6(END)

 頭の中に響き渡る爆音に翻弄されながら、麻美は必死で考えていた。


(この笑い声はなに?)


 我が唆しに逆らうかと告げた声は、夢の中で聞いた神さまの声と同じではなかったか?


――その通りだ。愚かな女よ。


(唆しって……、夫を殺すように唆したってこと? どうして神さまがそんな酷いことをするの?)


――そなたが我を侮ったが故。


(侮ってなんてない。感謝していたのに……)


――いいや。そなたは我に道を問う前にすでに心を決めていた。


(あ……そういえば)


 指摘されて、確かにそうだったと麻美は気づいた。

 真夜中の祠に祈りを捧げる前、すでに麻美は心を決めていた。

 この子を、あの少年のような優しい子供に育てたいと……。


 ――我が手を差し伸べるのは道に迷う者。そなたはすでに迷ってはおらなんだ。故に、罰として子を失う夢を見せ、悪縁へと誘った。


(ああ、申し訳ありませんでした。侮るつもりなどなかったんです)


 ――もうよい。そなたはすでに我が与えた悪縁を自ら断ち切った。母心よのう。見事であった。


 再び爆音のような笑い声が頭の中に満ちる。


 ――子を軽んじるあの下郎を退ければ新たな道も開けよう。人生の舵は己の手で握るがよい。


 その言葉を最後に、神さまの声は聞こえなくなった。




「……えさん! おねえさんってばっ!」


 小さな手で腕をゆすられて、麻美は我に返った。


「坊や……。私、どうなってた?」

「急に黙り込んで、突っ立ったままぼうっとしてたよ」

「そう。……いま私、祠の神さまに叱られちゃった」

「なんで?」

「迷ってないのに祈ってしまったから」


 麻美は少年に、祠に祈る直前に迷いから解放されていたことや、神さまを侮った罰として辛い夢を見せられて、危うく殺人犯になっていたかもしれないことを話して聞かせた。


「そのパターンはじめて聞いたよ。『真夜中の祠』を訪ねて来る人への注意事項が増えちゃった」

「これからも真夜中に出歩くつもりなの?」

「うん。神さまに呼ばれてるんだもん。しょうがないよ」

「……そうね」


 大人の立場としては、子供の夜歩きには絶対に賛成できない。

 だが、あの神さまがやることには、それなりの意味があるのではないかと思えるようにもなっていた。


(言動に筋は通っていたし、本当に理不尽なことはなさらないんじゃないかしら……)


 だが、やはり心配だから、麻美は少年を家まで送っていくことにした。

 強引に手を繋ぎ一緒に歩き出すと、少年はちょっと唇を尖らせた。


「見送りなんていらないのに……」

「そんなこと言わないで。助言のお礼よ。――ねえ、お家の方はあなたが外出してることに気づいてないの?」

「うん。家は母子家庭で、お母さんは看護師で夜勤中なんだ」

「二人暮らし?」

「うん。お母さんが夜勤でいない夜だけ呼ばれるんだよ。不思議だね」

「案外、他にもあなたみたいな説明係がいて、都合のいい人を交代で呼んでいるのかもしれないわよ。――ねえ、寒くない?」

「平気。おねえさんこそ寒いんじゃない? 手がすっごく冷たいんだけど」

「あ、ごめんなさい。私、冷え症だから」


 思わず麻美が繋いだ手を放そうとしたら、逆に強く手を握られて引き止められた。


「しょうがないから、特別に到着するまで温めてあげる」

「そう。……ありがとう」


(やっぱり、こんな子がいい)


 照れ臭そうに耳まで赤くした少年を眺めながら、麻美は穏やかに微笑んだ。



 その後、麻美は夫の暴力から身を守る為、夫にはなにも言わずに家を出た。

 両親とは疎遠だったので、友人の家に二日間だけ泊めてもらって、その間にひとり暮らし用のアパートと夫の浮気調査を頼む先を捜した。

 資金は夫の会社で働いて得た給料だ。いつか不妊治療のために必要になるかもしれないとずっと使わずに貯金していたのだ。


(これでいい。私はひとりで生きていく)


 もう夫なんていらない。

 そもそも、夫や義母と話し合いしても無駄だったのだ。彼らは麻美のことを、都合よく使える召使いかなにかだと思っている。最初から意見を聞く気などない。

 それに彼らの中ではきっと麻美との離婚は確定事項だ。この子が産まれてくることを望んではいないだろう。

 本当にお腹の子供を守りたかったら、ひとりで頑張るしかない。


(いえ、あなたとふたりね)


 麻美はまだ平たいお腹を撫でた。


 雇った調査員は優秀で、すぐに夫の不貞の充分な証拠を積み上げてくれた。

 それを手に夫との離婚の話し合いに挑んだ。

 きっと夫は麻美が弁護士を連れてくるとは思わなかったのだろう。今までのように強く言いさえすれば麻美が戻るとでも思っていたのか、なんの手札も用意していなかった。麻美が伴っていった弁護士にあからさまに狼狽え、次々に提示される不貞の証拠に苛々していた。


「わかった。離婚は認めよう。だが、こちらにも条件がある」

「私側の不貞で離婚したと言いふらしたりしたら、名誉毀損で訴えますからね」


 夫の条件を先読みして逆襲してやると、図星だったようで夫は絶句していた。

 その後、話し合いを重ね、お互いに離婚原因を吹聴しないという条件つきで無事に離婚が成立した。

 ちなみに慰謝料は規格外に高かった。たぶん口止め料のつもりなんだと思う。


(きっと私が信用できないのね)


 夫側は客商売だけに世間体を気にする。だからこそ、金の力で口を塞ごうとしているのだろうが……。


(馬鹿な人。お金なんか渡さなくとも、私は約束を破ったりしないのに……)


 夫婦として長く一緒に暮らしたが、結局彼は麻美のことをなにも理解してくれなかった。少しだけ虚しくなったが、今は感傷に浸っている暇はない。

 もうじき産まれて来る子供を思って、麻美は膨らんできたお腹をそっと撫でた。


 その後、麻美は無事に女の子を出産した。

 名前は百花ももか。たくさんの花を咲かせ、たくさんの喜びを得られる人生を送れますようにと祈りを込めた。


「おかーさん、きょうも、おじぞーさんになむなむするの?」

「そうよ~。今日もお花を供えて、なむなむするの」


 毎月というわけではないが、最初の子の月命日に小さな娘と手を繋ぎ、近くのお寺の水子地蔵にお参りすることがある。この日もいつものように水と花を供えて、娘と一緒に手をあわせた。

 そして、その帰り道。


(……あの人だわ)


 かつて見た夢の中、四十年以上を共に生きた愛する男がそこにいた。

 優しく、思慮深く、そして愛情深い人。

 花束と水桶を手にして妻子の墓へと向かう、少し寂しげな横顔に胸がちくりと痛む。


 ――人生の舵は己の手で握るがいい。


 かつて聞いた、あの神さまの声が脳裏をよぎる。


(そうね。自分で動かなかったら、運命は変わらないんだわ)


 そして麻美は己の手で大きく舵を切って、娘と手を繋いだまま男の背中を追いかけた。

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