ふと気づくと、自宅であるマンションのリビングにいた。

 妻がヒステリーを起こすと手近にあるものを摑んで投げる癖があるので、極端に物が少ない部屋だ。家具や壁紙についた傷や汚れのせいか、片付いているのにどこか殺伐とした雰囲気がある。


(……そうか。俺は離婚しなかったんだ)


 離婚して娘を妻に渡すか、それとも娘を手元に置くために結婚を継続するか。

 悩んだ末に、須藤は結婚を継続することにした。

 娘が心配でどうしても妻の手に渡すことができなかったのだ。

 結婚継続が決まり娘を連れてマンションに戻ってきた妻は、以前より傍若無人に振る舞うようになった。


『離婚しないであげてるんだから感謝してよね』


 と、いうことらしい。

 同時に、金遣いが荒くなった。

 婚姻継続中に須藤の貯金を使い果たしてやろうとでも思っているのかもしれない。現在も、習い事の友達と一緒に人気の温泉地に泊まりがけで遊びに行っている。


(ずっとあれに家にいられるよりはましだ)


 妻が家にいる間は常に顔を強ばらせている娘も、須藤とふたりきりだと緊張が緩み笑ってくれる。金で娘と過ごす穏やかな時間が買えるのなら安いものだとさえ思う。

 小学三年になった娘は、妻がいない夜にだけ須藤に読み聞かせをねだってくる。娘のリクエストに応えて本を読んで寝かしつけた須藤は、リビングに戻ってウイスキーの瓶を手に取り、愛用のグラスに注いだ。

 最近、酒量が増えている。

 あの悪魔にこれからもわずらわされて生きるのかと思えば絶望しかないからだ。

 娘が成人したら離婚しようかと考えたこともある。

 だが夫婦は離婚すれば他人になれるが、親子は違う。娘は一生あの悪魔から逃れられないのだ。

 自分ひとりが逃げ出すことはできなかった。


「くそっ」


 ぐいっとロックのウイスキーを一気に煽り、また継ぎ足す。二杯目を飲んでいる途中で、ぐらっと身体が傾いで急な眠気に襲われた。


(なんだ、これ……)


 不自然な眠気に須藤は逆らおうとしたが、耐えきれず吸い込まれるように眠りに落ちる。

 どれぐらいたったのか、ゴンッと頭を床に打ちつけた痛みで目が醒めた。


「やだ、手が滑っちゃった」


 須藤の頭上には旅行に行っているはずの妻の顔。どうやら、須藤の脇の下に手を入れて、床の上をずるずると引っ張っている最中だったようだ。


「な……んれ……」


 目が醒めたとは言え、強烈な眠気は残ったままで、なぜか身体の自由も利かない。

 呂律の回らない須藤を見下ろして、妻はまさに悪魔のようににんまり笑った。


「薬がしっかり効いててよかった。抵抗されると面倒だものね」

「お……ま……えが……」

「そうよ。ウイスキーに薬を仕込んでおいたの。でね、これからあなたは、ドアノブとタオルを使って自殺するの。大丈夫、私はちゃんとアリバイがあるから疑われないわ。あなたのお金は全部私が使ってあげるから心配しないでね」


 楽しくて仕方ないといった風に妻は鼻歌を歌いながら、須藤を引きずっていく。そしてあらかじめドアノブに巻き付けてあった輪にしたタオルを須藤の首にかけた。


「はい、これでおしま~い。ふふっ。証拠隠滅しておかなきゃ」

「……ぐっ」


 ぐいっと無情にも足を引っ張られて、タオルが首に食い込んでくる。

 須藤は自由の利かない身体を必死で動かして、タオルに手を掛けた。


(死ねない!)


 自分が死ねば、娘があの悪魔にどんな扱いを受けるかわかったものじゃない。

 娘に行くはずの財産は、まず間違いなくあの悪魔に奪い取られるだろう。ただかすめ取るだけならまだしも、自分にしたように実力行使に出ないとも限らない。


(殺されてたまるか)


 なんとしてでも生き残って、悪魔から娘を守らないと……。

 少しでも身体をドアに近づけようと、踵を踏ん張ったが力が入らず、ずるっと滑って逆にタオルのくい込みが強くなった。


「……っ……、……」


 須藤は少しでも首とタオルの間に指を食い込ませようと、何度も首を指先で引っ掻いた。

 その間も妻は鼻歌を歌いながら、リビングを動き回っているようだった。


(くそっ……息が……)


 酸素が圧倒的に足りない。血流も阻害され、のぼせたように顔が一気にむくんで熱くなってくる。耳鳴りがして、物音が遠くに聞こえて……。


「あら、まだ死んでないの? しぶといわね。手間をかけさせないでよ」


 薄らぎかけた意識が妻の声でハッと戻った。


「ちょっと、自殺なんだから、そんなに首を引っ掻くのやめてよ。もう、さっさと死んで!」

「……う……ぐぅ……」


 罪悪感を一切感じさせない妻の手が、須藤の手首を摑んで一気に首から引きはがす。

 興味深そうにこちらの顔を観察している妻の楽しそうな顔を視界いっぱいに見ながら、須藤の脈動は弱まり、やがて止まった。


 ――さて、次の道に誘おう。


 性別不詳の低い声が聞こえて、死を迎えつつあった須藤の意識はばっさり刈り取られた。

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