第3話 濃姫①

 安土城は第六層の、純白の壁と漆黒の柱を持つ四間続きの座敷が、ささの新しい住まいとなった。ささは夢でも見ているような気持ちで、部屋から部屋へとさまよっていき、飽きもせずに柱や窓枠に触れた。一つ一つの座敷の一輪挿しには薫り高い山百合が活けられ、ほとんど物のない殺風景な部屋を引き立てている。

(私には広すぎる)

 ささは急に心細さを憶えた。振り返っても自分以外の人影はない。考えてみれば、心を許せる人はいなくとも、ささはいつも人々の賑やかなざわめきに囲まれて生きてきた。だがこの場所では、聞こえるのは空を渡る風の音のみだ。

 ふらりと窓へ寄るささがまとうのは、もう地味な色の小袖ではない。目にも鮮やかな金糸の刺繍を施した、豪華な打掛だ。ささは、側室-今までその着物に触れることも許されなかった『奥方さま』に準ずる、信長の『妻』となったのだ。

 からりと窓を開ける。ひんやりした風が、ささの頬を撫でた。自分の身に起きたことが、ささは信じられないでいた。孤独な生涯の残りを捧げ尽くそうと心に決めて城に上がりはしたけれど、まさかこんな形で信長に仕えることになるなんて。

 ささは細い指を窓枠にかけ、目を閉じた。そして、自分を打ち倒そうとする心細さにじっと耐えた。これが現実なのか夢なのかさえ、分からなくなりそうだった。

 と――――ささの体の奥が、甘くうずいた。

(違う。夢なんかじゃない)

 ささは目を開き、青く澄んだ空をじっと見つめた。窓から離れた指がさまよい、そっと喉に、襟元に触れた。

 心は信じられなくても、肌が、体が、はっきりと覚えている。

 ささの手首を握りしめる熱く大きな手を。隙間なくささを包んだ肌のしなやかさを。

 ささの一番奥深く、中心に施された、生涯消えることのないただ一人の刻印を。

「だから私は、ここにいる」

 ささは声に出して小さく呟いた。すると温かな力が全身に広がっていくような気がした。

「私は今までと変わらない。あの方に、全てを捧げてお仕えする。ただ、それだけのこと」

 自分自身に、確認する。するとようやく気持ちがすっきりした。この先何が起ころうとも、この思いだけを持ち続けようとささは決心した。

(…それで、今日はこれから何をしよう…)

 仕えの者達が運んできた荷物は、着物の入った行李が二つに、針と糸の入った手箱や化粧道具などの手回り品を納めた包みが一つだ。とりあえずそれらを整理しようと、ささがひどく長い裾をさばいて座った時だった。

 ぱたぱたと、複数の足音がする。そして、挨拶もなく数人の女性達が座敷に入ってきた。

 ささは一瞬、礼儀も忘れてまじまじと彼女達を見つめた。そのうちの一人がささの前に当然のような顔をして座り、ささと同じくらいぶしつけで好奇に満ちた眼差しを向けてくる。残りの者は、その女性の後ろにずらりと控え、目を伏せている。

 ようやくささは、女性が自分より鮮やかで派手な打掛をまとっていること、その華美な装飾に負けない威厳を発していることに気づいた。

 ささが思わず肩を跳ねあがらせ、平伏しようとするのと同時に、女性が口を開き、やや低めの声で言った。

「よい。面を上げておれ。私は信長公の正室、のうであるが、そなたを見たいのじゃ」

 ささは下げかけた頭を仕方なくまた上げたが、一人芝居を演じたようで居心地が悪かった。それでも好奇心には勝てず、結局先ほどと同じように彼女を正面から見返すことになった。

(この方が、奥方さま)

 信長以上に今まで関りを持つことのなかった、しかし噂の中では信長と同じく身近である人物であった。安土城の侍女達は、信長とその正室である濃姫に仕える二通りに分かれており、両者の間には何となく溝があった。要するにお互い無言のうちに牽制をかけ合っていたのだが、ささはそんなものには興味がなく、濃姫の方の侍女達の話にもひっそり耳を傾けていた。

 今、ささの目の前にいる女性は、信長の方の侍女達が陰口をたたいていたように器量が悪いわけでも、才気に欠けるようにも見えなかった。肌は透きとおるように白く、唇は鮮やかに赤い。切れ長に吊り上がった目はくっきりと見開かれ、相手を圧倒する強い意志の力を発していた。ささより幾分背が高くふっくらとしていたが、しゃんと伸びた背筋は似ていた。

「…奥方さま」

「濃姫と呼べ」

「濃姫さま、にございますか?」

「そうじゃ。殿に対して一国の大名のようにはっきりもの申したというおなごに、奥方さまなどとばか丁寧に呼ばれるのは気色が悪い」

 随分な言い草だが、ささは意見を言うのは差し控えた。

「濃姫さま。私に何のご用でいらしたのですか?」

「むろん、そなたを見に参ったのじゃ。安土城で初めて殿の御目にとまり、ただ一晩で側室に上げられたというおなごをな」

 その声は淡々としていた。だがささは、はっと胸をつかれ、そして自分の配慮の足りなさに思いきり自分を殴りたくなった。濃姫は、信長の正室なのだ。自分によい感情を抱いているわけがなかった。

「申し訳もございませぬ」

 ささは深く平伏し、畳に額をすりつけた。やりきれなさに胸が痛み、馴染みのない生活に放り込まれた自分の身ばかりを案じていたことを恥じた。

「なぜ、謝る。そなたは喜べばよいではないか。望んでいたとおりのお召しを受け、私とも並び立つ地位になったのだから。それともそなたには、何か後ろめたいことでもあるのかえ?」

 ささは、顔を上げられなかった。冷たさを含む濃姫の言葉に、絞り出すように答えた。

「…はい、ございます。なぜ、今ここにいるのか…私には皆目見当もつかないのでございます」

 一度吐き出すと、もうとめることはできなかった。

「先ほど濃姫さまは、私の望んだとおりとおっしゃいました。けれど私は、誓ってこのようなことになると思っていたわけではありません。私は何ら秀でた所のない、平凡な女にございます。むしろ、今こうして、私よりはるかに美しくお屋方さまにふさわしい気品をお備えの濃姫さまの前にいることが、辛くてたまらないのでございます。このような形でお目にかかることを、本当に、本当に申し訳なく思っております…」

 ささの声が初めて震えた。これ程自分の思いを誰かにさらけだしたのは、初めてだった。痩せた体を覆う打掛が、今のささにはひどく重かった。

 ひれ伏したまま動かない、年若い側室を、濃姫はまじまじと見つめた。ささの態度は風変わりなほど謙虚だったが、そこには微塵もへりくだった所がなく、濃姫に心底すまなく思っているのが伝わってきた。

「…面を上げるがよい。そなたは私の予想していたものとだいぶ異なるの」

「どうぞ、笹、とお呼びくださいませ。私が濃姫さまとお呼びするのなら」

「笹というのか…私は、名も知らないままここまで来てしまった」

 ゆっくりと顔を上げた笹の目に映ったのは、どこか自嘲するような笑みを浮かべた濃姫の顔だった。その声から、とげとげしさが消えていた。

「そなたは、私がなぜ来たのかと問うたな。実はな、私はそなたを苛め抜いて今日の内に追い出してやろうと思ったのじゃ」

 常日頃の習慣で、ささは驚きを露わにすることはしなかった。が、もともと大きい目が更に大きくなり、ものも言えなくなった様子なのを、濃姫は面白そうに見やった。

「どうしてか分かるか?そなたについて、既にあちこちで口さがない噂が飛び交って居る。まだ十八と年若いそなたが、父親ほども年の離れた殿を誘惑し、身の程知らずの地位をまんまと手に入れたとな」

 ささの口が、微かに動いた。濃姫は、ささの目を真っ直ぐに見つめた。

「わかったか?笹、そなたが知らずにやってのけたことの大きさが。私は笹が、外見ばかり飾った、浮かれた小娘だと思っておったのじゃ」

「…外見すら磨かれていない小娘で、失望なさったでしょう」

 やっとのことでささは言った。濃姫は小さく笑った。

「いいや、そんなことはない。むしろ、これほど平凡な容姿の娘の――――それこそ、ご自分の娘ほど年の離れたそなたの、一体どこを殿がお気に召されたのか、とても知りたくなった」

「私もにございます。…濃姫さまは、私のことを疎んでおいてですか」

 思い切ってささは尋ねた。愚問と分かっていても、尋ねずにいられなかった。濃姫は、その鋭く強い眼差しをささにじっと注ぎ、しばらく黙っていた。それから低く言った。

「分からぬ。だが少なくとも、噂を信じることはできぬ。これから己の目で見定めたいと思うておる。…笹はどうじゃ。私が、疎いか」

「いいえ」

 打てば響くような、明朗な答えだった。

「私は濃姫さまをお慕いしております…お屋方さまをお慕いするのと同様に」

 その言葉を聞いて、濃姫の顔にあるかなしかの苦笑がよぎった。

「同様に、のう」

 ひっそりと囁かれたその言葉の意味を、ささはまだ理解できないでいた。


 長い一日がようやく終わろうとしていた。部屋の明かりが灯される頃、山百合の枯れた葉を摘みとっていたささの元を、信長は訪れた。

 両手をついて信長を迎えたささを見つめ、信長は満足そうな顔をした。

「その打掛はそちによく似合っておる。明日、着物をもっと届けさせよう」

「どうじゃ、この部屋は。気に入ったか」

「私にはもったいないほど美しい部屋にございます。…それに空が、空と風が近くて、好きです」

「そうか。笹は、空と風が好きか」

 信長はそう言って笑った。明かりを挟み、二人は向かい合って座っていた。ゆらゆらと影の踊る信長の顔は、辺りが薄暗いこともあり、これまでよりぐっと近しく思われる。つい先日まで見ることすらかなわなかったこの顔が、今はささにとって唯一の拠り所だった。空に描かれる物語を、風の囁く言葉を、ささはまだ理解できない。

(私は、今までと変わらない…この方に、全てを捧げてお仕えする、ただそれだけの…)

 ふと気づくと、信長がじっとささを見ていた。よく光るその眼は、ささの心の内を見透かしているようで、ささは沈黙に耐えきれなくなり口を開いた。

「今日、濃姫さまがお見えになりました」

「ほう。あの者のことじゃ、じきに矢も楯もたまらず自分から出向くと思っておったわ」

 せっかちな所はわしに似ておる。そう言って、それまでより活き活きと信長が笑うのを見た時、ささは胸がちくちくするのを感じた。本人と向かい合った時には湧いてこなかった思いが、今になってささを苛む。濃姫が、羨ましかった。

 ほんの少し口元を強張らせるささに、信長が問うた。

「笹はあの者をどう思った」

 俯きかけていたささは、我に返って信長の目を見つめ返した。誰かに向かって言葉を紡ぐ時、ささには人の目を強く見据える癖がある。わずか十八の娘とは思えない落ち着きをたたえた、澄んだ眼差しを、信長は少しもたじろがず受けとめた。

「好きにございます」

「好き、とな?」

「はい。私はあの方が好きになりました。流石はお屋方さまのご正室、とも思いました」

 ささは、濃姫の率直さが好きだった。相手の気を悪くさせるのではないかとか、そういうてらいも一切なしにつけつけと物を言う、その鋭さが爽快だと思った。変に気を遣われたり、陰口を叩かれるよりずっといい。

 だが信長は、そんなささの言葉に意外そうな顔をした。

「あの者のどこがそんなに気に入った」

「さあ…言葉ではうまく申せませぬ。でも、ささは嘘を申しません」

 にこりともせず、感情を抑えた静かな声でささは言う。けれどその眼は、真っ直ぐに信長を見つめている。それ程までに真剣な眼差しで、恐れ気もなく彼を見つめる女はこれまでいなかった。だからこそ信長は、まだやっと少女という時期を抜け出したばかりのこの若い娘を召し抱えることに決めたのだ。

 だがささにはまだ足りない所があると、信長は思う。

 ささの顔に、突然信長の手が伸びたかと思うと、その長くほっそりとした指が軽く頬をはじいた。ささの口が開き、微かな息が漏れたが、彼女の示した驚きの感情はそれだけだった。信長は薄く笑った。

「笑わぬ小面こおもて、じゃの」

「は?」

「そちの顔じゃ。…本願寺を調伏するのと、そちの表情を変えるのと、どちらが易しいかの」

「あの…」

 よく意味が分からない。こおもて、とは一体何なのか。なぜいきなり寺の名がでてくるのか。ささが首を傾げていると、信長は「まあよい」と言って、ささの頬に置いた手をうなじへ、襟元へと滑らせた。

「あ…はい」

 その意味なら、今度は分かった。ささは髪に手をやり、束ねていた色紐をほどいた。


 まさか二日連続でやって来るほど興味を持たれているとは思っていなかったので、翌日も濃姫が現れた時、ささは心底驚いたのだった。

 ささが慌てて両手をつき平伏しようとするのと同時に、濃姫が連れてきた侍女達に命じた。

「あれの行李を捨てよ。どれもつまらぬ衣装ばかりじゃ」

「かしこまりました」

 ささが何か言う暇もなく、奉公時代から大切に着てきた着物の詰まった行李がさっさと運び出されていく。濃姫は広い部屋を見まわし、顔をしかめた。

「それに何じゃ、この部屋は。殺風景にもほどがあるわ。あの一輪挿しも、もっと色の明るい物と取り換えよ。もっとあちこちに花を飾り、何か掛け軸のようなものも持ってくるがよい」

「あの、濃姫さま」

「それから、私の化粧箱と鏡を持ってまいれ。この者の身なりはひどすぎる」

「お待ちください、濃姫さまっ!」

 自分でもぎょっとするほど大声が飛び出した。侍女達が驚いて動きを止め、濃姫がゆっくりと振り返る。その眼差しの強さ、発せられる威厳にささは飲まれそうになったが、ぐっとこらえて何とか声を出した。

「一体これはどういうことにございますか」

「見てのとおりじゃ。本日より私は、そなたを教育することに決めた」

 ささは絶句した。濃姫は白い手をつと振って侍女達の動きを再開させ、自分は唐藍からあいの打掛をさばいて膝を折り、ささの前に座った。

「よいか。理由が何であれ、そなたは今や信長公の側室じゃ。昨日話したような下賤な噂、真であろうとなかろうと、あのままにしておくわけにはゆかぬ。となれば、この安土城の奥を仕切るこの私が、噂を打ち消すほど美しく品のある女性にそなたを育てるのが道理というもの。そうであろう?」

 濃姫の言葉は自信と確信に満ちていた。ささは唇を噛み、何とか反論した。

「でも…その噂は私のせいではありません。私は、私のままでいとうございます」

「地味で愛想もなく目つきばかり悪い、今の笹のままでか?」

 ささの胸に濃姫の言葉がぐさりと刺さった。濃姫はささを見据え、ぴしりと言った。

「甘えるでないぞ、笹。いつまでも殿のご温情に甘えるでない。よいか、笹。おなごは鏡じゃ。信長公の妻と定められたその瞬間から、そなたは公を映し出す鏡、ひいてはこの安土城を映し出す鏡と心得よ。そなたの気品、教養、美しさはすなわち、そなたの属する場所そのものである」

 ささの目が大きく見開かれた。その言葉が全身に、心の奥底までしみわたってから、ようやくささは頷いた。

「…今のお言葉、しかと承りました。けれど一つ、お願いがございます。私の着物を、下の衣裳部屋にいるゐよという女中にあげてください。捨てるくらいなら、誰かのために役立てとうございます」

「よかろう」

 濃姫は鷹揚に頷き、ようやく初めての自然な微笑みを浮かべた。


 濃姫の教育は厳しく、容赦がなかった。裁縫と挨拶以外何の教養も持たずに侍女へ、そして側室へ上がったささに、手習いや華道など自分の受けた教育を端から叩き込んだ。始めのうちは、何のためにやっているのか、何をやっているのかもささはよく分かっておらず、めまいのしそうな思いでついていくのがやっとだった。

 そして、濃姫がささに身につけさせたいことは、そればかりではなかった。

「見よ、これがそちの顔じゃ。どう思う」

 丸い銅鏡を立て、濃姫はささの頭を手で挟みぐいっと回した。ささは初めて鏡というものを見た。そしてそこに映し出された自分の顔を見た。

 尖ったあご、狭い頬骨、やや大きすぎる目を持つ娘がそこにいる。肌は日に焼け、素焼きの茶碗のようで、唇の色も薄い。どう見てもやっと子供から脱した小娘といった所で、お世辞にも美しいとは言い難かった。

 ささは目をそらし、俯いた。その横で濃姫は、化粧箱の中から白粉を出していたが、やがて落胆したような声を出した。

「そなたほど白粉の似合わない娘も珍しい。無理に厚塗りしても、このすべすべとした質感を損なうかもしれんのう。ううむ、そなたが今まで化粧の仕方をろくに教わらなかったのも頷けるわ」

 ささは、あまり聞いていなかった。じっと俯き唇を噛みしめていたが、ふいに手を伸ばして鏡の向きを返し、胸にだいた。立ち上がり、部屋のあちこちを映しながら歩き回る。奇妙な動作に、濃姫が眉を上げる。ささは、窓辺に立った。鏡に映っているであろう青空を想った。

「私はこの鏡のようになればよいのですね」

 濃姫に背を向けたまま、ささは静かに言った。濃姫は白粉を箱に戻した。

「そうじゃ」

 ささが、振り向く。日の光を浴びて黒髪が艶やかに煌めき、すっきりと伸びた背と細い肩は水仙の茎のようだ。瞳は吹きわたる風のように澄んでいた。濃姫は一瞬息を飲んだ。鏡に、己のそんな表情が映り、口元を強張らせて強く見返す。すると再び、そこに立っているのは、鏡を抱いた痩せた少女にすぎなかった。

(…この娘は、もしかしたら、見かけ以上のものを秘めているのかもしれぬな…)

 ささは滑るように歩いてくると、ぎこちなく裾をさばいて元の位置に座り直した。

「精進してまいりたいと思います」

 普段と変わらぬ声で言い、鏡を静かに置いた。


「そなたの名称を考えねばならぬなあ」

「名称、にございますか?」

「家臣や侍女にまで笹と呼ばせ続けるわけにはゆかぬ。我が名の濃姫とて本名ではない。美濃出身の姫、という意味で、殿に嫁いだ後に賜った名じゃ」

「あ、そうなのですか」

 それは初耳だった。しばしためらった後に、ささは尋ねた。

「…本当の名は、何とおっしゃるのですか」

「それはまだ秘密じゃ」

 言いさして濃姫は、悪戯っぽい顔になった。切れ長の目がおどけた色を含み、ふいに茶目っ気のある印象になる。

「そなたが真に殿の側室にふさわしき女性にょしょうとなったあかつきに、教えて進ぜよう。この鏡と共に、とらしてつかわす。それが、私からの褒美じゃ」

 ささの頬がほんの微かに動いた。あるかなしかの笑みが一瞬そこに浮かんだようだった。

「はい。楽しみにしております」

 濃姫もあでやかに微笑み返し、それから背筋を正して威厳ある表情に戻った。その場に控えていた侍女達にもはっきり聞こえるよう、凛とした声で告げる。

「そなたの居城は、ここ安土城。よって只今から、そなたを安土あづちと呼ぶ。よいな」

 その名の重さに、侍女達がざわめく。ささは、己の新しい名をゆっくりと口にする。

「…安土」

 それはまさに、『鏡』にふさわしい名。城だけでなく、栄える城下町を、それを包み込む空を風を湖を、全てを映しだし煌めく鏡となる女性の名であった。

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