口裂け女に人面犬、トイレの花子さんにてけてけ……。

 いつだったか取引先との飲み会の席で、それぞれの年代の都市伝説を披露し合ったことを孝志は思い出していた。

 『真夜中の祠』は、その時に二十歳を過ぎたばかりの若い子が話してくれた都市伝説だった。


『追い詰められて立ちすくむ時、袋小路に閉じ込められた時、未来に希望が見えなくなった時。真夜中の祠においで。心からの祈りを捧げれば、親切な神様がきっと助けてくれるから……』


 聞いたときは、ずいぶんと都合のいい都市伝説だと思った。

 他の都市伝説は危害を加えられたり驚かされたりと一定のリスクがあるというのに、『真夜中の祠』にはそれがない。

 都市伝説なんてものは一種の怪談だから、恐怖を伴うリスクこそが重要な魅力だ。それがないのに『真夜中の祠』は、都市伝説として一定の人気を保っている。これは奇妙なことだ。


(どっかの宗教絡みなのかもな)


 信者を集めるために都市伝説を故意に広げているのかもしれない。孝志はそう結論づけていたのだが……。


「ここが『真夜中の祠』? 冗談だろ」


 あまりにもしょぼすぎる。信者を集めようとしている宗教にはそぐわないほどに。


「本当だよ。僕はここの神さまから、説明係に選ばれちゃったみたいなんだ。ここに用がある人が来るときに呼ばれちゃうんだよ」

「……俺は別に用なんてないぞ」

「でも、おにいさん困ってるんじゃないの?」

「まあ、そりゃ困ってるけど……」

「理由を聞いてもいい?」

「聞いたら、おまえも危険な目に遭うかもしれないぞ」


 孝志は少年を脅かすように、さっきまで血にまみれていた濡れた手の平を少年の顔の前に広げて見せた。


「おにいさんの顔もう見ちゃってるし、聞かなくてもやっぱり危険なんじゃない?」

「……確かにそうかもな」


 血まみれの手を見られてしまった以上、この少年を放ってはおけないと考える者もいるのかもしれない。だが生憎と、孝志はそういう思考回路を持ってはいなかった。


(変な子だ)


 自分が危険な立場にいると自覚しているのに、まったく恐れを抱いていない。

 ここの神さまが守ってくれていると本気で信じているのだろうか?


(本当に神さまがいるんなら、神頼みしたいところだ)


 父親の裁判中に人気のある神社のお守りを買ったこともあったが、結局ご利益はなかった。そもそも神の存在なんて信じてもいない。ただ、この少年に話して自分の行動を客観的に見ることで、新たな可能性を見出すことは出来るかも知れない。

 孝志はそんな可能性に賭けてみることにした。


(限りなくゼロに近い可能性だけどな)

 

 水道の蛇口を閉め、濡れた手をふって水気を弾きながら、少年に向き直った。


「いいぜ。話してやる。――酔っ払って前後不覚になって、気がついたら見知らぬ部屋で見知らぬ女が死んでたんだよ。殺した覚えはないが、手は血まみれだしナイフを持ってるしで、状況的に犯人は俺しかいないだろ? だからとりあえず今は逃げてるところだ」


 さすがに怖がるだろうと思っていたのに、少年は逆に近づいてきて、くんくんと孝志の匂いを嗅いだ。


「お酒の匂いほとんどしないね。飲んだのいつ?」

「三時間ぐらい前だ。……悪酔いしただけで量は飲んでなかったからな」

「ふうん。おにいさん、お酒に弱いの?」

「たぶん普通」

「なのに記憶を無くすほど酔っ払っちゃったの? それって、おかしくない?」

「いや、今日は体調も悪かったし……。そのせいなんじゃないか」


 だが少しだけ引っかかる。今日以上に体調が悪いときに飲んだこともあるが、前後不覚になったりはしなかった。というか、珍しく今日は睡眠時間が足りていたし、そんなに体調が悪くなかったように思うのだが……。


「ふうん。あのさ、おにいさん。逃げてるって言ってたけど、防犯カメラとか意識してた?」

「……っ‼」


 そこは、まったく考えていなかった。

 女のいた部屋はそこそここぎれいなマンションの一室だったから、当然出入り口付近には防犯カメラも設置されていただろう。ここまで走ってくる間にもきっといくつかあったはずだし、通り過ぎる車のドライブレコーダーだってある。


「顔バレ待ったなしかよ」

「だと思うよ。自首したほうがいいんじゃない?」

「俺はやってない」

「だったら、それを警察に言わなきゃ。このままじゃ本当に犯人にされちゃうよ」

「言ったところで信じてもらえるかどうかわかるもんか」


 少なくとも、かつて孝志の父親は信じてもらえなかった。

 公権力を振りかざす者達は、寄ってたかって父親を犯罪者にしたてあげた。


(逃げると逆に疑われるだろうな。かといって自分から警察に行くのもなぁ……)


「迷ってるなら、神さまに祈ってみたら」


 迷う孝志に、少年がまた誘いかけてくる。


「ここの神さまは迷ってる人が心から祈ると、ふたつの道を見せてくれるんだ」

「ふたつ?」

「うん。ふたつの可能性だね。それで祈った人は、そのんだよ」

「選ばなかったらどうなるんだ?」

「神さまを怒らせちゃうんだ。神さまは御厚意で道を示してくれてるんだから、それを無下にしたら失礼にあたるしょう? この祠に封じられている神さまは元々が荒魂だから刺激しないほうがいいんだ」

「俺が聞いた都市伝説ではそんなくだりはなかったぞ」

「そうみたいだね。なんでだろ? 罰が当たるかもって思うと、人があんまり来なくなるからかな」

「いや、逆だろう。むしろ怖い物見たさの興味半分の奴らが増えるだろう」

「そっか。ここの神さまは本当に困ってる人以外は必要としてないみたいだから、あえて内緒にしてるのか」


(そういう考え方もあるのか……)


 少年の言葉には奇妙な説得力があった。たぶん少年が、ここに神さまがいると心から信じているからだろう。

 孝志は祠に目を向けた。


「祈る気になった?」

「ああ。……ダメ元で祈ってやるよ」


 自首するか、逃げるか。

 まだ心は決まってないが、とりあえずこの先、同居中の父親に迷惑をかけるのは間違いない。

 駄目で元々、せめて父親だけは穏やかに暮らせますようにと祈るだけでもいいかと、孝志は少年に教えられるまま祠に向かって二礼二拍手してから、手を合わせて神に祈った。


(親父を助けてくれ)


 ――よかろう。その願い叶えよう。


「はあ?」


 突然頭の中に響いた性別不詳の声に驚くと同時に、孝志の意識はばっさり刈り取られた。

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