第2話 あいしてる
1
麻美がはじめて『真夜中の祠』という都市伝説を知ったのは、遊びに行った友人宅でのことだった。
『追い詰められて立ちすくむ時、袋小路に閉じ込められた時、未来に希望が見えなくなった時。真夜中の祠においで。心からの祈りを捧げれば、親切な神様がきっと助けてくれるから……』
陳腐とも思えるその都市伝説を信じている友人の小学生の娘は、真夜中の祠に行きたいと友人に訴えていた。
「イジメに悩んでた友達のお姉さんは、真夜中の祠で助けてもらったんだって」
真夜中の祠がある場所も教えてもらったと彼女が告げる地名に、麻美は首を傾げた。
「そこなら、おばさんも知ってるけど、そんな祠なんて見たことないわよ」
「必要としない人には見えないんだって。友達のお姉さんも、お礼参りをしたくても見つけられなかったって言ってるの」
「だったら、あんたにも見つけられないんじゃない? そもそも、神さまに助けてもらいたいような悩みなんてあるの?」
「あるもん!」
「それなら、神さまに相談する前にママに話してみてよ」
「いや。ママには内緒です~」
「お、生意気な」
友人と娘が、言え、言わないと楽しげにじゃれ合っている。
仲の良い親子の姿に、麻美の胸はちくりと痛んだ。
それから三ヶ月後、麻美はタクシーで『真夜中の祠』に向かっていた。
(馬鹿げてる。でも、もうどうしていいかわからないから……)
神頼みでもなんでも、この悩みをどうにかできるのならすがりたいぐらいに追い詰められている。
麻美は妊娠していた。二度目の妊娠だ。一度目は二十六歳、相手は夫でまだ結婚前だった。
「できちゃった婚なんて外聞が悪いって、おふくろが言うんだ。うちは客商売だから絶対に駄目だって。逆らうなら結婚は許さないって言ってる。今回は諦めてくれないか?」
夫の家は、百年以上の歴史がある有名な和菓子屋だった。最近は和菓子だけではなく、かなり手広く商売を広げている。
そこの跡継ぎである夫は、後継者としての自覚と責任感を持って生きている。お腹の子供を守るために家を捨てたりしないと最初からわかっていた。
麻美は夫を愛していた。
だから子供を諦めて、結婚する道を選んだ。
あれから十年、ずっと子供は授からなかった。
このままでは駄目だ。不妊治療をはじめなくてはと焦りはじめていた頃、思いがけず妊娠に気がついた。
喜んで報告したら、夫は困った顔をした。
「来年は創業百二十年のイベントの年だ。妊娠出産している余裕があるのか? おふくろがなんて言うか……」
確かにその通りで、夫も麻美も今からその準備に追われる日々を過ごしている。
だが、いま麻美のお腹にいるのは、会社の跡継ぎとなるかもしれない子供なのだ。多少の無理は通せるはずだ。
夫は、とりあえず親に相談してくると言った。そして戻ってきた顔をひとめ見て、麻美にはその答えがわかってしまった。
「……また諦めろって言うの?」
「しかたないだろう。俺も辛いんだ。イベントの時におまえが不在だと、なにかと困るんだよ」
イベントが終わった後で不妊治療をすればいいと夫は言う。協力してやるからと……。
(協力してやるって……自分の子供のことなのに……)
まるで他人事のように恩着せがましく言う夫が信じられなかった。
「……もしも嫌だって言ったらどうするの?」
「おふくろの性格は知ってるだろう? 産まれてきた子供共々きつく当たられるだけだ」
守ると言ってくれない夫が悲しかった。
それ以上に、ここまでされても夫を愛している自分が悲しい。
(どうして嫌いになれないのかしら……)
跡継ぎとして厳しく育てられたせいか、夫は性格が少し歪んでいる。
外面は良いのに、結婚した直後から麻美にだけは我が儘で傲慢な顔を見せるようになったのだ。
友人はモラハラだDVだと騒ぎ立てるけれど、それでも麻美は夫を愛していた。
自分にだけは我が儘で傲慢なのも、心を許してくれているからこそ。責められて辛い時もあるけれど、自分の感情を抑えきれない夫の子供っぽいところが可愛いと思う時もある。自分だけがこの人の本当の姿を知っているのだと優越感を覚えることすらある。
『典型的な共依存ね。あんた達の関係、悪循環でしかないわ』
友人の助言は胸に刺さったが、夫から離れる気にはなれなかった。そう、今までは……。
(どうしても、この子を諦めたくない)
麻美はまだ平たいままの下腹を撫でた。
産むと言えば、義母だけではなくきっと夫も怒るだろう。
今まで麻美は夫に逆らったことがない。逆らったとき、夫がどんな反応を見せるか想像するのが怖い。
今までだって夫が不機嫌な時は、八つ当たり気味に頭を小突かれたり、服の下になって外から見えないところを殴られたりつねられたりしてきたのだ。怒らせるようなことをしたら、いったいどんな目に遭わされるか……。
(下手をすると、この子を殺されるかもしれない)
激高した夫が子殺しになるのは嫌だ。
かといって、自分から堕胎しに行くのも嫌だ。
追い詰められた麻美は、最後の望みを託して都市伝説にすがったのだった。
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