第6話 笹①

 光のように細い金糸を混ぜ込んだ青い生地に、雪と波が踊っている。鮮やかな椿の花の刺繍が、その景色の激しさを上手に和らげていた。ほっそりとした撫で肩のささに、青はよく似合った。

「うむ、なかなか似合うではないか。安土の冬物にはこれも加えよ」

 真新しい綿の打掛をまとって立つささを見つめ、濃姫は満足げに言った。ささは軽く首を反らせて裾をさばき、嬉しそうに細やかな刺繍を見ている。

「安土、そなたも気に入ったか」

「はい、とても。このように見事な藍染め、初めて目にしました」

 ささは穏やかに答え、広げられた色とりどりの冬物をかき集めた侍女達が退出すると改めて濃姫と向かい合って座した。信長が気に入っているという南蛮伝来の香油をつけた髪が、秋の日差しに柔らかく光った。

(安土もだいぶ女らしくなったの)

 自分よりはるかに若い娘を見つめ、濃姫は思う。濃姫の厳しい教育とささ自身の努力のかいあってか、ささには以前なかった落ち着きと気品が生まれてきていた。身のこなしの優雅さや琴の腕前は、今や濃姫にも劣らない。

「…あとは、中身さえもっと女らしくなればのう…」

「は?何か?」

 ささが怪訝な顔をした。濃姫は顔を上げ、ゆっくりと微笑んでみせた。

「すまぬ、気にするな。安土を残してゆくのを、少し憂いておったのじゃ。そちはこの城で、お屋方さまの唯一の妻となる」

「…では、噂は本当だったのですね。美濃のご実家にひと月ほどお戻りになられるとか。お身体が優れぬとか…」

 ささの大きなひとみが陰る。そこに心からの気遣いをみとめ、濃姫は殊更に自信ありげな声を出した。

「案ずることなどない。季節の変わり目になると、幼い頃よりよく胸が痛むのじゃ。ほんにいつものことであるのに、殿のご温情で、久々に母に会えることになった。それだけのことじゃ」

「左様でございましたか。お屋方さまは、濃姫さまをとても大切に思っていらっしゃりますから」

 濃姫は鋭くささを見やったが、ささはごく普通の顔をしていた。

「…何故そう思った?」

「濃姫さまのことを話される時、お屋方さまはいつも楽しそうなお顔をされます」

 信長は、側室の元を訪れながら戦の話に飽き足らず、己の正室の話まで気軽にしていくらしい。だがそれをさらりと語るささの顔にも、しがらみや嫉妬というものは全くないのである。

 だから、ささが目元を和ませてこう言った時、濃姫はもはや癖になりつつある仕草でこめかみを押さえたくなったのだった。

「濃姫さまも、どうぞご心配なく、ご母堂さまにお会いしてきてくださりませ。私は濃姫さま直々の指導を頂いてきましたゆえ、安土としてひと月立派につとめてみせまする」

(…そなたのその鈍い所が心配なのじゃ)

 だが濃姫は、それを口には出さなかった。代わりに言った。

「そうであったな。安土、そなたの琴が聴きたい」

「あの、確か昨日も…」

「何度聴いても飽きぬ。ほれ、早うせい」

 子供のように急かされ、ささは大人しく立って、大切そうに床の間に飾られた和琴をとってきた。そっと胴を撫で、手早く調弦をする。ほどなくして、広い部屋を琴の音が水のように満たしていった。

 切なくじょうじょうと流れる音色を、濃姫はじっと聴いていた。聴きながら、ささの顔を凝視していた。本当は、飽きないのは琴を奏でるささの表情を見つめることだった。一心に琴に向かいながら、それでいてどこか遠くをさ迷っているような、危うく頼りなげな表情だった。その瞬間、ささは他のどの時より大人びた、艶のある表情になるのだ。

 まつげの長い、濡れたようなひとみが、何を映しているのか。誰を求めているのか。濃姫は、とうに理解していた。ただ一人の彼女の夫から賜ったその琴を奏でる時にだけ、ささはその表情を見せるのだから。

 けれど肝心の本人が、ちっともそれに気づかない。だからこそ、危うい。

「その琴は、殿より賜りしものであったな」

 一曲終わると、濃姫は言った。ささが顔を上げ、頷いた。

「はい」

「とても大切にしておるようじゃの」

「…病から回復して、初めて頂いた品ですから」

 ささは俯き、その細い手で優しく琴を撫でる。追憶しているのか、少しぼうっとした表情は、童女のように無垢で無防備だった。

 濃姫の胸に、不安と憐憫の情が溢れた。

(この娘は、己の想いを知らなさすぎる。殿を慕っておることにすら気づいておらぬ。私がここを離れ、殿のただ一人の妻となった時…安土の心は、それを受け入れられるだろうか)

 濃姫は、それを望んでいた。いつもどこか夢見がちで、ひとみに神秘の影を秘めたこの不思議な娘に、幸せになってほしかった。

帰蝶きちょうじゃ」

 唐突に濃姫は言った。ぶっきらぼうなほど強く、その言葉は響いた。ささが驚いたように顔を上げ、濃姫を見た。

「きちょう…?」

「帰る蝶と書く。帰蝶。それが、我が名じゃ」

 ささが黙った。しばらくじっとしていたかと思うと、そのひとみがみるみる潤んだ。

―側室としてふさわしく成長した時、とらしてつかわす。

 それが、二人の約束だった。

 喉元にこみあげるものをぐっとこらえて、濃姫は囁いた。

「殿のこと、たのんだぞ、安土」

 ささは大きく目を見開いた。そして、静かに一つ頷き、頭を垂れた。




 濃姫が美濃へ旅立つと、ささの生活はひどく寂しいものになった。元来愛想がいいわけでもうちとけた性格でもないので、これまでも話し相手は信長と濃姫くらいしかいなかったのだ。信長が訪れない日は、朝目覚めてから夜眠るまで、全く口を開かないこともしょっちゅうだった。

(秋は、嫌い。寒くて…寂しい)

 ささは小さく顔をゆがめる。そうして、眠っている信長を起こさないよう、静かにその胸に寄り添い、上掛けを少しだけ引き上げた。

 夜明けはまだ遠く、昏い部屋に静かな雨音が響いている。ついさっき降り出した、その雨の音でささは目覚めた。世界を水で隔てるような雨に包まれて、自分が一人ではないと気づいた時、ささは嬉しかった。

 温かな胸に、頬をぴったりとつける。脈打つ鼓動が、肌をとおしてすぐ近くに感じられる。

 そうしてささが、もう一度微睡みの中に落ちてゆこうとした時、信長が呟いたのだった。

「…るい」

 氷を浴びせられたかのように、ささの全身が冷えた。思わず起き上がり、信長の寝顔を見つめる。だが、信長が目覚める気配は一向にない。

(るい)

 その名が、ささの中でぐるぐる回りだす。聞き覚えのない名。女人の、名だ。

(だれ)

 次にささの頭に浮かんだのは、その一言だった。崖っぷちに追い詰められた動物のように、呼吸が速くなる。

 ささはしばらく信長を見つめていたが、やがて剥き出しの素肌が凍りつきそうになったので再び横になった。だが、いくら身を寄せても寒さが消えることはなく、その夜はそれきりささが安らかな眠りを得ることはなかった。

 



 信長は、眠りながら他の女性の名を呼んだことをまるで覚えていないらしかった。朝になると、ささがいつもより青褪めているのにも気づかず、ささが髪を結ってやり小袖を着せかけるとすぐに部屋を出て行った。

 けれどささは、忘れられないでいた。

 いつになくささがむっつりしているのに恐れをなして、ささより四つも五つも年上であるはずの侍女達は近づいてこない。ささは『枕草子』を開いたまま、そこに虫でも這っているかのように文字をにらみつけていた。

(るい。珍しい名前。一体、誰なんだろう)

 少し考えれば容易に察せられることではあった。信長は強大な権力を持つ大名であり、ささの前に寝所に引き入れた娘は木の葉の数ほどいたはずだ。けれどささが知りたいのは、るいというのがどのような女性で、今どこにいて、何をしているのだろうかということだった。

 胸の奥に不快なものが蠢いている。ささは唇を噛み、乱暴に本を閉じた。

(その人、二度とお屋方さまの前に出てこられなければいいのに)

 そう思って―はっと息をとめた。

(今…私…何を思ったの)

 自分の中に、おぞましい暗闇が潜んでいる。顔も素性も知らないるいという女性が、ひどく疎ましい。

(だって…だって、今お屋方さまの傍にいるのは、私なのに)

 ささの温もりに、信長は夢の中でるいを重ねたのだろうか。そう思うと、今まで辛うじて保っていた小さな安らぎの世界が、音を立てて壊れたような気がした。

 ささは混乱して頭を抱えた。見ず知らずの女性に、こんなにも心をかき乱されている。こんなにも簡単に人を恨むことのできる自分は、知らない。嫉妬なんてしている自分は知らない。なんて醜い姿だろう。

(私、どうしてしまったの…) 

 何故こんなに動揺しているのだろう。息が苦しい。

 無意識のうちにささは立ち上がり、いつもの癖で窓辺に寄った。そこはささのお気に入りの場所で、気分が落ち着かなかったり沈む時、ささはよくそこに立ち、無心に空を見上げるのだった。

 窓枠にささが手をかけた時、「失礼致す」との声と共に、いきなり襖がからりと開いた。心ここにあらずの状態だったささは、もう少しで飛び上がりそうになった。

 信長の小姓でささとも顔なじみの、森蘭丸がそこに控えていた。

「安土さま。お屋方さまがお呼びにございます」

「お屋方さまが…?何のご用事だと?」

 ささは微かに眉根を寄せた。信長は、夜には頻繁に顔を見せるが、昼にささを訪れたり、ましてや呼びつけることは滅多にない。天下統一が目前に迫った今、職務や戦のあれこれに忙殺される日々なのだ。

「それが、お屋方さまの嫡男・信忠のぶただ様、次男の信雄のぶかつ様がお見えになり、安土様もお二人に挨拶をなさるようにと仰せで」

「ご嫡男と、ご次男が?」

 思いがけない話に、ささは呆気にとられた。が、選択の余地はなさそうだった。

「分かりました。参ります」

 そう答えて、ささはすぐに蘭丸について部屋を出た。




 ささが連れて行かれたのは、通常使われる会議の間ではなく、信長が私的な生活の場として使っている天守の間だった。してみると信長は、己の家臣としてではなく息子として、ささを二人に引き合わせるつもりらしい。

「安土様は、お二人について何かお聞きしていることは?」

 階段を昇りながら蘭丸が尋ねた。ささは無言で首を横に振った。数多くいる信長の子供達や家臣達については、濃姫もまだ何も教えてくれていない。

「では念のため申し上げておきますが、信忠さま信雄さま、お二人とも北の方さまの養子にございます」

「え…濃姫さまのお子では、ないのですか」

 ささは思わず聞き返した。蘭丸は頷き、早口に言った。

「北の方様に、実のお子はおられないのです。信忠さまと信雄さまはご同腹であり、母君は既に他界されています。ですから…」

「その後に側室に上がった私を、よく思っていらっしゃらないかもしれぬ、と」

 ささは蘭丸が濁した言葉を引き取った。蘭丸はささの察しの良さに安堵したように頷いた。ささも、ひそかに安堵した。濃姫に押しつけられた『源氏物語』や『とはずがたり』の知識が、初めて役に立った瞬間であった。

「信忠さまは既に織田家の家督を継いでおられますし、信雄さまも北畠きたばたけ氏のご養子となり、家督を継いでおられます。くれぐれも粗相なきよう」

「分かりました。…いつもありがとう、蘭丸殿」

「いえ」

 蘭丸が微かに笑った。たぐいまれな美貌を持ち、見る者に花のような印象を与える蘭丸だが、こうして折に触れ適切な助言をさりげなく授けてくれることに、ささはただ同志のような心強さを感じている。同じ主君に、心を込めて日々仕えているという点で、二人はとても近しい存在だった。

「お屋方さま。安土さまをお連れしました」

「苦しゅうない。入れ」

 蘭丸が襖を引く。ささは三つ指をつき、深々と一礼をしてからゆっくりと顔を上げた。

 南蛮物や派手な色遣いを好む信長にしては、控えめなあつらいの部屋だった。信長の私的な客人をもてなすために備えられたらしいその部屋に、ささは裾を引いて入り、信長の左手に座す。そうしてささは、初めて信長の長男と次男に向き合った。

 二人とも二十代半ばの、すらりとした肢体を持つ若者だった。ささから見て左手に座している、繊細な顔立ちの青年が信忠、右手の少し小柄な青年が信雄だろう。二人ともどこか父親に面差しが似通っており、ささは微笑ましく思った。

「お初におめにかかります。お父君が側室、笹にございます」

 両手をつき、恭しく頭を下げる。

「頭を上げてください。長男の信忠にございます。お話はかねてより聞いておりましたゆえ、ぜひ会うてみたいと父に我儘を申したのです」

「話?」

「父上が三日とあけず通いつめておられる、たいそう寵愛の新しい側室であると」

 ささの頬がわずかに紅く染まった。正面から見た信忠の表情は穏やかだった。若干複雑そうな色をにじませつつも、ささを涼やかな眼差しで真っ直ぐに見ていた。

「次男の信雄にござる。…これは、我が妹、お徳にも劣らぬ若く美しいお方じゃ」

 対する信雄の言葉には、明らかな冷ややかさと皮肉が込められていた。自分より歳下の、父の側室を敵意の眼差しで睨みつけている。ささはそれを瞬きもせずに受け止めた。

「もったいなきお言葉にございます」

「信雄、失礼であるぞ」

 信忠が弟をたしなめた。信雄は口を歪めて視線を逸らした。明らかにささは、彼を納得させられるだけの美貌も魅力も持ち合わせていなかったらしい。ささの胸がちくりと痛んだ。

(やはり私はお屋方さまに、まだまだ不釣り合いなのだろうか。…るいという人ならば、あるいは)

 ささの想いは、いつしかまたそこに飛んでいた。

 三人のやりとりを眺めていた信長が笑った。

「笹は安土と呼ばれておる。濃も認めたほどの女子じゃ。我が気に入りの側室ゆえ、その方らも敬意を払うように。よいな」

 気に入り。その言葉に、ささの胸がとくりと鳴る。信忠は困ったように小さく笑ったが、信雄はますます顔を歪めた。なぜこの女に敬意など払わねばならないのか―その表情は、雄弁にそう語っていた。

 と、その信雄のこめかみで鈍い音がし、つっと血が流れだした。信長が、手にしていた鉄扇を投げつけたのだった。続いて、窓の桟がびりびりと震えるような一喝が響きわたった。

「信雄、このたわけものが!父の言うことに何ぞ不満でもあるのか」

 こめかみを押さえながら、信雄が信長を憎悪の眼差しで睨みつける。

「ええ、ございます。このような…ご自分の子供より若い娘を側室にし、寵愛するなど、父上には恥というものがないのですか」

 信長が無言で立ち、拾った鉄扇で再び息子を殴りつけた。二度、三度と続く鈍い音に、ささの顔が蒼白になる。信忠が必死の形相で二人の間に割って入った。

「父上、笹殿の前でございます。どうかお気を鎮めてください。父上を思っての言葉にございます。信雄も、口が過ぎるぞ!」

 信長は肩で息をしながら二人を睨みつけたが、やがて舌打ちして鉄扇を投げ捨てた。信雄の額からは真っ赤な血が河のように流れ、着物の衿に染みてゆく。信雄もまた息を切らしながら、それでも兄の言葉に従いしぶしぶ頭を下げた。

 ささはとうとう我慢できなくなった。信雄の言葉は槍のように突き刺さっており、程なくして見えない血が彼女の心からも流れ出すのだろう。だが、それでも、ささは動かずにはいられなかった。

 ささが立ち、袂から取り出した懐紙をそっと信雄の額にあてがう。驚く信雄の手をとり、子供に教えるように懐紙をおさえさせ、そうして信長の隣に再び座した。誰も口を挟む暇のない、速やかで滑らかな一連のささの動作だった。

 この騒ぎを目にしても少しも騒がず慌てず、怯える様子すら表には出さず、あまつさえ自分と信長をなじった人物を気遣うという離れ業を演じてのけたささに、信忠は内心ひどく驚いた。

「信雄。父の女関係に口を挟む暇があったら、己の伊賀攻めの尻拭いに精を出したらどうじゃ」

 信長が皮肉たっぷりに言った。信雄の顔が真っ赤になった。

「あれは、私がよかれと思って…!」

「このわしに無断で伊賀を攻め、挙句すごすごと引き返してきおった。恥がないのは、お主の方ではないのか」

 冷ややかな父の言葉が、信雄を鉄扇より手ひどく打ち据える。もはや信雄は、屈辱に震えながら俯くしかなかった。

 冬の嵐のような父子の攻防を、ささは息を殺して見つめていた。落ち着きがあり思慮深い信忠はともかく、信長ともう一人の息子の関係は相当緊迫している。そしてそれは、ひとえに信雄の未熟さに原因があるというわけでもなさそうだった。

(たったあれくらいのことで、鉄扇で息子を殴りつけるなんて…それに、信雄さまは、お屋方さまのことを)

 その時、信雄が呻くように言った。

「父上は、もはや母上のことを、お忘れになったのですね…」

 信長の顔が石のように強張った。そこにかつてない厳しさと、わずかな苦痛の色を認めて、ささははっとした。

吉乃きつのはもう死んだ女じゃ」

「母上の名は、吉乃ではなくるいにございます!」

 喉が裂けそうな声で、信雄が叫んだ。その瞬間、ささの全身がぴんと強張った。

「信雄、いい加減にせよ!子供のように文句を並べたてるのはやめぬか。父上にも、笹殿にも、どれ程失礼なことをしておるのか、お主にはまだ分からぬか」

 信忠が鋭く言った。その声音が、不思議なほど父に似ていた。信雄は一言も言わずに肩をいからせて立ち上がり、足音も荒く部屋を出て行く。

 信忠は二人に向き直り、深々と頭を下げた。

「大変お見苦しい所をお見せいたしました。この信忠に免じて、どうかあの不出来な弟を今日だけはお許しください」

「あの…」

 ささが口を開いた。その眼はどこか虚ろで、遠くを見ているようだった。

「お二人の母君のお名前は、類殿、とおっしゃるのですか」

「え?はい、私と信雄、それに妹のお徳の母は生駒いこま類と申し、十二年前に亡くなったのですが…」

「もうよい」

 信長が強く遮った。

「信忠に免じて今回だけは不問に付す。が、わしの前で二度とあれの話はするな。笹もじゃ」

 ささは頷いたが、やはりどこか上の空だった。様子がおかしいと信長が気づき、不審そうな目を向けるのと同時に、ささは二人に頭を下げ、そして裾を引いて立ち上がるなり部屋を出て行ってしまった。その素早さに、止めようとした信忠は呆気にとられるしかなかった。




「信雄さま。…信雄さま!」

 よくとおる澄んだ声に繰り返し呼びすがられ、軽やかな足音にどこまでも追いすがられ、信雄は観念して足を止めた。息を切らせ、ささがようやく追いつく。

「何の用です」

 背を向けたまま、抑揚のない声で信雄が言う。ささはしばらく息を整え、ついでに心も落ち着かせようとつとめた。それでも、用意した問いを唇に乗せる時、石でこすったように心がずくりと痛んだ。

「母君…類殿は、どのようなお人だったのですか」

 信雄はくるりと振り向き、ささを睨みつけた。

「とても美しい人でした。肌は雪のように白く、背が高く、切れ長の穏やかな目をしていました。快活で、良く笑う人だった…あなたとはまるで違う。母上は、父上を心から愛していたのだ」

 吐き捨てるように、信雄は言った。ささはぎゅっと唇を噛み、それから低い声で言った。

「信長さまも…類殿を、まだたいそうお好きであられます」

 まさかと言うように、信雄は鼻で笑った。ささは信雄を見上げ、傷ついたような表情をした。

「本当です。私は、そう感じました。本当の名前を呼ばず、吉乃と呼ばれるのは…亡くなったことを思い出したくないからだと思います」

 信雄が目を見開き、初めて見るようにささをまじまじと見つめた。ささはまだ、傷ついたような表情で信雄を見ている。傷ついたのは、類と信長の間にあった愛情を悟ったからなのだろうか。だとしたらこの娘もまた、年齢の差をものともせずに信長を愛していることになる。

「あなたには…嫉妬というものがないのですか。そのようなことを、私に告げたりして」

 ささはちょっと首を傾げた。

「嫉妬している…と思います。今、とても胸が痛いですから」

 正直すぎる言葉に、信雄はあやうく口元を緩めそうになった。でも、とささが呟いた。

「信雄さまが、母君を愛しておられるのが分かりましたから、お伝えするべきかと。…それに、父上のことも慕っておいででしょうから」

「あの状況のどこを見てそう言えるのですか」

 その指摘にはささは答えなかった。代わりに、言った。

「けれど私は、身を引くつもりは毛頭ありません。信長さまは、類殿ほどまだ私を好いてはくださらぬかもしれませんが、私の方は…類殿に負けないくらい…信長さまを、慕っております」

 信雄の眼差しを、ささは真っ向から受けとめた。人と人の心が真に通い合う瞬間とは、互いの眼差しが結び合う瞬間であると知っていたからだった。

「…分かっています」

 やがて信雄はそう呟き、ささの意表を突いた。

「父上を名前で呼んだ女子は、私の知る限り、母上とあなただけですから」




 信長はその日の夜もささを訪れた。二晩続けての訪れは初めてで、既に髪を下ろし夜着をくつろげていたささは内心慌てた。信長の目が一瞬、ささの襟元から覗く鎖骨の辺りに走ったが、ささは目にもとまらぬ早さで襟を直してしまった。

「髪はそのままでよい。面倒じゃ」 

 信長のその言葉に、ささは上げかけた手をとめ、仕方なくいつものように信長の向かいに座した。

 どうしてか、ささの胸が激しくあやしく高鳴っている。髪を下ろし、帯をいつもより緩く締めた自分の姿と、それに注がれる信長の視線が気になって仕方ない。これまでのささであれば、そのようなことはさして気にも留めず、むしろ殊更に背筋を伸ばして自らの心を固く覆っただろう。

 けれど今は、そんな余裕は欠片もなかった。

「あの者達を、どう思った」

 唐突に信長が尋ねた。ささは一瞬きょとんとし、それから思い出した。

「お二人とも、お屋方さまに似ておられます。…それに、お屋方さまを慕っておいでなのですね」

「ほう。何故そう思った」

 信長の目が面白そうに輝いた。ささは答えかけて、ややためらった。

「その…伊賀を攻略、というお話がでましたが、あれは」

「昨年の話じゃ。わしの配下でありながら、信雄は単独で伊賀に攻め込んだ。元々反抗的なあやつのことじゃ。わしをやっかみ、見返したかったのであろう」

 信長の声は淡々としており、我が子を疎む色も惜しむ色もそこにはなかった。

「そうでしょうか」

 ささは静かに言った。

「私はそのお話を聞いて、信雄さまのお心が少しだけ分かったような気がいたしました。信雄さまは、お父上に認められたかったのやもしれぬと」

 信長は軽く目を見開いた。誰もが愚行、蛮行と口を揃えてとがめる信雄のふるまいを、そのように庇ったのはささが初めてだった。更にささは、優しく言葉を重ねた。

「私は、信雄さまの正直さを好ましく思いました。それに、信忠さまのお心遣いも」

「…そなたには、好きな人間が多くおるのじゃな」

 信長が言うと、ささは何故か一瞬複雑そうな顔になった。けれどそれから、はっきりと頷いた。

「人を憎むことは疲れます。それに、私の出会う方々は、みな良き人ばかりですから」

「わしも濃姫も、信雄もか」

 冗談めかして信長が言うと、一拍置いてささもおかしそうな表情をした。

「はい。もちろん。私にとっては」

 それは心のこもった、明るい返事だった。ささの澄んだ大きな目を見つめているうちに、信長はそんなささの明るさと優しさに―会う人皆に長所を見つけ、受け入れてゆく懐の深さに、心が安らぐ思いがした。疑いと恐れが全てである男の戦場に身を置く日々の中で、ささと会う時だけ、信長はいくらかくつろぐことができるのだった。身体の交わりにばかりそれを見つけられる女なら幾人も知っている。だが、共にいるだけでそのような気持ちになったのは、ささが初めてであった。

 自分を見つめてくる信長の目が、優しい。それに気づき、ささはくすぐったいような温かいような気持ちになった。けれど胸の奥には、まだ槍の穂先のようなものが残っていた。それは、好きな人が多いとからかわれた時からささが意識していたものだった。

(私より先に、私と同じ側室という立場で、信長さまの傍にいた…ただそれだけで、私は類さんを好きになれない)

 そんな自分を知ったら、信長はどう思うだろう。

 ささは目をそらし、おのずと苦しくなる胸をおさえる。けれどその息苦しさが、類を想う信長に対する後ろめたさから来るものなのか、それともこんなしどけない格好を信長に見つめられ続けていることから来るのかは分からなかった。




 女主人の様子がここ数日おかしいことに、ささの侍女達はもちろん気づいていたが、声をかける者は一人としていなかった。おおかたの侍女より年若いのに妙に愛想がなく、暇さえあれば空ばかり見ているささにどう接してよいのやら、誰も分からなかったからである。それは、例えささがあまり窓に寄らなくなっても、それどころか何事にも関心を示さなくなり、ため息ばかりつくようになっても、それでいて信長の名を耳にした時だけ過剰に反応し、その因果関係があまりに分かり易くても変わらないのであった。

(私は、どうしてしまったの)

 ささは、目の前に積み上げた本を開きもせずにじっと座っていた。こんなにも落ち着かず、一つのことしか心にかからず、胸が騒ぐのは初めてのことであった。

 ひたすらに心に浮かぶのは、己の主・信長のぶながのこと。何度も合わせた肌の温もりや、交わした言葉の一つひとつ、いっとき繋がった手のしなやかな感触、そして自分を見つめる、鋭く、ときにぞっとするほど強く冷たく、ときに包み込むように優しい眼差し。思い出はささの心を奔流のように貫き、とめどもなかった。

 信雄に、類に負けない程信長を慕っていると宣言してから、ささの心はその呪縛にかかってしまったかのようだった。いや、今まで意識していなかった想いが、その言葉によって表層に浮かび上がってきたという方が正しいかもしれない。

 ささの心には、信長しかいなかった。己の知る信長の全てを追憶し、それを自分がどれ程大切にしてきたか、今になってささはようやく自覚した。

(信長さま)

 ささは目を閉じ、心の中でその名を呟く。口に出してこそ呼んだことはなかったが、ささは心の中ではいつも主君を名前で呼んだ。

(私は、信長さまのお傍にずっといたい。そして…類さんより、私を見てほしい)

 それがどれほどさしでがましい願いかは重々承知の上だった。側室・安土殿として、既にささは多くの物を信長から与えられている。けれどささは、もはやそれだけでは満足できなくなっていた。

 ささは、信長の心が欲しかったのだ。

(私は、傲慢だ。欲深い女だ…)

 ふいにささは、身を切られるような罪悪感を憶え、ぎゅっと目をつぶった。信長を想う心の強さが、もう自分ではとめられなくなっている。ひたすらに、どこまでも真っ直ぐに信長へ向かっていく。それは、慕うとか、仕えるとか、そんな言葉ではとても収めきれないもののような気がした。

 けれど、そんなことを想う資格が、自分のどこにあるというのだろう。

(私は美しくもないし、愛想もない。何の才もない、平凡な女。濃姫さまの強さも、類さんの明るさもない…こんな私が、信長さまをこのように想うなど、許されるはずもないのに)

唇を噛みしめ、ささは繰り返し自分に言い聞かせる。そのたびに、心が悲鳴を上げる。

 ささの心を、信長の姿がよぎる。天下布武の覚悟を語り、このうえなく孤独な表情で目を閉じていた信長。あの時ささは、自分がいかに彼の心から遠く隔てられているか、思い知ったはずだった。

(できる?私に、あの方の全てを受け入れることなど…できるの?)

 できる。してみせる。

 ささの心が、もがき叫ぶ。一方で、己の卑小さにおののく自分がいる。

 ささの唇が微かに動き、信長の名を形づくった。けれど声になることはなく、ささはかわりに我が身をきつく抱きしめた。

 苦しさに、身も心も張り裂けてしまいそうだった。




ささが葛藤の中にいる間、幸か不幸か信長はささの元を訪れてこなかった。年の瀬を迎えようとしているこの時に、信長はある一大事業の準備にとりかかっていたのである。

 それが、翌年の天正九年二月に京都にて行われる、馬揃えの儀式であった。

 馬揃え。それは、武家において伝統的に行われてきた行事の一つである。様々な家で用いられる騎馬のうち、より優れて美しい馬を集め、その優越を競い合う。これはそのまま、馬を所持する武家の大きさや権力にも繋がった。

 だが信長は、源義経もかつて大々的に催したというこの儀式を、まるで別のものとして作り直そうとしていた。武家だけでなく、公家や町人、南蛮人、はては僧家まで招いた、盛大な祭として催すつもりだったのである。それは織田家の各軍を総動員して行われ、信長の絶対的な権力を世に知らしめるものとなるはずであった。

 信長の重臣、明智光秀あけちみつひでを総奉行に、その準備は少しずつ始まりつつあった。

 ささはその話を、侍女のきくから聞き知った。年が二十二歳と、ささと最も近く、聡明な菊は、ささが最も信頼し、親しみを抱く侍女だった。菊の方も、あまり表情を変えないが豊かな感性を秘めたうら若い側室に興味と好意を抱き、また気遣ってもいた。

「そう…そんなことが、京で行われるの。ではお屋方さまも、今まで以上にお忙しくなられるのね」

「はい。けれど年の瀬は、戦もお休みでございます。お屋方さまは安土城にて正月を過ごされる予定と聞いております」

 菊は朗らかに言う。女主人が何を気にしているのか、菊はよく心得ていた。けれどささは、ふっと顔をそらしてしまった。

「…あの方は…本当は、私のことなど」

 微かな呟きがその口から洩れる。菊が首を傾げた時、襖が開いてもう一人の侍女が入ってきた。興奮のためか、少し息が切れている。

「失礼いたします。安土さま、殿からの御文にございます」

 ささがぱっと振り向いた。細長く折りたたまれた文をもどかしく開く指が、ほんのわずか震えている。その、ささの指の細さに思わず見とれながら、菊はそっと訊ねた。

「お屋方さまは、何とおっしゃってこられたのですか」

「明日、贔屓の客人に会わせたく思う…西の丸まで参るように、と」

「お屋方さまにお会いになれるのですね」

 思わず嬉しげに言ってしまってから、菊は口をおさえた。ささが葛藤しながらも、主君への目通りをどれほど待ちわびていたか知っていたからこその言葉だった。ささは、久々に明るい表情で、じっと文を見つめていた。




 師走はすぐそこまで来ていた。白い息を吐きながら、ささは信長に連れられ、しんとした対屋ついのおくに向かっていた。ぴりりと冷たい空気に、どれだけあたたかい衣を羽織っていても身体が引き締まる。廊下を進むにつれて、建物の雰囲気全体が何となく変わってきたようにささは思う。装飾がぐっと減り、色使いも地味になってきた。

「ここじゃ」

 足をとめて言った信長が、襖をからりと開いた。

 簡素な部屋の奥に、商人風の身なりをした中年の男が一人座し、信長とささを待っていた。その前には、ひしゃくと茶碗、湯をたっぷりとたたえた釜、それにささの初めて見る道具が並んでいる。

「よう起こし下はりました。織田さま、それに安土さま」

 大阪の訛りがある柔らかい声で言い、男は頭を下げた。

「わしの茶頭、千宗易せんのそうえきじゃ」

 信長が言った。ささは思わずまじまじと男を見つめた。

(茶頭って…茶の湯の?武家の方々が近頃好まれるという…?)

 ささが茶の湯に実際に触れるのは、これが初めてである。しかしささは、宗易にこの部屋全体の空気と同じ、どこまでも静謐でおだやかな、しかしその奥にぴんと張りつめたものを隠す、独特の気品を見出した。ささを見る宗易の目は濁りがなく静穏だったが、同時に澄みきった深い淵のような底知れなさがあった。

 ささは両手をつき、恭しく頭を下げた。

「笹にございます。以後、お見知りおきくださいませ」

 側室としての通り名ではなく本名を名乗ったささを、信長が眉を上げてみた。宗易は優しい目でささを見て、頷いた。

「では、お笹殿、とお呼びすればよろしいですかな」

「はい」

「ご挨拶がわりに一服、上がられませ」

 そう言って、宗易は流れるような手つきで茶をて始めた。底の浅い素焼きの椀に、茶さじから茶を落とす。湯を汲む。細やかに茶せんを動かす。ささは瞬きもせずに、宗易の動作を見守った。このようなものに出会ったのは初めて出会った。心に渦巻くよどみが、すうっと溶かされていくような心地がした。

 茶を点てる宗易を、無心にささが見つめる。そしてそのささを、信長が凝視していた。

 やがて手前を終えた宗易が顔を上げた。子供のように熱心な、ささの無垢な眼差しに出会うとにっこりと微笑み、すっと椀を押し出す。

「さ、どうぞ」

「頂きます」

 ささは、まるで珠玉の宝を手にするかのように恭しく、茶の入った椀をおしいただいた。両手で持ち上げ、一口飲むと、すんなりした喉がこくりと動いた。

 ささは目を閉じ、薫り高いまろやかな舌触りをうっとりと味わった。

「…かようなものは、初めて口にしました」

「おいしゅうございますか」

「はい」

 ささは目を輝かせて宗易を見た。と、それまで吸い込まれそうに深く静かな眼差しでささを見ていた宗易が、相好を崩した。子供のように邪気のない笑顔だとささは思った。

「よろしおすなあ、その眼が。織田さまの新しい側室が、これほど可愛らしいお方だとは、思うてもみませんでしたわ」

「えっ」

 可愛い、などと言われたのは初めて出会った。戸惑いながらささが横を見ると、信長も楽し気な笑みを浮かべている。この茶室と宗易の茶の湯を、信長は大いに気に入っているらしく、普段よりゆったりとした構えを見せていた。

(可愛い…?私が?私の、どこが?)

 ささがまだ茶碗を大事そうに抱えたまま首を傾げているのをそのままに、宗易は新しい茶を信長のために点て始めた。

「宗易は堺の商家の出身であるが、日本でも指折りの優れた茶人じゃ。よって、数年前より、ここ安土城にて召し抱えておる。日本一の城に、日本一の茶人…ふさわしいとは思わぬか」

「お城であろうと、田舎の庵であろうと、わては来られた方にお茶をお出しします。ただ、それだけですわ」

 宗易はきっぱりと言った。信長は別段怒りもせずに笑って受け流すと、後は黙って宗易の手元を眺めていた。

 やがて、濃い鶯色の茶をたたえた椀が出された。信長は慣れた手つきで椀を回し、美味そうに茶を飲んだ。

 ささはそんな信長の横顔から目が離せないでいた。すっととおった鼻梁や、閉じた瞼や、引き締まったあごの輪郭を、いつまでも見ていたいと思った。茶の湯によって鎮められ、洗われたささの心は、この瞬間何ものにも阻まれずに、ひたすら信長にのみ向いていた。

 先ほど茶の手前を見ていたのと同じ目で―いや、より美しく、より想いのこもった目で信長を見つめているささを、宗易はじっと見ていた。

 茶を飲み終わった信長と、ささの目が合った。

「どうじゃ、笹。茶の湯は気に入ったか」

「はい」

「そうか。では宗易より茶の作法を学ぶとよい」

 こともなげに信長が言い、ささが目をぱちくりさせた。

「…女子おなごも学んでよいものなのですか?お武家さまの学ぶものと思っておりました」

「そうじゃの、あまり聞かぬが『平家物語』も読んでおる笹ならばよいであろう」

 ささが頬に手をあて、恥ずかしそうに俯く。信長が宗易に水を向けた。

「宗易はどうじゃ。笹をどう思った。この者が弟子では不足か」

「とんでもない。学びたい方には、どなたでもお教えしますわ。わての後妻も、茶の湯を習い号を得ております。茶の湯ゆうは不思議なもんで、そのお人の心持ちがそっくり出てきはります。お笹殿は、一つひとつの所作をほんに大事になさる」

 ささはじっと俯いたまま、宗易の柔らかい声に耳を傾けていた。

「では、決まりじゃな。笹は明日より、好きな時に宗易を訪れるとよい」

 信長が満足げに言った。




 こうして、天正八年の冬に、ささの生活に茶の湯と千宗易という新しい色彩が加わった。ちょうどそのころ、里帰りしている濃姫から文が来て、年明けまで城に戻れそうにないと伝えてきたので、宗易との出会いがなければささの毎日はいつまでも寂しく苦しいままだったかもしれない。

 ぎこちなく、ゆっくりと茶を点てたり、宗易の手前を見ていたり、二人で向き合い静かに話をしていると、ささは不思議なくらい心が落ち着いた。しんとして飾り気のない茶室では、茶せんの動く音や茶の香りがいっそう鮮やかに感じられる。小さな部屋の中でありながら、そこにささは無限の広がりと安らぎを見出す。

 ささはそれを、自分なりの言葉でぽつぽつと宗易に語った。

「茶の湯には、雑念がありませぬ。私はいつも、心を浄められる気がいたします」

 そう言って、ささは茶を一口飲んだ。宗易は黙ってささの話を着ている。その沈黙に促されるように、ささは初めて己の想いを他者に打ち明けた。

「この部屋で茶を習う時以外は、妙に胸がざわついてならぬのです。苦しくて、苦しくて、自分が見えなくなります。それが何故なのかは分かりませぬ。どうすれば、解放されるのかも」

 低い声で、ささは言葉を紡ぐ。宗易の眼差しは、常と変わらず穏やかだった。

「お笹殿のお心を、そこまで占めてはるのは、さしずめ織田さまですかな」

 ぐっと息を詰め、ささは小さく首肯する。

「織田さまが気になって気になって、胸がざわつく。そうおっしゃりたいと」

「…はい。私は、どうかしているのかもしれません。あの肩を相手に、このようなことをしじゅう考えるなど…罪深いことでありますのに」

 言いきった途端、心が震えた。否定するたび己を飲み込もうとする渇望の波に、ささは唇を結んで耐えた。

 その時、ささの耳に、しみとおるように優しい宗易の声が届いた。

「罪など、とんでもない。そんなにご自分を追い詰めて、どないします。お笹殿は、織田さまのことが、ただただお好きなだけやゆうのに」

「……え?」

 ささは目を見開いた。

(私が、信長さまを、好き?)

 宗易は、いつもより更に優しい目でささを見て、頷いた。

「誰かのことが気になってしゃあない。どないに辛くても、気にならずにいられへん。胸がたまらなくざわつく…それは、そのお人のことが好きだからですわ」

「……」

「違いまっかな、お笹殿?」

 真っ直ぐに問われて、ささは己の胸に手をあてる。茶の湯に嘘偽りは通用しない。

「はい。好きです」

 そう口にした途端、再び心が震えた。だが今度は、甘く心地よい震えだった。

「私は、信長さまのことが…たいそう、好きにございます」

 ささはとうとう、自分と宗易に対して、それを認めた。

 宗易は新しい茶を点て始めた。

「茶の湯は、自然に流れるものです。茶さじからこぼれる茶も、釜の湯も、茶から立つ湯気も、みんな自然に流れるものです。せやから、茶を点てる人間も、とどこおっていてはあきまへんのや。お笹殿は、どうも閉じた所があって、あきまへんなあ」

 やんわりと言われても、ささは全く不快な気持ちにならなかった。それどころか、その通りだとすとんと腑に落ちる思いだった。

「私は、物心ついてから泣いた覚えがありませぬ。笑ったのも、いつが最後だったか思い出せませぬ。私が笑おうが泣こうが、誰も…産みの母ですら、気にかけませんでしたから」

 ささは静かな声で呟いた。

「お母上は、今どちらに?」

「さあ。十三の時より、会うておりませぬ故」

 宗易が新しい茶を出してくれた。ささはそれを味わいながら飲んだ。やはり自分の点てる茶とは全く異なると思う。ささのそれにはない、深さとまろやかさがある。

「わては三年前に、三十年以上連れ添った妻を病で亡くしました。けれどその翌年に、今の後妻をめとりましてな。こう言うては不謹慎や思われるかもしれませんが、わては後妻と心から惚れおうて夫婦めおとになりました。せやから今、生まれて初めてやと思うくらい、幸せなんですわ」

 宗易は、ゆったりとした口調で話す。その眼差しは深く澄みとおっており、ささは胸を打たれずにはいられない。

「不謹慎と申されますのは、宗易さまは亡くなられた奥方さまより、今の奥方さまを愛しく思われていると…?」

 ささが尋ねると、宗易はその美しい目でひたとささを見つめた。

「お笹殿。人は、一人ではどうしても生きられません。誰かを好き、誰かに好かれ、誰かと共に生きずにはいられない。人とゆうもんは、そういう生き物ですわ。わても後妻も、お笹殿も、織田さまも。自分を心から梳いてくれはる、自分も一生添い遂げたいと思える、そういうお人が必要なんや。わてにとってそれが今の妻やったゆうことです」

「…でも」

 信長には、類がいた。今も、濃姫という強く美しい人が傍にいる。ささがそう思うのと同時に、宗易が「それともう一つ」と言って笑った。

「はい」

「お笹殿は、お優しいが不器用なお人やなあ」

「…は」

「あれやこれや悩んでみても、何にもなりまへんやろ。もっと、ご自分の心に素直になられてはいかがですかな。…お笹殿が笑えば共に笑い、お笹殿が泣けば共に悲しんでくれはる人が、今は必ず、おるはずですわ」

 それは、宗易からささへの、あたたかな励ましの言葉だった。ささは数回目を瞬かせた。

(私が笑えば、共に笑い、私が泣けば、共に悲しむ人)

 孤独に生きてきたささの胸に、その言葉はくっきりと鮮やかに刻み込まれた。






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