。


 覚えていたセリフをそのまま口にすると、高木はぶるっと身を震わせた。


「前日の夜って、もしかして元奥さんが殺された時間帯ですか?」

「そのようだ」

「馳走になったってことは、また『真夜中の祠』に入れたんですか?」


 桜居に聞かれて、須藤は首を横に振る。


「いや、あれっきりだ。あの場所に行っても、もう灰色の鳥居は見つけられなかった。だからお供え物もしていない」

「だったら『真夜中の祠』の神さまは、


 高木の質問に答えを返した者はいなかった。

 それぞれがそれぞれの心の中で自分なりの答えをみいだして、ぞわりと背筋を寒くしていた。

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