第3話 もういちど

(なんでこんなことになったんだ?)


 孝志は背後を気にしつつ夜の街を走りながら必死で考えていた。

 たしか今日は会社の先輩に誘われて飲みに行ったのだ。だが最初から気乗りしない飲み会だったせいか悪酔いし、もう少し飲もうと引き止める先輩を具合が悪いからと振り切って、ひとりで店を出た。

 そこまでは覚えている。だが、その後の記憶がない。

 目が醒めたときには、見知らぬ部屋のベッドの上にいた。

 ここはどこだと慌てて起き上がり、見回した部屋では見知らぬ女が血まみれで死んでいた。

 そして孝志の手には大ぶりのナイフが握られ、手は血まみれで……。


(俺が殺したのか?)


 わからない。なにも覚えていない。

 だが状況的にはそうとしか思えない。恐ろしくなった孝志は、ナイフを投げ捨てそのまま部屋を飛び出した。

 そしてそのまま認めたくない現実から逃げるように、真夜中の人気のない道路を走り続けている。


(……このまま、ただ逃げてても駄目だ)


 少し落ち着けと自分に言いきかせながら、ゆっくりと立ち止まる。

 膝に手を当てて荒い息を押さえていると、血まみれの手が視界に入ってきた。


(ヤバイ。この手でそのまま出てきちまった)


 きっとナイフやドアノブには、血液と指紋がべったりくっついているだろう。

 指紋採取されたことはないから、それだけですぐに自分の存在が警察にバレることはない。だが、自分があの部屋にいた決定的な証拠を残してきたことに違いはない。


(俺も身に覚えのないことで犯罪者になるのか。親父みたいに……)


 孝志の父が警察に捕まったのは五年前、罪状は電車内における痴漢だ。

 父は一貫して無罪を主張して最高裁まで戦ったが、結局有罪判決を受けてしまった。残念ながら無罪を立証する証拠が少なすぎたのだ。

 父の逮捕は家族の人生を大きく変えた。

 性犯罪者の身内ならなにをしてもいいとでも思うのか、三歳年下の妹が高校の校内で襲われた。幸いにも未遂だったものの、恐怖から妹は外に出ることさえできなくなった。

 その結果、両親は離婚し、母は妹を連れて親戚を頼り遠い地へと引っ越していった。

 孝志はもう大学生だったから家に残ったが、やはり大学では悪意まみれのからかいや陰口に悩まされた。就職活動もうまくいかず、なんとか引っかかった会社は、残業休日出勤は当たり前のブラック企業だった。唯一の救いは給料がよかったことだが、それも数ヶ月前から残業代に上限が設けられカットされるようになった。そして先週、先輩のミスを押しつけられて減給が決まった。唯一の救いだった給料のよさがなくなってしまった以上、もうこの会社にいる意味は無い。潮時だろうと退職を決意したばかりだった。


(もう一度、最初からやり直すつもりだったのに……)


 父が性犯罪の裁判中だったから、最初から就職が難航するのはわかっていた。こんなことで負けるものかとむきになって、数打ちゃ当たるとエントリーシートを提出しまくった挙げ句に引っかかったのが今勤めているブラック企業だ。

 仕事内容の向き不向きややり甲斐など、一切考慮していなかった。

 使う時間がなかったせいで貯金もかなり貯まったし、今の会社を退職したら、時間がかかってもいいからなにかやり甲斐のある仕事を腰を据えて捜してみようと考えていたのだ。


『おまえにまで迷惑をかけてしまったなぁ』


 懲役刑を終えてから一緒に暮らすようになった父に、会社を辞めることを話したら、申し訳なさそうに背中を丸めていた。

 孝志は、そんな父の背中を叩いて、気にすんなよと笑ってみせた。 

 俺はこの程度のことで負けない。むしろ逆境は人を強くするんだぜと大いに強がって見せた。

 だが、さすがにこれはない。


(とりあえず、手を洗わないと……)


 幸いなことに、今日はビジネススーツに黒のダウンだ。手さえ洗ってしまえば、血の汚れは目立たないだろう。

 どこかに手を洗える場所はないかと周囲を見渡すと、少し離れたビルとビルの間に小さな灰色の鳥居が見えた。

 神社ならばきっと手水舎があるだろう。血の汚れを持ち込むのは罰当たりかもしれないが、背に腹はかえられない。

 孝志は小さな鳥居をくぐった。灰色の石畳を奥へと進むと、最奥に小さな木造の祠があった。古びてはいるが、きちんと手入れされている。


「手水舎はないのか」


 狭い敷地を見回してもそれらしい場所は見当たらない。他を当たるかときびすを返すと、鳥居の下に小学生ぐらいの少年が立っていた。


「おにいさん、水場を捜してるの?」

「ああ。……ってか、坊主、こんな夜中になんでこんな所にいるんだ? 親が心配するぞ」


 奇妙な子供だと孝志は思った。

 今は真夜中過ぎで、小学生が出歩く時間帯じゃない。祠の灯りに照らし出される顔は白く、少女のように整っていて、どこか現実味がない。

 もしや、幽霊か物の怪かと薄ら気持ち悪くなったが、よくよく考えてみれば、血まみれの手をした今の自分だって充分に恐ろしい存在なのだ。それを思うと、ちょっとおかしくなった。


「祠の脇に蛇口があるよ」


 孝志の質問を無視して少年が背後を指差した。振り返ってみると確かに祠の脇に蛇口らしきものがある。

 とりあえず手を洗わせてもらうかと祠の脇に向かい、真鍮の古ぼけた蛇口を捻り手を洗った。

 すっかり乾いてしまった血がなかなか取れない。脳天まで凍えそうな冷たい水に辟易しながら何度も手を擦っていると、いつの間にかすぐ側まで来ていた少年に話しかけられた。


「……おにいさん、怪我したの?」

「俺の血じゃねぇよ」

「えっと……じゃあ、誰の血?」

「知らない女の血」

「ふうん」

「ふうんって……。怖くねぇのか?」

「うん。『真夜中の祠』にいる間は、神さまが守ってくれるから危ないことは起きないんだ」

「真夜中の祠?」


 どこかで聞いたフレーズだなと、孝志は記憶を探った。


「それはあれか? 都市伝説の『真夜中の祠』か?」


 まさかなと薄笑いを浮かべつつ聞くと、少年は生真面目な顔で「そうだよ」と頷いた。

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