第2話 信長

 天正てんしょう六年夏。安土城下町――――。


 二年前、この地に城を移した織田信長おだのぶながが楽市令を発布してからというものの、琵琶湖を臨むこの街はいよいよ栄え、活気を増すばかりだった。見世棚には南蛮伝来の珍しい皿や人形が並び、威勢のいい掛け声が飛び交う。琵琶湖からとれる豊富な貝や魚を安く食することのできる人々の表情は明るく、艶々と血色良く光っていた。

 子供達が声を立てて笑いながら駆け抜ける大路に、その小屋はひっそりと建っている。両脇の華やかな出店にかき消されそうに暗く、もう長いこと誰も出入りしていないのが一目で分かる。格子窓にひっかかった紙切れはぼろぼろに歪み、風が吹くたびにぴらぴらと踊ったが、「あめ」という文字が辛うじてまだ読み取れた。

 小屋の戸をくぐって裏手口を出れば、町の喧騒とは別世界のように誰もいない竹林が一群れ、さやさやと揺れている。林の中には、笹の葉を被り雨に削られて角のとれた、古い古い石の祠がぽつんと佇んでいた。

 上等な山吹色の着物に土がつくのもかまわず、一人の少女が祠の前にしゃがんで手を合わせていた。閉じたまぶたに日の光が踊り、少女の肌を琥珀色に輝かせた。朝、奉公先の呉服屋から荷物を全て引き上げ、両手をついて大旦那様と一人娘と番頭に挨拶を済ませてから、少女は真っ直ぐにここへ来た。そうして手を合わせ、目を閉じて、笹の葉の鳴る音を聞いていた。

 かつてここが彼女の家で、竹やぶのささめきは彼女の子守歌だった。

 表で荷車の音がした。少女は目を開け、祠の中で穏やかな微笑みを浮かべるお地蔵さまをしばし見つめた。

「さようなら」

 微かな呟きが、唇から漏れる。

 それから少女はさっと立ち上がり、足早にその場を出て行った。


 表では、行李こうりを二つ積んだ荷車と車借しゃしゃくが一人、それに眼付きの鋭い二本差しの中年の男が二人、彼女を待っていた。髪に白いものの混じった年配の侍が口を開いた。

「おささか」

「はい」

「荷物は本当にこれだけでよいのだな」

「はい」

「では、ついて参れ」

 侍は背を向けた。ささという名の少女は、黙って後に続いた。

 日本一大きな湖のほとりとはいえ、夏の日差しは容赦なく照りつけた。ささも前を行く侍たちも、しょっちゅう懐紙で汗を拭わなければならなかった。そのうちに、冷や水売りの声を聞くだけで、ささの口の中には唾が湧いてきた。

 ささが三年間奉公した、町一番の呉服屋の前は通らずに、四人は北大手路を歩いていた。ささの静かな表情は、いつもほとんど動くことがなかったが、それでも目指す建物が少しずつ迫ってくるにつれ口元が強張った。

 想像を絶する、巨大な輝く城。

 安土城あづちじょう

 六階七層もあるという城郭がぐんぐん大きくなってきて、やがてささがいくら首を曲げても金色の天守が見えなくなるくらい近づいたころ、四人は城の周囲を隙間なく囲む石垣に沿って歩いていた。もう町人の姿はほとんどなく、武士や、城勤めと思しき女中達、それにお供を連れて歩く武家女房達の姿が目立つ。これから自分の世界はこちらなのだと思うと、ささは身が引き締まる思いがした。

 天守台南西に位置する、百々橋という名の端を渡ったところで、ささは待ち構えていた女中頭に引き渡された。

「では、この者は任せる。くれぐれも粗相なきよう」

「承りました」

「我らはこれにて」

「ご苦労様にございました」

 女中頭にならい、ささも頭を下げた。そして彼女は、安土城に足を踏み入れたのだった。


 寝泊まりする大部屋に行李を運び入れた後、ささはすぐに仕事部屋へ連れていかれた。襖が開いた瞬間、ささは目がくらみそうになった。ついでに、焚き染められた濃い香にむせこみそうになる。

「そなたが扱うのはこちらの、お屋方さまのお召しになる長絹ちょうけんじゃ。あちらの反物は奥方さまのお召しになるもの、そなたは手を触れても近づいてもならぬ。そなたは大層仕立ての腕がよいときいておる。分からないことがあれば、このゐよに訊ねよ。…ゐよ、後は任せる」

 背中を丸めて反物を広げていた小さな老婆が、慌てて手をつき深々と令をした。結局、自分が案内してきた娘にはろくに目もくれずに、女中頭はさっさと出て行った。

 ささは老婆の隣に膝を揃えて座ったが、その目はまだ、蓋の開いた大きな行李にひきつけられていた。黒、紅、金、銀、ありとあらゆる色の反物がぎっしり詰まっている。呉服屋でも、これ程の上等な反物をいっぺんに見たことはない。

「長めのたんが木綿、短い反が長絹になります。お屋方さまは派手な色をお好みになりますんで」

 おずおずとした声に、ささは振り向いてゐよを見つめた。老婆は上目遣いにこちらを見ており、首を縮めたその恰好は年寄りの亀を思わせた。

「私はゐよと申します。あんたさんの世話をみるよう仰せつかっております。はあ、よろしくお願いいたします」

「笹にございます。お見知りおきを。…お屋方さまというのは、織田信長公のことですね?」

 ゐよは一層首を縮め、頷いた。では、これから自分が触れ、扱う反物は全て、噂にしか聞いたことのない人物の着物となるのだ。

(私は凄い所に来てしまった気がする…)

 ささは早くも空恐ろしい気がし始めていた。するとゐよが、思いきったように顔を上げ、早口に囁いた。

「私らはしがない仕立て役の女中です。お屋方さまの目にとまることは滅多にありません。でも、これだけは言うておきます。安楽に死にたいのなら、決して、決して粗相はなりません。ええですか、あのお方の前では、縫い目一つでもいつ命とりになるか分かりませぬ。お気をつけ下され」

 ゐよの剣幕に、ささは気圧されながら、小さく頷いた。ゐよの顔に寄った皺が緩んだ。

「それでええです。お屋方さまは、恐ろしい方です。ご立派だが、それは、それは恐ろしい方です」

 まるで山から下りてくる野性の獣を語るような、畏怖と嘆きに満ちた声だった。が、『お屋方さま』の姿をまだ見てすらいないささには、間の抜けたように頷くくらいしか反応のしようがない。

 だが、精魂傾けて仕事に励めという意味で言われているのなら、理解できた。ささは、呉服屋の奉公人の中でも一、二を争うと言われるほど仕立ての腕がよかった。呪術でも使ったように真っ直ぐ布を裁つことがことができたし、縫い目はほとんど見えないほど細かい。安土城の女中という地位に抜擢されたのも、ひとえにその腕前ゆえであった。

 ささはずっと胸に抱えていた、黒い手箱を下ろして蓋を開けた。使い込まれて鈍く光る針を出し、冷静な声で言った。

「何から始めればよいでしょう」

 ゐよが、型紙を探してきてくれた。ささは糸を切り、仕事にとりかかった。


 数日の内にささはすっかり仕事を憶え、城での暮らしにもだいぶ慣れた。と言っても、寝床と台所と仕事部屋を行き来するだけの生活である。扱っている物は比べ物にならないくらい上等とはいえ、元の勤め先での生活とさほどの違いは生じなかった。そんなわけで、ささは手だけは忙しく動かしながらも、目と頭はしっかり周囲に巡らせることができた。あっという間にささは五十人近くいる女中達の顔を憶え、性格や上下関係を把握したが、その中に積極的に入っていくことはなかった。思慮深さも、鋭い勘も、明晰な感受性も心の中にひた隠し、ただ黙って針を運んでいた。十六歳という若さで女中に上がったささは始めこそ格好の噂の種、注目の的だったが、物珍しさはすぐに霧散した。どういうわけか女中達は皆、色が白くふっくらしていていつも華やかに身なりを整えていたが、ささはそのどれにもあてはまらなかった。幼い頃はいつも竹やぶで遊んでいたせいで、肌は色あせどちらかというと茶色っぽい。華奢でやせていて、竹のようにほっそりと背が伸びている。顔立ちは整っている方だったが、いかんせん愛想に欠ける少女だった。あまり笑わず、必要以上のことを喋らない。無駄話にもほとんど加わらない。結局は皆、不愛想な変わった子としてささを見るようになり、やがて半ばささの存在を忘れてしまった。白粉をほとんどはたかなくてもささの肌が滑らかできめ細かいことや、時折その大きな瞳が驚きや喜びに柔らかく輝くことに気づく者はいなかった。

 いつも独りぼっちでも、ささは寂しくも悲しくもなかった。孤独には慣れている。ささの人生から母が姿を消した時から、いや、その前でさえ、ささはいつだって独りだった。自分を守るために用心深く表情をつくっているうちに、いつしかあまり笑わない少女になった。人に心を許すことは滅多にない。仕事は好きだし、質素な服や手持ちの品の少なさにも不満はない。ささの世界は狭かったが、平穏だった。

 ささに友達とか仲間と呼べる人がいるとしたら、それはゐよだった。二十代から四十代の花盛りの女性がほとんどを占める中、老女であるゐよはささとは別の意味で浮いてしまっていた。ここに来た最初の時から変わらず自分を気にかけてくれるゐよが、ささは好きだったので、よく糸を針に通してあげたり、話し相手をつとめたりした。

 安土城は壮麗な城だったが、ささが生活しているのはその最下層のほんの一部だった。だから、ささは己の主君のことをほとんど知らないままで、噂の中の人物でしかなかった。

 ささが安土城に上がって最初の二年は、淡々と過ぎた。

 このままの日々がずっと続くのだと思っていた。


 年が明けて三月、ようやく雪が溶け始めた。春の訪れの予感に、城の雰囲気も何となく明るい。女中部屋で暮らしていると、その変化はもっと如実に感じとれた。女達が一斉に衿を抜き、柔らかそうな白いうなじをさらして赤や桃色の華やかな帯を締め始めるからである。

「笹ちゃんも、あんな綺麗な色のお着物をいっぺん着てみればええのに」

 ほんの少しうらやまし気に女中達を見やりながらゐよが言った。ささは反物を広げて長さを測りながら肩をすくめた。ささとゐよだけが、いつの季節も変わらず紺や茶の帯を締めている。

「私は肌の色が濃いから、似合わないわ。それにあの人達みたいに美人ではないもの」

「なに、色が白いだの顔が可愛らしいだけが、べっぴんの証拠じゃないよ」

 ゐよはきっぱりと言ったが、ささは少しも表情を変えずに鋏を動かしている。二年の付き合いで、この少女独特の、不愛想だがとっつきの悪いわけでもない態度にも慣れたゐよは、気にせずしゃべり続けた。

「大体笹ちゃんは、ここにいる誰より働き者だし、気立てだって悪くない。十八っていったら女の盛りの歳じゃないか。もっとお洒落をしてみりゃいいのに」

 第一、とゐよは声をひそめてちらりと廊下を見やった。今しも、化粧を直した女たちが高い声を上げて笑いながら通り過ぎて行く所だった。

「……私だったら、あんな派手な格好はしないね。あの子達ときたら、自分が何をしようとしているのか分かってないんだよ。いざお屋方さまのお目にとまったら、目も合わせられなくなるに決まっているのに」

 ささの手が、はっと止まった。どういうこと、と聞き返そうとしたその時、誰かが急ぎ足でやってきて緊張した声で呼びかけた。

「お屋方さまのお帰りじゃ。皆々、出でよ」

 ささはすぐに手にした布を置いて立ち上がった。後ろから、首をすくめてうなだれたゐよが小走りについてくる。

 仕事を放り出して集まってきた女中達が、広々とした座敷にずらりと勢ぞろいした。ささは一番端に加わり、皆と同じように正座して手をつき、深々と頭を下げた。

 からりと、遠くで襖が開く。お帰りなさいませ、と一斉に女達が口を揃える。それに答えることも、一瞬たりとも足を止めることもなく、人の気配が悠々と近づき、そして遠ざかっていく。

 外から帰った主君を女中達が総出で迎える、この瞬間が、ささが唯一、織田信長という男をじかに感じとれる時だった。ささは顔を伏せながら全身を耳にして、信長の足が畳を踏み、衣の裾が鳴り、微かに荒い息が空気を揺らす音を聞いている。おそらくそれは、どの女でも同じなのだろう。城の主にして今や日本を手中に収めようとしている天下人、信長の顔を、ささは二年間仕えていながら一度も見たことがなかった。

 今もささは、信長の袴がちらりと視界の隅をよぎるのを見ただけだった。と、ささの心臓が一つ飛んでなった。顔を跳ね起こしてもう一度確認したい気持ちを、やっとのことで抑え込んだ。

(あれは私の仕立てた、柏の袴だわ)

 柏の葉で繰り返し染めて黒くした、軽くあたたかな木綿。一針一針、自分が丹精込めて縫い上げた袴を、信長が身につけていた。

 主人の着物を仕立てるのがささの仕事なのだから、考えてみればごく当たり前のことなのだが、ささは嬉しくてたまらなかった。部屋に戻る途中も、ここ数年なかった程頬が緩んでいるのを感じた。二年間、顔も見ず声も聴くことのなかった主君に、自分は確かに仕えているのだと、ささは初めて実感したのだった。

 明るい気持ちでささが布を再び手にしたのとは反対に、ゐよは青ざめていた。全員で出迎えに出た後、ゐよは必ず恐怖に凍りついたようになり口もきけなくなっていた。主君に対しそこまであからさまな恐怖を表すのは、ささの知る限りではゐよだけだった。

「ゐよさん、大丈夫?」

 ささは手をとめ、そっと訊ねた。憂わし気な大きな瞳で覗き込まれ、ゐよは何とか微笑もうとした。

「ああ、ありがとう。ごめんよ…あたしゃどうしても怖くてね。いつ、何がお気に障って、あの方に殺されるかと思うと…」

 ささの細い眉がきゅっと真ん中に寄った。ずっと気になっていたことを、ささはついに口にした。

「ゐよさん。一体何をそんなに恐れているの。私達はただの女中で、お屋方さまの目にとまることはないんでしょう?」

「ご機嫌のいい時はね。でもね、あの方はそれは勘が鋭くていらっしゃる。桶狭間の最初の戦でも、今川様の油断にいち早く気づいて奇襲をしかけたから勝ちなさったという噂だよ。少しでも敵意を持たれれば、すぐお分かりになる。おまけにお怒りになった時の所業といったら…」

 ゐよが突然声を詰まらせ、ぶるぶる震えだした。かっと見開かれた目に尋常でないものを感じ、ささはぞっとした。それでも、辛うじて訊ねた。

「何があったの?」

 ゐよは我に返ったようにささを見た。それから力をこめて糸を噛みきったので、黄ばんだ歯茎に赤い血が滲んだ。

「笹ちゃんは知らなくていい。知らん方がいい。とにかく目立たないようにすることだよ。仕事をきちんとしていればいいんだ。いいかい、間違ってもお屋方さまのお気をひこうなんて馬鹿な真似はするんじゃないよ」


 そんな会話をしてから、ささはより注意深く周りを観察するようになった。城内のことを知りたければ、女達の会話に耳を傾けるのが一番だ。案の定、すぐに様々な噂が耳に入ってきた。

「お屋方さまの今朝のお着物を洗濯したんだけれど、火薬の臭いで鼻がもげそうだったわ。鷹狩りの最中、猪に出くわされたんですって。でも一発で仕留められたそうよ」

「お屋方さまの新しい馬、見た?それは見事な鹿毛!とってもお気に入りで、手ずから餌をおあげになるんですって。私もあの馬になりたいわ」

「今日、私が湯あみ係なの。この前お菊さまがお背中をお流しした時、肩に弾の痕があるのを見たらしいわよ」

「ちょっと、今日は私のはずよ。あなたは次の番でしょう。横取りするなら、お菊さまに言いつけるから」

……等々、半分以上は女達の熱っぽい思いで占められており、ささは後で独りになって頭の中を整理するのに苦労した。要するに、彼女達から見た主君の像はゐよのそれと大分異なっており、強く勇猛な、憧れの対象なのだった。

 ゐよは主君の話になると紙のように青ざめ、険しくも怯えきった顔で口をつぐんでしまう。だから、「お怒りになった時の所業」が何なのか、ささは聞き出すことができないでいる。

 誰かにこんなにも興味を持ったのは、生まれて初めてだった。それが何故なのか、ささには分からない。ただ、ささは自分の生まれ育った安土の町をここまで賑やかに活発に栄えさせ、見るも壮麗な城を築き上げた信長という人間を、まぎれもなく尊敬していた。その人のために、ますます心を込めて仕事に励み、一針一針に思いを込めた。

(お屋方さまがますますご健勝なさり、この国をどこも安土のように美しく豊かにしてくださいますように)

 ささは縫いかけの金と白の衣装を見下ろす。動かすときらきら光る、派手な色彩ではあるが、指に柔らかく、一点の曇りもない、夜明けの太陽の光にふちどられた雲のようだった。

 この布地で仕立てられた服をまとう人間が、心底から恐れられるべき鬼であるはずがなかった。


 初夏の日差しが降り注ぐある日――――丁度、ささが安土城に入った日のように晴れていた。織田信長は、琵琶湖に浮かぶ小さな島、竹生島ちくぶじまへ遊覧に出かけた。雄大な琵琶湖とのどかな島は彼の気に入りの場所であり、これまでにも数度訪れては近くの長浜城に住まう家臣・羽柴秀吉はしばひでよしの元へ一泊して帰って来るのだった。

 信長が多くの共を引き連れて出発したことを聞くと、侍女達の間から嬉し気な歓声が上がった。

「ああ、それじゃ今日一日は羽を伸ばせるのね。嬉しい!」

「私、町で新しい帯を買いたいわ。一緒に行きましょうよ」

「あら、私はせっかくだから実家に顔を出そうと思って」

 思いがけない休日にはしゃぐ彼女達に、しかしゐよは凄い剣幕で反対した。

「冗談じゃないよ。あんた達、勤務中の外出は禁じられてるだろう。勝手なことをするんじゃない。お屋方さまに知れたらどうなるか」

 だが、本気で怯えるゐよに向けられるのは、侮蔑と嘲笑だけだった。結局、ゐよの必死の説得も空しく、ゐよとささ、それに下女達を除くほとんど全ての侍女が出かけた。

(忠誠を誓うと言っても、この程度か)

 ささは内心呆れながら、いつものように淡々と仕事をこなしていた。がっくりと座り込んだゐよの顔は死人のように蒼白で、手はわなわなと震えていた。

「冗談じゃない…冗談じゃないよ」

 呟き続けるゐよが気の毒になり、ささは針と布を置いてそっとゐよの肩を撫でた。

「お屋方さまは一晩お泊りになるんでしょう。大丈夫よ、きっと何事も起こらないわ」

「あんたらはあのお方がどんなに気まぐれか知らないんだよ。無断で外出したあの子らだけじゃない、ひきとめられなかったあたし達にまで、どんなお怒りが下るか」

 頑固に繰り返され、ささは微かな苛立ちを覚える。だが同時に、強い哀れみも湧き上がってきた。ささの知る主君は、天下に敵の無い負け知らず、戦好きにしてたぐいまれな武運と武力を備えた勇猛な武将だった。その印象が、年老いたゐよには恐ろしく思えるのかもしれない。

「そうしたら、全て私が引き受けるわ」

 ささは静かに言った。ゐよの手をそっと握り、その驚愕の眼差しを揺るぎなく受け止めた。

「ゐよさんの分も、あの人達の分も、私の分も。罰があるのなら、全て私が引き受ける。約束する」


 夕方になっても侍女達がほとんど戻ってこないことに、ささは嫌な予感を覚え始めていた。ゐよと二人がかりで、丸一日かかってようやく凝った刺繍を仕上げた時、その報せは一人の下女によってもたらされた。

「大変でございます。お屋方さまの舟が、こちらへ向かっているそうでございます」

 ささとゐよの手から同時に着物が落ちた。今度ばかりはささの顔もゐよに劣らず青ざめた。二人は顔を見合わせ、鏡に映したように同じ感情がそこに浮かんでいるのをみとめた。下女は手を揉みしぼった。

「いかがいたしましょう。侍女の皆様は、まだ一向にお戻りになる気配もなく」

「…今この城に、女は何人残っているの」

 ささが声を発した。その瞳が、きらめいた。

「侍女はお二人のみ。下女は合わせて四十名ほどにございます」

「それだけなの。下女達も、結局は外出してしまったのね」

 ささは膝から針と糸を払い落とし、すっくと立ち上がった。その表情が、あたかも戦に赴く武士のように張りつめているのを見てとり、ゐよがようやく声を取り戻した。

「笹ちゃん…あんた、どうするつもりなんだい」

「いつもの通り、お屋方さまをお迎えする準備を整えて。全ていつもと変わらぬよう、とにかく残った者で力を合わせて、支度をなさい。お出迎えは、私が」

 下女が無言で一礼し、走り去ると、ゐよがささの手にしがみついてきた。今やその飛び出しそうな眼は、恐怖だけでなく涙で一杯だった。何か言おうとするのに、ささは被せるように言った。

「私はお屋方さまにお仕えする侍女。あの方に尽くす女。たとえ一人だけでも、それは変わらないわ。どのような罰を下されようとも、何が起きようとも、私は喜んで引き受けてみせる」


 ささはほとんど表情を変えず、たった一人でてきぱきと下女達を指揮してまわった。下女達の方でやるべきことをきちんと心得てくれていたので大いに助かった。ささの顔は青ざめたままだったが、その態度はいつもとほとんど変わらず落ち着き払っていた。本当はゐよにも手伝ってもらいたかったのだが、錯乱しきったゐよは両手をこすり合わせてぶつぶつ何か呟きながらうろつき回るばかりで、何の役にも立たなかったのだ。とうとう全ての支度が整った時、ささは心身共にくたくただった。数人の下女に命じ、ゐよを女中部屋で休ませると、ささはたすきをとり深呼吸した。髪を直し、衿を軽く整える。明るい萌黄色の小袖と小花の刺繍が散った帯は、ささの持つ着物の中で一番上等なものだった。だが、ささの心は、身だしなみを整えたくらいでは少しも慰められなかった。

(他の侍女達に比べたら、どうしようもなく平凡なこの顔で。この肌で。天下を手中に納めんとする、あのお方にお会いするなんて…どれ程お屋方さまはお怒りになるだろうか)

 せめて態度だけは、堂々としていよう。さっさと遊びに出かけたのは自分ではないのだから、いつもの通り落ち着いていよう。

 いくら言い聞かせても、しかしささの心は激しく揺れるのだった。


 ささは両手をつき、顔を伏せて待っている。しんとした部屋の空気がぴりぴりと肌に痛い。やがて、襖がからりと開く音がした。ささは目を閉じ、そして開くと同時に声を張った。

「お帰りなさいませ」

 歩幅の広い足音が近づいてくる。それは、ささのすぐ前でぴたりと止まった。恐ろしい沈黙が落ちた。ささは畳の目を見据えたまま、じっと待った。不思議と心は静かなままだった。

「侍女がおらぬな」

 その時、信長が言った。よく通る声に、ささの背がびりびりとしびれた。

「しばしの間、私がお屋方さまのお相手をつかまつりまする」

「そちだけでか」

「はい」

「他の者はどこにおる」

 ささは一瞬息を止めた。信長の声は静かだったが、その裏にある暗く熱いものをささは鋭く感じ取った。まるで、漆黒の夜にくすぶる熾火のようだ。

(それがいつ私に降りかかるのか)

 ささはしっかりした声で答えた。自分でも驚くほど、澄んで響く声が出た。

「おいおい皆参上するかと存じまする」

「おいおい、のう」

 信長は鼻で笑った。

「わしが帰らぬと思うて、皆出かけおったな」

 熾火が、火の粉を散らして燃え上がった。ささは腹に力を込めた。

「仰せの通りにございます」

 明朗な返答に、虚をつかれた沈黙があった。信長は先ほどから一歩も足を進めず、平伏した一人の侍女と言葉を交わしていた。ささには見えなかったが、信長の後ろに控える二人の小姓が戸惑った視線を交わしている。

「そちは、他の侍女を庇わぬか」

「いずれ知れることでございます。それに、私はお屋方さまの侍女にございます。お屋方さまに嘘偽りは申しとうありませぬ」

 ささはためらうことなく言い切った。それらは全て、ささにとっての真実だった。

「ふむ。上に仕える者として当然の心構えじゃな。しかしそれをはっきりとわしに申した者はこれまでおらなんだ。…そちの名は、何と申す」

「笹にございます」

「笹、か」

 一介の侍女にすぎない自分の名前が、今、主君の声によって紡がれた。ささの総身が打ち震えた。

「笹、面を上げよ」

 一見冷たくありながら、その奥に熱い炎を秘めた声がささを呼んだ。ささはゆっくりと身を起こした。そして、初めて信長の顔を見た。

 ささの前に立っていたのは、すらりと引き締まった身体つきの壮健な男だった。黒っぽい小袖と袴を身につけ、思いのほかほっそりとした手を脇の二本差しにかけている。それだけで、油断の一分もない姿勢が見てとれた。髭のそれほど濃くない端正な顔の中から強く光る眼を、ささは見返しているのだった。

(この方が、天下人…織田信長公)

 その名にあまりにふさわしい、あまりに恐ろしい威厳を、あまねく大名と庶民を震え上がらせる力を、信長は発していた。

 だが信長の方も、並々ならぬ興味を持ってこの風変わりな侍女を見ていた。ささはやせていて日に焼けた肌をしており、目に立つ美貌というわけでもない。しかしその細い背は馬上の武士にも負けずぴんと伸び、大きな黒々とした目は何のてらいもなく真っ直ぐに信長を見つめていた。他の女達のような媚を一切持たない、静かな眼差しだった。

 信長に見つめられ、ささは心臓を射抜かれるような心地だった。今までささが用心深くよろってきた心を、これほど深くまで貫いたものはなかった。心の壁が脆く崩れ落ちていくのを感じながら、ささは口を開いた。ひどく無防備な、率直な言葉が飛び出した。

「お屋方さま、お言いつけに背き侍女達が外出したこと、まぎれもない罪にございます。されど、彼女達を止められなかった私にも、罪はございます。どうか、罰があるのなら、この私にも、等しくお与えくださいませ」

「自ら罰を与えよと申すか」

 信長は軽く笑った。愚かといえばこの上もなく愚かな申し出であったが、この率直な少女を今や彼は面白がっていた。初め、広い座敷にこの娘しか控えていないのを目にした時に湧き上がった腹立たしさは、いつしか消えていた。

 ささのひたむきな眼差しをとらえ、信長は言った。

「そちはわしが怖くないか」

「少し、怖いです」

「少し?」

「はい」

 ささは小さく息を吸い込んだ。

「されど、怖いと思う以上に、お慕い申し上げております」

 それを聞くと、信長は苛立たしげな顔をした。

「口では何とでも申せよう。おなじことを口走りながら、わしとの盟約を破った者は多くおるわ」

「ならば、お試しくださいませ」

 ささはすぐに言った。

「私を罰してくださいませ。いかなる罰でも、お屋方さまより下されたものならば、ささは本望にございます。甘んじてこの身にお受けいたしまする」

「面白い」

 こちらもためらうことなく信長は応じた。熾火を何とか熾火のままおさめたことを、ささは知った。すると、信長は声を大きくして、背後の小姓達を呼んだ。

「蘭丸、門人達に伝えよ。侍女達が戻ってきたあかつきには、全員数珠つなぎにして土牢に放り込め。そのまま食事を与えず、三日三晩留め置け、とな」

 ささの顔が凍りついた。信長はささを見下ろし、にやりと笑った。

「そちの扱いは、追って沙汰する」

「…はい」

 ささは深くひれ伏した。そうして、ようやく去ってゆく信長の足音を聞いた。


 その日、全ての仕事を終えてささが部屋に戻れたのは、いつもよりずっと遅い刻限だった。壁に額を押しあて、ささはしばらく動くことができなかった。今日経験した全てのことが、頭の中をぐるぐる回る。

(私は、私にできることを全力でやった)

 だから、悔いはなかった。それに、ゐよが口走っていたように、侍女たちが生きながら焼き殺されることにもならなかった。

 ささはふっと息をつき、髪を縛っていた色紐をといた。後は台所に行って食事をとり、信長の命令を待つのみだった。


 温かい粥を何とか流し込み、ささが部屋へ戻ってすぐに、使者が訪れた。蛇を見たかのように、ゐよが悲鳴を上げて腰を抜かす。だがささは、たった今告げられた言葉を信じられずにいた。

「あの…今、何と」

 自分ではないような声で、問い返す。まだ若い小姓は、感情をおし殺した声で繰り返した。

「今宵は上様うえさまの寝所へ参るように。夜伽をせよとの仰せである」

 全く聞き慣れない言葉が頭の中に沁みこむまで、ささはしばらく待った。それから、頷いて無表情で言った。

「しかと、承りました」


こうしてその夜、ささはゐよと下女達の何ともいえない複雑な視線に見送られ、一人で天守閣に上った。自分を見る彼女たちの眼差しに、驚きと羨望が入り混じっていたことにささは全く気づかなかった。着替えの際に髪を梳いてくれたゐよが、

「お屋方さまがねえ…まさかこんなことになるとはねえ。まさかあんたを見初められるなんて」

 とため息混じりに言った時も、何のことか分からないでいた。

 ささは、小姓の言葉を聞いた時、ああそういう形で来たか、と思ったのだった。まだ十八歳で、仕事ばかりの毎日を過ごしてきたささは、男女のことなど何一つ分かっていなかった。ただ、夜伽をつとめる、という言葉とその意味は知っていた。

(それを罰にするか。……貞潔を失わせるということを)

 ささは、今日初めて声を聞き、顔を見た主君に抱かれることを、そう受けとめた。恐れようにも、まるで知識のない方面のことなので恐れようがない。だが、他の侍女達と共に牢に入れられる方がましだったかもしれないとは思った。

 ゐよは、何も教えてくれなかった。人生経験を積んだ老女らしく慎みのある沈黙を守り、ささが身なりを整えるのを手伝ってくれた。もう錯乱せず、わめきもしなかった。そんなゐよの言動がささには不可解だったが、亡くなった妹の形見だと言って髪につける香油を貸してくれたのは有難かった。

「私の娘時代には滅多になかった南蛮物でね。お屋方さまは、南蛮の品物がお好きだというから」

 そう言ってゐよが丁寧につけてくれた香油は、ふわりと甘い花の香りがした。嗅ぎ慣れない香りは、ささの胸を余計高鳴らせると同時に、不思議な落ち着きをももたらしてくれた。


 とうとうささは、信長の寝所に案内された。次の間までは、小姓の森蘭丸が案内してくれたが、その彼も主君に声をかけるとすぐに退出した。

「笹か。面を上げよ」

 平伏したささに、信長が命じる。ささはゆっくりと顔を上げる。すだれの向こうで、信長の影がぼやけて見える。

「近う寄れ」

 ささは、浅く息をした。そして立ち上がり、すだれをくぐった。

 薄暗い寝所で、白い寝具が浮いて見えた。その横に、黒い着流し姿で座していた信長から二歩ほど離れた所に、ささは正座した。髪を下ろした信長は、いかめしい武人らしさが昼間より幾分薄れて見えたが、今のささには何の慰めにもならなかった。流石に目を合わせられないでいるささの姿に、信長は軽く笑った。

「昼間ほど威勢はよくないと見える」

 ささは、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。喉がからからで、声が出ない。強張ったささの表情を見るや、信長は苛立たし気な声になった。

「何じゃ、その顔は。…そちはいかなる罰でも甘んじて受けると申したな」

「申しました」

 ささはやっとのことで答えた。

「ならば寄れ。もっと近くじゃ」

 ささはわずかに膝を進めた。と、突然信長が手を伸ばして彼女の手首をつかみ、強く引き寄せた。体の均衡を崩し、ささは前へ倒れこむ。思わず上げた悲鳴が、信長の夜着に吸い込まれて消えた。

 つかまれた手首が熱い。広く固い男の胸からささが何とか顔を起こそうとした時、帯が素早く緩められ衿を肩から落とされた。崩れた襟首から滑り込んだ信長の手が、ささの背をじかになぞり、撫で上げる。ふいにささは、自分が全くの無知、無防備なままここにいることに気づいた。素肌を温かな手にじかに探られ、ついにささの感情を抑えつけていたものがはじけ飛んだ。ささの口から、混じりけのない恐怖の悲鳴が飛び出し、夜の闇を鋭くついた。

 と、始まった時と同じくらい唐突に、信長の動きが止まった。ささはびくりと震えたが、逃げようとはしなかった。だが信長の手はささの細い背の上でとまったまま、いつまでも動かなかった。

 沈黙の中、かたかたと音がきこえる。ささの歯が鳴る音だった。

 ささは固くつぶっていた目をそっと開け、前のめりに倒れこんだ不自然な格好のまま信長を見上げた。ひどく驚いたような、当惑したような眼差しが彼女を見返した。

「そちは…何ゆえここに参った」

 奇妙な質問だと、ささは遠くで思う。答えようとしたが、声がひどく震えて、言い直さなければならなかった。

「罰を。受けるために、ございます」

 信長の目に、不思議な光が浮かんだ。背筋をするりと下から上へなぞられ、ささの息が再び止まる。だが、温かく長い指は慎重にゆっくりと動き、ささの心に恐怖以外の感情を残した。信長は衿から手を抜いたが、もう片方の手はささの手首を握ったままだった。

「わしに召されるという意味が、そちは分からぬか」

「は……?」

「この城に仕える女の半分は、それが目的じゃ。この信長の目にとまり、側室に召し抱えられ、のうに次ぐ地位を得たい、とな」

 濃。それが『奥方さま』、すなわち信長の正室である濃姫のうひめのことだと気づくまで、少し時間がかかった。ささはぽかんとして信長を見つめた。それから突然、帳が切って落とされたように、ゐよの言葉の意味が、そして侍女達が日頃から競い合って着飾っていた意味が分かった。

(つまり…これって、罰というよりは最高の名誉…?)

 少なくとも、彼女達の尺度で考えるなら、だが。

 ささの全身から力が抜けた。その時、自分がどれだけ緊張し、未知のことを恐れていたかが分かった。信長はそんなささに面白がるような目を向けた。

「そうと分かっておれば、そちも喜んでここへ参ったであろうの」

 すっと手が離れる。その時ささが感じたのは、安堵ではなく切羽詰まった寂しさだった。なぜそのような気持ちが自分に訪れたのか、ささには分からない。罰を与えられるためではなく、望まれてここにいるのだと分かった時、ささの中には既に変化が生じていたのかもしれない。今までささは、これほど近くに人肌の温もりを感じたことはなかった。また、これほど強引に触れられたこともなかった。その熱はささにとって、決して嫌なものではなかった。

「いいえ」

 ささは囁いた。

「いかなる意味があろうとも、私が己の意志でここに参らなければ…私にはやはり、牢に入れられるのと同じ苦しみであったでしょう」

 その言葉に、信長の表情が変化した。ささは少し泣きそうな目で、信長を見上げていた。潤んだ大きな瞳は光を吸い込んで光り、肌は白と琥珀の狭間の色合いに揺らめいた。折れそうに華奢な、柔らかい体が信長に寄り添っていた。

 二人の間で止まっていた動きが再開されたとき、ささのとけた黒髪から甘く花が香った。再び手首を握られ、ひらかれ、体ごとゆっくりと巻きこむような形で寝具の上に押し倒された時も、ささは抗わなかった。ただ、静かに目を閉じた。


 夜が更け、そして明けた。やきもきして待ちわびていたゐよの元に、けれどささは帰ってこなかった。昼になり、日が傾いても、ささは現れない。代わりに信長付きの小姓がゐよを訪れ、告げた言葉に、ゐよはその場で腰を抜かした。

 それから更に二日が経ち、やせ衰えた侍女達が牢から戻ってきた。そこで彼女達は、いつも大人しく部屋の隅で縫物をしていたささが、彼女達の浅はかな行いのせいで二度と戻らないことを聞かされ、唖然としたのだった。すなわち、


 安土城の侍女、笹を、主君である織田信長公の側室として召し抱える――――。
















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