目を開くと、祠の前に立っていた。


「……戻ってきたのね」


 腕時計で時間を確認したが、ほとんど時間が経っていない。

 それでも夢の中で四十年以上の月日を過ごしてきたせいか、時間が急に巻き戻ったような錯覚を覚えて、なんだか眩暈がする。


(これから、どうしよう?)


 夢の中で見たふたつの道、そのどちらを選ぶべきか。

 普通に考えたら選ぶのは後者だ。

 子供には恵まれなかったが、優しい夫を愛し愛されて、最後まで添い遂げることが出来るのだから……。


 ――それで、本当にいいの? 夫の裏切りを許せるの?


 問いかけてくる心の声に、麻美は目を閉じた。


「許せるわけ……ないじゃない」


 麻美は、夫を愛していた。

 夢の中では確かに再婚した優しい夫を深く愛していたが、しょせんあれは夢だ。現実に戻った今の麻美にとっては、自分が主演のドラマを見させられたようなもの。心はまだ今の夫の元にある。

 だからこそ、許せない。


(あの人は今この瞬間も浮気してるんだわ)


 最近、仕事のつき合いで遅くなるからと飲みにいき、外泊することが増えていた。どこに泊まったのかと問えば、実家の方が近かったからそっちに泊まったと答えが返ってきた。実家にはいまだに夫の部屋があるから特に違和感を覚えずにいたが、それら全てが嘘だったのだとあの夢が教えてくれた。

 夫は麻美を裏切っている。


 ――だから子供を産むことにも反対してるのよ。


 麻美が子供を産めば、後々問題になる。厄介事は芽のうちに摘んでしまえということなんだろう。


(なんて酷い。私から子供を奪ったくせに、あなただけが子供や孫に囲まれる幸せな人生を送るだなんて……)


 夫を取り戻そうとしてもきっともう手遅れだ。夫の心は、向こうの女の元にある。

 それなのにまだ離婚を切り出さずにいるのは、創業百二十年のイベントが目の前に迫っているからだろう。イベント前に離婚だなんて世間体が悪すぎるし、なにより長く夫と共に働き続けてきた麻美という都合の良い労働力を失いたくないのだ。


(きっとあのお嬢さんは、名簿ソフトひとつ使えやしないんでしょうね)


 夢の中で何度か見かけた夫の再婚相手は、ブランド物のフェミニンなツーピースに身を包んだ、いかにも義母が好きそうな産まれながらのお嬢さまだった。

 義母は、なんの後ろ盾も持たない麻美との結婚を最初から反対していたし、結婚後は広告塔としての役には立たないのだから内向きの仕事で役に立てと、大量の仕事を押しつけてくるようになった。

 跡継ぎの妻という立場でありながらあくせく働き続ける麻美を、従業員達はよく哀れむような目で見ていたものだ。

 そんな辛い結婚生活に耐えてこられたのは、俺のために頑張ってくれという夫の存在があったから。


(でも、あの人は私を裏切っていた)


 このままだと麻美は、利用されるだけ利用されてから捨てられる。


 ――絶対に許さない。


 そうだ、許さない。

 麻美は強く拳を握りしめた。

 夫を他の女に渡したりしないし、自分以外の女が産んだ子供を抱かせたりもしない。

 そうなる前に、なんとかして止めなくては。


 ――あの女を排除してしまえば……。


 いいや。それでは駄目だ。

 あの女が消えても、きっと義母は次の女を用意するに違いない。


 ――それなら、どうするの?


 問いかけてくる心の声に、麻美はゆるりとその唇に仄暗い笑みを浮かべた。


(私が、この手であの人を殺してあげる。だって私は、あの人を愛しているんだもの……)


 ふふふ、と麻美はひとり微笑んだ。

 夫を殺すのは簡単だ。男と女、力の差はあるけれど、食事に薬を混ぜて眠らせてしまえばどうとでもなる。


「神さま、未来を教えてくださったことに感謝します。ありがとうございました」


 麻美は祠に深くお辞儀をしてからきびすを返した。

 迷いはもうない。清々しい気持ちで灰色の石畳の上を進み、小さな鳥居をくぐった。


「あ、おねえさん」


 歩道に出ると同時に、あの少年が駆け寄ってくる。


「よかった。待ってたんだよ」


 きっと寒かったのだろう。鼻の頭が少し赤い。


「坊や、まだこんなところにいたの? 風邪引くわよ」

「平気だよ。鳥居を出た後で、こっそりもう一度戻ろうと思ってたんだけど、もう入れなくなっちゃってたんだ。おねえさんが心配だったから、ここで待ってたんだよ」


 少年の言葉に、麻美は思わず振り返った。すると、すでにそこには鳥居はなく、ビルとビルの隙間もなにもなかったかのようにぴったりとくっついている。

 信じられなかったが、目の前で起こったことだけに、これが現実だと認めるしかない。


「それで、どうだった? 悩みは解決しそう?」

「……え?」


 無邪気に問いかけられ、もちろん、と微笑んで頷こうとして、麻美はふっと疑問を感じた。


(私、なにを悩んでここに来たんだっけ……)


 神さまに見せられた夢での夫の裏切りがあまりにも辛すぎて、そこにばかり気を取られてしまっていた。

 でも、そう、違っていたはずだ。


(そう。私はこの子を産みたかったんだわ)


 だが愛する夫に強く反対されて、どうしたらいいのかわからなくって、『真夜中の祠』という都市伝説に頼ったのだ。

 そして見せられたふたつの道、そのどちらでも麻美はこの子を失ってしまっていた。


 ――だから復讐するのよ。


 心の中から声がする。


「おねえさん、どうしたの?」


 突然黙り込んでしまった麻美を、少年が心配そうに見上げている。同時に、少年の忠告も脳裏をよぎった。


『夢の中で嫌なことがあっても、おねえさんのその後の努力次第で避けることもできるから。絶対にやけになったりしないでね』


「……私、やけを起こしていたのかしら……」


 そう、今は復讐なんてしている暇はないと、麻美はようやく気づいた。


(だって、この子はまだ私のお腹の中にいるんだから……)


 夫を愛している。

 でも夢の中で夫の裏切りを知った今、それ以上にこの子を愛している。

 ふたつの夢の中、どちらの麻美も愛する夫と離れることができず、その結果子供を失ってしまっていた。

 でも、今なら別の道を選ぶことができる。


「ごめんね、坊や、私、どちらの道も選べない」


 麻美は決意した。

 第三の道を、お腹の中の子を守るための道を選ぶと……。


 ――我が唆しに逆らうか。


 次の瞬間、頭の中で爆音のような笑い声が響いた。

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