第4話 濃姫②

 ぎらつく夏の日差しは徐々に薄れ、やがて涼やかな秋が来た。そのことをささは、澄んで高い空と冷たい風から知った。手習いの合間、衣装を着つける合間に、ささは開けっ放しの窓から空を見上げ、風の音に一心に耳を傾けた。そうして、自分がこの部屋にこもっている間に過ぎ去った季節を思った。

 濃姫は毎日のようにささを訪れ、あらゆることの師匠となった。開香、茶道、和歌など、彼女がささに教えたことは多岐にわたった。その中には、ささが気に入ってすぐに飲み込んだものもあれば、なかなか覚えられない苦手なものもあった。ささがつかえたり間違えると、濃姫は容赦なくそれを叱った。彼女には妥協を許さない、決然とした厳しさがあった。だが、笹の方もそう簡単に参ったり泣き出すような性格ではなかった。分からないことは恐れ気もなく訊ね、苦手なことも何とか理解しようと頑張った。二人の間にはいつも緊迫した空気が漂っていたが、それは正室と側室という女同士の対立からくるものではなく、むしろ師匠と弟子のようなものだった。ささは濃姫が好きだったし、生まれてから今日まで箱入りで育った姫とは思えぬ凛とした強さと威厳を尊敬する念は日増しに高まった。

 信長は数日おきにささを訪れた。おのれの正室と側室の奇妙な関係をひどく面白がり、ささにその日学んだことや濃姫と語り合ったことを話させた。一つだけ灯された小さな明かりの下で、二人は他愛のない話をぽつぽつとし、そうして信長はささを抱いた。

 どうしてだかささは、信長に抱かれる時間よりも、二人で向き合って言葉を交わす時間の方が好きだった。ささは、信長の落ち着いた声が好きだった。つっかえないようゆっくりと話す自分の言葉に耳を傾ける信長の、強い光を放つ目に吸い寄せられるような気がした。

 信長の目はいつも、刃のように鋭く輝いている。信長に見られる時、ささは一瞬心の中に斬りこまれるような寒々しさを感じる。けれどその光は同時に、危ういほどにささを惹きつけるのだ。このまま斬り裂かれてみたい、信長の発する力に飲み込まれてしまいたいと無意識のうちに願う気持ちは、背骨と肩甲骨を折れそうに強く寝具に押しつけられる、あの一瞬にささが味わう刹那の感覚によく似ていた。

「笹。何を考えておる」

 信長が口を開いた。ささは小さく身じろぎし、珍しく顔を赤らめた。

「…いえ」

 あなたのことを、などと素直に言えるほど、まだささは睦言≪むつごと≫に慣れてはいなかった。心の内まで見通されないうちに、ささは何とか言うべきことを見つけた。

「お寺のことを、考えていたのです」

「寺?」

「はい。ずっと不思議に思っていたので。お屋方さまのおっしゃっていた、本願寺を調伏する…という言葉の意味を」

 信長の目が冷たく光った。ささはすくみあがりそうになったが、信長はささを見ているわけではなかった。

「もう済んだ話じゃ。…摂津にある石山本願寺は、わしが長年戦ってきた強大な勢力。天下統一のためにはあやつらを調伏することが不可欠であった」

「では…ではお屋方さまは、お寺と戦ってこられていたのですか?」

 思わずささは、信長の話を遮っていた。これは初めてのことだった。それはささにとって、耳を疑うような話だった。信長は平然と頷いた。

「かれこれ十年近くになる。だがこの春、やつらはついに和睦に応じ、この信長の配下となることを認めたのじゃ」

「…分かりませぬ。お寺は、仏様をまつる神聖な場所ではありませぬか。調伏するとか、配下になるとか…どうしてそんな…!」

 いつも落ち着いているささの声が、憤りに微かに震えた。仏教は、遥かな昔から人々の生活に根づく宗教だ。そしてそうや寺は、ささを含むすべての町人・村民にとって何より大切な、崇め奉る存在に他ならなかった。

 ささを見る信長の口元が、皮肉気な笑みを浮かべた。

「笹は、この安土の町に生まれ育ったのであったな」

「はい」

「では、わしの発布した楽市・楽座令というものもよく知っておろう」

「はい、存じておりまするが…」

「あれを出すまで、町人たちは皆、いかなる商いをするにもいちいち社寺に許可を求めねばならなかった。更にはあやつらに税を納め、おのれの商売だというのにろくな収入を得ることもできない。それをおかしいと思ったことは、なかったか」

 ささは言葉を失い、信長をまじまじと見つめた。そのようなことは、露ほども考えたことはなかった。

「お屋方さまは、お寺のなさることがおかしいと思われたのですか」

「仏を信じ祀ることが悪いというのではない。信じたければ、いくらでも勝手に信ずればよい。だがそのために、何ゆえ多額の税を民からとろうとする。何ゆえ現世の政に不平を言い、あまつさえ一揆を起こす。まことに御仏を信じておるのなら、幸福は現世の富にではなく極楽浄土に求めておればよい。。わしはそう思うておる」

 ささは黙り込んだ。筋が通っているとは思う。けれど理解できない。頭がついていかない。

 眉をひそめじっと俯いているささを見つめ、信長は微かに苦笑した。

「寺を敵に回し戦うわしをなじる者は多くおる。だがの、笹。寺も神社も、所詮は欲のある人間の集まりということには誰も気づいておらぬのよ」

 淡々と言い放ったその言葉に、ささはふと信長の孤独を垣間見た気がした。


(お屋方さまが、お寺を手中に納めた。あまたの国と同様に扱って…。天下を統一するとは、そういうことなのだろうか)

 ささはその夜から、ずっと考えていた。心が重い。何故なのか、分かっている。

(何度肌を合わせていても、濃姫様から多くの作法を学んでいても、結局私はお屋方さまのことを、ほとんど理解していなかったのではないか)

 その思いが生じたからだった。

「どうしたのじゃ、安土。今日はいつになく身が入っておらぬの」

 筆を手にしたままいつまでも動かないささに、濃姫が言った。ささは否定せずに両手をつき、詫びた。

「申し訳もありませぬ。…少し、心にかかることがございました故」

「ならばそれは後回しにせよ。和歌を学ぶのによい本を持ってきてやったのじゃぞ」

 いつものようにきびきびした口調で言い、濃姫はささが広げた和紙の上に何冊かの古びた本をどさりと置いた。何度も読み込まれた跡のある、手ずれした本だ。やっと和歌を読めるようになったばかりのささは、戸惑いながらも一冊を手に取り、ぱらりとめくった。中は全てかな文字だ。

「声に出して読んでみよ」

 命じられるままに、ささは最初の一行を指で辿りながらゆっくりと読んだ。

「むかしをとこうひかうぶりして、ならのみやこ、かすがのさとにしるよしして、かりにいにけり。…物語でございますか?」

「その通りじゃ。それは伊勢物語というて、和歌が多く入っている物語なのじゃ。和歌だけ目の前につらつら並べられるより、分かり易かろう」

 ささの心に温かなものが流れた。いつも厳しい濃姫が折に触れて示してくれる細やかな心配りは、いつもささを助けてくれる。ささは心から礼を述べ、ぱらぱらと『伊勢物語』をめくった。紙のめくれる音は竹やぶのささめきに似て、ささの心を安らがせてくれた。ささは小さく声に出して、目に留まった個所を拾い読みした。

「をとこ、かえりにけり。をんな、いとかなしくて…むかしをとこありけり。…ありどころはきけどひとのいきかよふべきところにもあらざりければ…つきやあらぬはるやむかしのはるならぬわがみひとつはもとのみにして…。男と女の付き合いの物語ばかりなのですね。他の話は、ないのですか?」

 濃姫は軽く目を見張った。初見の本にざっと目を通しただけで、ささは既に大まかなあらすじを掴んでしまっている。そうとうの洞察力と柔軟な想像力がなければできないことだ。

「そのようなことを言うものでない。男女のこととは人の世のならいで最も複雑なもの。和歌の題材にもたびたびなっておる。ほれ、安土とて他人事ではないではないか」

「何故にございますか?」

 真顔で問い返され、濃姫は言葉に詰まった。

「…そなたは信長公の側室であろうに」

「ああ…男女のこととは、そういうことですか」

 ささは常と全く変わらぬ生真面目な顔で頷いている。濃姫はこめかみをおさえた。

「…安土。私はそなたに、殿に恋をしていないのかと聞いておるのじゃ」

 ささの大きな目が、数回瞬いた。濃姫はだんだん頭が痛くなってきた。この娘がおのれの服装にも化粧にもほとんど関心を持たない訳が、ようやく分かった。

(体ばかり成長した、まるっきりの子供ではないか。ほんに殿は、珍しいものが好きであらせられる…)

 やがてささは、今までより更に真面目な顔になって、訊ねた。

「濃姫さま。こいとは、何でございましょう」



 ささが『伊勢物語』を読破するのに、五日とかからなかった。濃姫がささに与えた本は、他に『うつぼ物語』『竹取物語』『古今和歌集』『源氏物語』の若紫の巻などがあったが、ささは時の経つのを忘れてそれらをむさぼり読んだ。これほどまで熱中できるものを見つけたのは初めてだった。次々と現れる文章が、新しい言葉が、ささを虜にし、別世界へ連れて行った。

 濃姫はささに本好きの気があることに気づき、大いに喜んだ。本の中の事件や出来事が、ささに世間というものを教え、少しは大人にさせるのではないかと期待したからだった。

 じきにささは、濃姫が傍で読み方を教えてやらなくても一冊の本を読了できるようになった。薫り高い花々がそこかしこに活けられ、名士の手による書や水墨画の飾られたささの部屋に、本がぎっしり詰まった行李が一つ加わった。

「安土もだいぶ教養がついてきたようじゃの」

 淀みない手つきで花を活けるささを見て、濃姫が満足げに言った。ささの目がわずかに輝いた。

「もったいなきお言葉にございます。…私など、濃姫さまに比べれば、卑しい女子にございますのに」

「そのようなことを言うてはならぬ。そなたは安土の鏡なのじゃから。おのれが卑しいと思うなら、それは胸にしまい、いっそう精進してまいればよい」

「はい、そういたします。…でもあの、精進と言いましても、このような方面のことは…」

 ささの頬がぽうっと赤らんだ。そして、濃姫とは目を合わせずに一冊の本を懐から取り出し、濃姫の方へ滑らせた。

「何じゃ、そなたの役に立たぬと申すか。『とはずがたり』は」

「…お気持ちだけありがたく頂きとうございます」

「残念じゃ。そなたが珍しく愚痴を申していた故、必要かと思うたのに」

 わざと溜息混じりにそう言って、濃姫は本をしまった。半分はからかうつもりで渡した本である。なんでも真面目に受け取るささの性格が、濃姫は好きでもあり、またわずかに心配でもあった。

 ささはまだ俯いている。相変わらず人形のように無表情だが、目元の辺りがわずかに大人びたようである。

「確かに、お屋方さまとどう接してよいのか分からない時がある…と申しました。けれどそれは、心のことでございます」

「心、とな。殿のお心が、理解できぬ…と?」

「はい」

 ささは言い淀み、そうして思い切って濃姫に打ち明けた。信長が、寺と戦ったことを耳にしたと。

 濃姫の表情は能面のように凪いだままだった。その眼は涼やかに澄み、強い光を放った。

「それしきのことで、くよくよ悩んでおったのか」

 開口一番、濃姫は言った。ささはとっさに理解できなかった。

「それしき…?」

「そうじゃ。本願寺のことなら、この城の誰もがとうに存じておる。今更うろたえ騒ぐなど、それこそ自身を卑しいと思え」

 濃姫はぴしゃりと言った。ささは、しかし引き下がらずに訊ねた。

「されど濃姫さまは、何とも思われなかったのですか」

「この戦乱の世を、殿は統一せんと日々心身を砕いておられる。それは今まで誰もなしえなかった―しようとすら思わなかったことじゃ。世間がどうなじろうと、何を敵に回そうと、殿にとっては必要なことなのであろう。私はそう信じておる」

 濃姫の揺るぎない眼差しに、信長が重なってみえた。ささにはもう、言うべき言葉が見つからなかった。

(この方は、真にお屋方さまのご正室なのだ。この方だけが、お屋方さまと同じ高みに立ち、同じ眼差しで、同じ場所を見ることができるのだ)

 ふいにささは、そのことを悟った。そしてそこから、自分が遠く隔たっていることも。

 ささの胸を再び、濃姫を羨ましいと思う気持ちが刺した。


 その三日後、ささは新しく付けられた侍女の一人に頼み、ゐよを連れてきてもらった。数か月ぶりに会うゐよは、赤の他人を見るようなよそよそしい表情をしていた。再会を喜び、労をねぎらおうとしていたささの言葉は喉元で凍りついた。

 ゐよのよそよそしさ、冷たさが、かつての女中仲間ではなく信長の側室に向けられたものであることは、ささがゐよを呼び寄せた目的である質問を発した時に分かった。

 ゐよが去ってから、ささはしばらく動くことができなかった。ゐよの態度と言葉とが、剣のようにささを突き刺していったのだった。

(…聞かなければよかった)

 ささは、ぽつりと思った。ただそのことだけを思った。

 なぜ、信長をそれほどまでに恐れるのか。

 ささの問いに、ゐよは今度はためらうことなく答えた。呪詛のように吐き出される長い長い言葉を、ささは呆然として聞いていた。

 ゐよが、もともとは近畿の七松という村の出身であること。天正六年、信長に謀反を起こした荒木村重という武士の郎党とその一族が村に逃れてきたこと。人質として女子供を差し出していたにもかかわらず、荒木が投降せずにいると、信長は彼女らを一人残らず処刑し、さらには荒木の一族郎党の男女五百人余りを四つの家に閉じ込め、周囲に草を積み、村人達が震えながら見ている目の前で火をつけたこと。人が生きながら焼かれる臭いと、地獄の底から湧き上がるかのような断末魔の叫びがゐよの記憶に刻み込まれ、ひと時も離れてくれないのだと―。

 ふいに胃をねじ切られるような吐き気に襲われ、ささは口をおさえて身を折った。そのままじっとしていると、激しい吐き気は徐々に収まったが、ゐよの描いてみせた地獄絵図がいつまでもささを苦しめた。

(私は、何をしんじればよいのか)

 ささは我が身をかき抱く。侍女達の笑い声が、濃姫の言葉が、ゐよの話が、褥で自分を包んだ信長の温もりが、心の中で回り続けていた。


 その日から、ささはあまりものが食べられなくなった。思いつめるあまり食欲がわかない。侍女達に怪しまれ、無理に食べようとすると、頭の中に炎と叫び声がちらついて胸がむかついた。

 息苦しさをおぼえ、ささは窓辺に寄っていった。つと手を伸ばし、宙をかき混ぜる。ひいやりと冷たい秋の風がささの髪に遊び、また流れていく。

(風は自由。始まりも終わりもなく、歌いながらどこへでも彷徨っていく…竹林で風の音を聴いていた、あの頃が懐かしい…)

 ささは細い指で、そっと衿をかき合わせた。戻りたいわけではない。ただ、日の光や風を、戸外で存分に感じてみたかった。

 側室の身分を与えられているささは、基本的に城のなかであればどこへでも行くことができる。最も高い場所、大きな窓を探してみようと思いたち、ささはふらりと自室を出た。

 城内の襖に描かれた、当代随一の壁画師・加納永徳の手による壮麗な絵には目もくれず、ささは人のいない廊下を彷徨った。と、思いがけなく曲がり角から現れた人物とぶつかりそうになり、ささは小さな声を上げて後ずさった。

「これは、安土様…!とんだご無礼をつかまつりました」

「いえ、私こそ不注意にございました」

 さっと片膝をつき、深々と頭を垂れる若い男を前に、ささは素早く息を整えた。信長が最も気に入り、常に傍に置いているという小姓、森蘭丸だ。会うのはこれが初めてではない。若く美しい蘭丸が、侍女達の人気を集めていることは知っていたが、ささとはほとんど歳が違わないので、ささにとっては自分より長くこの城や主君のことを知っている同僚という認識にすぎなかった。

「面を上げてくださりませ、蘭丸殿」

 ささは静かに言った。この言葉も、ようやく自然に言えるようになった。

「いつぞやの夜は、ご進言頂きありがとうございました」

「いえ」

 蘭丸が、微かに笑った。

―髪は下ろされた方がよろしいかと

 初めて信長の寝所に召された夜、道を案内しながら蘭丸が低く言ったことを、ささはよく覚えている。何も知らず、身一つ、心ひとつで赴くつもりだった自分にとって、その一言がどれほど温かくありがたかったか、彼女は決して忘れてはいなかった。

 そしてその温かさは、今も存在していた。自分と変わらぬ若さであり、つい先日まで一介の侍女にすぎなかったささを見上げる蘭丸の目に、侮蔑や嘲笑の色は一切含まれていなかった。

 聡い蘭丸は、何のことで礼を言われたかよく承知していた。たった一言を長い間心に留め、律義に礼を言ってくれたささの心意気が、彼は嬉しかった。主君に絶対の忠誠を誓っている彼にとって、飾り気のないこの風変わりな側室は、疎ましい存在ではなかった。

「安土様は、かような所で何をしておられるのですか」

「…何、というわけではございません」

 ささは静かに俯いた。元々ほっそりしている肩が、更に一回り痩せたように見える。蘭丸は眉をひそめたが、ささが思いきったように発した次の言葉が彼の思考回路を完全に吹っ飛ばした。

「蘭丸殿に、折り入って頼みがあるのです」

「私に…?私はお屋方さまの小姓ゆえ、安土さまにどれほどのことをして差し上げられるかは」

「男の方にしか頼めぬことなのです。蘭丸殿は、ぐんきもの、という本をお持ちですか」

「はあ?」

 男にしか、と言われて身構えた蘭丸は、完全に度肝を抜かれた。もしやからかわれているのかと思ったが、目の前の側室はいたって真面目な顔である。

「軍記物、にございますか」

「はい。女の読むものではないと、濃姫さま…奥方さまにも侍女達にも貸してもらえぬのです」

「それは、多少なら所有しておりますが、安土様は何故それをお読みになりたいのですか」

 軍記物とは、女性が嗜みに読むような説話集や御伽草子、歌物語とは違い、生々しい戦や合戦を力強く率直な文体で描き出す物語のことである。面白く読む女性は少ないだろう。けれどささは、本気であることを伺わせる真っ直ぐな眼差しを蘭丸に向け、僅かに熱を帯びた声で言った。

「私は、知りたいのです。戦とはどのようなものであり、どのような意味を持つのか。そして、武士の…男の…お屋方さまのお考えになっていることが、少しでも分かるようになりたいのです」

 それは、あまりにひたむきで一途な言葉だった。蘭丸の驚きに満ちた眼差しを、ささは揺るがずに受け止めた。その顔には、熱意だけがあった。

(なんと…なんという素直なお方なのだろう)

 皆が畏怖の念だけを抱き、ただ仰ぎ見るだけの存在である信長を、ささは知りたいという。分かりたいという。その一途さが、蘭丸の胸を強く打った。

 尊敬の念を抱き、蘭丸はうら若い側室にうやうやしく頭を垂れた。

「承知いたしました。明日にでも、安土様の元へお持ちします。ただ、私は直接安土様にお仕えしているわけではございませんので、お屋方さまの許しを頂かなければなりませぬが、それでよろしいですか」

「はい。ありがとう、蘭丸殿」

 優しくやわらかなその声音に、蘭丸はささが微笑を浮かべたのかと思った。だが目を上げてみれば、ささはその静かな面を崩すことなく、ただ目元をそっと和ませていた。


 秋の雨が降り出した。冷たく長く、しとしとと雨は降る。晴れわたった青空もささは好きだが、真珠色の厚ぼったい雲と銀糸のような雨も嫌いではない。屋根や張り出した欄干に雨が当たる音を、いつまでも聴いていたいと思う。

 琴爪を指にはめながら、どこか上の空で無垢な眼差しを空へ向けているささを、濃姫は呆れるやら微笑ましいやら複雑な気持ちで見つめていた。

(ほんに変わった娘じゃ)

 いつも無表情だが、ささの内には豊かな感情が秘められている。何事にも無関心なようでいて、好奇心はどうやら人一倍強い。ささが蘭丸に頼みごとをし、拝借した『平家物語』や『義経記』に読みふけっていることを、濃姫は既に承知していた。夢見がちで変わり者の側室だという噂が既に城中に広まりつつある。

「こう、でございましょうか」

 ささが和琴を、しゃらんとかき鳴らした。濃姫は意識を戻し、ささの細い手に自らの手を添えた。

「そう、そしてここを押さえる。もっと肩の力を抜いてみよ。…それでよい」

 目の前に広げた教本に時折目を走らせながら、ささがゆっくりと琴をつま弾く。雨の音に琴の音が重なり、絡み合い、じょうじょうと流れてゆく。濃姫が嫁入り道具に持参した和琴は、使い込まれて柔らかな飴色に光っていた。

「そなたは筋がよい。私の琴の師に稽古をつけさせようの」

 ほとんどつっかえず音程をさらい終えたささに、濃姫は言った。ささの面がふわりと明るくなった。

「まことにございますか」

「ああ、まことじゃ。読書もよいが、琴こそ女子の教養として求められるものじゃ」

「…ご存じだったのですか?」

「無論であろう」

 濃姫はじっとささを見つめた。ささも、見つめ返した。

「…やはりいけませぬか」

「少々奇抜なやり方ではあるの。そなたらしいといえばそなたらしい」

 ささの顔が、ほんのりと赤い。薄く汗の滲んだ首筋が、琴と同じ色に光る。

「濃姫さまは以前、お屋方さまを信じると仰せになりました。私は…濃姫さまのそのお強さが、羨ましゅうございます。だから、私なりのやり方で…濃姫様のように、なりたかったのです」

 濃姫は呆れた。

「私のように、か?その必要はない。私は正室、そなたは側室、まるで立場が違うではないか」

「承知しております、されど…」

 ささが、荒く息を吐く。もどかしげに言葉を重ねようとして、けれどそれは叶わなかった。濃姫は眉をひそめた。

「安土?いかがした。気分が優れぬのか」

「いえ、そのようなことは」

 言いさして、ささの身体がぐらりと傾いだ。とっさに両手を差し伸べて抱きとめた濃姫は、華やかで重い着物の下の身体があまりに痩せているのに驚いた。

「安土。安土」

 名を呼び、汗ばんだ額に手をあてる。外では雨が降り続き、冷え込む秋の日だというのに、ささの額は真夏の日の下にいたかのように熱かった。

「誰ぞ、薬師を呼べ。早く」

 鋭い声を上げる濃姫の腕の中で、ささは「申し訳ありませぬ」と呟き、意識を失った。


 ささは幾日も寝床を離れられなかった。ろくに食べていなかったせいで身体が衰弱しており、疲労と高熱に打ち勝つ力が残っていなかったのだ。うつるといけないからと、濃姫は会うことを薬師にとめられ、ささは独りでひどい熱さとだるさに耐えていた。

 信長は戦で二週間ほど安土城を離れており、ささが側室としてのつとめを求められることはなかったが、それは返ってささを辛くさせた。自分は誰からも無用な存在なのだと感じるからでもあり、自分の知る主君ではなくゐよに訊いた話の信長が、繰り返し悪夢となって現れたからでもあった。

 夢の中でささは、炎にあぶられている。熱くて苦しくて、身体が動かない。皮膚と肉が溶けていく。悲鳴を上げようとすると、炎の向こうから誰かが歩いてくる。

(お屋方さま)

 助けを求めようとする声が、炎となって燃え出す。信長の冷たい眼差しが、ささの心臓を縫いとめる。

 また、槍や刀で串刺しにされる夢を見た。全身を矢で射抜かれる夢を見た。人の腕の温もりを求めて一歩踏み出した途端、底なしの闇に落ちていく夢を見た。今は線上にある人を待ち続け、虚しさのうちに老いてゆく夢を見た。夢は気まぐれにささを疲弊させ、とりとめもなかった。たびたびささは口に流し込まれる薬湯の苦さによって目覚め、そしてその途端に夢は思い出せなくなった。

 ささは目覚めている間、自分を包み込んだ信長のしなやかで温かな肌を思った。眠っている間、自分の知らない信長の冷酷さ、苛烈さを思った。恐れるというより混乱していた。まともに考えることができず、やがて夢と現の境目も分からなくなった。それが、何日も続いた。


<続く>



 

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