勇者じゃなくてもいいですか!?

斎藤れっつ

プロローグ


 ――――誰かが私を呼んでいる、気がした。


 よく聞き知った声、両親のそれが刺さるような焦燥の色を含みながら、彼女の耳に深く焼き付く。

 微睡の中、何度も何度も繰り返されるそれは、彼女を現へと誘うには十分すぎた。

「んん……」

 次に感じたのは、肌が焼けるかと思うほどの熱気。

 同時に滲む汗をその身で知覚し、額のそれを拭きとろうと腕を動かす。

 そして、絶え間ない不快感の中、目を開けた。

「――――ッ――――」

 赤、朱、赤、朱。

 世界の全てが埋め尽くされてしまったかのような感覚に襲われて、眩暈がする。赤と朱の波がところどころで踊っているように見え、狂騒曲を繰り広げている。

 そして、視覚で認識してしまったと同時に、それらは勢いを増して彼女に襲い掛かった。

 より熱いように、より赤いように、より五月蠅いように。

「早く、早く逃げて!」

 叫ぶ母親をここでやっと焦点に捕らえる。

 ようやっと我に返った彼女は、寝ていたベッドから文字通り飛び起きて、焦燥のままに脇に置いてあった靴を履く。

 父親は視界唯一の逃げ道であろう、外へつながる戸のそばでまだ小さい妹を抱えて息を切らしていた。

「早くいけ!」

 いつもは温厚で畑仕事に精を出す父親が、この時ばかりは怒気を込めて、焦りを込めて声を上げている。

 それに背を押されるように彼女も力の限り駆け出し、崩れ出た障害物を避け外へ出る。

 そして、息を飲んだ。

「これ……」

 地獄から出た先は、また地獄だった。

 四方を埋め尽くす炎、炎、炎。暗い夜へ飛ぶ数多の声、声、声。

 自らの家だけではない、この農村それ自体が燃えているのだと、彼女の思考がそういう結論へとつながるのに、この状況はあまりに易しすぎた。

 逃げ惑う人々から意識を外し、急ぎ振り返る。

「父さん、母さん!」

 喉がはち切れんばかりに叫ぶ。それに答えるように、まだ小さい妹を抱いた父親が駆けだしてきて、同じように地獄を見た後、家へと振り返る。

「アンナ、早くしろ!」

 そう叫ぶのとほぼ同時、まるで女神のいたずらのように三人が出てきた家の戸は焼け崩れ、瞬も経たないうちに家自体がその体を取ることをやめた。

 喧騒に負けないほどの破壊音を叫び、彼女の母親ごとその家は崩れていった。





 ――――誰かが私を呼んでいる、気がした。


 心地のいい透明な声が彼女の鼓膜を打つ。

城に備えられた、特別な来賓用の部屋である絢爛なその空間に、何にも邪魔されることは無く響く名。

 凛とした安心感のあるその声色の響きは、机で転寝をしている彼女の思考をすっきりさせてくれる。

「――――ほら、起きなさい。こんな姿勢で寝ちゃ体を悪くするわよ」

 起床を促すその発言への彼女の反応は、ただ顔の角度を変えて横目で声の主を見上げることだった。

 その視線の先には、蒼穹の髪を持ち、切れ長の目が印象的な若い女性が立っていた。その表情はどこか呆れる母親的でもあり、親しい友人的でもある。

「だって、みんな戦乙女様とか、勇者さまーとかうるさいんだもーん。それに私、体悪くなんてしないし」

 戦火に見舞われる時代に生まれた英雄ともいえる存在に、皆が期待を抱かないわけがない。

 しかしそれこそが納得いかないと半開きの瞳で不満を訴える彼女に、蒼穹の女性はまず軽いため息で返した。

「……まったく。こんな時代なんだもの、みんな誰かに頼りたいものよ」

「そんな役目、ウルスラに譲りまーす!」

 彼女は唐突に声のボリュームを上げながら、ガバっと顔を上げる。ふわりと長髪が揺れるその中には、悪戯っぽく浮かべて見せたにやけ顔がさんさんと輝く。

 そんな笑顔を向けられる蒼穹の女性、ウルスラはわざとらしい怪訝な視線を送る。

 視線を受けた彼女は、ひらひらとその場の空気を躱すように席を立ち、寝室に繋がる扉へと進んでいった。





 ――――誰かが私を呼んでいる、気がした。


 焦燥、不安、絶望。彼女の名を呼ぶ声はそのどれにも侵されて、持ち合わせていた透明感はとうに消え去り、ただ、ただ絞り出したように空気を打つだけだった。

 声量としては微かと表現せざるを得ないものだったが、最も信頼していた人物からのそのかすれ声は、誰よりも、なによりも彼女の心へ届く。

「……きて……。……ィ……」

 手放していた意識が、急速に彼女のもとへと手繰り寄せられる。

 呼吸が逆流するような感覚に襲われながら、ハッと目を開けた。

 夜空に種火が踊る。先の、彼女自身が数刻意識を手放すことになった攻撃で、周りの野草は黒く消えた。

「……ッ! ウルスラ⁉」

 戦友の窮地に寝ている場合ではない。急速に身体を起し、身一つで声の元へ駆け寄る。

 灰が舞い、友軍の叫声が飛び交う。そんな中、大地に伏している戦友には、かつての凛とした姿はもうない。

 蒼穹の髪は煤にこけ、切れ長に光っていた瞳は色を失いつつある。

 全身に見える火傷跡が、負ったダメージを顕著に表していた。

 そんな友人の背に手を置き、必死に呼び掛ける。

「ウルスラ! ウルスラ!」

 ひたすらに声を掛け続ける。友の名を呼び続けるその声の回数に反して、どんどんと反応は少なくなっていく。

 数分後。

 空気を揺らすたび、漆黒の空に泡沫となって消える友の名は、もう届く宛を失っていた。

 彼女の感覚が理解していく。

 彼女の状況が理解していく。

 彼女の意識が理解していく。

 事実を認めたくない彼女だけが、感情だけが理解を示していなかった。

「おい、しっかりしろ。まだ終わっちゃいないぞ!」

 声を掛け続ける彼女に、背後からそれを超える声量で激を飛ばすものがいた。

 瞳に雫を浮かべ見上げれば、そこには、他の兵士より少し装飾の光る指揮官鎧に身を包んだ、初老の男性が立っていた。苦悶と信念の混ざった表情を浮かべている。

「ウルスラが起きないんだ!」

 怒りと焦り、そして不安の色を乗せて彼女は叫ぶ。

「わかった、ウルスラは俺が見ておく。お前はこれを終わらせろ」

 先の激とは裏腹に、諭すようにつぶやかれた男の言葉が彼女の中にスッと落ちていく。

「…………そうだね、お願い。なるはやで倒してくる」

 そう残して立ち上がると、落ちていた、彼女の丈ほどもある大剣を拾い上げる。そこからしばらく歩き、少し離れた場所で立ち止まった。

 地面に刃を突き立てながら、深呼吸をしていく。

 深く、深くなっていく呼吸に比例するように、身に着けているブレスレットに取り付けられた宝石が輝き始めた。

 息を飲むほど透明なその宝石は、その純粋さに不釣り合いな縦一本の傷を内部に含んでいる。

 時を刻むごとに眩さを増していく宝石。目が眩むほどの光のはずだが、その傷だけはなぜか外部から見ても未だ認識できた。



 さらに数秒経ち、その眩さも落ち着きを見せてきたころ、ゆったりと宙を舞っていた灰たちのダンスが突如激しく乱れる。

 数回に分けて風圧が彼女を襲い、そして最後に大きく振動が来た。

 空を覆い隠す翼。

 大地を歪ませる足。

 威圧を放つ黒い巨躯。

 空気を燻す鰐口。

 胸に燦然と存在感を放つ巨大な紅の宝石。

 それらを携えて彼女の眼前に降り立ったのは、まさにこの現状を作り出した元凶、『災厄』と呼ばれる竜だった。

 彼女との体躯の差は縦だけでおよそ十人分と行った所で、その差は歴然ということすらおこがましい。

 しかし、息をすれば村を焼き、翼をはためかせれば町が飛ぶと揶揄されるその竜が眼前に降り立ってもなお、彼女は退くそぶりを見せない。

 むしろその瞳は、どんな炎よりも激情を表していた。

 彼女が突き立てた剣を大地から引き抜くのとほぼ同時に、『災厄』はその胸の紅石を輝かせる。口腔からは火炎が漏れ出し、眼は彼女を正確にとらえた。

 およそ常人とは思えない速度で彼女は駆け出す。

 およそ生物とは思えない力で竜は炎を噴き出す。

 何人にも邪魔立てできない、二体の戦いが始まった。





――――誰かが私を呼んだ。




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