第7話 笹②

(自分の心に素直に生きる。…私は私らしく、生きてみてもいいのだろうか)

 あれから数日経っても、ささの胸を宗易の言葉が離れることはなかった。表情を殺し、自分を抑え、なるべく目立たないように生きてきたささにとって、それはひどく新鮮な考えのように思われた。

 千々に乱れる思いをこめ、叩きつけるように、一心に、ささは和琴をかき鳴らす。じょうじょうと鳴る、艶やかな、激しい音色に、弦と共に己の心も震わせているような気持ちになる。信長から贈られた和琴を奏でる時、ささは今まで知らなかった己に出会う。空に憧れ、風をしたい、自由に、心のままに生きることを望む少女を。

のうの申しておったとおり、見事な音色じゃな」

 たった今ささが心に思い浮かべていた人の声がした。ささの息が止まり、琴の音が一つ外れて強い不協和音を奏でた。

「申し訳ありませぬ、お越しに気づかず…!」

 ささはすぐにその場で居住まいを正し、ひれ伏した。我に返ってみれば、既に日は傾きかけている。室内に、夜の帳が薄く下りていた。宵闇で、信長の目が鋭く強い光を放っているようにささには思われた。ささをとらえ、揺さぶり、離さない眼差しだ。息苦しさを覚え、ささは琴爪を外して立ち上がる。

「…明かりを、今ここに」

 そう言って立ち去ろうとしたささの手首を、近づいてきた信長が素早くつかんだ。

「かまわん。ここにおれ」

 短く言い、腰を下ろす。小枝のように細い手首を、長い指が重なり合うほどに強くつかまれ、ささはすとんとその隣に座した。手首の痛みが熱に変わり、血管を駆け巡った。

 信長は一言も発せず、暗くなりゆく部屋の中でただじっと座っている。ささも、何も言わず手首をとられるままになっている。信長の顔が厳しい。何かあったのか、それを問うことがためらわれるほどに、その眼はめらめらと燃えている。

(戦の状況が、思わしくないのだろうか)

 ささにはそれを、想像するしかできない。けれど今、闇の中で信長の傍にいるのが―信長と共にいるのが、自分だけだということを、感覚で理解していた。信長がささを訪れている時、呼びつけられない限り侍女も小姓も入室することはない。

 触れあう手が、二人の距離をいつもより縮める。ささは、うるさいほどに身体に鳴り響く己の鼓動の向こうに、微かな望みを見出す。

(もしかしたら…今なら…私は、この人の孤独に、少しだけ…触れられるかもしれない)

 ささは微かな衣擦れの音と共に、つかまれていない方の手を持ち上げる。そうしてその手を、信長の手にそっと重ねた。

 温かな指に指を絡ませるようにして微かに力をこめると、ささの手を握る信長の手の力がわずかに緩んだ。手首をほどき、ささは信長の手を両手で包みこみ、ぎゅっと握りしめた。

 子供のように小さく、ほっそりとしたささの手だった。けれど温かく、信長の手をしっかりと包み込んでいる。その手は信長の荒ぶる心にも寄り添い、そっと触れてくるようだった。

 信長の大きな身体がぐらりと傾ぐ。驚くささの膝に、そのまま寝転がった信長の頭が乗っかってきた。幾度か向きを変え、楽な姿勢を見つけ、信長は目を閉じた。やがて、深く規則正しい息が漏れ始めた。

 その時になってようやく、ささはまともに息ができるようになった。薄い胸を突き破りそうだった鼓動がほぼ元通りになったのを確認してから、つながったままだった手をそっと床に下ろし、片手を離した。そうして、かなりの勇気が必要だったが、その手を静かに信長の肩に置いた。優しく、静かに撫でていると、心の中に今まで感じたことの無いような幸福が溢れた。

(せめて…せめて今だけは。私のもとで、この人が少しだけ、安らいでくれたらいい…)

 ささは、心の底からそう願った。己の心に素直に生きよというなら、それが今の、ささの望みだった。

 暗くなる室内で、ささはじっとしたまま、愛する人の温もりを心に抱きしめていた。




 ささはあずかり知らぬことだったが、この日、信長は許しがたい報せを受け取っていたのだった。すなわち、織田家にしぶとく抵抗を続ける高野山の僧兵らが、信長の放った使者十数人を皆殺しにし、その首を講和申し出への返答として掲げたというのである。

(あくまで我が天下統一を阻むか)

 申し出を撥ねつけられたこと、そのやり方があまりに非道で反逆的であったこと、それらすべてが信長の怒りをかきたて、燃え上がらせた。既に信長は、軍を派遣し高野山を包囲し、徹底的に叩き潰す手はずを整えてあった。

 信長の勢力は今や絶頂にあり、天下統一は目前に迫っていた。いくらあがいても、もはやそれを阻むことのできる者などいない。いあ、いてはならない。だからこそ信長は、たとえ高野山が降伏を申し入れてきても、もう聞き入れるつもりはなかった。

 その怒りの眼差しだけで人を殺せそうな信長の姿に、家臣達は震え上がり、会議の間ろくに意見を述べた者はいなかった。そのふぬけた有様にも信長は苛立ちを覚え、そうして少しは気晴らしになろうかと側室の元を訪れた時にも、その不快感は消えてはいなかった。

 ささの小さな手が、恐れるでもなだめるでもなく信長の手をただ包み込んだ時、それがすっと鎮まった。あたかも儚く柔らかな春風が、燃え盛る炎にそよいだかのようだった。

 ささが与えてくれたのは、その手の感触と沈黙だけだった。それらを欲するがために、彼女を訪れたのだと、信長は瞬間的に理解した。温もりなど儚いもので、静けさなど簡単に破れるものなのに、ささが信長に寄り添うために創り出してみせたその両方共が、信長にはたいそう心地よく思えた。

 会議の名残で荒ぶる感情のまま、彼女を抱くこともできた。しかし信長は、ささを取り巻く涼やかな風の中に、身と心をしばし休める方を選んだのだった。

 



 そんなことがあってから、信長はいっそう頻繁にささを訪れるようになった。自分が彼女を求めていることを意識したからなのだが、ささの方はそんなことは欠片も気づかず、ただ古い年が終わりに近づき信長が安土城を離れることが減ったからなのだろうと考えていた。

 宗易に打ち明けた胸のざわめきは消えることが無く、ささの心には常に信長がいる。どうしたら信長の心に寄り添うことができるのか、気がつくとささはそのことばかり考えている。会っていない時は、部屋がことのほか広く寒々しく感じられ、本人が目の前にいる時は打掛を羽織っていなくても身体が熱くなった。

―恋ぞつもりて、淵となりぬる

 暗い部屋の中で、瞼の裏の闇を味わい、帯をとかれるのを感じながら、ささは心の中で呟く。どの歌の下の句だったか、どうしても思い出せない。

(こいとは何なのですかと、尋ねていた頃もあったっけ)

 今は、本をめくっていても恋という文字を見つけると手をとめてしまう。

(信長さまに恋をして、私は変わってしまった。もうあの頃の私には戻れない。いえ、戻りたいとも思わない。こんなにも苦しいのに、なんて不思議なの。私はこの恋を手放すくらいなら、命を捨てられる)

 冬の空気に素肌をさらされ、けれど寒さはすぐに消えた。ささの胸が、切なく甘やかな幸福に満たされる。差し伸べた両手が、すぐにとられて抑え込まれた。信長はささを激しく抱くときも、彼女の腕が寝具と空気以外に触れることを許さない。それがわずかな痛みをささに与える。

(信長さま。私はあなたにとって、いかなる存在なのですか。私は、あなたのために、なれていますか)

 それはいつも、ささの口から出る前に消えてしまう問いだった。




 明けて天正九年、早々に馬揃えの日取りが決定し、各所へ通達が回された。

「二月二十八日?では、桜の咲く頃にございますね」

 正月の清々しさがまだ残る部屋で、ささは信長から直々にそれを聞いた。信長は頷き、思いがけないことを言った。

「馬揃えには、そちも必ず顔を見せよ。そろそろ、家臣や公家どもに、そちの存在を知らしめる時であろう。安土としてな」

 ささの唇が、わずかに開いた。言葉がうまく出てこない。喉に指をあてがい、押さえ、そうしてようやく尋ねた。

「あの、それは、お屋方さまの側室として…ということでしょうか」

「他に何がある」

 信長は奇妙なものを見る目でささを見た。ささは答えない。いくらか血の気の失せた顔には、喜びより恐怖が浮かんでいるように見える。

 けれどそれは、束の間だった。ささは背筋を伸ばし、小さく息を吸って信長を正面から見た。

「初めての京、そして馬揃え、楽しみにございます」

「ああ、必ずや、世にもまれなる華々しきものにしてみせようぞ」

 信長が応じると、ささの大きな目に楽しげな光が踊った。けれど笑みはしない。

 それが、妙に信長の心に残った。

「…あの、何か?」

 急に難しげな顔になる信長に、ささが訝しげに訊ねた。元々ささは、そのくっきりと見開かれ水のように澄んだ目以外で感情を表すことがあまりない。当然、あけっぴろげに微笑むこともないし、それが彼女の普通の態度だ。信長は無理やり自分をそう納得させた。

「いや。本日はそちにもう一つ、報せがある。さるめの女房が、そちに会うてみたいとふみを寄越したのじゃ」

「は?さる?」

 ささの頭の中で、二匹の赤猿がぴょんぴょん飛び回った。信長が珍しく声を上げて笑った。

「何じゃ、その顔は。そうか、笹はまだ猿を知らぬか。わしの家臣、羽柴秀吉はしばひでよしのことよ。今は中国で毛利攻めにあたっておるが、この安土城下の屋敷に女房が残っておる」

「お屋方さまは、そのお方を知っておられるのですか?」

 親しげな響きを聴きとり、ささは尋ねた。信長は楽しげに頷いた。

「あれはなかなかにできた女じゃ。明日、行ってまいるがよい」

「承知つかまつりました」

 安土の名を授かってから、実に二度目の外出だ。気晴らしになるかもしれないと、ささは思った。



 翌日、ささは数人のお供を連れて、羽柴邸へ赴いた。小さな木の門を、はじめは見落としそうになり、くぐってみてから屋敷の広さに仰天する。中に通されてからも、派手な南蛮風の置き物がやたらと目についたが、頭を巡らせれば数本の木と草むらしか植えていない質素な庭がある。

(なんだか、ちぐはぐなお屋敷)

 ささは首を傾げ、傍らに従う侍女の菊を振り返った。

「菊は、羽柴さまを知っていて?」

「お名前だけなら、もちろん存じております。二十年以上もお屋方さまにお仕えしていらっしゃるそうでございます」

 菊は答えたが、ささはその声音になぜか否定的なものを聴きとった。ますます首をひねりたくなったとき、突然どたどたと足音が近づいてきた。

「おおーい、おね、どこにおるー?わしの羽織をどこへやった…と、これはこれは、失礼つかまつった!」

 廊下を曲がって現れた男がひょこひょこと後ろへ下がりおざなりに礼をするより先に、ささはひらりと身をかわしていた。鮮やかな色合いの裾が舞い、打掛に焚きしめた香がぱっと散る。男がひくひくと鼻をうごめかし、ささをじろりと見上げる。その目つきに、ささは思わず襟をぎゅっとかき合わせた。

「ほほう、これは美しい女子≪おなご≫じゃ。そなた、誰じゃ?どこから湧いて出た?」

 ささの瑞々しい肌、若々しい顔立ち、光る黒髪に、なめるような視線が注がれる。男は、小柄で、中年で、額は出ていて顔は皺くちゃで、一言で言うなら、醜い小男にすぎない。

 だがささは、男の眼に底知れぬ力を感じた。言葉遣いも振る舞いも粗野でありながら、どこか隙がない。直観で、あなどってはいけないと思った。

「無礼な、この方をどなたと心得ておるのです」

 叫んでささを庇おうとした菊を、ささが手で制する。ぐっと腹に力をこめ、ささは鋭く言った。

「そのほう、そこに控えよ!」

 ぴしりと、空気を貫く音がしたようだった。

 男の表情が、明らかに変わった。

「何じゃと?」

「この家の奥方に会わせよ」

 ささはきっぱりと命じた。いかにも好色そうな男の眼が本当は怖かったが、隙を見せたら負けだと思った。男が、腰の得物に手をかけ、ゆっくりと近づいてくる。

「そなた…」

 ささは唇を引き結び、一歩も退かずに、男をじっと見据えた。ささには、刀も鎧も腕力もない。だからこそ、眼差しにこめる意志のみが、ささの唯一にして最大の武器だ。じわじわと切り結んでくるようなささの眼差しに、男がわずかにたじろいだ。

 ぱたぱたと別の足音がして、一人の女性が廊下を曲がってきた。異様な雰囲気で繰り広げられる緊迫した光景に、はっと足をとめる。

 それから響きわたったすさまじい叫び声に、ささは思わず耳をおさえた。

「何をなさっているのです、お前さまっっ!そのお方からすぐに離れなさい。そのお方が安土さまだと分かっているのですか?!」

「痛てて、痛ててててっ、やめんか、おね…って、へ?安土さま?」

 襟首をぐいぐい引っ張られて悲鳴を上げた男が、ぽかんと口を開けた。

「そうですよ。お前さまの主君であらせられる信長さまのご側室、安土さまです!私が、お招きしたのです!」

 女性がきっぱりと言った。途端に男の態度ががらりと変化した。へっぴり腰になり、その場に這いつくばる。

「申し訳のうござった、安土様!ひらに、ひらにご容赦を。何とぞお屋方さまのお耳にだけは、この爺めの無礼を入れることなきよう、お願い申し上げまする!」

 あっけにとられたささと、呆れ果てた顔でため息をつく女性の目が合った。女性はにっこりと微笑み、男の傍でふわりと膝を折った。

「お見苦しい所をお見せして、申し訳ございませぬ。これにいますは、この屋敷の主、羽柴筑前秀吉はしばちくぜんのひでよし。そして私は、秀吉の妻、おねにございます」

 さすがのささも、口を開けたまま固まるしかない展開であった。




 その後ささは、改めて小綺麗な座敷にとおされた。秀吉は、おねに散々叱り飛ばされて這う這うの体で退散していった。

「さぞかし驚かれましたでしょう。本当にしようもない夫で…まことに申し訳ありませぬ」

「いえ、もうよいですから、どうぞおもてを上げてください」

 すっと身を起こしたおねの顔に、ささは見いった。

(この人が、信長さまのおっしゃるところの、『なかなかできた女』…)

 秀吉とそう歳は違わないように見える。ふくよかで、どっしりとした落ち着きが合って、まるで地母神のようだ。ささがそう思ったのは、おねの顔つきがどこまでも優しさとほがらかさに溢れていたからだった。目は澄み、心からささを歓迎してくれているのがよく分かった。

 まじまじと自分を見つめるささに、おねが首を傾げた。

「あ、すみません。お屋方さまから、たいそうよき人だと伺っておりましたので、会えるのを楽しみにしていたのです」

 ささが正直に言うと、おねの顔が嬉しそうに輝いた。

「お屋方さまには、夫が配下に入りましてから、ずっとお世話になっております。あれとの仲を、とりなしてくださったこともございますもので」

「まあ、そのようなことが」

「はい。お恥ずかしい限りでございます」

 言葉とは裏腹に、おねはゆったりと微笑んでいる。おねといると、ささはとても温かなくつろいだ気持ちになった。そして、おねの次の言葉を聞いて、ささはおねが心から好きになった。

「お屋方さまはたいそうお優しい方にございます。ですから、安土さまにもぜひお目にかかりとうございました。お屋方さまの選ばれた人なら、きっと良い人だと思っておりましたから。安土さま、狭い家ではございますが、どうぞご自分の家と思ってゆっくりなさっていってくださいね」

「ありがとうございます、おねさま」

 ささは、心をこめて言った。

 それから二人は、まるで古くからの知り合いのように心楽しくその日を過ごした。ささは屋敷を案内してもらったり、おねが初めて信長を知ったときの話を聞いたり、おねに上手に促されて自分の今の生活を少しずつ話したりした。このように心やすく言葉を交わせる相手を得たのは、初めてだった。信長はささにとって誰より大切だが特別な人で、濃姫は師匠のような存在だ。

(おねさまのような母君か姉君が欲しい。信長さまがこの人を気に入っていらっしゃるのも、よく分かる)

 ささはそう思った。

 おねもささを気に入ってくれたようで、ささを見る目は終始温かく優しかった。もっとも、おねが人に冷たくしている所など想像もできないが。

 蕾をたくさんつけた梅の木をのぞむ縁側に向かい合って座り、ささはおねの気に入りだという香を楽しんだ。そうして、ふと訊ねた。

「そういえば、羽柴さまはどうして安土におられるのです?お屋方さまのお話だと、中国におられるのだと思っていました」

「あの人は面倒くさがり屋ですから」

 おねはくすくす笑った。

「毛利攻めにはもう飽きたと言って、こっそり戻ってきたのですよ。明日、再び中国に戻るつもりにございます。お屋方さまのお叱りを、あれは何より怖がっていますから」

「攻めるのに、飽きた?」

 ささは聞き返した。武将にあるまじき言葉だと、ひそかに思う。そんなささの顔を見て、おねは悪戯っぽい顔になり、声をひそめた。少女のような仕草も、おねには不思議となじんだ。

「でも、私が夫から貰った文≪ふみ≫には、そうは書いておりませんでしたけれどね。正月くらい女房と過ごしたいと、そればかり」

「…そちらが羽柴さまの本音だと?」

「うちに帰ってきてからは、戦の愚痴ばかり申しておりますけれど」

 どちらが本音なのやら。そう言って笑うおねの顔は、けれど心から満ち足りていた。何であれ、夫が帰ってきてくれて嬉しいのだろう。

「おねさまは、羽柴さまがお好きなのですね」

 ささは自然と呟いていた。おねは驚きもせずに、穏やかに澄んだ眼差しで頷いた。

「はい。私が心から惚れて、選んだ夫ですから。安土さまと同じように」

「…え?」

「安土さまも、好きだから、お屋方さまをお選びになったのでしょう?」

 ささは、ぼんやりした。実に不可解な言葉を耳にした気がする。

「私が…選んだ?それは、どういう意味にございますか」

「その言葉のままです。安土様は、ご自分で納得されて側室に上がられたのでしょう。それは、夫として、お屋方さまを選んだということではありませんか」

 ささは、大きく目を見開いておねを凝視した。声が、かすれる。

「…私は、あの方が私を選んだのだと思っていました。美しさも愛想もない、裁縫の腕くらいしか取り柄のなかったしがない女中に…情けをかけて頂いたのだと」

「まあ、そのようにご自分を蔑まれてはいけません」

 おねは、初めてささに対して憤りの声を上げた。笑みを消し、真剣な目をささに向けて、おねは熱心に言った。

「安土さまは素敵な方です。まだお若いのに、本当にご立派にその名をつとめていらっしゃると思います。私のような、家臣の妻にすぎない者にも優しくしてくださいます。お屋方さまが安土さまを選ばれたのは、決して情けなどではなく、そんな安土さまに惹かれて、傍にいてほしいと思われたからですわ」

 生まれて初めて、ささは目の裏が熱くなるという経験を味わった。おねの真摯さが、ゆっくりと心にしみていく。

「おねさま。私は、あの方が好きです」

 ついにささは、全てのためらいと気後れを捨てた。心を決めて、おねがそうしてくれたように、ありのままの心を素直に語った。

「あの方を、たいそうお慕い申し上げております。そう思ってよいのだと…これから先、安土として、そして一人の女として、お傍にいてもよいのだと、本当におねさまは思われますか。私はあの方にふさわしい者に、なれているでしょうか」

 母親のような笑顔で、おねは大きく頷いた。何のためらいもなかった。

「はい。私は心からそう思っております。何よりも、お屋方さまに対するその深いお気持ちが、安土さまの素晴らしい所でございますよ」

 その言葉を聞いた時のささほど、深い感謝と安堵の表情を浮かべた人を見たことがないと、おねは後々思い出すのだった。

「ありがとう」

 そう言って、ささが目を閉じる。泣き出すかと思われたが、やがてささは揃った睫毛をゆっくりと持ち上げた。うっすらと水のとばりの下りた輝く双眸は、吸い込まれそうに美しかった。

(この方の笑顔を、お屋方さまに見せてさしあげられたらいいのに)

 おねは、ふっとそんなことを想った。




 信長が長押なげしをくぐり入室した時、ささは既に几帳の陰で静かに座していた。とき下ろした黒髪は異国の花の香りを漂わせる。気配にゆっくりと顔を上げたささの目が、まん丸くなった。二つ並んだ満月のようだ。

「あの…その、お召し物は」

 信長はしてやったりという笑みを浮かべた。ささのこの表情を見たいがために、わざわざ正装で訪れたのだ。金の羽織の上につけた、四角く裁った真っ赤な上衣をばさりと翻してみせる。

「これか?この上衣はまんとというて、南蛮人が献上してきたものじゃ」

「まんと…」

 ささは小首を傾げて呟き、我慢できなくなったように手を伸ばして信長の上衣に触れた。細い指が柔らかな生地の上を滑る。

「このような素材、初めて見ます。柔らかくて、織り目がこんなに詰まっているなんて」

 ため息交じりにささは言った。

「びろうどという生地じゃ。ひと月後の馬揃えのため、反物を多く持ってこさせたのじゃが、侍女達も扱いに困っておる。この国ではまだ造られておらぬ故な」

「馬揃えの、お屋方さまの衣装になさるのですか?」

 信長が頷く。ささはまだまんとの裾を撫でていたが、次の瞬間自分でも思ってもみなかった大胆な発言をした。

「お屋方さま。その衣装、私に作らせては頂けませぬか」

「笹にか?」

「はい。お願いでございます」

 ささはその場に平伏し、深々と頭を下げた。信長は難しげな顔になる。

「こたびの馬揃えには、帝にもお越し頂く。この信長の力を、庶民から帝まで、全ての者に知らしめなければならぬ。失敗は許されぬぞ」

「承知しております。されど、この笹が元々衣裳部屋におったことをお忘れですか。必ずや、最上の物をおつくり致しまする」

 ささは額をすりつけたまま訴えた。強い欲求がささを動かしていた。何故か分からないが、そうしなければと強く感じたのだ。

 信長はしばらく髭をしごきながら考えていたが、ささの必死さに心を動かされた。これ程強くささが思いを表したのも、信長に何かをねだったのも初めてだ。それに、彼女の腕の良さは信長の身につける衣装で証明されている。

「よかろう。明日、反物を持ってこさせる。よいか、ひと月で仕上げるのじゃぞ」

「はい。お任せください」

 ささが顔を上げ、しっかりした声で応じた。自信に溢れた声に、信長は彼女を信頼してみることにした。



 一つだけ灯った明かりの下で、ささは信長の髪をとき、まんとと羽織を脱がせた。指先が温もりを感じ取るたびに喉元が脈打ち、身体が火照る。それを気づかれまいとして、表情がどんどん固くなるのが自分でも分かる。襟元を直そうとした指先が震え、滑り落ちかけた所を、信長に握りしめられた。

 その瞬間、ささの指に稲妻のような熱が走った。息がとまり、ささは思わず信長の手を振り離していた。

 一拍置いて、ささは自分がとんでもないことをしてしまったことに気づいた。

「申し訳、ありませ…」

 ひれ伏そうとしたささの肩を、信長が両手でつかむ。

「わしの目を見よ」

 低く乾いた声で命じられ、ささは震えながら信長を見上げる。全身を熱が駆け巡り、どうしていいか分からない。このような気持ちになったのは、初めてだった。

「今宵はわしの世話をしとうないと申すか」

 抑えた声でそう言う信長の眼差しに、ささは気を失いそうになる。やっとのことで小さく首を横に振るが、声が出なかった。

(信長さま。私はあなたを、誰よりお慕い申し上げております)

 心の中で叫ぶ。強すぎる想いが、ささの喉を押し潰す。けれど見開かれたひとみは、ささの胸でもがく想いを鏡のように映しだし、あやしいほどに強い輝きをはなった。

 信長はそのひとみを強く見返した。ささが一心に自分に向けてくる想いにどうしようもなく惹かれ、狂おしいほどに彼女が欲しいと思った。ささが気づかぬまま抑え込んでいる感情の全て、隠している言葉の全てを、手に入れたかった。

 膝を折り、崩れこむようにして、信長がささを褥に押しつける。帯をとこうとする手は常よりも荒々しく、けれどささはいつものように両手首をとられかけた瞬間に渾身の力を振り絞ってそれを拒んだ。

「私は、あなたさまの人形ではありませぬ!」

 ようやく悲鳴のような声がほとばしった。ささは自由になった両手で襟を掻き合わせながら身を起こし、信長と向き合った。

 信長は肩で息をしながら、もはや呆れたような目でささをにらんだ。

「分からぬ。そちは何を望んでおる。今のそなたには、筋がとおっておらぬぞ」

 素直な驚きと喜びの眼で信長のまとう衣服に触れたかと思えば、指を握られただけで激しくそれを拒む。眼差しひとつで信長を惹きつけ、今また拒んで見せた。

 ささは激しく首を振った。もどかしさに胸が焼けてしまいそうだった。どうすれば伝わるのか、分からない。

(愛してほしい。類さまより、濃姫さまより、私を)

(どうか孤独にならないで。少しでも、私を傍に居させてください)

(どうか私に、あなたを愛させてください。私は、何の隔てもなく、素直な心で、あなたを愛したいのです)

 なのにささの口から実際に溢れたのは、ひどく意固地な言葉だけだった。

女子おなごには自由が許されておりませぬ。住む所も、衣服も、生きることさえも、私は周囲から受け取って、今日まで過ごしてまいりました。そんな中で、夜だけは、私は安土の名からも側室という地位からも解き放たれ、ひとりの女に…笹という人間に戻ることができるというのに…あなたは、今この時さえ私を自由にはさせてくれないのですか…!」

(違う、こんなことを言いたいんじゃない)

 心の叫びとは裏腹な言葉の数々は、ささの心を未知の衝動から守り、鎧おうとする行為でしかなかった。

 信長は黙ってささの言葉を聞いていた。明かりが一つしか灯っていない部屋で、表情はよく見えない。だが次に口を開いた時、その声は淡々としていた。

「ならばそちは、自由を手にした時どうする。側室という枷を捨て、我が元を離れたいのか」

 ささは呆然とした。ようやく彼女は、己の頑なな態度が何を招こうとしているかを悟った。信長の描いてみせた未来は、ささの心を刃より深く鋭く突きさし、そこから真っ赤な血が流れだした。

 二人の間に、今までにないすれ違いが生じていた。

「…私の、願いは」

 そこまで言って、ささは声を詰まらせた。どうしても言葉にできない。ずっと抱いてきたためらいを、己を守ってきた鎧を脱ぎ去ることができない。

 ささは目を閉じ、これ以上言葉での無駄な努力を続けることをやめた。それと同時に、己の意固地さと不器用さがたまらなく嫌になり、全てを投げ出したくなった。だから、その気持ちのままに両腕を差し伸べ、奔流に身を委ねた。

 ささが信長の胸に身を投げ出してきた時、信長もまたためらわなかった。彼女を押さえつけるのではなく引き寄せ、そのまま二人一緒に褥の上に倒れこんだ。ささが初めて向けてきた衝動を拒むことなどできなかったし、拒もうとも思わなかった。

 明かりが消える。そして、本当の夜が始まった。




 風が、ごうごうと唸りをたてている。ささは夢の中でその音を聴き、川と雨を想った。全てを押し流す水、潤す水の夢を見て、それから目を覚ました。遠くで何かが風にあおられ、バタバタと鳴っていた。

 身体中の骨が溶けてしまったように力が入らない。頭も、熱を出した時のようにぼうっと霞んでいる。まだ自分が存在しているのか確かめようと、ささは両手をつき苦労して上半身を起こした。

(私、どうかしていた)

 思い返してつくづく思う。だが、不思議と恥じらいや後悔の念は起きなかった。これでよかったのだと思った。いずれはこうなったのだろうと思った。なるべくしてなったのだと、ささの中で何かが静かに囁いていた。

 がたがたと障子が鳴った。意外に大きな音だったので、ささは思わず信長を見たが、隣で寝息を立てる信長が目を覚ます気配は一向になかった。

 信長が眠っているのをいいことに、ささは思う存分その顔を眺めていた。そうしていると、先ほど切ないほどの痛みでささを締めつけ、駆り立てた想いが、静かにささを浸していった。

 信長を愛している。

 この世の誰よりも、自分自身よりも、愛おしいと思う。

 目の前がぼやけ、頬を熱いものが伝い落ちた。ささは指先でそれをすくいとり、信じられない思いで見つめた。

(私、泣いている)

 涙など、もう長いこと忘れてしまっていた。信長が、蘇らせてくれたのだと思った。

 ささは両手を伸ばし、信長の手をとって裸の胸に引き寄せた。自分の手の冷たさが目を覚まさせてしまうかもしれないことには思い至らず、だから信長の呼吸が一瞬止まり、少し浅くなって再開されたことにも気づかなかった。

「好きです」

 ささは、囁いた。涙が次から次へと溢れ、信長の手を濡らした。

「お慕いしております。…好きです…心から…信長さま…」

 声が、震えて途切れた。ささは信長の手を抱き、静かに泣いた。

 握りしめる手の中で、指先が微かに動いたこと――しばらくしてささが涙をぬぐった時、一瞬ささを見つめる眼差しがあったことに、彼女は気づかないままだった。




 二月に入り、馬揃えが三週間後に迫る頃、長い里帰りから濃姫が帰還した。久しぶりにささの元へ現れた濃姫は、健康そうに輝く顔をしており、ささは心から喜んで濃姫を迎えた。

「そなたをずっと心配しておった。また会えて嬉しいぞ」

 濃姫は率直に言った。久しぶりに聞く、彼女らしい単刀直入な話しぶりが嬉しくて、ささはすぐに頷いた。

「私もにございます。濃姫さま」

 だが濃姫は、その口調にわずかな陰が宿っているのを聞き逃さなかった。さっと眉がひそめられる。だがその時はそれには言及せずに、濃姫はしばし故郷の土産話を面白おかしく語り聞かせた。それに相槌を打つ間に、ささの身体の強張りも少しずつとけてきたようだった。

 ささのほっそりとした肢体に、しなやかさが備わってきている。揺れる睫毛や光る唇に、これまでになかった可憐さがある。

(安土は、少し変わったようじゃ)

 静かな表情を己に向けているささを見つめ、濃姫はそう思った。

 濃姫は頭をめぐらし、見慣れない行李に目をとめた。数か月前にはなかったものだ。

「あれは何じゃ?」

「南蛮より伝わりし反物にございます。馬揃えの際の、信長さまの衣装にと仕立てている最中で」

「…信長さま?」

 濃姫は聞きとがめた。はっと、ささの表情が揺れた。視線を逸らし、彷徨わせ、しまいには深く俯いてしまう。その姿をまじまじと見つめてから、濃姫はつとめて柔らかな声で訊ねた。

「安土、そなたは馬揃えには?」

「参ります」

 ささが蚊の鳴くような声で答える。濃姫さまは、と問い返され、濃姫は微笑んで首を横に振った。

「私は行かぬ。美濃より戻ってきたばかりゆえ、すぐにまた京へ旅するのはちときつくての。そなたは一人で、安土としてしっかりつとめて参るのじゃぞ」

 優しい声に、まるで鞭打たれたかのようにささは身を震わせた。どうした、と問う濃姫の声は、さらに優しくなる。

「…申し訳ありません、濃姫さま」

「何がじゃ」

「私のようなものが、安土と呼ばれ…あまつさえ、濃姫さまを差し置いて、信長さまを…!」

 名を呼ぶささの声は、哀嘆と思慕に満ちていた。濃姫はささのすぐ傍へ身を寄せ、その肩に手を置く。そうして、どこまでも深い慈愛に満ちた声で言った。

「安土。そなたは殿に、恋をしたのじゃな」

 次の瞬間起きたことを、濃姫は容易には信じられなかった。――ささが、泣いていた。

 大粒の涙をぽろぽろ零し、しゃくりあげるささを、濃姫は母か姉のように抱きよせて髪を撫でた。そうして、どこまでも温かな声でささをなだめ、落ち着かせてくれた。

「よしよし、もう泣かずともよい。――そなた、ようやく己の想いに気づいたのじゃな。私に謝ることなど何もない。私は、そなたが気づくのをずっと待っておった」

 ささは、涙に濡れた顔を上げた。普段と少しも変わらず、威厳と落ち着きに満ちた、怒りや嫉妬の欠片もない、濃姫の美しいおもてがそこにあった。

「よいか、安土。そなたは殿の正室である私に気を遣っておるのであろうが、私は殿に対して、妻というより同志のような思いを抱いておるのじゃ。私は殿のお子を産むことができなかったゆえな…。あの方と同じところに立ち、あの方のお志を誰より理解し、支えることこそ我が喜びであり、我が誇り。されど安土、そなたは私とは違う。私になる必要も、私に気兼ねする必要もないのじゃ」

 白魚の手で、濃姫はささの頬を撫でた。慈しむような仕草だった。ささに微笑みかける濃姫のひとみは、観音菩薩のように澄みきっていた。

「そなたは、殿を一人の人として、臆することなく見ることができる。なればこそ、武将の心ではなく女子おなごの心で、殿を受け入れ、愛することができるはずじゃ。安土なら、成し遂げられる。私はずっと、それを願っておった」

「…濃姫さま」

 柔らかな指先で涙を拭われながら、ささは胸を打たれた。普段は厳しく、信長の妻としてこれ以上ふさわしい方はいないと尊敬していた人が己をそのように思ってくれていたなんて、全く気づかなかった。

 そなたに見せたいものがある、と明るい声で濃姫が言い、控えていた侍女に何やら見覚えのある黒い桐の箱を持ってこさせた。

「これを安土にやろう。約束の褒美じゃ」 

 ささは息を飲み、そっと両手で蓋を外した。思ったとおり、中に入っていたのは、磨かれて光る丸い鏡だった。

 ささは両手で鏡を捧げ持ち、目の高さまで掲げる。ささの肩に寄り添い、どう思う、と濃姫が囁いた。

「あの時のそなたとは、別人であろう?」

 ささは、答えなかった。驚きのあまり声が出ない。唇を微かに開き、瞬きすら忘れて鏡に見入るばかりであった。

 そこに映っていたのは、ほっそりと引き締まった輪郭を持ち、澄んだ大きな目を活き活きときらめかせる、艶やかなぬばたまの髪の若い娘だった。美しい、とすら言える。頬に引く涙の筋も、花のような可憐さを少しも損なってはいない。

(これが…私?)

 ささは、穴が空くほど鏡を見つめた。わずか半年ほど前の、側室に上がったばかりだった、痩せて顔色の悪い、目ばかりが異様に強い輝きを放っていた少女の面影は、もはやそこにはない。

(信長さまを慕っていたのは、この私だったの?あの方への想いが、私を…こんなにも変えてしまったの?)

 ずっと自分を卑下してきた、その頑なな心の壁が、初めて揺らいだ。濃姫は鏡の中のささににっこりと笑いかけた。そして、優しく言った。

「私は、今のそなたが好きじゃ。そして、私の夫であり、そなたの夫でもあるお方のことも、心からお慕いしておる。なればこそ、そなた達二人に、幸せになってほしいと思っておる」




 寒さが緩み、風に春の香が混じるようになってきた。日は長くなり、窓を開け放っていても微かな温もりを感じる。ささは一日の大半を、信長の衣装を縫って過ごした。

 南蛮風の衣装は型からして奇妙で、いちいち手を休めて確認しないとすぐ間違えそうになる。それは根気のいる作業だったが、ささは一針縫うごとに己の想いを込め、願いを込めた。

 このとき信長は、はるか北の地へ出向いており、安土城を留守にしていた。越前に城を構える信長の家臣、柴田修理亮勝家しばたしゅうりのすけかついえの領地を視察に――という名目で、その近隣のまだ服属していない国々を威嚇しに行ったのだ。

 ささは糸を切りながら、出立前の信長と最後に交わした会話を思い出していた。




 越前はとかく山深い土地であり、冬は寒さが厳しいが景色が見事なのだと、信長は言った。

『越前には海もある。琵琶のうみは山に取り囲まれておるが、越前の海を渡ればみんの国がある。つまりは、この国を出ることができる』 

『では、さぞかし大きいのでありましょうね』

『そうであろうの』

 信長は笑った。そのひとみは既に、まだ見ぬ海を追っているのか、明るく輝いていた。そんな信長を見るのが、ささは好きだった。信長の心をとらえてやまないのであろう海を、ささもまた想った。

『私も、その海とやらを見てみとうございます』

 ささは深い思いを込めて言った。信長は機嫌よくささを見下ろした。

『では、見上げに持ってきてやろう』

『え…?』

『海の音をじゃ。波の音を、そちに聴かせてやろう』

『まあ…』

 ささは大きな目をきらきらと輝かせた。夢のような約束なのに、ささは何のためらいもなくそれを信じた。他でもない、信長の言葉だったからだ。

『楽しみにお待ちしております。どうかお気をつけて行ってらっしゃいませ』

 胸にしみいるような声で言い、ささは三つ指をついて深々と頭を下げたのだった。




(あれがもう、いつ頃のことだったろう…?)

 ささは、その時の喜びを思い返しながら糸をしっかりと結んで留め、ぷちりと切った。馬揃えはすぐそこまで迫っている。京都ではきっと、桜の花びらの降り注ぐ華やかな祭が催されることだろう。

 そこに訪れる大勢の人々の前で、安土として姿を見せることを、ささはもうそれ程恐れなくなっていた。人の目に映る今の姿がいかなるものかをはっきりと知ったからでもあり、安土という名がようやく身と心の両方に馴染んできたからでもあった。濃姫や蘭丸、侍女達が呼んでくれる名の重みを、ささはようやく受け入れられると思い始めていた。

 ささは、安土が好きだった。生まれ育った安土という町が好きだった。信長が築き上げ、これからもずっと己が暮らしていくのであろう安土という城が好きだった。

(私はこれからもここで生きていく。安土を心から愛し、その名を授かったことを、私の喜び、私の誇りとしながら。きっとそれが、安土の鏡となるということ)

 ささは針を置き、両手で衣装を持ち上げて眺めた。これで完成だった。

「菊、菊」

 ささは声を高くして、気に入りの侍女を呼んだ。控えていた菊がすぐに入ってきて、衣装を目にすると驚いた顔になった。

「やっとできたわ。あなた、これをどう思って?お屋方さまにふさわしく仕上がったかしら?」

「はい、それはもう、もちろんにございます。流石は安土さまですわ。このように美しいお衣装は見たことがございません」

 菊はうっとりとしながら言った。心からの素直な賛辞に、ささが安堵の表情を浮かべた時、もう一人の侍女が息せき切って飛び込んできた。

「申し上げます。お屋方さまのご一行が、たった今ご帰還なさいました」

 ささの顔が輝いた。そんな女主人の表情に、菊は思わず微笑んだ。側室である『安土さま』の見せる、心からの素直な思慕は、見ていて心温まるものがあると彼女はひそかに考えていた。

 ささがまだ針仕事の道具を片付け終わらないうちに、信長が入ってきた。まだ旅装束のまま、笠をとっただけの姿だった。ささは驚き、とっさに反応できずに固まり、そして思い出した。

(以前もこのようなことがあった。私が寝込んでいた時、この方は私を気遣って真っ直ぐ私の元へ来てくださった…)

 あの時、信長は確かに、ささに会うために来たと言った。直感で行くべきだと感じたのだと。他の誰でもない、信長の意志で、ささの元へ来ることを選んだのだと。

 ささと信長は、見つめあった。ささの頬には血が昇り、胸はどくどくと高鳴っていたが、それはわけの分からぬ緊張からではなく、愛する人を迎えた喜びから来るものだった。

「お帰りなさいませ」

 ささはそう言い、頭を下げた。うむ、と信長が頷いた。

「只今戻った」

 ささが顔を上げると、信長がひたとささを見据えていた。ささは、目をそらすことができなかった。

 視界の隅で、侍女達が深々と頭を下げ、静かに退室していった。二人きりになった部屋で、信長はささの前に座ると、懐から白いごつごつした物を取り出した。

「約束の土産じゃ」

 ささは受け取り、じっと見つめる。それはちょうど手のひらに収まる大きさの白い巻貝だった。上部はくるくると渦を巻きながら徐々に狭まり、下部はふっくりとした形をしている。そこにぽっかりと空いた穴の内側はつるつるしており、光の加減によって白や桃色や金色にきらめいた。巻貝からは、鼻がつんとするような不思議な匂いが漂っていた。それがしおの匂いだとささはまだ知らなかったが、なぜか心がざわめき、遠くへ誘われるような心地がした。

 巻貝を手の中で転がしたり、光に透かしてみたりしているささに、信長が言った。

「その穴に耳をあててみよ」

 ささは言われた通りにした。

(何か、聴こえる…)

 微かに、本当に微かに、誰かが呟くような音が響いてくる。ささは目を閉じ、一心に耳を澄ませる。

 その音は、大きく小さくなったりした。少女時代に橋の上から見下ろした。小川のせせらぎに似ていた。夜更けに目を覚まし、信長の腕の中で聴いた、雨の音にも似ていた。けれどもっと豊かで、歌うような響きを持った水の音だった。

(これが、海の音…)

 ささはしばらく目を閉じたまま、うっとりと耳を傾けていた。いくらそうしていても飽きなかった。

(戦のために行かれたのに。天下人としてなすべきことのために行かれたのに)

 ふっとささは思った。

(それなのに…私のために、貝を拾ってくださった)

 信長が自ら海岸で拾ったのか、配下の者に命じてとってこさせたのかは定かではない。けれど信長は、ささと交わした約束を覚えていたのだ。

 この貝に信長の手が触れ、ささに与えるために懐へしまったのかと思うと、貝を包むささの手が、貝にあてた耳が、脈打ち熱くなる。波の音がいっそう大きくなり頭の中を満たす。閉ざされていた扉が、忘れていた感情が、静かに揺れ動く。

 光に温められて雪が溶けるように、ささの顔がゆっくりとほころぶのを、信長は息もせず見つめた。目を開き、貝を大切そうに胸におしあて、ささは微笑んだ。まるでずっと以前から信長に微笑みかけていたかのように、自然で美しい笑顔だった。

「ありがとうございます。大切にいたします」

 信長の顔にも、ゆっくりと笑みが浮かんだ。手を伸ばし、花を包むような仕草でささの頬に触れる。ささは、その手にそっと自分の手を重ねる。細めた目も、柔らかな稜線を描く唇も、もしこの娘が笑ったらと想像していた顔よりずっと美しかった。

 この笑顔をずっと見ていたいと、信長は思った。そのためなら、ささの望むことを何でもしてやれると思った。

「これから遠乗りへ行く」

 唐突に信長が言い、流れるような動きで立ち上がった。己に注がれる信長の眼差しがとても温かいことにささが気づいた時、信長はささに手を差し出した。

「風の行く所を、見に行く。共に来るか」

 ささの顔を、驚きと喜びが日光のようによぎった。

「はい」

 ささは頷き、信長の手をとって立ち上がった。ひととき、目を合わせて微笑みを交わす。

(笑うって、こんなにもやさしいことだったんだわ)

 信長と共にいる時、微笑みは泉のように湧き上がってくる。それはとても幸福で、ごく自然なことのようにささには思われた。




 以前と同じく、信長は誰にも阻む隙を与えずにささを馬に乗せて自らも飛び乗った。以前とは違う家臣が、半分泣きそうな顔で叫びながら駆けてくる。

「殿、お待ちください。せめてお供をおつけにならなければ」

「ならば後から蘭丸をよこせ」

 無造作に言い、信長はさっさと馬に鞭をくれた。よこせと言われましてもどちらに行かれるのですか~という家臣の叫びが、尾を引いて消えていった。

「あの…よろしいのですか」

 馬上でささは尋ねずにはいられなかった。天下を覇する大名の遠乗りにしては警戒が薄すぎるのでは、と思わなくもないのだ。いつ奇襲をしかけられてもおかしくない立場であるというのに。だが信長は平然と答えた。

「安土はこの信長の城下町じゃ。わしに手を出す奴などここにはおらぬ。もし何かあらば、そちはわしが守るゆえ、案ぜずともよい」

 信長に身を寄せるささの肌が急に熱くなった。信長が見下ろすと、ささは顔を紅く染めていたが、それでも上目遣いにとても嬉しそうに微笑んだ。

「ならば笹は、安心してどこへでもお供して参ります」

 明るい声が、春を告げるそよ風にのってきらめきながら流れて行った。




 二人は再び、琵琶湖を見下ろす丘の上に連れ添って佇んでいた。今は山の桜が、白い花びらをそよがせ、ささと信長に優しく枝を伸べている。

 ささは目を細め、気持ちよさそうに湖の方へ顔を向けている。信長が、花をたっぷりと咲かせた枝を手折ってささに差し出した。信長に向き直ったささの顔に驚きが浮かび、ついでそれは光がこぼれるような微笑みに変わった。細い両手を伸ばし、ささは桜の枝を受け取った。

「やっと笑ったな」

 嬉しそうに桜の枝を抱きしめるささを、信長の声が包み込んだ。ささは頷いた。

「はい。笑えるようになりました」

「そうか。…そちをそこまで変えたものは、何じゃ」

 信長は何歩かささの前へ出ると、腰に手をかけて広い淡海を見やった。そのため、言葉を紡ぐ信長の表情はささには見えなかった。

「この琵琶のうみか。笹が好きだと申した、空と風か」

 宙に舞う髪を、ささはそっとおさえた。この場所では、すんなりと言葉が飛び出した。

「私が風を好きなのは、私にないものを持っていたからにございます。憂いもなく、どこへでも思いのままに行ける、自由を」

 けれど、とささは信長の広い背を真っ直ぐに見つめながら続けた。

「今はもう、それを欲しいとは思いません」

 私は、変わりましたから。そう、ささは告げた。

「あなたさまのお傍にいて、お仕えすることで…あなたさまが、私を変えたのでございます」

 信長が振り向いて、ささを見た。その時ささは、信長のひとみの中に、自分の心をいっぱいに満たしているのと同じ想いを見つけた。その瞬間、ささの世界から信長以外の全ての物が消えた。

「私はお屋方さまを、お慕い申し上げております。許されるなら…今の私の望みは、ずっと、お屋方さまのお傍にいることでございます」

 信長は、驚きも戸惑いもしなかった。深い眼差しでささをとらえ、一歩だけ二人の距離を縮めた。

「たやすいことではない。わしの側室であり続けることを望むのならば、それはそちを生涯縛りつけることになるやもしれぬ」

 ささはこくりと息を飲み、自らもう一歩分信長に近づいた。

「かまいません。私が、私の意志で、心から望み、選んだことですから」

「そして我が意志でもある」

 信長は端的に言った。ささの息が、とまった。

「そちが欲しい。その身も心も、笹の全てをこの信長の物としたい」

 淡々と、率直に、何のてらいもなく信長は告げた。

 返事をする直前、ささの胸をよぎったのは、宗易の美しく澄んだひとみであり、おねの満ち足りた笑顔だった。その時、ついにささは、二人の伝えようとしたことを、二人を輝かせ、喜びを与えたものの正体を知った。答えはずっと前からささの中にあったのだった。

「はい」

 ささは涙を払い、囁いた。

 二人の間にあった距離がついになくなり、信長の腕がささを抱いた。

永遠とわに我が傍を離れぬと誓うか」

「はい」

「永遠に我がものとなり、わしに全てを捧げると誓うか」

「…誓います」

 震える声で答えたささのひとみから、涙がこぼれ落ちる。それを拭おうともせず、ささは訴えた。

「お屋方さまも、私に約束してください。私のことを、女として」

 愛すると。そう言おうとしたささの唇に、柔らかく温かなものが触れた。

 一瞬、ささの視界が真っ白になった。それを感じとり、すぐに信長が唇を離す。ささは今にも倒れそうなのをなんとかこらえ、命綱のように桜の枝を握りしめた。今のが答えだと、分かっていた。

「名を呼べ。許す」

「…信長さま」

 呟いたささの唇が、再びふさがれる。いかにも信長らしい性急さで繰り返される口づけを、ささは目を閉じて受け入れる。想像していたのより、ずっと素晴らしく、ずっと幸せだった。

 そうして、何よりささを喜びで満たしたのは、その幸せが自分だけのものではなく、これから先ずっと、二人が分かち合えるものだったからなのである。




 ほぼ一時いっとき近くも城下町や裏山を探し回り、ようやく蘭丸が信長の馬を見つけたのは、もう日が傾く頃だった。蘭丸は大きなため息をついて馬を下り、額の汗を拭った。

(全く、お屋方さまもお遊びがすぎる。せめて私だけでも伴ってくださればいいものを。いくら安土様をお気に召しておられるとて、何も出奔までなさらなくても…)

 主君のことは心から敬愛しているが、それでもたびたびその身勝手に振り回され走りまわされては文句の一つも言いたくなる。蘭丸は油断なく周囲の気配を探りながら、森の中を徒歩で抜けていった。

 風が吹き、夕日に光る桜の花びらを何枚も運んできた。その中に、蘭丸は覚えのある香を嗅いだ。ささが好んでつけている、南蛮物の香料だ。思い出すと同時に、すぐ向こうの丘の上にちらりと着物の鮮やかな色が見えた。蘭丸は安堵し、そちらへ足早に歩き始めた。

 傾きかけた日が、眩しい光を丘にまき散らしている。手を額にかざしながら、森の外へ足を踏み出しかけ――蘭丸は、慌てて木の陰に隠れた。

 琵琶湖を臨む丘の上には、信長とささがいた。長く伸びた二つの影は一つに溶けあっていた。ささは白い花を満開に咲かせた桜の枝を細い腕に抱く。そのささを、信長が抱きしめる。二人はぴったりと身を添わせ、唇を重ねていた。

 見ているだけで、蘭丸は胸が激しく波打つのを感じた。見てはいけない、二人だけの世界だと思った。それなのに、しばらくの間はどうしても目をそらすことができなかった。

 金糸に縁どられた茜色の雲と空を背景に、花を抱く乙女と彼女を腕に閉じ込める武人の姿が浮かび上がる。それはまるで、古代の絵巻物に描かれた、天女と男神おがみのようだった。

 やっとのことでその場を離れ、蘭丸は早々に馬を繋いである場所へ引き返した。顔が赤くなっているのが自分でも分かった。

 信長の小姓として、忠誠心のみを抱いて生きてきた蘭丸は、恋も愛も全く知らない。興味もないし、自分には必要のない物だと思っている。しかし、そんな彼にも、今の光景を目にして一つだけはっきりと分かったことがあった。

(お屋方さまはようやく、真の伴侶となる方に巡りあわれたのだ)

 蘭丸は静かにそう思った。そして馬にひらりとまたがり、城へと一人戻っていった。

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