7(END)

 夏休みが終わりに近づき、絵里は母と共に新しく通うことになる高校に挨拶に行った。

 神さまが見せてくれた夢の中でも通った高校だ。案内図を見るまでもなく職員室がどこか知っていたが、黙って母の後ろをついて行く。


「僕が君の担任だよ。よろしくね」


 笑って挨拶してくれた担任も夢の中と同じだった。

 絵里が無視されていることを問題視してHRを開き、そして問題が絵里自身にあるとわかるときちんと対処してくれた。信用できる先生だ。


「君が起こした事件は報道でも知っているし、前の学校からの報告も読んでいる。君が受けたイジメに関して、前の学校は報告を受けたにも拘わらずなんの対応もしなかった。同じ教育関係者として恥ずかしいよ」


 申し訳なかったと、担任は自分が悪いわけではないのに頭を下げた。


「だが、君自身がやったイジメは別問題だ。僕のクラスの生徒達の為にも、君自身の為にも、ここできちんと問題の芽を摘んでおきたい。――なぜ君がイジメをしてしまったのか、その理由を話してくれるかな?」


 ――そんなの聞かれるまでもないわ。あんな鈍臭いブス、クラスカーストトップのグループには似合わなかったからよ。


 違う。そうじゃない。

 そんなのただの言い訳だと、絵里は自分の心の声を否定する。

 絵里はただ羨ましかったのだ。

 いつも皆の笑顔の中心にいるあの子が羨ましかった。だからあの子を排除して、あの子のいた場所に自分が成り代わりたいと思ってしまったのだ。

 神さまが見せてくれた夢の中で塾の講師を毛嫌いしてたのも同じ理由だ。皆から可愛いとちやほやされ、優秀だと評価されている彼女がただ羨ましかった。


「……あの子が羨ましかったんです」


 絵里は素直に自分の気持ちを打ち明けた。

 両親からは何度か理由を聞かれたけれどずっと黙っていたから、隣りに座る母は驚いて絵里の横顔を見ている。


「今は反省してる?」


 絵里は頷いた。


「もうあんなことはしません。ここではちゃんとみんなと仲良くします。方言だってなるべく早く覚えるようにします」

「方言って……。それは無理に覚えなくても良いよ」


 担任は苦笑した。


「むしろ、ちゃんとしたイントネーションを皆に教えてくれると助かるな」


 テレビの影響もあってみんな標準語を話すことはできるが、単語や語尾のイントネーションがどうしても微妙にずれてしまう。進学や就職で都会に行く子の中で、うまく話せないとコンプレックスになる子もいるのだそうだ。

 そういう子の相談に乗って欲しいと担任が言う。

 自分にできることならなんでもすると、絵里は深く頷いた。




「あの先生とは相性がいいみたいね」


 帰り道で、本当によかったわと母が微笑む。


「転校して正解ね」

「うん。……ねえ、ママ。私の名字、いつ変わるの?」


 夢の中では、転校してから名字が変わることになったら可哀想だからと早々に母方の名字に変わっていたが、今回はまだそのままだ。

 不思議に思って聞く絵里に、母は呆れた顔をした。


「もしかして、ママ達が離婚したと思ってたの?」

「違うの?」

「違うわよ。絵里ちゃんが大変なときに別れたりしないわ」


 父が今ここにいないのは、仕事の引き継ぎと、絵里が引き起こした騒動がある程度まで収まるのを東京で見届ける為だった。


「パパね、絵里ちゃんが苛めた子の家に謝りにも行ったのよ」


 以前、絵里が直接謝りに行くという話も出たが、向こうからもう絵里には会いたくないと拒絶されて取りやめになっていた。

 卑怯にも絵里は会わずに済んでほっとしていたのだが、まさか父が代わりに謝罪に行っていたとは……。


「いずれパパもこっちに引っ越してきて、新しく仕事を探すことになるわ。転職すると、今までみたいな生活はできなくなるかもしれないの。色々我慢してもらうことになるけど、ごめんなさいね」


 違う、そうじゃない。

 謝るのは私のほうだと、絵里は大きく首を振った。

 

『母親は過保護で父親は厳格。どっちもおねえさんのことを思ってるみたいなのに』 


 あの少年の言うとおりだ。

 ふたりとも、絵里のことを心から心配してくれていた。

 それなのに絵里は、優しいだけの母を利用することしか考えていなかった。厳しく道を示そうとする父を鬱陶しいと思うばかりだった。

 絵里は両親の愛情に甘えていたのだ。


「……ごめんなさい」


 絵里は立ち止まり、母親に深く頭を下げた。


「いっぱい迷惑をかけてごめんなさい」


 ……ぜんぶ、私が悪かった。


 自分がしでかしたことのせいで、両親は東京での生活基盤を捨てて引っ越しをすることになってしまった。父から仕事という生きがいを奪い、母もまた友人や趣味のサークルの知人と頻繁に会える穏やかな生活を捨てることになった。

 そんなことに今まで気づかずにいた自分が恥ずかしい。


 ――なんで謝るの? 親なんだから、子供のために犠牲になるのは当たり前でしょ。


 違う! そうじゃない!


 当たり前なんかじゃない。

 両親はあえて犠牲を払って、自分の側に寄り添ってくれているのだ。

 泣きながら謝る絵里を、母は優しく抱き締めてくれた。


「いいの、いいのよ。わかってくれただけで充分。これから一緒に頑張ろうね」

「……うん……うん。ママ、ごめんね。ありがとう」


 ぎゅうっと強く抱き締め返して、母の温もりにほっとする。


 ――こんな田舎でなにを頑張るっていうのよ。くだらない。


 くだらなくなんかない! 私はここでもう一度友達を作るんだから。


 ――友達? どうせまたすぐに無視されるようになるわ。頑張るだけ無駄よ。


 無駄じゃない! 今度は失敗しない!


 絵里は心の中で叫ぶ。

 と、同時に気づいてしまった。


 ……あなた、誰?


 頭の中に自分以外の誰かがいる。

 

 ――なんだ。もう終わりか?


 不意に性別不詳の低い声が頭の中に響いた。

 これは、真夜中の祠で聞いた神さまの声だ。


 ……もしかして、あの夜からずっとそこにいたの?


 真夜中の祠で示されたふたつの道。そのどちらも選ぶことを拒否した時から響くようになった心の声。

 どうしてなんの違和感も覚えず、自分の心の声だと思ってしまっていたのか。


 ――そなたは我の示す道が不満だったのだろう? だから、そなたが望む道をまっすぐに進んでいけるよう、少しばかり背中を押してやったのだ。どうだ? 楽しかったか?


 ……楽しくなんて……。


 なかった、とは言い切れない。

 自分を苛めた男の子達がネット上で悪し様に罵られるのを見て、ざまあみろと仄暗い喜びに浸ったのは事実だ。

 でも、それ以上に自分も傷ついた。

 自分だけじゃなく、両親にも同じ傷を負わせて迷惑をかけた。

 楽しんだ分以上に報いを受けた。


 ――おや、ずいぶんとしおらしくなったものだ。ならば、ここまでだな。


『ここの神さまは、本来は荒魂なんだ。長く封じられて退屈してるから、ちょっとしたお遊びで人間に親切にしてるだけなんだよ。甘く見ちゃいけない』


 あの少年の言葉をもっとよく聞くべきだったと、絵里は自分の愚かさを後悔する。


 ――なかなかよい暇潰しであった。褒美にひとつ望みを叶えてやろう。なにを望む?


 そう聞かれた瞬間、絵里は時間を戻して欲しいと思った。真夜中の祠を訪れた、あの夜に戻して欲しいと……。

 でも、それでどうする?

 あの夜に戻って、示されたふたつの道のどちらかを選ぶのか?

 両親に離婚という犠牲を払わせた後に続く道を……。


 ……なにも望みません。


 これが正解かどうか、絵里には判断ができない。

 もしかしたら両親にとっては離婚したほうが幸せな道が開けるのかもしれない。

 でも絵里は、今この時、犠牲を払ってまで自分に寄り添おうとしてくれる両親と共にいたかった。


 ――そうか。さすがに我でも時間を戻すことはできぬでな。それを望めば、そなたの心だけを夢うつつに放り込んでやらねばならぬところであった。


 命拾いしたなと、神さまが爆音のような大声で笑う。

 頭の中に響き渡る爆音に翻弄されながら、もう少しで心を壊されるところだったのかと絵里は心の底からぞっとした。


 ――我の示す道を拒み、そなたが切り開いた道だ。そのまま進むがよかろう。身の程を知れば、そう悪いことにもなるまいよ。


 その声を最後に、神さまの声は聞こえなくなった。



 絵里はその後、田舎の暮らしに馴染んで穏やかに生きた。

 やがてその地で就職して、結婚相手は高校で出会った同級生だ。

 絵里の心の中には、身の程を知れという神さまの言葉が常にあった。

 もう高望みはしない。人も羨まない。

 ただそれだけのことで、心の中の不平不満は驚くほど減り、生きるのがとても楽になった。


 ちょっとした用事で久しぶりに東京に行ったとき、絵里は真夜中の祠を訪ねることにした。

 辛い目にも遭ったけれど、傲慢だった絵里が生き方を変えられたのは神さまのおかげだ。だから神さまにお礼を言おうと考えたのだ。

 だが、どうしても祠に辿り着けない。

 見覚えのあるビルは見つけたのに、そのビルとビルのすき間にある筈の小さな灰色の鳥居が、どうしても見つからない。

 まるで元からなにもなかったように、ふたつのビルはぴったりとくっついて建っていた。

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