1-4
それはたった数十メートルだったが、アイドにはとても遠く感じられた。
でも、それでも、彼女のもとへとたどり着いていた。
立ち止まって彼女を見つめる。くすんだ金髪がふらと揺れて、夜空のような瞳がアイドへと焦点を移す。
飲み込まれてしまいそうだった、大きな、暗い瞳に。
もはや上がる息なんてどうでもよくて。
自ら声を掛ける事すら忘れてしまう。
「……誰……」
人との接し方を忘れたかのようなそのぶっきらぼうな声は、こんな部屋では、アイドの鼓膜へとよく届く。
そんな声にハッとさせられたアイドは、何よりも先に、まず彼女の拘束を解くことを優先した。
左の手のひらを惨たらしく穿っている鉄杭。
刺激を与えないように、与えないように優しく手を掛ける。
そして、できうる限り垂直に引き始めた。
「……クソ……」
しかし、彼の目線ほどの高さで固定されているその杭は、完全に垂直に抜こうとするとなかなかに力が伝わらず、抜くことは叶いそうにない。
それでも、そうする選択しか思いつくことができなかった。
慎重に、力を込める。
額に汗がにじむ。
息が荒くなる。
苦悶が瞳を塗りつぶす。
そんな状態でアイドが格闘していたとき、ふと、当の彼女が声を上げた。
これだけ刺激を与えても何も言わない彼女が、そんなふうに声を上げた。
「……助けてくれるのなら……その剣で、私の手を斬って。それで大丈夫だから……」
アイドの腰に掛けられた剣を一振り見つめながら、零す。夜空のようだと思ったその瞳には、よく見れば星なんてなくて、ひたすらに宵闇が続くばかり。
「でも……それは」
正直に言えば、アイドはその言葉を理解ができていない。
杭が据えられている場所全てを斬れば、拘束は解かれるかもしれない。だが、四肢は失うことになる。
いまいち言葉を飲み込めていないという風のアイドに、彼女はもう一度声を掛ける。
「……片腕だけで大丈夫だから……あとは自分で……」
彼女の少し濡れた唇が揺らす空気の振動は、結局のところ彼には全く意味の理解できないものだった。
自らの腕の切断を臨まれている。
ただその言葉の訳も、感情も、理屈もわからない。
――――わからないのに剣を抜け、振るえなんて。
鉄杭を握っていたはずの手はいつの間にか位置を変え、左腰の剣、片手剣の柄を右の手で軽く握っている。
冷や汗が柄にまかれた布へと浸み込む。
困惑の眼で彼女を見つめていると、またその唇が音を紡いだ。
何かを決めるように、ふぅ、と息を吐いた後。
「助けて、お願い」
懇願の言葉に対しその瞳は、彼女の大粒でダークブルーの宝石は、まるでアイドの影を踏むようにしっかりと向けられている。
宵闇の中に、まだ一つだけ星があるような、そんな気がした。
剣を抜く。
金属のこすれる音が迷いなく響いて、自然に中段の構えへと落ち着く。
「わかりました、斬ります」
迷いも、困惑も、すべてを未だ抱えていたが、彼女にそう言われたら断れない。そんな気持ちが何よりも先行して、息を整える。
「うん、おねがい」
了承を聞いたアイドは、彼女の左手首めがけ思い切り、最も鋭い角度で振り下ろす。
「――――ッ――――!」
思わず目を瞑ってしまったアイドが次に見たのは、太陽のような満面の笑みだった。
余りにも状況と違うその表情に、目を丸くせざるを得ない。
剣を確認すれば、しっかりと血がこびりついていて、壁を確認すれば、残った手首が未だ血を流し続けている。
しかし、彼女は笑っていた。
ニヒルな笑みでも、含み笑いでも、作り笑いでも何でもない。
ただただ、笑っていた。
「え、あ、あの、大丈夫ですか?」
斬った彼自身が聞くのは、あまりにも意味が分からない行為であったが、状況的にはそうするしかない。
彼は彼女を斬った。確実に。
そして彼女は平気そうに笑っている。
「ホントにありがと、左手は……もうちょっとで大丈夫になると思う」
未だ他の部分は壁に磔にされているにもかかわらず、笑顔のままで彼女は切り落とされた左手を見せてくる。
確かにそれは、手のひらの部分が無くなっていた。
無くなっていたが、切断面からは血は出ていない。そこはなぜか、太陽をそのまま宝石にしたかのような、澄んだ黄金の鉱石で覆われていた。
余りにも異様な状態に、アイドは声も出ない。ただじっとその部分を見ていることのみが、彼に許された行動だった。
数秒その状態でいると、やがてその功績は寸分狂わず左手の形へと成り、そのまま地続きの肌へと変わった。
目をぱちくりさせながら、アイドは壁に残る手と、今できたその手を見比べる。
どう見たってそれはそのままで、親指付け根のほくろの位置まで完璧だった。
「あ、あのさ、助けてもらっちゃったとこ悪いんだけど、あんまし見られてると恥ずかしいっていうか……。そっちの短剣貸してもらえると嬉しいんだけど……」
彼女はなんだかすっかり元気になりながら、治った左手でアイドの短剣を指差す。彼女は少し恥ずかしそうに流し目で虚空を見ていた。
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