蜜と毒

笠井 玖郎

毒と罠


 昔から、唇に触れるのが癖だった。

 柔らかな下唇と、それよりも薄い上唇の境に指をそっと当て、時折指をその隙間に滑り込ませては、その指を舌でなぞる。無意識のレベルまで落とし込まれた習慣は、フロイトの言う口愛期固着によるものなのだろうか。

 ただ、触れていたかった。

 ただ、触れてほしかった。

 それも、今の私には叶わない。だからこそ。

 あの日交わした約束は、私にとっての賭けだった。


 水音を間近に感じながら、相手の舌に貪りつく。その唇は私よりほんの少し硬く、息継ぎのタイミングを探すように、ぎこちなく開かれていた。

 狭い夕暮れ時のワンルームに、観る者をなくした少し前の映画が、時々部屋を明滅させる。夏に正対する直前のじっとりと蒸れた熱気も、締め切ったここには届かない。カーテンの向こうのすべての音が、息遣いだけでかき消されていく。背中で何事かを喋る男性俳優のテノールでさえ、今となっては意味をなさない。

「な、七海さん、っもう」

「だめ」

 は、と短い呼吸の後、またすぐに口を塞ぐ。もうどれくらいこの行為を続けているのだろう。ちらと横目に見た時計は、既に午後六時を指していて、それが二十分以上も続けられていることを意味していた。

 たりない。

 唇が重ねられるたび、甘い刺激が脳を駆け巡っていく。むき出しの粘膜が触れ合うたびに、とろけるように理性が堕ちていく。私が初めてだという彼は、いまだ戸惑いながらもおずおずと舌を絡めてくる。追いすがる舌を躱して回り込んで、舌先で触れ合っては時折噛んで。歯列をなぞるように舌を這わせて、熱い息を絡め合う。ふたつの影が、ソファの上で重なり合う。ただ、繰り返されるのは口戯のみで、手はというと少しも動かしてはいない。

 唇以外は触れてはいけない。それが私と彼の、たったひとつの約束だった。



 高校を卒業する前日に、彼は私の前に現れた。

 現れたというか、厳密には下駄箱の前で待たれていた。

 あの、と発せられる声は裏返っていたし、顔はといえば耳まで真っ赤で。小柄な身体を震わせて、勇気を振り絞って何とか声はかけられたけどどうしよう、といった体の様子。そこまで察しの良くない私でも、その先の言葉を想像するのは容易だった。

「場所、変える?」

 身長同様幼さが残る顔をぱっとあげ、戸惑いにも似た表情を浮かべる。揺れる視線は、知らない土地に来た兎みたいだった。

「一応、人目あるから」

「あ、そう、ですよね。ごめんなさい」

 なんで謝るの、と言えば彼はまた、すみません、と小さくなった。なんだか虐めている気分だ。

 一学年下だという彼は、案の定卒業前に想いを伝えたかったらしい。ただ、付き合いたいという訳ではなく、伝えられればそれで満足だったという。

「体育祭の、部活対抗リレーあったじゃないですか。あの時の先輩の走る姿がかっこよくて、綺麗で、憧れて」

「どっちかというと、私幽霊部員だったけどね。走るのもそんなに速い方でもないし」

「や、あの……そう、かもしれないですけど。でも、そうじゃなくて、先輩は違って見えたんですよ」

 何が、と見つめ返せば、びくりと肩を震わせる。あまり目つきが良くないことは自覚しているものの、ここまで怯えられると少し落ち込む。

「その、他の人は、うちの部が一番になるんだとか、目立ってやるとか、そういう意志みたいなのが見えたんですけど、先輩にはそれがなくって」

「…………へえ」

「あ、あの、怒ってますか?」

「いいから、続けて」

 促す。ものすごく言いづらそうだったのだが、気にしないことにした。

「あ、あくまでそう見えたってだけですけど。もっと、向こう側を見てるっていうか。……まるで、ゴールに意味なんてない、みたいな」

 よく、見ている。

 その言葉はまさに、あの日の私だった。

「そう、わかった」

「あ、あの。ごめんなさい、知ったようなこと言って」

「いいよ。じゃあ、付き合おうか」

「はい……。え?」

「ただし、ひとつだけ」


 唇以外、触れないこと。

 それさえ守ってくれるなら。



 それからというもの、彼はそのたったひとつの約束を、馬鹿みたいに守り続けている。時々手を伸ばしかけて、気付いて慌てて引っ込める、なんてこともあったが、それでも触れては来なかった。

「七海さ、くるし」

「口で息するからでしょ」

 それだけ言って、矢継ぎ早にキスをする。深く、浅くを繰り返して、遊ぶように。

 少しだけ顔を離してやれば、先程まで絡めていた舌の先から、つう、と糸が伸びる。それに気付いてか赤面する彼に、やらし、と囁けば、面白いほどに赤が広がっていく。

「かわいい」

「先輩、それ、うれしくな」

 語尾を奪えばびくりと肩が跳ね、感度の高まりが伝わってくる。下を盗み見れば、小柄な身体にそぐわず、そこは緩やかに主張していた。

 ああ、どうしてこうなったんだっけ。舌先で弄びながら思いを馳せれば、簡単なことだった。映画を見ようと言ったのだ。

 ホラーが苦手だというから、レンタル店の店員にこう訊いた。あなたが一番好きなめちゃくちゃ怖いホラーはどれですか、と。隣で聞いていた彼が思わず短い悲鳴を上げたが、その意図を察してか、

 ――今店内にいる他の奴にも訊いてみるんで、ちょっと待ってください。

 と本気で探してくれたのだ。

「ね、画面」

「なん、ですか」

「今、どっち?」

 結果提案された映画は、古き良きゴシックホラーの合間に、濃厚な肉体描写がちりばめられた作品だった。最初のうちはソファに二人並んで観ていたのだが、そのシーンが流れたとき、彼の表情を見て何かがはじけた。

 見てはいけないものを見てしまったかのような戸惑い。年相応の好奇心。視線を揺らしながらも目が離せずにいた欲情。私の視線に気付いて、それを悟られまいとする抑圧。

 そのすべてを、欲しいと思った。

 気付けば身体が動いていた。そうして馬乗りになってなお、他の部分に触れられなかったが。

「今、は。ふ、普通の画面、です」

「ほんとに?」

 舌先を甘く噛めば、羞恥の色が滲みだす。たまらず舌を沿わせて奥へと伸ばす。逃げようとする目線に追いすがるように、うねらせては口腔内を蹂躙していく。

 後ろ手にリモコンを探して、一息に音量を上げていく。狭い部屋には大きすぎる嬌声が満ち溢れ、鼓膜と脳が揺さぶられる。

「普通なんだ?」

「あ、ちが」

「えっち」

 上顎をなぞり、舌裏をくぐり、吸い付いては絡ませて、テレビから流れる音とは明らかに異なる水音を、頭の奥へと響かせていく。息が上がる。呼吸なんてどうでもよくなってくる。快楽という名の毒が、身体のすべてを支配する。

「もう、許、して」

「ねえ」

 キスの切れ間に絶え絶えに、そんなことを言うから。

 容赦する気が、なくなった。

「頂戴」

 ソファについていた右手を首へ、短い髪をかき分けて、左手で頭を引き寄せて。触れないという約束を反故にして、奪うようにすべての距離を、零にする。痺れるような快感と、卑猥な音を立てる舌の感覚が、理性の境界を侵していく。奥深くまで受け入れた彼が吐き出した、いつもと違う荒い呼吸が、果てが近いことを物語る。愛してるよ。聴こえるかどうかのその囁きを発した刹那、大きな波へと呑み込まれていった。



 結末のよくわからないエンドロールの、やけにうるさいオーケストラで、そういえば音量を最大にしていたことを思い出す。隣の部屋の住人は、まだ帰っていなかっただろうか。いつもは荒っぽいドアの開閉音で、すぐにいるか分かったものなのだが。

「あの、シャワーいただきました」

「ん。洗濯物は明日干しとくから」

「ありがとうございます。それであの、これ、下着って」

「すぐそこのコンビニで買ってきたやつだけど。あれじゃ帰れないでしょ」

「いやあの、それは」

 そうなんですが、と続ける声はか細く、後半はほとんど聞こえないほどだ。なに、気にしてんの、と問えば、不明瞭な声が返ってくる。

「いいじゃん。キスだけでイけるくらいやらしいんだから、開発し甲斐がありそうで」

「なっ……にがいいんですか!?」

 真っ赤になりながら、掴みかからんとする勢いで距離を詰めてくる。うっかり口にしてしまった開発という言葉に、しばらく噛みついて離れなかったのだが、宥めるように頭をなでると静かになった。

 てっきり、子ども扱いですか、と怒られるかとも思ったのだが。

 うつむく彼を覗き見れば、その瞳に後悔にも似た何かが揺れた。

「もう、いいんですか」

 発された言葉は、不安げで。それだけで、こちらを思い遣ってくれているのだと伝わってくる。

「気持ち悪かったり、しないですか」



 付き合おうと言ったあの日、約束とともに、ある事情について話していた。

「潔癖症、って訳じゃないんだけど。昔ちょっと……ケガ、しちゃってね」

 インターハイ直前。練習前には小雨が降っていたものの、比較的すぐに止んでくれたため、その日も外でトレーニングすることになっていた。ぬかるんだ道や水溜りを迂回し、いつものルートで走り込む。だが、そのちょっとした迂回が生むタイムロスが気に障って、いつもより早いペースで走っていた。

 やがて、ペースの乱れが脚の乱れにつながって、もつれた脚は前へと踏み出されることなく、上半身の運動エネルギーだけが前へと進んでいく。転ぶまい、そう立て直そうとしたのがまずかった。悪い態勢のまま力だけが伝えられ、私の足は、使い物にならなくなった。

「今はもう、治ったけどね。結構ひどい捻挫で、最後のインターハイには出られなかった。でも、それよりも――先生にされた、手当てが、ね」

 私の足の様子を見ていた先生の顔が、今でもこの目に焼き付いて離れない。

 時間にすればほんの一瞬。それでも、私の脚を触る手が、見る目が、生徒や部員に対するものとは明らかに違っていることに、気付いてしまった。

「触れられることが、気持ち悪くなったんだ」

 急いで距離を取り、テーピングだけはしたけれど、結局病院へは行かなかった。

 いや、行けなかった。

 行けば確実に触られる。足の具合を見るにはそれが手っ取り早いのだから、普通はそうするのは分かっていたけれど。触れられた感触を、あの目を思い出すたびに、どうしても耐えられなくなって吐いた。触れられた箇所を何度洗い流しても感覚は薄れてはくれず、ただ嫌悪だけが募っていった。

「そのうち、相手が誰であっても、耐えられなくなって」

 まず、男友達に触られるのが駄目になった。肩を組まれるのが無理になった。クラスメイトとのハイタッチも、ハグも、仲の良かった友人相手ですら、恐怖と嫌悪が頭によぎる。あの人とは違う。そんなことはわかっているはずなのに、それに囚われている自分が嫌で、それでも、やめられなかった。

「で、その頃だったんだよね。走る理由が分からなくなっちゃったの。ゴールしたからってさ、別に何かがある訳じゃない。むしろ、速いタイムを出せば、今度はそれ以上のタイムを求められる。受験もそうだけどさ、ゴールして終わりじゃないんだよ」

 何のために走り、何のためにゴールするのか。志望校に受かることがゴールなら、じゃあその先は何なのか。

「でも、そういうことに疑問を持つ人は、少なくとも、私の周りにはいなかった。少しでも速いタイムを出すために練習して、いい大学に入るために勉強して。じゃあそれって何のためなのって疑問を持った人に、その答えを持ってる人に、私は出会わなかった」

 人に触られるのが気持ち悪くなって、走る理由が分からなくなれば、部活から足が遠のくのは当然だった。ほとんど幽霊部員だった私が体育祭で走ったのも、単なる人数合わせに過ぎなかった。

「そうやって部活からも周りからも遠のいた奴だった訳だけど……それでもまだ、好きだって言ってくれる?」



 撫でていた頭を、ぐしゃぐしゃと少し乱暴にかき乱す。不安に揺れていた彼の瞳が、少しだけ不思議そうな色に変わる。ああ、そっちの方が、まだマシかな。

「ごめんね」

「なんですか、急に」

「……いや、初めてのキスで、ディープキスしちゃったから」

「ほんとですよ、もう」

「でも、おかげでさ。多分もう、大丈夫だわ」

 唇でなら触れられるかもしれない。そんな確率の低い賭けだったが、どうやら勝ったようだった。乱した髪を梳きながら、輪郭沿いに下ろしていって、柔らかい頬に触れる。一瞬のためらいの後に彼の手が重ねられたが、不思議と悪い気はしなかった。

「あんた以外は、まだダメかもしれないけど」

「……それがいいです」

 重ねた手を僅かに引かれ、唇を合わせる。

 先程までとは違う、触れるだけのキス。それでも、穏やかに快は広がっていく。

 ずっとこうしていられたら、幸せなのかもしれない。そう思いはしたが、気付いてしまった。唇を重ねている間、頑張って息を止めていてくれたことに。ぎこちないその優しさに、思わず笑みがこぼれた。

「わ、笑わないでくださいよ。ほんとは最初だって、その、僕からしたかったのに」

「うん、ごめんごめん。えっぐいディープキスしちゃって」

「長すぎですよ。映画終わっちゃったじゃないですか」

 まあ、いいですけどね、と不満げながらも言う彼に、ほんの少しだけ体重を預ける。服越しに聞こえる穏やかな鼓動。長らく避けてきた暖かさ。それが今は、心地よかった。

「ねえ、今日泊ってく?」

「へっ? ぼ、僕はいいですけど……」

「早く、慣れたいからさ。私が寝るまで、付き合って」

 ソファに倒れ込んで、ついばむように。

 その合間に囁かれる肯定と愛を、心から受け入れられるように。

 ほんの少しの不安をどうか、あなたのキスで埋め尽くして。


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