第3話

こうなってくると意地も混じってきて、頑なにミヤと顔を合わせないようにしてしまう。その間をどんどんと埋め合わせるようにシャチのいる時間が増えていって、僕はもうどうする事も出来なくなっていた。そうしてシャチに恨みがたまっていくだけだったある日、僕は学校をサボるという理由を付けて海の見える丘へ登りに行った。すっかり寒くなった空気が目の前の景色をガラリと変えている。前に来た時は草が青かったかな、なんて思い出したらちょっと泣きそうだった。てっぺんの広場まで登った僕は、海が一番良く見える木製の柵に腰かける。雨風に晒されすっかり黒ずんだそれは体重を預けた途端「ぎい」と鳴いて、それきり何も言わない。


何の音もしなくなった丘で僕はただずっと座っていた。雲に混じって飛ぶ魚の群れも、枯れ草の間を進む色鮮やかな生き物も全部が何の音も立てない。緩やかに耳が聴こえなくなって行くような感覚は、心地良いようで不気味だった。もう間も無く完全に意識が溶け出るというその瞬間、僕の耳へ音が飛び込んで来て現実へと連れ戻してくれた。砂利を踏み、土を蹴る規則的なザリザリという音。誰かがこの丘へ登ってくる音。僕は、この足音の主が誰なのかを知っている。


自分の後ろ数メートルのところでピタリと止んだ足音に続いて、聞き慣れた声がした。

「ここに居ると思った。」

背中を向けたまま、「ここ以外に場所無いから」と返す。

「学校、いいのかよ。」

「ミヤもじゃん。」

「あ、本当だわ。」

ここで耐えきれずに吹き出してしまった。振り返ると、ミヤもぷるぷると震えながら笑いを堪えている。いつものシャチは居なかった。


他愛も無い会話を交わしながら、今度はミヤと一緒に柵に腰掛ける。今日もいつぞやと同じように遠くの水平線にクジラが浮かんでいて、 それをぼんやり見つめた。

「この前、俺が言った事覚えてる?」と、思い出したようにミヤは呟いた。なんとなくその話をされると分かっていて、だから落ち着いて「うん」と言えた。

「やっぱり俺、クジラと話せるっぽいんだよ。」

「知ってたよ。」

「なんで?」

「シャチと話してたから。」

ちょっと皮肉っぽくそう言うと、ミヤは同じクジラ目だもんなあと笑っていた。この話を聞くのは多分5回目くらい。前に話した時の不安げな様子はどこにもなくて、今日は自信に満ち溢れたような顔をしていた。


遠くから呼びかけるように、伸びやかに歌うクジラの鳴き声をミヤも僕もじっと聴いていた。ふとミヤの方を見たら、今までに見た事が無い顔をしているから驚いた。凪いだ海のように穏やかな顔をしている。つい見入っていると、だんだんと様子がおかしくなっていくのに気が付いた。風になびく黒い髪や眩しく光る白いシャツ、陽を受けて金色に見える目がどんどんと透けてぼやけていく。透けて透明になって、一面に広がる海と空の青色と混ざり出した。瞬く間にミヤが解けていって、ついに青色に取り込まれるというその寸前で僕はミヤの左腕を掴んだ。掴んだ左腕から一斉に広がるように黒や白、そして金色が戻ってきて、ミヤは無事ここに帰ってきた。

「何だよ、急に。」

何事も無かったかのように笑うミヤの声があまりにもクジラの歌に似ていて、僕はもう何も言えない。


翌日、いつ眠れたのかも分からないまま迎えた朝はクジラが運んできた。唸り、地響きのように伝わってくる歌うクジラの声で目が覚めたのだ。僕はその歌声に突き動かされて、家を飛び出ることしか出来ない。行く場所は言わずもがな分かっていて、いくら息が切れても足がもつれても、半分転がるようになりながらも走る事に全力だった。町の一番高い所にあるあの丘は、ここからでもよく見えるのだ。そして遠くそびえるゆるやかな山の斜面に、乗り付けるようにして巨大なクジラが浮かんでいるのを見過ごせない。


僕がついに頂上に辿り着いた頃には、汗やら涙やらで顔がぐちゃぐちゃだったと思う。当然のようにそこに、木製の柵の上に腰掛けるミヤはこちらを振り返って穏やかに笑っていた。僕はそれを見て咄嗟に言う。

「僕の事、置いて行くのかよ。」

「お前も俺のこと置いて帰ってたじゃん。」

「ああ、本当だわ。」

吹き出すミヤを見て、笑う気力なんてほとんど残って無いくせに僕はつられて笑ってしまう。こうしている間も、クジラは僕らの事をじっと見ていた。大きな目は人間のそれに似ていたけど、海と同じ色をしている。それからミヤの笑い声が止むと、クジラはまるでそれを待っていたかのようにミヤに続いて歌い出した。クジラの声をこんなに近くで聴いたのは初めてだからつい唖然としてしまって、気が付いたらミヤは既にクジラの背に登り始めていた。このままクジラに連れて行かれたらミヤが帰ってこないことなんて知っていたから、腕を掴んで引き戻そうとした。僕の右手はミヤをすり抜け、空を切る。あまりに一瞬の出来事で、行かないでとか元気でねなんて言える時間はくれなかった。


響き渡る歌声の中、ミヤが嬉しそうにクジラの背から手を振っていた光景が目に焼き付いている。それから僕がいくら泣いても叫んでもクジラは遠のくばかりで、ついには空と海の青色に溶けて見えなくなってしまった。息が詰まって空を見上げたらそこもやっぱり澄んだ青色で、溺れるような心地がした。



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快晴、たまにイワシ 黒瀬 @kez_965o

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