たん、とん、とん

ritsuca

第1話

 石畳を歩く音は、軽い。


「やあ、おはよう。今日は早いね」

「おはよう。今日は日が昇るのが早かったから」

「ああ、そうだね。今日は暖かくなるかな」

「なってほしいね。またね」


 手を振り笑顔で別れる。お互い名前を知らないなりに、毎朝欠かさず挨拶をする。近所づきあいですら碌にしていなかった自分にしては、大した進歩だと思う。ここに来て半年、初めの頃よりは流暢に話せるようになったのではないか。

 仕事が直接の原因ではなかったのだけれども、体質的に元々問題があったところに、仕事と季節変動のダブルパンチでみるみるうちに身体を壊して、仕事を続けられなくなった。今は、休職中だ。環境を変えてみるのもいいんじゃないかと周囲に勧められるままに埃をかぶっていたパスポートを取り出して、今に至る。

 ここは、ハンガリー。残念ながらこの国の事情に詳しくて選んだわけではなく、たまたまテレビで見た温泉に心惹かれてふらりと滞在を決めただけなので、物価も何もさほど詳しく調べることはなく、スマートフォンと3組程度の服、ハンガリー語のテキストを一冊と、お気に入りの食器を一組だけ持って、首都・ブダペストで家具付きの部屋を契約した。スーツケースどころか、大きめのリュック一つで事足りてしまう、出国だった。

 幸い貯金はあったし、日本で借りていた部屋は引き払って、残したいものだけ実家に預けて出てくることができた。健康な両親と心の広い弟、それから、フリマアプリに天晴れ。

 いまの日課は、散歩、朝食、語学学校、昼食、語学学校の課題、夕食。そして、ときどきの温泉。当初は療養名目だからと特に語学学校に通う予定もなかったのだが、仕事も何もなくのんびりする、という行為に罪悪感を覚えてしまい、今に至る。結果として毎日出会う人たちへの挨拶にも困らないようになったので、よかったのだろう。

 石畳を歩く音が軽いのは、大した荷物を持っていないから。踵の硬い靴を履いていないから。さして急いで歩いていないから。

 通りに植えられた木々の影を踏み踏み、ゆるやかに歩く。アパートの中庭の緑を眺めるのも心地良いけれども、外を歩くのはそれとはまた別の心地よさがある。

 この角を曲がって、次の通りを渡ったところのパン屋さんには昨日行ったばかりだ。もう一つ先の角を曲がったところにあるカフェは、月曜日に行った。今日は金曜日。いいかもしれない。

 どこへ行こう、どう行こう。ぼんやり思いを巡らせて歩く時間は日本にいた頃にも得られた筈だが、記憶になかった。一体どうして暮らしていたのだろうとすら思ってしまう。

 そうして徐々に人が増えてきた石畳を、顔馴染みになった人々と挨拶を交わしながら歩く。

 朝の音、朝の匂い。景色をつくるものは目に映るものだけではない。知っていた筈なのに知らなかったことを、毎日思い出させられる。


『君はね、『朝を見る!』って毎朝カーテン開けて、にこにこしてたんだ。この街で迎える朝も僕は好きだけど、ハンガリーの朝もとても美しかったよ』


 ハンガリーに行ってみようと思うのだけれども、と告げたとき、父がぽつりと言った。

 私がずっとずっと幼く、弟がまだ生まれる気配すらなかった昔、ハンガリーにいたことがあるという話はきいたことがあった。物心がつくよりも前、両親が買ってくれていた何冊かの絵本と家族写真でうっすらと知る程度だった国のことなど、とうに忘れていたのだけれども、呼ばれていたのだろうか。

 街の中心にある聖堂の塔に朝日が当たる。今日も、朝がきた。

 残された滞在期間はあと少し。日本に戻った後のことはまだ決められていないけれども、今日も精一杯、満喫しようではありませんか。

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