第4話 えらべない

 美しい女だった。

 須藤は一目で恋に落ちた。


「あの女だけはやめとけ。あれは地雷だぞ」


 忠告する友人の声も耳には届かなかった。

 灯りに群がる虫のように彼女の美しさに夢中になって、誘われるままに関係を持った。

 そして結婚――。

 女が妻となったその時から、地獄がはじまった。



   ◇   ◇   ◇



「こんばんは」


 そろそろと警戒しながら須藤が真夜中の参道を進んでいると、背後から声を掛けられた。

 振り返ると小学校低学年ぐらいの小さな子供が灰色の鳥居の下に立っている。色白で可愛い子だ。


「お嬢ちゃん、いや、坊やかな? こんな夜遅くになんでこんなところにいるんだ? 親御さんはどこだい?」

「僕ひとりだよ。おじさんは『真夜中の祠』に用があるんでしょ? 僕ね、ここの説明係なんだ。曾お祖父ちゃんに色々教わったせいか、神さまに選ばれちゃったみたい。『真夜中の祠』に用がある人が来ると神さまからここに呼ばれるんだよ」

「呼ばれるんだよって……」


 くったくなく告げる少年の姿に、それでいいのかと不安になる。同時に、気になることがあった。


「実は少し前に同僚達とここに来たんだが、俺以外の人には鳥居が見えていなかったようなんだ。幻覚でも見たのかと気になって確かめにきたんだが……。坊やにもここが見えているんだね」


 都市伝説のひとつ『真夜中の祠』のある場所を知っていると、飲み会の席で同僚が言い出し、面白がった若手に強引につれられて須藤もここまで来た。だが、ここに『真夜中の祠』に続く灰色の鳥居を見つけたのは須藤ただひとり。一緒に来た者達の目にはなにも見えていないようだった。

 奇妙な現象が気になった須藤は、皆と別れた後ひとりでここに戻ってきてしまったのだ。


「ここはね、神さまを必要としてる人にしか見えない場所なんだよ。僕だって呼ばれてない時は中に入れないんだ。――それでおじさん、悩みがあるんだよね? ここの神さまに祈れば、きっと助けてくれるよ」


『追い詰められて立ちすくむ時、袋小路に閉じ込められた時、未来に希望が見えなくなった時。真夜中の祠においで。心からの祈りを捧げれば、親切な神様がきっと助けてくれるから……』


 飲み会の席で教えられた都市伝説の内容を思い出して、須藤は苦笑した。


「いや、神さまでも難儀するかもしれない。相手はとんでもない悪魔だから」

「悪魔! おじさん、悪魔と戦ってるの?」


 きらんと少年の目が好奇心で光る。


(ああ、この子はまっとうに育ってるんだな)


 こんな真夜中にひとりで外をうろついているのはよろしくないが、それでもこの子はのびのびとした精神を持っている。

 よその家の子だが、少しほっとした。


「……比喩だよ。実は俺の妻がかなり困った人でね。悪魔っていうのは彼女のことだ」

「喧嘩してるの?」

「そうだね。離婚する予定だったんだが、なかなかうまくいかなくてね」

「なにが問題になってるの?」

「う~ん、そうだねぇ」

 須藤は、この子供にどう説明したものかと考えた。




 妻は悪魔だった。

 かつて須藤に忠告してくれた友人達曰く、パーソナリティ障害や自己愛性人格障害、もしくはサイコパスかもしれないとのことだった。

 後になってから知ったのだが、幼い頃からその傾向は顕著で、家族でさえ扱いに困っていたようだ。その結果、なんの対応も取られないままに彼女は大人になって社会に解き放たれてしまった。

 妻は結婚すると同時に本性をむき出しにして、ちょっとしたことでヒステリーを起こして暴れるようになった。結婚生活の為に購入して綺麗に整えたマンションはあっという間に見る影もなくなった。

 須藤を支配しようとした妻によってスマホは管理され、一時間おきにトークアプリを通じて行動確認をされた。

 忠告してくれていた友人は、須藤と飲みに行った翌日に、自宅に頼んでもいないピザや着払いの商品が届くようになり、出会い系サイトに勝手に登録されたりしたそうだ。


「悪い。俺にも家族がいるんだ。これ以上はつき合いきれない」


 訴えられないだけ有り難い。縁を切られただけで済んだのは友人の恩情だったのだと思った。

 離婚しようと思ったが、その前に子供ができてタイミングを逃してしまった。娘が産まれた時は、さすがに子供がいれば少しはマシになるかもしれないと期待したが、むしろ子育てにストレスを感じたのかヒステリーを起こす頻度が増えただけだ。

 家にいる間、須藤は必死で妻から娘を守った。なるべく妻から娘を離そうと乳児院や幼稚園に預けて、送り迎えも自分で行った。たぶん父子家庭だと誤解されていたように思う。


(こんな時、頼れる家族がいれば……)


 須藤はひとりっ子で、両親は須藤が大学時代にもらい事故でふたりとも亡くなっている。多額の保険金を得たが須藤は孤独だった。それが結婚を急いだ理由でもある。

 だが友人からは、それも妻のターゲットになった一因だろうと言われていた。遺産目当てかもしれないから気をつけろとも……。

 娘が小学生二年になった頃、発熱して医者にかかった。そこで服の下の見えないところに強くつねったような青あざが複数見つかり、児童虐待を疑われた。

 娘が小学生になった頃から、気持ち悪いから娘と一緒にお風呂に入らないでと妻に言われるようになり、服の下を確認する機会がなくなっていたことが悔やまれた。


「夫がやったんです。私達はずっとDVを受けていたんです」


 妻は調査にきた行政の人達に泣きつき、そのまま娘を連れて実家に帰ってしまった。

 その直後に離婚のための話し合いをしようと言われて、須藤はそれに喜んで応じた。


「俺の望みは結愛ゆあの親権だ。それ以外は全て渡す」


 マンションの権利も貯金もすべて妻に渡すと告げると、妻は大喜びした。話し合いは順調に進んでいたが、途中でいきなり頓挫した。

 妻のほうに計算違いがあったのだ。

 離婚時の財産分与に、結婚前の資産は含まれないという大前提があることを妻は知らなかったらしい。提示された結婚後の共有資産の金額を見て、こんなはずじゃかったと怒り出したのだ。

 そして妻は離婚の条件を変えた。共有資産全てと娘の親権、そして娘が成人するまで高額な養育費を支払うようにと……。

 娘の親権だけを求めていた須藤は焦った。


「話が違う。結愛の親権はこちらが貰うはずだろう」

「バカ言わないで。虐待男なんかに、可愛い娘を渡すわけないでしょう」


 須藤がDV夫だという妻の嘘を、行政や弁護士は信じている。妻を恐れている娘自身に証言させるのはさすがに酷だ。この話し合いが正式な離婚調停の場に移れば、親権を手に入れることは不可能になるだろう。


「条件が飲めないようなら離婚はしないわ」


 妻に娘を渡すことは絶対にできない。

 だからといって、離婚できるかもしれないという夢を見てしまった今となっては、もう一度この悪魔と一緒に暮らす地獄に戻りたいとも思えない。

 須藤は、精神的にかなり追い詰められていた。




 などと言うことを、目の前の無邪気な子供相手に詳しく話すわけにはいかない。


(さて、どうするか)


 須藤は可愛らしい子供を見下ろして、頭をかいた。 

 悩んだ末に、娘の親権を争っているとだけ説明した。


「だったら、神さまにどうすればいいのか聞いてみるといいよ。神さまに本気で祈ると、ふたつの道、ふたつの可能性を見せてくれるんだよ。そして、祈りを捧げた人は絶対にそのふたつの道のんだ」

「絶対なのかい?」

「うん、絶対。この親切は神様の御厚意だからね。無駄にしたら失礼にあたるしょう? 神さまに怒られちゃうんだよ。この祠に封じられている神さまは元々が荒魂だから、なるべく刺激しないほうがいいんだ」

「ああ、日本の神は相反するふたつの顔を持つと聞いたことがあるが、それか……。どんな風にその……ふたつの道? を見せてくれるかわかるかな?」

「うん。前に来た人はすっごくリアルな夢を見てるみたいだって言ってた」

「リアルな夢……明晰夢かな。ありがとう、参考になったよ」

「祈ってみる気になった?」

「……そうだね。試してみるよ」


 離婚したい。だが娘も取り戻したい。

 こちらから要求を告げたとしても、きっと妻から鼻で笑われ無視されて終わりだ。須藤がいくら考えてみても、あの悪魔に対する有効な対処法は見つからない。

 ここまできたら神頼みを試すのも悪くない。


「だったら、ちゃんと二回お辞儀して二拍手してから祈ってね」

「わかった。ありがとう」


 須藤は小さな祠に向き直り、二度深く頭を下げてから二拍手して祈った。


(真夜中の祠の神よ、どうか娘を助ける道をお示しください)


 ――よかろう。そなたの娘を思う気持ちがいかほどのものか、とくと見せてもらおう。


 性別不詳の低い声が頭の中に響くと同時に、須藤は刈り取られるように意識を失った。

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