第5話 濃姫③
秋の長雨が上がり、再び青空が透明な日差しを投げかける頃、ささはようやく身体を起こせるまでに回復した。熱はとれ、朦朧としていた頭もすっきりしているが、妙にふわふわする。粥の入った椀を持つのもやっとという状態だった。一口ずつ、食物を飲み込んでいると、この世界も自分も夢ではないのだと信じることができた。
初老の薬師は、しばらく休めば完全に回復するだろうと太鼓判を押し、根を詰めて本を読み漁っていたことを叱ってから次の間に退室した。ささは上半身を起こしたまま、ぼんやりしていた。
どこからか微かに、荒々しい足音が聞こえる。慌てふためく薬師の声―お待ちくださいとか、安静がどうのとか言っているようだ―それから、乾いた音を立てて襖が開けられた。
まだ脚絆もほどかない姿で、信長がそこに立っていた。
ささはぽかんとして信長を見つめた。その場にかしこまることも思いつかないうちに、信長は大股に歩いてきてささの前に座った。土と汗の臭いがする。きゅっと眉をひそめた顔は、不思議なことに、ささが今まで目にしたどの信長よりもうちとけて見えた。
そこでささはようやく我に返り、何日ぶりかにまともな声を出した。
「お帰りなさいませ」
細く掠れた声で言い、寝床に上半身を起こした体勢でできる限り深く頭を下げる。うむ、と信長は呟いたが、その眼はひたとささを見据えている。病床生活でいっそう痩せた身体、もつれた髪、化粧をしていない顔がふいに恥ずかしくなり、ささは顔をそむけた。すると、籠手をはめた手が伸びてきてささの顎に触れ、向きを変えさせた。熱い。ささの頬から耳へ、うなじへ、その熱が広がっていく。
「具合はどうじゃ」
ささの目を見つめ、信長が問いかけた。ささは顔を赤くしたままかすかに頷いた。
「もう、何ともありません。ご心配おかけして申し訳ありませんでした。」
信長が、頷く。ささは信長から目が離せなかった。夢であれ程苦しめられ、その前には本を読みながら冷静に思いを巡らせていたくせに、今となってはそれらがもうどうでもいい。この人に、会いたかった。ささはそれを思い知った。
一回り小さく白くなった顔の中から、黒曜石のようなひとみがきらきら光って自分を映し出している。そんなささから、信長もまた何故か目が離せなかった。
先に言葉を思い出したのは、ささの方だった。
「あの…今、お帰りでしたか」
「濃がわざわざ下へ参って、そちが臥せっていると言うてきた。それが先程のことじゃ」
「濃姫さまが?」
ささの心がぱっと温かくなった。濃姫は自分のことを、気遣ってくれていた。遠征から帰った夫との逢瀬を、彼女こそ待ち望んでいただろうに、側室であるささが一番会いたい人に会えるようはからってくれたのだ。
(濃姫さま、ありがとうございます)
何週間ぶりかで安らかな気持ちに包まれながら、ささは思った。それから、ふと気づいた。
「それで、来てくださったのですか。私などの所に…何故」
「分からぬ」
率直かつ簡潔に、信長は言った。
「だが行くべきであると思った。わしは己の勘を信ずることにしておる」
「え…?」
ささの唇が疑問符の形に開き、止まった。今の言葉は、信長が自身の意志で、誰より先に、ささに会いたいと思い、そして来たのだという風にとれる気がするのだが、思い違いだろうか。あまりに無造作に告げられたので、今ひとつ自信が持てない。
(でも…嬉しい。とても、嬉しい…)
ささの胸が、明るく弾む。悩みと苦しみに打たれて弱った身体に、不思議な力が湧いてくる。
ささはそっと胸をおさえ、そして日の光を吸い込んだようにきらめくひとみを信長に向けた。
「ありがとうございます」
万感の思いをこめてささは言った。澄んだ声が、いつになく甘く、明るく響いた。雲が晴れ、ふいに室内を光が満たした。目の前の痩せた娘が、突然美しく輝き始めたように見えて、信長は思わず目を瞬いた。
(日の光のせいかもしれぬな)
何が自分を、戦装束もほどかぬままにささの元へ急がせたのか。それは、さしもの天下人にもまだ分からぬことだった。けれどこの時―信長が初めて自分からささに近づき、ささがそれを受けとめた時、二人の間で確実に何かが変わり始めた。それは移ろう季節のようにひそやかで、飛ぶ鳥のように自由な、誰にも予測のつかない変化だった。
「長く病床では辛かったであろう。何か欲しいものがあれば、言うてみよ」
信長の言葉を夢見心地に聴きながら、ささの眼差しは細く開いた窓の方へ彷徨った。雨上がりの日の光は、洗われたように輝いている。わけも知らず浮き立つ心を、空と風が呼ぶ。
ささは、そっと囁いた。
「風の行く場所を、見せてくださいますか」
信長は眉を跳ね上げ、それからそのひとみが愉快そうに輝いた。
「よかろう」
あっさりお言われ、ささの目が大きくなる。信長が立ち上がり、ささに手を差し出す。
「ついて参れ」
「今、にございますか?!」
「今でなければ駄目じゃ。行くぞ」
強い口調に押され、ささは信長の手をとり立ち上がった。繋がった手を引っ張られ、外へ出る。ほとんど錯乱してとりすがる薬師をあっさり振りきり、信長はずんずん進んでいく。ささは半分駆けるようにして、信長の広い背を追う。だがじきに息がきれ、ふらつき、足がもつれて倒れこみかけた所を、振り向いた信長がひょいと抱きあげた。小さな子供のように信長の肩につかまり、ささは思わず小さく悲鳴を上げたが、信長は下ろしてくれなかった。
ほぼ寝間着姿の側室と、彼女を抱えた主君の姿に、出会う者達が次々に腰を抜かしたが、信長は一向に気にせずささを城の中庭に連れ出した。馬を連れてくるよう命じ、引いてこられた愛馬にささを乗せる。更にその後ろに、信長がひらりと飛び乗った。初めて乗った馬は温かかったが、あまりに大きく、そして不規則に揺れた。ささは息を飲み、無意識のうちに信長の衣服にそっとつかまっていた。
「殿、お待ちくだされませ!そのようなお姿では…!」
家臣らしき男が、息も絶え絶えに叫びながら走ってきて二人を止めようとする。彼が馬のくつわをとる前に、信長は馬に鞭をくれた。
勢いよく馬が走り出した。驚きのあまり声を出すことも忘れ、ただ大きく目を見開いて前を凝視するささを、信長の腕が包み込んだ。
城の裏山を、馬は風のように駆け上る。風がびゅうびゅうと唸りながら、ささの頬を切り、髪を乱した。紅葉した木々の葉が光に溶け、色の渦となって流れてゆく。ささは怯えもせず、悲鳴を上げもしなかった。ただしなやかに背を伸ばし、一度だけ、ああ、と感嘆の吐息をこぼした。馬の躍動に身を任せながら深々と息を吸い込むと、冬が来る前の最後の生命の息吹が胸に満ちた。
人の気配の全くない小高い丘に来ると、信長は馬をとめた。再び抱え上げられ、馬から下ろされたささは、ひらけた景色の方へ進む信長を追った。
「見よ」
心なしか得意げに、信長が言った。ささは息を飲み、恍惚として立ちつくした。
広大な琵琶湖が、空そのものを切り取ってきたかのように、ささの目の前に広がっていた。
一歩、二歩と、ささは前へ出た。眼下にそびえる安土城も、遥かな山々さえも、この湖に比べればちっぽけに見える。水面に立つ白波は、風が遊んだ足跡だ。
「まあ……!」
視線を吸いつけられたささの口から、あえぐような喜びの叫びが漏れでた。
「気に入ったか」
信長が問いかけると、ささはたなびく黒髪を両手でおさえながら振り返った。その姿が、まるで常とは違って見えるのに、信長は内心驚いた。いつもあまり感情を表さないささの顔が、率直な喜びと感動に活き活きと輝いている。大きな目にたたえられた微笑は、ささの雰囲気全体を変えてしまっていた。風に持ち上げられる長い髪も、それをおさえるほっそりした手も、袖がめくれた細い腕も、不思議なほど可憐に見える。空と湖を背にして風に包まれたささは、生命力に満ち溢れていた。
「お屋方さま、ありがとうございます」
軽やかに澄んだ声で、心をこめてささは言い、膝をついて頭を垂れた。すると滝のように髪が流れ落ち、瑞々しく上気したうなじがちらりと襟足からのぞいた。
濃姫は柱の陰にひっそりとたたずみ、ささの帰りを待っていた。
(少し目を離した途端、この騒ぎじゃ)
夫である信長は、この城の主であり天下を覇する武人なのだから、何をしでかそうが誰にも止めることなどできない。だがささは、その信長の側室にすぎないのだ。軽々しい奇抜な行いにも程がある。
(分をわきまえるよう、きつく叱らなくては。全く、もう少し分別のある娘かと思っておったわ)
やっとここまで手塩にかけて育てたのにと、濃姫は唇を噛んだ。と、その時、話し声と足音が聞こえた。濃姫はすっと顔を上げ、出て行きかけて―ぴたりと立ち止まった。
ささが、少女のように軽やかな足取りで階段を上がってくる。すんなりした両手を帯の上で組み合わせ、幸福そうにひとみを輝かせていた。驚いたことに信長も一緒で、落ち着いた低い声でささに遠征のことを話していた。その眼はささにのみ据えられている。
ささの頬が
二人はそのままささの部屋へ消えた。濃姫は大きく目を見開いたまま、一点を凝視して動かなかった。
(まさか…まさか、安土は…あの子は…)
夕暮れ時に、茜色の光が部屋を満たしていた。病み上がりの身体で初めての乗馬を経験し、早駆けもしたというのに、ささの気分は不思議と楽であり、心地よい疲れとだるさの中を漂っていた。
きちんとした格好に着替え、ささは旅支度をほどいて再び部屋を訪れた信長のために、和琴を奏でた。その音色はどこか切なく甘い。
「それは濃の和琴か」
ささが調弦をしている時に、信長が話しかけてきた。ささは頷いた。
「お貸し頂いております」
「そうか。では今度、そなたの琴を届けさせよう」
ささの胸が、とくりとなった。今日はいつものように感情を制御できない。
「…はい」
早くなる呼吸をやっとのことで抑え、ささは答える。琴爪をつけ、弦を一本ずつつま弾き、ねじを締める。自分の手元に信長の視線が注がれているのを感じる。
「笹は、『平家物語』を読んでいるそうじゃの」
一瞬ささの手がとまった。
「…蘭丸殿からお聞きになられたのですか」
「うむ。そちが軍記物語をありったけ借りて行ったと話していた。何やら学びたいことがあるらしいと言うておったわ」
ささの顔を苦笑がよぎり、再び緩やかに手が動き始めた。
「確かに、学びたいことがございました。けれど私は、間違えておりました」
「間違い?」
ささは琴から手を離し、膝の上に重ねた。背筋を伸ばし、真っ直ぐに信長を見る。
「いくら私の知らない世界を見せてくれるとはいえ、しょせん物語は物語。私自身の悩みを全て託そうとしては、いけなかったのでございます。寝込んだのも、そのため…真実は、己の耳で、己の心で確かめなければならなかったのです」
迷いを振り捨てた、涼し気な声であった。ささは今、ずっと心の内に溜まっていた淀みがようやく吹きはらわれたような心地でいた。今日の遠乗りが、ささの心を洗い清めたのかもしれなかった。
今までになかった明るさと静けさを湛えたささのひとみを見つめ、信長が微かに笑う。
「そうか。…して、そち自身の真実とやらは確かめられたか」
「いえ…」
ささは答えた。
「…けれど、いずれは必ず、見定めることができると…そう、信じております」
「そうか」
信長は静かに応じて、それからふいに言った。
「笹は、
「天下、布武…?
無言で頷き、懐から出した物を信長は放ってよこした。ささがとっさに両手で受けとめたそれは、ずしりと重い印章だった。裏返してみると、そこにたった今耳にした言葉が刻まれていた。
「…これは」
「わしが用いておる印章じゃ」
信長が言った。ささはじっとその四文字を見つめ、信長を見つめた。
「時は乱世である。大名のみならず、町人や寺社どもまでもが、力と富とを求めて武力で互いを喰いあう時代じゃ。であるからこそ、わしはいかなる者をも
「…そのためであれば、寺をも成敗し、女子供をも殺す、と…?」
ささの声音は静かで、何の感情も滲んでいなかった。だからこそ、重く響いた。信長はためらうことなく頷いた。
「それもいとわぬ。天下布武とは、そういうことじゃ」
ささは黙っていた。大きなひとみは瞬きもせず、信長を見つめていた。と、その唇が再び動いた。
「天下布武を果たされたら、どうなさるおつもりですか」
信長が、僅かに虚を突かれた顔になった。ささはぎゅっと手を握りしめ、訴えるように言葉を重ねた。
「そうまでして、お屋方さまの求められるものとは、何なのですか。力と富、ですか」
「違う」
信長の目が刃のように鋭く光り、ささの言葉を封じた。ささは身がすくんだが、それでも彼女はその時、刃のきらめきの中に水を見た。果てしなく広く、輝く水。風をはらんだ、琵琶の
「力も富を、それだけでは己を肥えさせるにすぎん。そのようなもののみを求める
「乱世に…泰平を…?」
ささが、呟いた。ひとみに湛えた静けさがふいに崩れ、祈るような眼差しになる。
「泰平を」
もう一度呟き、ささは印章を胸に押しあてて訊ねた。
「武力で泰平をもたらすことができると仰せですか」
「いた仕方あるまい。それともそちは、わしにできぬと申すか」
信長が鼻で笑い、すっと刀の鍔に手をかけた。だがささは、首を横に振った。
「いいえ、そうは申しません。ここまで、成し遂げられてこられたのですから。…私の生まれ育ったこの町に、泰平をもたらしてくださったのですから」
けれど、とささは呟く、刀を恐れる様子もなく、信長の目を見つめたまま、はっきりと言った。
「私は、武力が恐いです」
あまりに率直な言葉に、何故か信長は怒らなかった。ただ、ささの目を見返し、一言問うた。
「わしのことも、恐いと思うか」
それは、二人が初めて顔を合わせた時、ささに投げかけたのと同じ問いだった。あの時ささは、それ以上に信長を慕うと答えた。
今、ささは視線を落とし、俯いた。そして、囁くような声で答えた。
「…分かりませぬ」
「そうか。分からぬか」
信長の声に、微かな笑いが混じったようだった。刀から手を離す気配があった。ささは俯いたまま立ち上がり、信長に寄る。そうして、印章を両手で差し出した。
その後、ささは琴を奏でた。冴え冴えとして切なく、そのくせどこか甘い音色だった。激しく荒れる胸を鎮めるように、ささは一心に琴を奏でた。
ゐよが証言したように人を生きながら焼き殺すことは、決して許せる行為ではない。
けれど今日、弱ったささを人目も気にせず抱きあげ、美しい湖を見せてくれた。
そして、全ての武力行為は、泰平のためだと信長は言う。
(真実は己で見定めるもの。けれど、今の私が見ている真実は、一つではない…)
いつか自分も、濃姫のように信長を完全に理解し、信じることができるだろうか。
琴を奏でながらささがふと顔を上げると、信長は目を閉じていた。血のように紅い残照が信長の顔にあたり、はっとするほど深い影を生む。それは、ささが見たことのない程孤独な者の姿だった。見渡すかぎり人のいない荒野で、ただ一人生きるような、壮絶な孤独が信長の顔に浮かんでいた。
信長を見つめるうちに、一つの理解がささの胸にぽつりと落ちた。
(許されぬのだ。いかなる行為も、いかなる選択も…この方は省みることを許されない。ただ前へ進むしかない。それが…天下を統一するということ)
胸が張り裂けそうになる。ささは、ただいっそう心をこめて琴を奏で続けた。
それから数日後、ささの元へ和琴が届けられた。真新しく、最近あつらえさせたことがすぐ知れる美しい品で、淡く光る紅色に塗られていた。弦の尾に、緊迫で竹と笹の葉が描かれているのを見た瞬間、ささの頬がさっと紅潮した。
何度も何度も、大切そうに和琴に触れるささを、訪れていた濃姫が眉をひそめて気づかわしげに見つめていた。
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