桜居の伝手で弁護士が決まり、さあこれから忙しくなるぞと身構えたのだが、逆に暇になってしまった。


「素人が調査に行くのはお勧めできません。不馴れな一般人が調査に行くと、警戒されて情報を引き出せなくなることもありますよ」


 調査関係は弁護士が懇意にしている調査会社に頼むことになり、その結果が出るまではやることがなくなった。


「とりあえず須藤さんは、元奥さんとの間にあったことを、思い出せる限り時系列で書きだしておいてください。それと、いつでも娘さんを迎えられるよう部屋の準備だけはしておいたほうがいいですよ」


 小学生の女の子がどんな部屋を好むのかなんて、アラフォーのおっさんにはさっぱり分からない。須藤はこっそり娘とトークアプリでやり取りしながら部屋を整えていった。

 それ以外にも足りないものは沢山あった。いずれ殺人犯になる覚悟をしていた須藤は、立つ鳥跡を濁さずの精神でなるべく物を増やさない生き方をしていたからだ。だから家財道具が圧倒的に足りない。


(ダイニングにテーブルもあったほうがいいか……)


 玄関には靴入れや傘立ても必要だし、娘が身形をチェックできるような大きな鏡もあったほうがいいだろう。できるなら娘と一緒に買い物に行きたいところだが、こちらの動きを元妻に悟られて警戒されると厄介だ。諦めてひとりで頑張るしかない。

 半月程で再び弁護士から連絡が入り、須藤は事務所を訪ねた。


「必要な書類や情報は全て揃ったので、家庭裁判所に申し立てを行いましょう」

「親権は取れそうですか?」

「はい。問題ありません」


 弁護士はしっかりと頷いた。


「言っちゃなんですが、実に酷い。悪質な女性ですね。離婚時に申し立てても勝てた案件ですよ」

「いや、ですが娘の虐待の件もありますし……」

「ああ、あれも大丈夫。ちゃんと母親からの虐待だという証拠が残っていました」


 娘を診察してくれた医師が当時のことを覚えていて、証言してもらえたと弁護士が言う。

 カルテには証拠として撮影された写真も添付されていて、執拗につねられて紫色になった娘の肌には、長い爪が深くくい込んだ傷跡が何カ所もしっかり残っていたと……。

 医師も、サイズ的にも間違いなくこれは女性の爪だと証言してくれているのだとか。


「須藤さんは爪を長く伸ばしたことはないですよね?」

「はい。仕事でパソコンを使うのでこまめに切ってます」


 須藤は、キーボードに爪が当たる感触が嫌いなのだ。

 両手の爪を弁護士に見せたが、はっきり言って深爪状態で、つねったとしても爪痕が深く残ることはないだろうと確認してもらえた。


「当時から、虐待したのは元奥さんだという見解だったようですよ。須藤さんは元奥さんから騙されていたんです」

「いや、ですが元妻が連れてきた弁護士は、娘の虐待は私がやったことになっているとはっきり言っていたんですが……」

「その弁護士ですが……。須藤さんにもらったこの名刺、偽物でした」

「偽物?」

「はい。弁護士を騙っていたようです。その結果、常識外れの高額な養育費を請求されているんですから、詐欺罪で訴えることもできますよ」


 どうしますかと聞かれた須藤は、とりあえず保留でと応えた。


「今は金より娘の親権を優先させたいので……」


 須藤の返事に、弁護士は溜め息をついた。


「離婚の時もそういう態度だったから騙されたんでしょうね。当時、須藤さんが弁護士に依頼しなかったことが悔やまれます。なぜ依頼なさらなかったんですか?」


 弁護士の問いかけに、須藤は返事ができなかった。

 自分でもなぜ弁護士に依頼しなかったのか、本当にわからなかったからだ。





「それって、須藤さんが元奥さんから完全にコントロールされてたってことなんじゃないですか?」


 桜居がバイトしている居酒屋のカウンターで夕食を取りながら、弁護士事務所での出来事を高木に話すと、高木が不愉快そうに言った。


「ずっと元奥さんからスマホや行動を管理されていたんでしょう? 自分でも気づかないうちに洗脳されてたんですよ」

「モラルハラスメントだったか。家庭内における精神的虐待ってやつですね」


 カウンターの中から桜居も話しかけてくる。


「モラハラか……。聞いたことがあるが、あれは女性が被害者になるものなんじゃないのか?」

「ハラスメントに性別は関係ないですよ」

「そういうものか」

「はい。最初に話を聞いたときから、なんか変だなとは思ってたんです。ほとんど須藤さんが一人で子育てしてたのに、そこら辺の利点を離婚時には全然使えてなかったみたいだし」

「いや、だが男親が親権を取るのはそもそも難しいし、育児の実績があっても虐待したと報告されてしまった以上、もう裁判をしても親権は取れないと思っていたんだが」

「それだって、元奥さんがそう言ってただけでしょう?」

「……言われてみると、確かにそうだな」


 元妻に言われたことを、当時の須藤はそのまま信じてしまっていた。疑うことすらしなかったように思う。

 須藤の手元には、なんでも簡単に調べられるスマホという文明の利器があったのに、それを使うことすら当時は思い浮かばなかった。


「そうか……俺はあの女にコントロールされていたのか」


 離婚の話し合いをした時も、お互いに条件を出し合い戦っていたつもりでいたが、今から思えば全て元妻の手の平の上だったのだろう。

 最初から妻が望む方向に話し合いは誘導されていたのだ。


(俺は。最初からんだ)


 あの時の選択肢は、離婚するか、しないかではなかった。

 元妻が須藤から金を搾り取るその手段――一括か、それとも分割か――にあったのだ。

 そして一括で財産を奪えないことを悟った元妻は、分割という手段を選択した。養育費という名目で……。


「なんて情けない」


 あの悪魔から知らぬうちに思考をコントロールされ、大事な娘を人質にされて今も金をむしり取られ続けている。

 今さらになって気づいた真実に、須藤は打ちのめされた。


「酒が飲みたい気分だな」

「駄目ですよ。娘さんを取り戻すまでは禁酒するんでしょ? ってか、べろんべろんに酔っ払った姿を年頃の娘さんに見られたら、パパ嫌いって言われちゃいますよ」

「わかってる。娘を取り戻しても、もう酒を飲んで記憶を飛ばすような真似はしないよ」


 須藤は苦笑しながら、烏龍茶のグラスを手に取った。


「家庭裁判所に申し立てした後の流れって、どんな感じなんですか?」

「裁判所で調停期日を決めてくれるから、その呼び出し状が俺と元妻に届くことになるな」

「となると、その時が危ないですね」

「やっぱりそう思うか?」

「はい。調停を起こされると知ったら、元奥さん絶対になにか仕掛けてきますよ。大人しく調停に来るような女性じゃないでしょう」

「結愛に用心するように連絡しておくよ」


 元妻の怒りが自分だけに向いてくれればいいのだが、おそらくそうはならない。あの悪魔は、須藤に一番ダメージを与える方法をよく知っているからだ。

 祖父母は娘をそれなりに可愛がってくれているが、元妻の前では無力だ。娘を渡せと言われれば、きっと娘の背中を押して元妻に差し出してしまうだろう。

 どうしたらいいものかと悩んでいると、カウンターの中から桜居が声をかけてきた。


「娘さんが暮らしている家の周囲のパトロールを強化してもらうよう、警察に頼んでみましょうか?」

「頼んだところで応じてくれるかどうか……」

「警察に知り合いがいるんで、ダメ元で事情を話してみますよ」

「そうか。よろしく頼む」


 須藤は深々と頭を下げた。

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