蜜と罠

 彼女の最後の体育祭。彼女の前に、ゴールなどないように見えた。

 残暑の残る風をまとって、前を行く走者を抜いていく。

 伸びやかな脚は力強く、しかし滑らかに回転する。呼吸を乱さず前を見据えて、それでいて視線はさらに向こうに。走る速度はそのままに、バトンは走者を変えていく。走り終えた後も、友達と笑いあうこともなく、称えあうこともなく。アンカーを見送る姿さえ、形式的に感じられた。

 陸上部ゆえのストイックさとも、また違う。ただ迷うように前を、僕には見ることも叶わぬ、どこか遠くを見つめていた。

 その目に、汗に、しなやかな手足に、僕は目をそらせなくなっていた。

 触れたい。

 彼女の見つめるその先を、同じ視点で見てみたい。

 たった一つの約束が反故にされたあの日から一年。今もまだ、その願いは叶わずにいる。

 彼女は僕の――聖域だった。



「や」

 ドアスコープの向こう側で、彼女が小さく右手を上げる。清潔感のある白いシャツに、デニムの、あれはクロップドパンツというのだったか。暑さのためか、シャツの袖は肘近くまでまくりあげられ、胸元は少しはだけている。こちらに見えるようにと持ち上げられた左手には、コンビニの白いビニール袋と、レンタルショップの黒い袋。嫌な予感は、この時点からすでにしていた。

 玄関を開けた瞬間に、襲い掛かる熱気。湿度を含んだ空気が皮膚にまとわりつく。

「先輩、来るなら来るって言ってくださいよ」

 部屋へと促す前に、言っておかなければ気が済まなかった。今日はたまたま居たからいいが、この猛暑の中をむやみに歩かせたくはない。できれば一報くらいは欲しかった。

 そうしたら、迎えにだって行けたのに。

「映画見よって言ったら、逃げるでしょ」

 頭を抱える。それは映画が嫌なんじゃなくて、内容自体が問題なんだけど。

「ちなみにジャンルは?」

「スプラッタとホラー」

 扉を閉める。玄関の向こうに誰かいた気がしたけれど、気のせいだった。

「こら笹原。開けなさい」

「なんで僕の苦手なのばっかり借りてくるんですか!」

「え……だって怖がってる笹原かわいいから……」

 上目遣いで見られても、こちらとしては情けないので複雑なのですが。

 アパートの廊下には照り付ける日光は届かないものの、これ以上外に居させるのも悪い。仕方なく中へと促せば、上機嫌に袋を揺らして玄関を跨いだ。首筋を伝っていく汗に、夏をまとった彼女の匂いに、僕は気付かないふりをする。

「今回は映画マニアの店員さんに、とびっきり怖いの選んでもらったからね。楽しみだね」

「何も楽しみじゃないです……」

 我が家での映画の上映会も三回目となると慣れてくるようで、先輩はほとんど無駄なくディスクをセットして、「字幕にする?」と訊いてくる。正直映画の良し悪しはわからないので、いつも「どちらでも」と返すのだけど、やはり吹替とは違うのだろうか。

「先輩、これは?」

「あ、やば」

 セットを終えて、ビニール袋の中を漁る。流れ始めた予告が、袋の音にかき消される。

「ほら」

「うわっ」

 小さな放物線。汗をかいた棒アイスが、ひやりと手のひらの熱を奪う。

「先輩のおごりだ。喜びたまえ」

「ありがとうございます」

 にっと満足げにほほ笑んで、自身も袋からアイスを取り出す。そして彼女の定位置――二人掛けソファの右側、僕の隣を占拠する。

 いつも、この瞬間にどきりとする。くつろぐには十分だが、触れないようにと気を付けるには、このソファは狭かった。

 指先が触れたのはずいぶん前だ。それでも、また同じことになるのは嫌だった。



「……ごめん」

 リモコンを取ろうとした小指が、同じように取ろうとした彼女の小指に触れる。瞬間、彼女の身体は飛びのいた。

 目線が合うことはなく、その日は決して熱くはなかったのに、彼女の額には汗が滲んでいた。息は浅く、していないのではと感じられるほど。かと思えば悲鳴のように、嗚咽のように、震える呼吸が続いていた。

 拒絶は恐怖から生まれていた。少なくとも、僕にはそう感じられた。静かに自身の身体を抱いて、幾度も「ごめん」と絞り出す彼女は、傷つきながら、傷つけたことを謝罪していた。

「まだちょっと、慣れてないだけだから。ごめんね」

 唇以外触れないこと。あの日反故にされた、僕と彼女の唯一のルール。

 長く恐怖にとらわれた彼女は、多分きっと、未だ戦いの中にいた。



 あの日の彼女を思うたび、同じことを繰り返してしまわないかと不安になる。このソファの距離では、彼女と僕は、近くて遠い。身体に触れないようにするにはあまりに近く、心に触れようとするには、あまりにも遠かった。

 予告が終わり、薄暗い森の映像が、キャストの名前とともに流れ出す。スプラッタとホラーと言っていたが、これはどっちの映画なのか。彼女に気取られないように、心の中を入れ替える。

「先輩」

「溶けるよ」

 指をさされて、まだアイスを開けていないことに気付く。慌てて中を取り出すも、角の方が溶けかけていた。垂れる前にと舌で掬って、一気に半分を口に含む。歯と頭に沁みる痛みを感じ、一度に食べるのを諦める。画面は森の奥へと進み、一層暗く澱んでいく。

「だから言ったのに」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、赤い唇が空色のアイスを受け入れる。触れた熱で液体となった雫が、腕を伝ってシャツの中へ。ほんの少しまくられた袖から、陸上部時代に日焼けた腕が覗く。気付いた彼女が長い舌で雫を受け止めて、濡れた筋を上へと伝い、雫の落ちた地点へとキスをする。こくり、と喉が鳴るのを聴いて、身体の芯が熱くなるのを感じる。

 見るな。そういう欲望を、彼女にぶつけてはいけないのだ。それが彼女を怯えさせたのかもしれないのだから。惹きつけられた視線を戻し、流れる映像に集中する。

 暗く、木々が立ち並ぶ画面が、ふいに開けて明るくなる。広場のような空間で、男女が二人、折り重なる。口付けしたまま、乱暴に。情欲のままに、その肌があらわにされる。肌と肌とが触れ合って、求めるようにキスをする。邪魔だとばかりに服を脱ぎ捨て、獣のように――。

 彼女の方を横目で見ると、食い入るように真剣に、二人の様子を見つめていた。そうだ、これは映画であって、僕が彼女にしている訳じゃない。この前だって、そうだったじゃないか。だからあまり、気にしてはいけない。

 猛るそれを女の中へと突き立てて、森の静寂が奪われる。打ち付ける音と泡立つ水音。抑えきれない嬌声。荒くなる呼吸。高まる感情。僕は。

「ねえ」

「っ、はい」

「キス、しよっか」

 え、と反応する間もなく、ソファに座る僕の太腿の間に、伸びやかな脚が差し込まれる。彼女に触れないよう慌てて脚を開けば、対面する形でソファに膝立ちになる。少し脚を閉じれば触れてしまう。後ろで一つにまとめた長い髪が、しゅるりとほどかれる。髪が太腿をくすぐって、甘い匂いが鼻をくすぐる。

 かつて陸上部で鍛えられていた脚は、今もなお引き締まり、踵から伸びる腱が細い足首を強調する。裾から覗く、日に焼けたふくらはぎの滑らかな表面。太腿のラインに沿うように、デニムが緩やかに伸縮する。触れればきっと、弾力と柔らかさの同居した感触が得られるのだろう。そんなことを考えかけて、意識を無理やりに引きはがす。

「あ、あの。近く、ないですか」

 大丈夫かと問おうにも、どうにもこちらの方が大丈夫ではない。極力彼女を感じないようにと努めるものの、圧倒的な情報量の前に人は無力だ。

 不安定な膝立ちが揺らぎ、肘掛の奥の方へと腕が伸びる。絹糸の髪が肩から流れ、思わず僕は息を呑む。いつもは窮屈に閉ざされているシャツの襟から、まだ焼けていない陶器の肌が覗く。見ちゃ駄目だ。視線を泳がそうにも、視界は彼女で埋め尽くされている。

「キスするって、言ったでしょ」

 その声に呆れはなく、真剣ささえ滲ませながら、ゆっくりと間合いを詰めていく。逃げ場はない。いや、逃げる訳がない。どうして逃げるなんて発想が出たのか。混乱をよそに赤い唇が迫る。息が。

 臆病に触れ、すぐに離れて、細い指が、噛みしめるように唇をなぞる。静かに喉を鳴らして、その指を奥へと導く。ちろりと舌を覗かせて、緩慢な動作で指を舐め、小さく水音を響かせる。僅かに上がった息遣いが、熱を孕んで音へと絡む。交錯する視線に誘われて、髪をかき分けて引き寄せたい衝動に駆られる。

 濡れた指が、唇から唇へ。彼女の温もりを残した指が、乾いた僕の縁を伝っていく。ぐるりと円を描くように、たどたどしくも滑っていく。指は赤い縁から逸れて、今度は五指で左頬を覆う。親指だけはするりと戻り、感触を味わうように、下唇に触れ続ける。やがてそれが離れると、待ち続けていた彼女の赤が触れてくる。慎ましやかに大胆に、ぬるりと口の隙間を縫って、温かな感触が入り込む。脳を直接舐められたような、麻薬じみた快感が襲う中、休むことなくそれは這いうねる。滑り込んで、絡んで。音が内側から鼓膜を揺らす。逃げる舌を追いかけて、吸って、噛まれて。意識が痺れ、身体が熱を持ち始める。奪いたい。奪われたい。焦れったい。焦らされたい。甘やかな蜜が、僕の理性を蝕んでいく。

「きもちい?」

 耳にかかる吐息交じりの囁き。下腹部からざわざわと興奮が沸き上がる。心臓が胸を叩く。いたずらな微笑。人差し指が耳の輪郭をたどる。思考がとろける。甘い誘惑。触れたい。触れられたい。近づいて、離れる。思わせぶりに。遊ぶように。すがる気持ちで見上げても、くるくると耳をなぞられて、思うように言葉が出ない。解放されたい。弄ばれたい。はやく。ずっと。もっと。

 再び合わされた唇の感触に、目の前がくらくらする。意識の境界が溶けていく。触れた先から混ざりあって、ひとつのかたまりになっていく。押し寄せる快楽はとどまることを知らず、思考は舌に絡めとられて消えていく。口の端を伝う滴。彼女の呼吸だけがやけに明確で、その熱にまた眩暈がする。

 目線の奥には、画面の中で揺れる二人の男女。女性が男にまたがって、髪を振り乱し悦んでいる。僕らと同じ態勢で。奪うみたいに。奪われるみたいに。

 舌先を甘く噛まれる。それだけで、目の前の女性のイメージが重なってしまう。吸われ、飲み込まれ、力が抜けるのとは逆に、下半身は力んでいく。舌の裏からその先へ、感覚の中へ溺れていく。

 人差し指でつい、と顎を引かれては、もっと、と乞うことしか出来ない。頭を掴まれ、引き寄せられる。どこまでも深い口付けに、僕の意識は果てへと飛んだ。



 薄暗い部屋に流れるエンドロールに、僕は軽い既視感を覚える。頭の芯の浮遊感に酔いながら、背後の浴室へと意識を向ける。ドア越しに響くシャワーの音が、妙な生々しさを伴っている。

 僕の部屋で先輩が、七海さんがシャワーを浴びている。その事実だけでも、身体を火照らせるには十分すぎた。

「……っは」

 触れたい。触れたい。触れられるだけじゃなくて、彼女に。

 首をもたげ始めたそこは、彼女が浴室に入ってもなお、収まることを知らなかった。一人で致した後の冷めた感覚はどこにもなく、むしろ物足りないような、切なさを伴った欲情。ドアの向こう側に、まだ僕の知らない彼女の姿があるのだと思うと。無防備な彼女が、なめらかな肢体を濡らしているのだと思うと。

 止め方が、わからない。

 喉が鳴る。こんなとこを見られたら、引かれてしまうんじゃないか。そう思いはするも、手を止めることができない。頭の中で、彼女が僕の名前を呼ぶ。耳元で囁かれるたび、幻覚の声に脳髄が痺れる。まだ見ぬ表情で、あられもない姿で、偽りの嬌声をあげて、淫靡に身体をくねらせて。

「っ……!」

 吐き出される白濁。どろりとした体液が、偽りの彼女を押し流していく。先程までの切なさが、急速に醒めていく。代わりに残された虚しさに、は、と乾いた笑みが浮かんだ。

「……僕は」

 僕は、何をしているんだろう。

 何を、やっているんだろう。

 これじゃ、彼女が怯えたあの男と、何一つかわらないじゃないか。

 自分の欲求のままに触れて、彼女に女を見ようとしたあの教師と、何一つとして。

 ……なにも。

 でも、僕は。

「ごめん、七海さん……」


 あなたを抱きたくて、仕方がない。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蜜と毒 笠井 玖郎 @tshi_e

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ