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 先日の大雨が嘘のような、雲一つない昼下がり。花市が町彩る、交易都市クォーリアの初夏。

 そんな都市クォーリアの南はずれ、田園の広がる街道に、一軒の二階建て木造家屋が建てられている。扉には掠れて解読できなくなった紋章のような模様が刻まれていた。

 その家屋、一階中央に置かれた広めの机に、よく冷えたレモネードがふんだんに詰め込まれた大瓶が一本、添えられたコップと共に鎮座している。外気との差で結露した水滴が机に垂れて、見ているだけでも心地いい。

 顔全体で冷えた机の感触を楽しみながら、そんな瓶を眺める黒髪の青年。まだ幼さの残るその顔立ちは、どこか頼りなさを感じさせる。

 アイデン・テイラー。周囲からはよくアイドと呼称されるその青年は、初夏の暑さに負け、最低限の仕事以外を放棄して今この状態へと至っていた。

 その最低限の仕事と言えば、ここにいること、である。

 大きく開けられたシャツの首元や、まくられた袖口からは肌着の黒いインナーが顔を出している。左胸には、五角形に竜翼、そして剣の描かれた紋章のパッチが張り付けられていた。

 そして、だらしなく机に広げられた左腕の手首には、革で作られたリングに紅の宝石が嵌ったブレスレットが静かにつけられている。

「あづーい……」

 誰に対してでもない不満をこぼすその姿は、その荘厳な紋章に似合わない印象を受けるが、アイドはその姿勢を止める気はない。たまに動いたかと思えば、レモネードを口に含み、また同じ体勢に戻る。そんな繰り返しだ。



 壁に掛けられた古めかしい振り子時計が幾度か長針を動かした頃、カランカランと音を響かせながら、外へとつながる唯一の戸が開けられる。

 未だ同じ体勢を取っていたアイドへ向かって、新鮮で不快な熱気が飛び掛かり、思わず彼は顔を上げた。

「おーい、お前も手伝えよなー」

 鼻の上を土で汚したがたいのいい男が、牧割り斧を片手に呆れた顔をして立っている。額にまかれたタオルにしみこむ汗が、外気の温度を、そして、彼のこなした仕事量を物語っていた。

「まだ六月だし、冬用の牧割りなんて早すぎー」

 アイドはぶーたれた文句を彼にぶつけた後に、レモネードをコップに注ぎに口をつける。大瓶についていた雫が、日の光を反射して、ポタンと机に弾けた。

「お前、そういって去年は近隣の村からの要請分が足らなかっただろ、ほらはやく!」

「はー、ガイは働きすぎだよ。わかった、今いく―――――ッ!」

 重い腰をアイドがようやっと上げようとした瞬間、激しく眩暈がする感覚に襲われる。

 体が揺れる、揺れている?

 ぶれる視界の中、一瞬だけとらえた扉に手をつくガイの姿、机でガタガタと音を出す瓶の情報を得て、この地自体が震えているのだと理解した。

 おかしくなっていく三半規管に、増してゆく揺れが重なって、数秒もしないうちに吐き気を催してくる。

 外と内、ただひたすら耐えるのがやっとの神の御業に、ただ必死に物に捕まっていることしか許されない。

 陳列してあった武器や家具は倒れ散乱し、建物を構成する木々も悶えるように声を上げる。



 それは数十秒間続き、ようやっと大地は落ち着きを取り戻した。

 音を立てなくなった陶器や木々たちでそれを認識することはできたが、狂った三半規管により彼らは未だそれぞれに自立することはできなかった。

 荒い息を治めることも叶わない。

「だ、大丈夫かアイド……」

 絞り出すように震えた声がアイドの耳に届き、少しだけ気分も和らぐ。

「とりあえず、は。とんでもなかった……」

 一つ大きく、深く息をつく。肉体的にも、精神的にもある程度の落ち着きを得られた彼らは、自らの仕事にとりかかろうと足早に準備を始めた。

「俺は軽く外へ出て、周囲を確認してくる。お前はできうる限り装備を持って出てきてくれ」

 ガイはアイドへと言い放ち、先ほどまで杖代わりにしていた牧割り斧を壁へと立て掛けて、逸るように外へと歩いていく。

 先ほどまでの怠惰を内へとしまい、アイドは指示通り使えそうな限りの装備を集め始める。



 二人分の装備を整え、腰には左右に長さの違う二つの剣を着装したアイドが外へ出てくると、変わらず眩しすぎる太陽の横で、渦を巻いた雲が鎮座していた。

 彼の体には似合わない、手に持った巨大な戦斧がその鋭利さを主張するように光を反射している。

「アイド、独房山へ行くぞ!」

 ガイの声に反応し、都市とは逆の方角、つまりクォーリアからさらに南へ二刻程下って行った方角へと目を向ける。通常、そこには木々の生い茂った強大な山が眠るように伏せっていたが、今は雄々しく荒れていた。

 山肌の一部が崩れ、落ち、溢れている。

 麓を通っていた街道はおそらく潰れ、通行は不可能だろう。それは想像に難くない

 独房山。何故そんな名なのかアイドは知らないが、大陸を大きく分けるように続く山脈に名を連ねるその山は、少しのことでは動じないはずだ。

 少なくとも、アイドが生まれて一七年余りの間にそのようなところは見たこともなかった。

「マジ……?」

 目を奪うその光景に、アイドはただ声をせき止めることもできない。

「急ぐぞ!」

 一瞬、目も思考もすべてが奪われていたアイドへと、ガイから声がかかる。その表情にはこれでもかと緊迫した感情が詰め込まれていて。

遅れて緊急事態を理解したアイドの脳は、またくるくると回り始めた。

 戦斧と、救護用の荷が詰まった装備を投げる様にガイへと渡し、速足で山へと向かいはじめる。

 二人があげる足音のリズムは、だんだんと早くなっていく。

 雲と太陽が重なり、薄く影を下ろしていった。

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