全国大会へ

 十一月になってもアルトは全国大会用の曲を練習しなかった。井上先生から何曲か全国大会で通用しそうな曲を選んではアルトに提示した。

アルトは一度楽譜を通しただけで暗唱する。それもすぐに弾きこなしてしまう。今、全国大会に出してもいいほどに。

音楽学校を出て自分も弾き、また数々の演奏家の話を聞くが、アルトの能力はなににも例えられないものであった。

「森君はどうしてすぐに弾けるようになるの。初見でここまで弾けるなんてめずらしいわ」井上先生はピアノを始める前にアルトに聞いてみた。

 アルトはピアノを前にして座り、井上先生の顔をみる。

「お母さんが言っていたことですが」アルトは鍵盤ひとつに指を落とす。

「世界中の人が理解できて、すごく昔の人の気持ちがそのままで言葉以上に通じることができるものが楽譜の中の音符だそうです。だから音符ひとつひとつの意味をわかってあげればどんな曲でも弾くことができる」

 アルトの指ではじかれる鍵盤はどこまでも響く。

「お母さんはすごく優しくて、僕の気持ちをすぐにわかってくれて。だから、ピアノがすごく上手で。僕もお母さんのようになりたいと思ってピアノをはじめたけど、ちっとも上手くできなくて。お母さんみたいになれない僕はだから、でも、だけど」アルトは袖で目を拭いた。立ち上がって走り出した。

 井上先生は「あ」と言ったけどアルトを止められない。虚しく右手だけが宙を彷徨う。腰が机に当たる。上に置いてあったいくつもの楽譜が床に落ちて散らばる。

 アルトは音楽室を出て、なおも走り続けた。

「もう、ピアノはやめよう」アルトは何度もそう言いながら走った。涙と鼻水が止まらない。「もう、できない」

 ゲタ箱のところに啓太がいた。

「あれ、今日はもうピアノは終わりなの」アルトの背中が見えた啓太は言った。

 アルトは振り向いた。啓太はアルトの背中を叩こうとしたその手を止めた。

「君こそなんでまだ学校にいるんだい。もうサッカーの練習はしないんだろう」アルトはハンカチをとりだして顔を拭いた。

「怪我の様子をみるために保健室にいた。それより」啓太は指をアルトに向けた。

「僕のことはもう放っておいて」アルトは体を向きなおしゲタ箱に行こうとする。

「なにがあった」啓太は声を落とす。

アルトの背中が震える。「僕、もう無理だ。もうピアノできないよ」アルトはゲタ箱にもたれかかる。

「どうした」啓太がゆっくりと近づく。

 廊下の端で井上先生が見ていた。ふたりがいるのを確認すると隠れた。

 アルトが振り向く。体全身は震え上がり、顔は痙攣していた。涙を堪えようとしているがあふれていくものはとめられない。

「毎日、僕お母さんのこと思い出すよ。お母さんが死んでいくところ、僕は、僕は。最後になにを言ったのかも毎日ずっと聞こえるんだ。お母さんががんばろうねって言ってくれたピアノを弾くたびにお母さんの手の温かいところとか思い出すんだ」

 アルトは両手で啓太の袖をつかむ。

 しゃっくりと嗚咽でアルトから言葉は出てこない。だけど啓太は待った。黙って言葉を挟まずにアルトの言葉を待った。

 アルトは啓太の袖をひっぱり、また押した。繰り返した。その力はだんだん強くなっていく。

「お父さんが、お父さんが言うんだ。お前が死ねばよかったんだって。なんでお前が生きてるんだって。瑠璃子を返せって僕を毎日殴ったんだ。あんなに優しかったお父さんが、僕を、僕を毎日殴るんだ」

「今は原じいちゃんところにいるから大丈夫だろ」啓太は言うがアルトには聞こえない。

「本当に僕が死ねばよかったんだ。僕が死ねばお母さんは助かったかもしれないんだ。僕が死ねばよかったんだ、僕が死んだほうがお父さんもあんなふうにならずにすんだんだ」アルトは泣き叫んだ。

 啓太はアルトの手を離して、アルトの両肩に手を置いた。

「バカなことを言うな。アルトが生き延びてピアノをすることがお母さんの一番のお願いだったんじゃないのか」

「もう、ピアノできないよ、無理だよ」アルトの頬を涙が伝う。

 啓太はアルトを見ることができない。啓太はどんなことがあっても相手から目を逸らすことがなかったのに、啓太はアルトから視線を外した。啓太の手も震えた。アルトの肩をつかむ力が強くなる。

「僕、もう一度、車にはねられる。僕はもう死んだほうがいいんだ。お母さんのところへ行くんだ」アルトは啓太を睨む。

 啓太は視線をあげる。その瞬間、アルトの顔を殴った。

「馬鹿野郎、お前が生きているのにはなんかの意味があるんだ。それを無駄にしてしまうのか」啓太の息がきれる。

「じゃあ、お母さんには意味がないっていうのか。なんだよ、すぐにぶって。暴力でなんでも解決しようとする野蛮人め」

 アルトの顔が腫れていく。

「僕のなにがわかる。知ったような口をきくな」アルトのツバと鼻血がとんだ。

「ごめん。オレついカッとなっちゃって。ごめんね。本当にアルトの言うとおりだ。オレ、本当にごめんなさい」啓太は頭を下げた。

「もう、いいよ」アルトはゲタ箱から靴を出して、履き替えて、校舎から走って出て行った。

 啓太は両手を膝に置いて、かがみこんだ。怪我をした傷が痛む。

 ふと横を見ると井上先生がいた。ふたりは目が合った。井上先生は啓太のそばまで歩いてくる。

「佐々木君、ごめんね。私が最初に余計なことを言って、森君のお母さんのこと思い出させちゃったの」伏目で井上先生は言う。

 啓太は横に首を振る。

「オレ、またやっちまった。どうしていつもカッとなっちゃうのか、わけわからないよ」啓太はまた首を振る。なにかを払拭するように頭を振った。

「あいつ、ピアノやめるって言ってた。どうしよう。オレ、アルトにピアノやめてほしくないんだよ。だってせっかく全国大会までいける実力あるんだぜ」井上先生にまっすぐな視線を向ける。

「オレ、同じ五年生なのにサッカーで全国大会までなんてまだ無理だから。しかも、オレはチームがあるのに、あいつはひとりだけの力なんだぜ」

 啓太は呼吸をひとつ置いた。

「だからアルトにはピアノを続けてほしい」

 井上先生は「うん」と力強く答えた。自分でも意外な声がでた。

「佐々木君、ちょっと職員室に来てくれないかしら。まだ川島先生もいると思うから」井上先生は言った。

「えー。かば子先生。まぁ、いいけど」と啓太は頭を掻いた。

 職員室に行くと川島先生は音楽室に持っていくお茶を用意しているところだった。

「あら、井上先生。森君はどうしたの。なんで佐々木君と一緒なの」川島先生は持っていたお茶を机の上に置いた。

「アルトはオレのせいで帰りました」

 川島先生は啓太の目を見る。川島先生は何度啓太の目を見たことだろう。いつでも啓太の目は同じ目をしていた。

 川島先生は「ふふふ」と笑い、啓太の頭の上に手を置いた。


 三人は職員室の片隅に座った。啓太はあまり話そうとしなかった。井上先生も言葉少ない。この日はもう他に人はいないから川島先生はいくらでも待つことにした。

陽が落ちる前に川島先生は啓太の家に連絡した。

「実は森君の演奏についてですが、地区予選のときは本当に素晴らしい演奏でした。それまでの森君のピアノはなんて形容したらいいのかわからないくらいでした。ですが予選が終わった後ぐらいから少し音が変わりました。なんというか大人しくなった感じがします」

 啓太は井上先生を見る。

「はっきり言いまして、関東大会はギリギリ合格だったと思います。このままでは全国大会優勝はとても難しいと思います。技術はありますが、心がありません。実はそれはすごく微妙な違いですが、コンクールにおいては大きな差となって出てきます」

 啓太はいつか姉が言っていた言葉を思い出す。武道において鍛えるべきもの「心技体」心が一番上になければ技も体も鍛えられない。アルトはその一番大切なものを失っている。いや、本当にそうなのか。

「アルトのお父さんが予選の終わった後、アルトの家に来ました。かなり酔っていて、ピアノをやめさせるようにしました。アルトはそのときまたつらいことを思い出したんだ。お母さんが死んだことと、死んでしまえと言われたことを」

 三人は黙った。啓太は右手を拳にして左手の平手で叩いた。啓太は立ち上がった。

「アルトに心がないなんてことはないよ。心だって閉じていない。井上先生の勘違いだよ。関東大会だってトップ通過に決まっている」

 啓太を見上げるふたりの教師に啓太は言う。

「アルトは優勝する。オレは信じている」

 啓太はランドセルを背負う。

「アルトは絶対負けない。お母さんが亡くなってもアルトはまたピアノを始めた。アルトは強いよ。オレなんかよりずっと強いよ」

 啓太は笑った。

その笑顔はふたりを圧倒するほどの艶やかな笑みであった。

職員室から啓太は出て行った。

その後姿をふたりは見送りながら、唇を強く結んだ。「さて」川島先生は膝を強く叩いた。

「十歳ぐらいの生徒に教えられましたね。教師が生徒を信じなくてどうしましょう。井上先生、森君を頼みますよ。佐々木君のためにもね」川島先生は井上先生に笑ってみせた。

 もう陽はすっかり暮れて夜になっていた。


 翌日アルトが学校に来ていて啓太は胸をなでおろした。啓太はなるべく自然にアルトと話さないようにした。アルトは前川と仲良くしている。それでいいと思った。笑い声も聞こえてくる。それだけで充分だった。

 アルトは放課後のピアノ練習を再開させた。井上先生はコンクールを意識した指導に入る。啓太の思いを無駄にしないため、またアルトの持ち味を消さないように意識する。

 啓太は井上先生にアルトのピアノ状況を尋ねる。アルトのピアノは変わらない。無機質になっていくのは相変わらずだ。井上先生はそのことは伝えない。アルトの調子の良さだけを教えた。

 啓太はそれを聞くと上機嫌に踊った。


 刻々と迫る全国大会。ある日の朝、啓太はアルトの調子の良さを聞いて職員室から出た。

 職員室前の廊下に村瀬英理子が立っていた。

「めずらしいわね、佐々木君が職員室から出てくるなんて。ひょっとして呼び出しかしら。ふふ」村瀬は笑った。

「うるさいな。ほら、職員室に用あるんだろ、いきなよ」啓太は体をずらして村瀬に譲った。

 村瀬は行こうとする啓太の背中のシャツをつかんでひっぱった。

「あなたに用があるのよ。ちょっと来てよ」村瀬は上目遣いで啓太を見つめる。

 村瀬について歩いていく。村瀬はその歩みをとめない。

「どこまで行くんだよ、もう授業始まるんじゃないのか」啓太は頭を掻きながらついていく。

「もう少しよ」

 村瀬は階段を上がっていく。啓太はなにも考えずについていく。

 そのふたりが歩いていくのを清水が見つけた。清水は無意識に距離をおいてついていく。村瀬の薄い青色の服が舞うように清水の目をとらえて離さない。その一番近いところでなんで啓太がいるのか、清水は追わずにはいられなくなった。

 屋上へ通じる扉の前で村瀬は立ち止まり、振り向く。啓太と目が合う。

「なに」啓太は言う。

「そんなに恐い顔しないでよ」村瀬は笑顔を無理にでもつくる。

「佐々木啓太君、あなたは森有人君と仲がいいよね。森君にピアノを薦めたのは啓太君なんだってね」村瀬は胸に手を置いて、呼吸を確かめた。

 屋上への扉の窓がやけに白く見えた。その強い光を背にして村瀬の表情は啓太からはよくわからなかった。

「アルトと仲がいいのは前川だよ。それにアルトはこの学校に来る前からピアノをしていたんだ。オレが言ってピアノをはじめたわけじゃない」啓太はまぶしさを手で覆う。

 村瀬は深呼吸する。

「私もピアノの全国大会に出るの、知っているでしょう」

「知っているよ。開校以来の快挙だって、憎たらしい教頭先生がこの前朝礼で言っていただろ。ふたりともすごいよな」

「本当。私のこともすごいと思っているの」村瀬は手を叩く。

 村瀬は首を横に振る。

「そういうことじゃなくて、啓太君、私、優勝したいのよ。ここまできたら。わかるでしょう」村瀬は咳き込む。

「私、森君のピアノを何度も聴いたわ。音楽室の演奏と地区予選と関東大会。私は森君のピアノを聴くたびに私もがんばろうって思ってここまで来たけど、だけど、どうしても森君には敵わないわ」

「なにが言いたいのか、さっぱりわからないよ」啓太は頭を掻いた。

「森君に全国大会辞退してほしいのよ」

「なに、辞退って」啓太は村瀬を睨む。

「コンクールに出るのをやめてほしいのよ」

「そんなこと、できるかよ」啓太はツバを飛ばす。

「どうして。私も啓太君みたいに優勝したいの。啓太君、サッカーで優勝したんでしょう。私も優勝したいの」村瀬の咳がとまらなくなる。

 村瀬の咳が階段に木霊する。

「アルトだって優勝目指して毎日がんばっている。そのアルトを今更やめさすこと、できるわけがないだろう」啓太は村瀬を見る。

「私がこんなに頼んでも駄目なの」村瀬の目に涙がたまる。

 階段下にいる清水は今にも飛び出しそうなのを懸命に堪える。

 学校のチャイムが鳴る。教室に戻らないと遅刻扱いにされてしまう。

「もう、行こう。授業が始まっちゃうよ」啓太は振り向こうとする。

「私、こんなに啓太君の好きなのに、私の言うこと聞いてくれないの」

村瀬は顔を赤くして言った。

 啓太は村瀬を見つめた。

「私、啓太君のこと好きなの。だから優勝して、おめでとうって言ってほしくて、がんばってピアノ練習したの」村瀬はうずくまって咳き込んだ。咳はなかなかとまりそうもなかった。

 村瀬はなみだ目になりながら顔を上げた。

「開発のお嬢様がそんなこと言うなよ。オレ、団地だし。清水か池上にしておけよ。清水は村瀬のこと好きだって言っていたし」啓太はうつむいた。階段の欄干に手をついてぶらさがった。

「開発、開発ってなに。開発の子は団地の子を好きになっちゃいけないの」村瀬は立ち上がる。すぐに胸が苦しくなって咳が出る。

 村瀬は震える体をこらえながら、欄干に手をついて階段を下りようとする。

 村瀬が啓太の横を通り過ぎるとき啓太は言った。

「村瀬、実力で優勝してみろよ。アルトよりもうまく弾いて、さ」啓太はブイサインをした。「村瀬だって全国大会でるぐらいすごいんだから、もう少しだろ」

 村瀬の震えがとまった。啓太をみる。ふたりの距離は触れるほどにあった。

「私が優勝したら、私のこと好きになってくれる」村瀬はまっすぐに啓太を見つめた。

 啓太は微笑み返した。

「オレ、優勝目指してがんばる人が好きだ」

啓太は元気よく答えた。

「ありがとう」村瀬は啓太の手をとって、強くにぎった。

 村瀬は手を離すと、手を振って階段を下りた。足取りは軽かった。

「啓太君、急がないと遅刻になっちゃうよ」村瀬は笑顔をつくった。涙がひとしずくこぼれた。

「おう」啓太は村瀬を追い越した。

 そこで啓太は清水とぶつかった。

「おわ、なんだ、お前」啓太は清水と思いっきりおでこをぶつけたので、怪我したところをさすった。

「佐々木が朝教室にいたのに今いないから呼びに来た」清水もおでこを押さえていた。

「清水君、いつからそこにいたの」

村瀬は耳まで真っ赤にしていた。清水は村瀬の顔が赤くなっているのに気がついている。

「たった今だよ。お前らふたりでなにしてるんだよ」清水はわざとらしい声で笑った。

「なんでもないよ。ほら、行こうぜ。村瀬も、ほら」啓太は村瀬を手招きする。

 清水は足がもつれて階段で転んでしまう。

「なにしてるんだ、お前は」啓太はため息をついた後、清水に手を差し出した。

 清水はその手を叩いてはじいた。

「なんだよ、お前人の親切を」啓太は手をあげようとする。

「うるせえ、足くじいたんだよ。そんな簡単に起きられないんだよ。さっさとふたりは教室に行けよ」清水は叫んだ。「痛い、痛い」とつぶやきながら。

「保険の藤田先生呼んで来ようか」村瀬が清水の顔を覗き込む。

 せっかく村瀬から声をかけてくれたのに、清水はまともに顔を見ることができない。

「いいよ、大丈夫だよ。オレは後から行くから。はやく教室にいきなよ」清水はうつむいた。

「お前もはやく来いよ」啓太と村瀬は走って行った。

「うるせー」清水の返事は誰にも聞こえていなかった。

 その日再び清水が教室に戻ってくることはなかった。清水はあの後、学校から帰宅してしまった。

 

 放課後。啓太は走った。

「おい、佐々木、お前今週は掃除当番だろ」学級委員長の池上慎一郎が箒を持って啓太を呼ぶ。

「悪い、再来週も掃除当番でいいから、今日は勘弁してくれ」啓太は手を上げて教室から走り去る。

「てめえ、絶対だな」池上の声が遠くなる。

 啓太はゲタ箱手前の廊下で隠れて息を潜めた。

五年二組の生徒が階段を下りてくる。最初に村瀬英理子がやってきた。ピアノ教室に行くために急いでいる。続いて男子生徒がやってくる。サッカーボールを持ってふざけあいながら靴を履き替えて下校していく。女子生徒も去っていく。

啓太は掃除当番を残して帰っていったのを確認すると立ち上がった。アルトの姿はなかった。ゆっくりと、もといた教室に戻った。

「ちょっと、あんた、そんなふうに座っていたら掃除ができないじゃない」

 教室前まで来ると桃子の声が聞こえた。啓太は教室を覗いた。

 一番前で座ったまま動かないアルトがいた。うつむき、膝をつかんで、小刻みに震えていた。前川がなだめる。桃子は箒の柄の部分を床に叩く。アルトはそれでも動けない。

 啓太は扉を開ける。

「あ、サボリ魔。どうした、やっぱり掃除しなくちゃ悪いなって思って戻って来たの」桃子が笑う。

 啓太は桃子を無視してアルトに近づく。

「アルト、どうした」

 アルトは啓太の声に反応するが、それも少し体が動いただけだった。

「わ」アルトが吐き出す声を出す。

「わからない。僕はどうしたらいいのか、わ、わからない。わからないよ。こわい。こわくて、もう、どうしたら」震えが激しくなる。

 啓太を見上げる。

「わああ」アルトは啓太にしがみつく。

 アルトのイスが転がる。足がもつれる。教室がアルトの声だけをこだまさせる。

 啓太は目を閉じる。

 桃子は箒を落として啓太を見る。箒の落ちる音が教室に響く。

「アルトはピアノを弾くのは好きかい」

 啓太は口だけを動かす。

「もし、ピアノがつらかったらやめてもいいと思う。無理にやらせようとしたのはオレなんだ。それで苦しいならやめてもしょうがないと思う」

 啓太は目を開ける。

「最初、アルトのピアノを聴いたとき、上手だな、すごいなって思った。やめないでずっと続けてほしいなってオレ、勝手に思ってた。ピアノの大会でも勝ち進んでいるし、せっかくピアノが得意なんだし、これはやめちゃいけないってすごく思った」

 啓太は再び目を閉じる。ゆっくりと深呼吸する。息を長く吐く。

「だけど嫌いなのを無理にやったって、これ以上は上手くならないよ。いくら才能があったって、それがつらいんなら上達しない。オレはどんなに怪我しても、疲れても、サッカーが好きだから続けていられる。サッカーが好きだから、もっと上手くなりたいって思う。だから好きにならないとやる意味がないよ」

 啓太は目を開けてアルトを見る。アルトは両手で強く啓太の袖を握って離そうとしなかった。

「オレ、サッカーの試合中怪我してさ、もう駄目だって思ったとき、アルトがいつか聴かせてくれたきらきら星を思い出したんだ。試合中、アルトはピアノ大会だったじゃん。そのとき、アルトも頑張っているんだなって思ったら気合い入ってきて、最後までオレもがんばることができた。アルトのおかげで優勝できたと思っている。だからアルトがピアノやめるって言ったとき、なんていうか、すごく嫌な、悲しくなったんだ」

 啓太はうつむきそうになる顔を堪えて、アルトの目をまっすぐに見つめる。

「だけど、もう、ピアノ嫌ならやめてもしょうがないよね。昨日、アルトからなにがわかるって言われたとき、本当にそうだと思った。オレ、馬鹿だからアルトのこと、なにも考えてなかった。ごめんな。ピアノでお母さんのこと思い出して、嫌になるよね」

 啓太はアルトの手を離した。奥歯を強く噛んだ。振り向いて教室の扉に歩いていく。

「啓太」桃子が手を伸ばすが、力なく下ろした。

「啓太君」アルトが立ち上がった。

 啓太が振り返る。

「僕、ピアノやるよ」アルトが声を大きくして言った。

「お母さんから教えてくれたピアノを嫌いになりたくない」

 アルトの目に涙がたまる。

 啓太の顔に笑顔が蘇る。桃子にその笑顔は強く目に焼きついた。

「アルト、今度の全国大会、お母さんに聴かせてやろうよ。アルトが強く弾けばきっと聴こえると思う」

「うん」アルトが歩き出す。

 啓太はアルトのランドセルと自分のランドセルを抱える。前川に手を振る。前川が頷く。

 アルトと啓太は教室から出て行った。

「おい、佐々木、掃除しに来たんじゃないのかよ」池上が叫ぶ。

 桃子が池上の背中を叩く。「ま、いいじゃないの。来週も私、掃除当番でいいからさ」桃子は声を出して肩をゆすって笑った。池上はズレ落ちためがねをしたまま、桃子を見た。桃子がなんで笑っているのか、よくわからないまま。


 音楽室では井上先生が鍵盤をひとつひとつ叩いていた。アルトが叩く鍵盤を同じようになぞってみる。どうしても違和感がある。教材用のピアノをアルトは高級ピアノに変えてしまう。澄んだ音、透き通った音、胸の奥まで響かせる音。同じ音なのに全然違う音。

 音楽室の扉が開いた。

「アルトを連れてきました」啓太が大きな声で言った。

 井上先生はイスから腰をあげてアルトにゆずる。「さあ、待っていたわ」

 井上先生は啓太の顔を微笑ましく見た。

「先生、オレ大人しくしているからさ、今日はここにいてアルトのピアノ聴いてていい」

「森君がいいって言うならいいんじゃない」

井上先生と啓太がアルトを見る。ふたりに見つめられてアルトは「うん。いいよ」と答えた。

啓太は「やったあ」と言いながら真ん中の席を選んで座った。

「いつも音楽の時間だと退屈そうにしているのに、どういう風のふきまわし」井上先生が啓太をからかうように言う。

「だって、アルトのピアノは先生と全然違うもん」啓太は舌を出す。

 井上先生は苦笑した。「このクソガキ」

「わあ、先生がそんなこと言っていいのかよう」啓太は指さして騒いだ。

「あんまりうるさいと音楽室から追い出すわよ。森君のコンクールが近いんだから」井上先生は拳をあげる。

「わかったよ。黙っているよ」啓太は体を縮めた。そっと耳を澄ませる。

 アルトは指の練習をずっと繰り返す。バッハ・平均律クラヴィーア。啓太は静かに聴いていた。繰り返される曲がなんなのかさっぱりわからなくても、聴いていて心地よかった。

 アルトは落ち着いて弾きこなす。曲が終われば次と、アルトは手を止めない。

 淡々としながらもやはりモノが違う。井上先生は近くで聴いていて涙がでそうになる。もう、嫉妬とかそういうものを超越していく。

 アルトが手を止めて「ふう」と息をついた。

「森君、疲れたでしょう。もう一時間ぐらいぶっ続けだものね」井上先生がアルトの肩に手を乗せる。「そこの問題児も疲れたでしょう。休憩にしますか」井上先生は顔をあげて言った。

 啓太は閉じていた目を開けた。「なに、終わったの」頬杖ついていた手をどけた。

「なに、あなた寝ていたの」井上先生が鼻息を漏らす。

「寝てないよ。ちゃんと聴いていたよ。余計なものを見ないようにアルトのピアノを聴いていたんだ。なんか洞窟みたいなところにいる感じだったな。でも暗くなくて岩が全部光っているみたいな」

「あら、わりと想像力豊かなのね」井上先生が笑う。

「いやあ、先生のピアノはよくわかんないけど、アルトのピアノはいろんな力が湧いてくるよ」啓太は力瘤をつくった。

 啓太はランドセルを背負った。「オレ、もう行くね。あんまり遅いと母ちゃんに怒られる。アルトはまだがんばるんだろ」

 音楽室の扉が開く。川島先生がお茶を持ってきた。

「あれ、佐々木君もいたの」

「いちゃ悪いかよ。もうオレ帰るところだけど」啓太は鼻を鳴らす。

「井上先生、アルトの全国大会が終わったら今度はアルトにピアノ教わったほうがいいよ。ちょっとは上手くなるかもよ」啓太はブイサインをした。

「こら。またアンタはなんてこと言うの」川島先生が頬を膨らませる。

「わあ、怒った。じゃ、アルト、がんばってな。全国大会、今度はオレ行くからね」啓太は走り去った。

「クソ生意気なクソガキめ」井上先生は笑った。つられて川島先生も笑った。アルトも一緒になって笑った。アルトは顔をゆるませて一番笑っていた。


 全国大会用の曲は決まっている。本選出場時に全国大会用の曲を記入したものを持参することになっていた。

 提出時に井上先生は何度もアルトに確認をした。小学生の全国大会で使用するような曲ではないと念を押した。

 それに対するアルトの答えを井上先生は今も忘れることができない。アルトの気持ちを覆すことはできない。

「その曲以外を全国大会で弾く気はありません」アルトの意志があった。


 全国大会前日。疲れを残さないように課題曲を一度通す。

 明日全国大会を迎えるに当たってまたアルトの音が変わったことを感じた。最初に聴いた凄みのある印象は消えていた。聴くものを圧倒する超絶技法ではない。

「うん、これでいきましょう」井上先生は平静を装う。全身の振るえがとまらない。イスから立ちあがれない。

 アルトは立ち上がり、井上先生にお礼を言った。「今までありがとうございました」

「それは明日また言いなさい。優勝しましょう」井上先生はアルトにブイサインをした。アルトは目を丸くしていたが、やがて笑顔になってブイサインを返した。

 ランドセルを背負って走って出て行った。

「森君、気をつけて帰りなさいよ」

 井上先生は切実な思いで言った。


 啓太は家の中で執拗に喋った。姉の裕子に何度も注意されるが聞かなかった。だけどみんな笑顔だった。明日はみんなでコンクールに行くことになっている。父親の正行はクラシックなんて全然わからねえと断わっていたが家族に説得されて渋々承諾した。なに着て行ったらいいのかわからないと一晩中言っていた。

 啓太は武者震いが止められずに足や腕を叩いていた。心臓の高鳴りを意識すればするほどに叫ばずにはいられなくなっていた。

 とうとう我慢できなくなって近所を走ることにした。学校まで走って、開発地区を回る。開発地区周辺には大きなスーパーができて二十四時間営業している。電灯がいつも煌々と点いている。開発住宅を走る。

 村瀬恵理子のことを思い出す。胸がくすぐったくなった。村瀬の家がどこかはわからない。今まで意識したことがなかったから覚えることがなかった。ピアノの音でも聞こえてこないかと耳を澄ましたが聞こえてこなかった。多分村瀬はまだピアノ教室から帰ってきていないか、もう明日に備えて寝ているかもしれない。

 走りながら村瀬と偶然会うんじゃないかと思ったが期待は裏切られて閑静な住宅街がそのまま存在して啓太の足音だけがそこにはあった。

 村瀬にもがんばってほしいと啓太は思った。ふたりとも優勝できたらいいのにと思った。きっと村瀬だってがんばっている。

 啓太は足を止めて空を見上げた。雲ひとつなく大きな白い月が浮かんでいた。明日の晴れを予感させた。心地よい風が通り過ぎる。啓太は深呼吸して走りを再会させた。

 啓太は家に帰りつくと疲れて風呂にも入らずに寝てしまった。

 

 全国大会当日は十一月末にしてはほのかに暖かさを感じる晴れの日になった。

 当日は啓太の家族と原夫妻が先に会場に向かった。啓太は五年二組のクラスメイトと行くことにした。駅で待ち合わせをしているからだ。啓太が駅につくと五年二組のクラスメイトが揃っていた。その中には清水仁志もいた。

 清水は啓太を避けるようにみんなの後ろに隠れた。啓太は隠れる清水に気付いた。啓太は佐藤を探して話した。

 川島先生が駅に着いた。

「さあ、もう村瀬さんと森君は会場に着いている頃でしょう。会場には井上先生も待っています。これで行く人は全員揃ったかしら。じゃあ、行きましょう」

「先生が遅れておいてよく言うよ」鈴木がはしゃいだ。

「こら、ここは学校じゃないんだから騒がない。あと会場は声がとても響きます。だから演奏中はちょっとしたお喋りでも禁止です。わかりましたか」

 川島先生は全員を諭した。

生徒達はみんな素直に聞いた。本選で会場に行った子もいる。その子は先生の言っている事に間違いはないと言うと、静かになった。

 川島先生は引率しながら例えば今までの遠足でこんなに素直だったことはあっただろうかと思い出してみる。思い当たらない。それでもひとりふたりは反抗心を出して騒ぎ立てるものだ。しかし、会場入りさえしていないのに声を潜めて話し合っている。声を大きくする人は誰もいなかった。

 村瀬さんと森君が全国大会に出るということがどういうことであり、それがどういったことになるのかを、もうみんな理解している。川島先生は教師冥利に尽きる思いで一杯になった。

 会場前の駅に着き、歩いて向かう。会場入りすると生徒の緊張感はピークに達した。会場客席はほぼ埋まっている。

 ゲネラルプローベ(総練習)は終わり、あとは大会開始を待つだけとなった。

 客席に原夫妻、村瀬の両親、また井上先生がやって来た。

「なんかみんなまで緊張していますね」井上先生と川島先生はロビーに出て立ち話をした。

「どうなの。ふたりの調子は」川島先生が聞いた。

 井上先生が耳打ちするように話す。

「さすがに緊張は隠せません。だけどふたりともコンディションは悪くなく、緊張しすぎということはありません。村瀬さんのピアノの先生はメンタルについてのサポートも充実していて練習を聴く限りでも、状態の良さをみせています」

「森君はどうなの」

 眉をひそめる川島先生をよそに井上先生は笑顔をみせた。

「今のところ問題ありません。本番に強いのか、それともいつか佐々木君が言っていたように精神的にはいつも強いのかわかりませんが、今日のゲネプロでもミスはありません」

 川島先生は胸をなでおろしたが、井上先生は真顔に戻った。

「ただ、ひとつ心配なのは」井上先生は言いにくそうに口を近づける。川島先生がツバを飲む。

「心配するのは森君、課題曲を練習しないんです。約半年、森君のピアノをみてきましたが、森君が今日演奏する曲は、実は私、昨日最後の練習のときしか聴いた事がないんです。この会場での最後の練習もただのソナチネ、練習曲を弾いただけです」

「それってどういう」川島先生が井上先生の腕に触れる。

「これは憶測ですが、彼の中でこの曲は特別なのでしょう。神聖化といっていいと思います。私は課題曲を聞いて問いただしました。選曲も重要なコンクールの審査の一環だと。この曲を決勝でやる人なんていないと言っていい。そしたら森君は言いました。


 お母さんの好きな曲と得意な曲で全国大会に臨みます。その曲以外、全国大会で弾く気はありません。


 彼の強いその決意を変えるわけにはいきません。私が弾くわけではないし、これは強制でもなんでもありません。彼が弾きたいというのなら弾かせてあげたいのです。それが最高の演奏になると確信しているなら森君の意見を尊重するだけです」

 川島先生は井上先生の表情から強張りながらもどこか尊厳すら漂わせるものを受けた。川島先生は井上先生の肩をなでた。

「そろそろ席につきましょう。アナウンスが聞こえているわ」

 会場の客席はほぼ満員になった。

 啓太の母親、頼子は原おばあちゃんの隣に座った。頼子は心臓を押さえていて息をするのも苦しがっていた。自分の子供が試合や学芸会にでるときだってこんな気持ちになったことがない。アルトの順番は後のほうで、しかもまだ誰の演奏も始まっていないのに、ずっと胸をさすっている。

 原おばあちゃんは娘の写真を膝の上に置いて、客席に座ってからずっと見ていた。その表情は微笑みが絶えなかった。

「おばあちゃん、どうしてそうニコニコしていらっしゃるのですか。私はもうドキドキしちゃっているのに」頼子は原おばあちゃんに声をかける。

 原おばあちゃんはゆっくりと顔を頼子に向けて顔を傾けて、微笑みを強くした。

「アルトはよくここまできたなぁと思っています。だけど心配はひとつもしていません。なにより今までの娘の瑠璃子と、天国で見守っている瑠璃子がアルトを全国の大会にまで連れてきたのです。だから、この先だってなにも心配することはありません。アルトが瑠璃子のおかげでここまできたのなら、なにも心配することなくここにいられます」

 頼子はため息が出た。

「この大会は大きいものでしょうけど、私たちはアルトのピアノが聴けるだけで充分。それだけでいいのですから」原おばあちゃんは写真に手を触れながら話した。

 頼子の力が抜けた。緊張が消えた。長い息を吐いた。心臓の鼓動がゆっくりとなって小さくなっていく。そして頼子は自然と微笑んだ。

 最初の演奏者が舞台に出てきた。拍手がおこる。場内にいるすべての人は息をとめた。鍵盤がハンマーを打ち鳴らし、音を奏でた。音楽全国大会、ピアノ小学生の部が始まった。

「啓ちゃん、どうした」佐藤が隣に座っている啓太に話しかける。

 啓太は両手を握って、俯いていた。体を震わせていた。

 佐藤の声に気がついて啓太は顔をあげる。

「ああ憲太郎、気にしないでくれ。別に風邪ひいているとか、調子悪いわけじゃなくてさ。ただ、なんか」そう言うとまた身震いした。

「怖いんだ。なんかわからないけど、すごく怖い。これからアルトがピアノ弾くって思うとすごく怖くなってきてさ。オレ、サッカーの試合中だってこんなことなかったのに、お、お、おかしいな。はは」と啓太は歯を鳴らした。

「大丈夫か」と佐藤が背中をさする。

啓太は手を上げて言う。「先生や、あと、オレの親には言うなよ。追い出されちゃうから。それだけは嫌だ」

啓太の息が荒くなった。

後ろで桃子が啓太の様子に気がついた。だけど黙っておいた。桃子は正面に集中する。

村瀬英理子が出てきた。拍手がおこる。

一礼して軽く深呼吸。さっきまで震えていた手が嘘みたいに自然に治っている。心臓の音が耳まで振動しているけど目はしっかりと見えている。村瀬の瞳に啓太の顔が映る。自分を見て微笑んで拍手をしてくれている。目を閉じる。顔を上げる。振り向いてピアノに向かう。淡いピンクのドレスを舞わせて、ゆっくりとイスに座る。髪が光に反射して、十一歳にして気品を漂わせる。

「ショパン・ワルツ ロ短調第10番69-2」

 ゆっくりと手を下ろす。そして曲がはじまる。

 ため息がでるほどの美しさ。どこまでも優しく、また情熱もまた見え隠れする。熟練ピアニストでもこうも甘美でさらに凛とは弾けない。それでも村瀬はミスもなくかつ、叙情的だ。

 井上先生は客席中央から一番後ろで立って聴いていた。目を閉じると小学生が弾いているとは、さらに村瀬が弾いているとは考えられない。いつか音楽室で聴いたピアノとはかけ離れている。どうしてこんなに音色を変えることができたのか。予選、本選、全国大会とどの子をみても成長の度合いは間違いなく村瀬英理子が一番だ。正確さに磨きがかけられ、さらに表現力が加わった。

 伸びやかなカンタービレ。次の曲を意識しているのか自在なるテンポ・ルバート。

 どこか客席で聴いている村瀬のピアノ講師はほくそ笑んでいるだろう、と想像する。ポーランドのピアノの詩人を弾かせるということをここまで確信していたのか。小学生にここまでのアーティキュレーションができるとは。音のひとつひとつがクリアになっている。

 村瀬は意識をピアノに集中させている。考えがすべてピアノにしかない。演奏を始める前までは啓太のことがよぎった。だが今は消し去られている。邪念がなければ指が自然と勝手に動く。それは決して走っているわけではない。力が完全に宿った百パーセントのものが発揮されている。

「ショパン・バルカローレ(舟歌)嬰へ長調Op60」

 曲が変わる。

 村瀬に迷いはない。疲れをみせないほどインターバルをおかずにそのまま弾きつづけた。

今までの快活としたワルツとは一転、優雅な美しさがあふれ出るようなピアノになった。少女の面影をみせる愛くるしい美しさから高貴なるノーブルな音。自分の美しさに甘んじないさらなる輝きを増すプライドを、波紋をどこまでも伸ばす。

 井上先生は村瀬の努力の思いを知る。なにが彼女をここまで変えたのか。努力だけではない、どこまでも、どこまでも果てしなく美しい。村瀬英理子のピアノはごまかしのきかないハッキリと自己主張をするダイヤモンドの演奏だった。

 啓太の母頼子はため息を漏らす。村瀬の演奏は他の人よりも華を感じる。ピアノのことなどなにもわからなくても、今までなんの興味がなくても、村瀬のピアノを聴くと、女としてなにかが蘇る気がする。頬を染めて若かりし頃を思い出す。淡い恋を、ときめきを、思い出さずにはいられない。

 啓太は村瀬のピアノを確かに聴いていた。目を開けてピアノを弾く村瀬を見ていた。啓太もまた、音楽室で聴いた村瀬を思い出していた。少し胸が痛んだ。

 清水は村瀬の演奏がはじまると、そっぽを向いて見ないようにしていた。だけど、今は目を凝らし、息を潜めて見入っていた。客席は暗く、英理子の舞台だけ照明があたっている。まるで地球上のすべての光をそこに集めているように思った。清水は胸が苦しくなった。吐き気はしないけど胸焼けのように気分が悪い。頭痛もする。心地いいピアノに清水はなにがなんだかわけがわからなくなって眩暈がした。横にいる男子生徒がどういう思いで村瀬を見ているのか。そして啓太はなにを思っているのか。清水にとっては村瀬と違って自分には地球上のすべての真っ暗な闇が集められているように思えた。

 村瀬の演奏が終わった。大会規則の十分以内で収めたプログラムを無事に終えることができた。

「素晴らしい演奏でしたね」川島先生が井上先生の隣に息を切らせて駆け寄った。

「ええ、大人の大会に出しても遜色ありません。ショパンコンクールに出したいほどです。小学生とはとても思えないレベルです」

 拍手が辰池小学校生徒以外からも起こった。審査員からも拍手が叩かれる。会場一杯に拍手が起こったのは今日村瀬が初であった。

 村瀬は立ち上がり礼をした。立ち振る舞いまで完璧だ。躾のみでここまでならない。自分の意思がそうさせる。舞台から去るまで雅やかな足取りをみせた。

 村瀬は飛び上がり叫び出したい衝動にかられた。これほど自分の演奏に自信のもてたことはないからだ。

「さあ、どお、森有人。これ以上のピアノ弾くことができる」ドレスを翻す。


 アルトは控え室の隅で壁にイスを向けて震えていた。貧乏揺すりが止まらない。手に汗がしっとりと濡れる。顔は蒼白になっていた。演奏者がかわっていく。自分の順番がどこであとどれぐらい時間がたったら呼ばれるのかもう、わからない。

 アルトは両手を握って目を閉じた。ふと風が後ろから吹いてきた。後ろを振り向くと、真っ暗になった。

 控え室の電気が落ちた。停電したのだった。

 ピアノコンクール真っ只中の停電。この控え室だけだろうか。控え室には他に演奏者がいて、廊下にも人がいるはずなのに、物音、声ひとつしない。

 アルトは暗闇の中、ひとり取り残された。

「アルト」

 アルトを呼ぶ声がした。その声のしたほうへ目を向けると蝋燭の炎に似た淡い光がそこにはあった。

 アルトは思わず叫んだ。

「お母さん」

 光はアルトの声にゆっくりと優しく微笑んだ。座ったまま、そこに佇んでいる。

 アルトの体は動けなかった。顔だけが動く。

「ピアノ、続けていたのね。お母さん、嬉しいわ。」光は首をかしげて唇に笑みを湛えていた。

「お母さんが教えてくれたピアノだったからここまできたんだよ。本当は何度もやめようかと思ったけど、友達が、僕の友達の啓太君がピアノを続けるようにって何度も言ってくれて。僕はまだお母さんのピアノにはかなわないけど、一所懸命練習したんだ」

「そう、いいお友達なのね」

「僕、お母さんに聞いてもらいたいことがたくさんあるんだ。お母さんに話したいこと。お母さん、お母さんはどうして」

 アルトはそう言って顔を上げると光はアルトのすぐそばにあった。

「アルトがピアノを続けてくれて、すごく上手になってお母さん、すごく本当に嬉しいわ。アルト、ね、どうして震えているの。怖いの。大丈夫よ」

「僕、怖いんだ。緊張っていうのかな。ピアノの全国大会で、ミスしたらどうしようとか、覚えていた楽譜を急に忘れてしまったらどうしようとか。みんないるのに、そういうことばかり考えちゃって」

 光はそっとアルトを抱きしめた。

「アルト。この大会がどういうものかなんて考えなくてもいいわ。みんなとか気にしないで。お母さんに聞かせてくれたらそれでいいの。私にだけアルトのピアノを聞かせて。お母さん、聴いているから。アルト、私のためにピアノを弾いて」

 アルトの目から涙があふれた。

「お母さん」

 アルトがそう言うといつの間にか控え室の照明が点いていた。控え室で演奏を待っている人がいる。さっきまでと変わらない風景。

「君、大丈夫か」声をかけてくれた。

「なにがですか」アルトはその人を見る。

「いや、別に。体調が悪いかなと思って」

「なんともありません」

「ならいいんだ」その人はアルトから離れた。

 アルトの目から頬に涙がこぼれていた。

 アルトの震えは止まっていた。強張っていた力が抜けた。目を拭った。袖に水滴がついている。だけど気にならなかった。アルトは深呼吸をゆっくりとした。力が漲ってくる。息をゆっくりと吐いたとき、呼ばれた。

「森有人くん」

 アルトが舞台に歩いていく。後ろで誰かが手を振っているのがわかる。


 アルトの名前が会場のアナウンスで呼ばれた。

 頼子は心臓の鼓動が全身にまわっていた。

「いよいよですね、お婆ちゃん」

「はい」原おばあちゃんは頷く。「瑠璃子のピアノも一緒に聴けそうで、とても楽しみです」

アルトが舞台に現れた。

 今まで震えていた啓太だがアルトを見た途端に震えが止まった。あまりにも堂々としているアルトを見て、なにもしない自分が震えているわけにはいかない。

「アルトは負けない」啓太は何度もツバを飲んで喉の奥を傷めていた。

 アルトがピアノの前に座る。息を整える。

「お母さん、聞いて」

 アルトの手が鍵盤の上に乗る。

 井上先生は立っていられずに座った。川島先生が体を支えた。その手もやっと支えられるほどの頼りない力であった。

 村瀬はモニターで見ることをやめて、舞台袖でアルトのピアノを聴くことにした。


「モーツァルト・ハ長調K265 きらきら星変奏曲」

 アルトは伸びやかで煌びやかに跳ねるように弾き始める。

「あ」啓太は鼻がつんと痛んだと思ったらもう目にいっぱいの涙をまぶたに乗せた。最初にアルトが自分に弾いてくれた曲だ。アルトが最初に笑ってくれた曲だ。だけどそれ以上にいろんな思いが駆け巡る。駆け巡るがそれは言葉でない。もっと言葉では言い表せない超越したものが駆け巡る。胸が締め付けられるようで洗い流されていく。ピアノに全神経の集中力が注がれるが息苦しさはない。会場全部を緊張感で包み込むが、心地いい安らぎも与えてくれる。

 楽譜通り、音も外さない、完璧だが自由奔放のようにも聴こえる。

 そして優しい。

 アルトのピアノは温かく、優しい。小学生の男なのに母性があった。

 井上先生は昨日最後の練習で聴いたピアノとはまるで別物を聴いている思いだった。圧倒的なピアノになっている。しかし誰も寄せ付けないものではなく、圧倒的に優しいのだ。

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの本来の声を聴く思い。いつかアルトが言っていた、楽譜を読めばその人の気持ちを理解することができる。そして自分を産んでくれた母親に抱かれる思いに浸る。目を閉じれば抱かれていた記憶が再び揺れる。

 頼子は心臓の高鳴りが止んでいた。そのことにも気付かない。アルトがピアノを弾いているという意識がなくなっていた。会場に響き渡る音楽を聴いているということだけになっている。

 啓太は涙をとめられない。

 啓太の後ろにいる横山桃子もまた泣いていた。啓太に無理矢理音楽室に連れて行かれて聴いた曲。はじめて聴いたアルトのピアノ。きらきら星と言うと笑顔をみせた。あのときのことは今でもはっきりと思い出せる。思い出すとまた涙がこぼれ落ちる。あれから随分時間がたってしまったような、それでいて昨日のことのような、感覚だった。桃子は耳を澄ます。アルトのピアノを弾く音だけが耳に入っていく。桃子はまた涙を落とす。

 アルトの奏でる音は優しいが実際は激しく鍵盤に指を落としている。井上先生はきらきら星だけのプログラムではないことを知っている。だから聞き惚れている余裕はなかった。もうすぐ曲を変える時間になる。アルトが切り替える楽章がもうすぐそこまできている。

「手は疲れていないの。これは練習と違って全国大会なのよ。精神的疲労も生半可じゃない。それでもピアノを弾きつづけるの」井上先生は口元でつぶやく。

 隣にいた川島先生は突然井上先生が独り言を言うのに気付いた。顔を少し向けた。強張り、張り詰めた顔をしている。顔は歪み、空調が整っているのに普通ではない汗をかいている。

「落ち着いて、井上先生」川島先生が耳元で囁き、手に手を重ねる。

「ひ」井上先生は声にならないかすれた悲痛な声をあげた。

 川島先生はその一瞬の出来事に手をのけた。

 その瞬間、アルトの曲が変わった。

 間髪入れずに。


「リスト・パガニーニによる大練習曲 第三番 嬰ト短調 ラ・カンパネラ」

 静かなる導入部。続けて鳴らされる♯レの音が反響する。小さな鐘がひとつ鳴り、それが響き、また反響して響き、また鐘が鳴り、響き渡る。ひとつひとつの音が鳴り、また響く。

 小さな手のアルトには超絶技法としてつくられたリストの曲はあまりにも過酷。2オクターブの差を右手一本で弾きこなす技巧。井上先生は胸を押さえる。痛む。昨日最終練習のときはあまりにも違う。きらきら星変奏曲は地球を包み込む優しさと安らぎがあったが、一転。今にも鐘楼が崩れそうな、鐘を吊るす紐が切れて奈落の底へいきそうな。

 井上先生は怖くて顔を上げられない。照明のない客席の床は真っ暗闇で永遠の地獄にさえ思える。

 ピアノの音はそれでも鳴り響く。井上先生は勇気を振り絞って顔を上げる。視界にアルトが入る。その刹那、涙が流れ落ちる。きらきら星変奏曲では出なかった涙がここでどうしようもないくらいの涙がこぼれる。鼻水もとまらない。だけど拭く力がでない。手を上げられない。耳から脳にいたる筋肉だけが発動している。しかしそれだけでいいと思える。それだけが集中していたい。

 アルトの手でラ・カンパネラを編曲なしで弾きこなすには素早く動かすしかない。指が普通では届かないからだ。しかしアルトは音を外さない。指を動かすことだけに気をとられると音が弱くなる。曲のことだけを意識すればするほど曲にならなくなっていくのが、このラ・カンパネラだ。

 アルトのピアノは力強い。ひとつひとつの音がダイヤモンドの輝きと硬さと、そしてなにものにも征服されない唯一無二の力を魅せる。

 そしてアルトの弾くピアノにも異変が起きた。コンクールに用意されたピアノの弦はある程度のへたりがどうしてもでる。ピアノは今日まで、今の今までどういう気持ちで弾かれていただろうか。観客も審査員も急にそういう気持ちにかられた。

 なぜだろう。

 目を閉じていては聴こえないピアノ。

 日本ピアノの権威、特別審査員の久我山正成は今までの険しい顔からほころんだ顔に変わった。頬杖をついて審査するペンを置いた。

「ピアノが躍動している。それだけではない。ピアノが喜んでいる。この少年がK265で眠りから覚めさせて、ラ・カンパネラで躍らせた。ピアノの妖精が確かに舞踏している」

 ピアノ妖精の欣喜雀躍。

 審査員たちは審査するということを忘れてしまった。ミスをチェックするペンを落としても気がつかない。音楽のミスとは一体なんなのか。いつの間にか音楽ということを忘れていた。そして思い出す。音楽の素晴らしさ。音楽を奏でるということ。それを聴くという喜び。

 横にいる久我山はすでに審査を放棄している。

 原おばあちゃんは泣いていた。

「お父さん、聴こえますか。瑠璃子のピアノです。瑠璃子がピアノを弾いていますよ」原おじいちゃんの袖を力強く引っ張る。

 原おじいちゃんも泣いていた。

「わかっている。わしだって聴いている。まるで瑠璃子が乗り移っているようだ。瑠璃子のコンクールを思い出す」

 舞台袖には村瀬の他にも演奏者が集まっていた。アルトのピアノを聴かずにはいられない。もう少しでも長く聴いていたい。

 村瀬は泣いていた。アルトがひとつひとつの音をしっかりと表現している。村瀬は手を合わせる。

「お願い。このままのペースで、ミスなく集中力を切らせないで」村瀬は小声でつぶやく。

「ああ、神様」

 目を開ければ小学五年生には見えない小さく頼りない背中が見える。ペダルにちゃんと届いているのか不安になるほど細い足をしている。

 アルトは体全体でピアノを弾く。そうしないと曲が弾けない。

「まるでピアノの天使だ」見ている者の何人かが共通の感想を抱いた。

 アルトはピアノを弾きながら声を聞いていた。

「そうよ、その調子よ。とても上手よ。私が教えた通りにできているわ。聴こえるわ。アルトのピアノ。さあ、もう少しよ」

 アルトの鼻の奥がつんと痛む。涙があふれてくるのを必死で耐える。今はピアノを弾くことだけに集中する。音を鳴らし続ける。

「お母さん」

 指の動きは一向に衰えずさらに輝きを増していく。

 アルトがピアノを弾いているにも関わらず鐘はアルトのために鳴らされた。ラ・カンパネラは弾いているアルトを祝福していた。光に包まれたアルトのいる場所こそ天国になった。アルトが舞台上を天国に変えた。

 やがてはその天国も終焉を迎える。アルトの両手が上がる。そしてゆっくりと膝の上に下ろされた。

 軽く息を吐いた。呼吸をするという意識。

 全国大会のピアノコンクール。制限時間十分をいっぱいに使い切り、アルトのピアノは完了した。

「お母さん、できたよ」


 人々はピアノの曲に覚醒された。曲が終わり、緊張感が会場から完全に抜けると立てる者は全員立ち上がり、拍手をした。そして何人かは腰が抜けていて立てなくなっていた。立とうと意識すればすでに立てなくなっていた、そういう人が多く見られた。

 井上先生も立てなくなったひとりであった。耳から脳への緊張も解けると体中が痺れた。血液の巡回が急に復活したからだ。

 会場の拍手はいつまでも止むことがなかった。今日初めてアルトのピアノを聴いた人、アルトという存在を知った人、理由もわからないまま涙を流した。

 舞台から降りてくるアルトと立ち尽くす村瀬はすれ違った。アルトはゆっくりと立ち去った。

 村瀬は自分がどんな演奏をしたのかをすっかり忘れてしまった。なにも思い出せない。そのかわりアルトのピアノは鮮明にいつでも記憶から取り出せる。アルトのピアノに影響されないように。だけどいつまでも意識するように。村瀬は涙を拭いて笑顔に戻る。

「私は私。これからもがんばろう」

 背筋を伸ばす。力瘤をつくる。小躍りする。村瀬は元気よく歩き出した。


 ロビーに井上先生と川島先生は出ていた。川島先生は温かい紅茶を買ってきて井上先生に差し出した。

「ありがとうございます。少し落ち着きました」湯気の向こうで井上先生が微笑む。

 川島先生は井上先生の隣に座る。

「どうですか。あのふたりの演奏を聴いて」川島先生が天井を見上げて言った。

 井上先生はうつむいた。

「村瀬さんのピアノは素晴らしかったと思います。かなり上位につけてもおかしくありません。ただ森君は、わかりません」

 川島先生は飲みかけの紙コップを口から外した。

「え、私は正直いって森君のほうが良かったと素直に思いましたが、村瀬さんのほうが可能性はあるということですか」

 井上先生は首を横に振る。

「可能性としては村瀬さんのほうがあります。選曲についても村瀬さんはショパンの曲を無難にこなしました。それもかなりレベルの高さで。これは審査員にも印象はいいでしょう。だけど森君はきらきら星とラ・カンパネラを弾きました。この曲は普通小学生の全国大会で組むものではありません」

「どうして井上先生はその曲を許可したのですか」川島先生は紙コップを少しつぶした。

「彼の意見を尊重したのです。これは演奏前に川島先生に話した通りです。その曲を森君は思いっきり弾きました。それはとても素晴らしかったと私も思います」

「だったら優勝も」

 そう言いかける川島先生を井上先生は制した。

「ピアノのというのはとても難しいものです。だからこそ何世紀にもわたって幾多のピアニストが生まれたのでしょう。完璧なピアノが必ずしも優れているとは限りません。ただ」

 井上先生は呼吸をひとつ置く。

「森君のピアノはあまりにも完璧を越えすぎてしまい、手に負えない代物です。審査の域を超えています。だからどういう結果になるかまったくわかりません。村瀬さんの成績のほうが素直に読むことができるのです」

 川島先生は首をかしげる。

「素晴らしく優れているのが優勝するとは限らない世界なのです」井上先生は笑う。

 川島先生は口を動かすが言葉が出ない。手は宙を彷徨い、やがては虚しく下ろされた。

 井上先生は紅茶をすすった。


 審査室では順位が決められていった。

「それではこれでいいですね」

 点数表示がされた紙が張り出される。

「久我山先生、いかがですか」

 全員が一番奥に座る久我山正成の顔を伺う。久我山は張り出された紙を睨みつける。かけていた眼鏡を外す。

 椅子にふんぞり返り、前に手を組んだ。

「そんなとってつけたような審査でいいのかね、君たち。本当にその少年が一位決まりでいいのかね」

 海野真紀子審査委員長は口元を押さえて笑う。ピンクのマニュキアが光る。

「あら、不服ですか、センセ。確か、センセも満点をつけていらっしゃるではありませんか」

 金木犀の香りを漂わせて久我山の横に座る。久我山の点数表を指さす。

 久我山は横にずらす。

「この少年を優勝させたとして、これからどうする気だね。記念に冬の優勝者のお披露目発表会に出してあげて、よかったね、なんて言ってあげて、それで終わりかね」

「なにを言いたいのか、私たちには」張り出した者は棒立ちになり、まわりに同意を求めるように目を左右に向けるが、まわりの人たちはみんな目を伏せてしまっている。

 久我山は睨む。

「このコンクールの意味は一体なんなのかね。ということを聞いているのだ」

 みんな押し黙る。

「十年ぶりにこのコンクールの審査として参加してみたが閉塞感は相変わらずだな。このコンクールから巣立っていき、誰か世界的なピアニストでも生まれたのかね」

 久我山は拳骨を机の上に置いた。

「あの、それじゃ、この順位ではいけないというのですか」汗を拭きながら、順位表と久我山を交互に見る。

 順位表をはがそうと手をかけると、久我山が声をかけた。

「順位など問題ではない。そんなものお前さんたちの好きにすればいい」

 まわりが顔を見合わせる。

「誰があの人呼んだんだ」

「結局なにが言いたいんだ」

 小さな声が囁かれる。

「聞こえているぞ。これでも音楽で何年も飯食べているのだ。耳がいいということをお忘れなく」久我山は声のするほうを睨む。

「久我山センセ、十五年前も同じことを言っていましたね。もう審査しないなんて怒鳴って、あのときは特別留学奨励賞というのを設置しましたよね。それから審査員しても、どれもつまらないと結局審査員を辞めちゃいましたけど」海野は久我山の腕に手を置いた。

「おおお、そうだ。よく覚えているな、さすが海野先生。あのときの受賞者はどうした。あの賞はウィーンへの留学推薦状の賞だ」

「その受賞者は高校生でしたけどね。あの時、推薦はしましたが両親は共働きの団地住まいなので留学できる資金がないと、断わられました。それでさらに久我山センセは悔しがっておられましたわ。一流ピアニストになるには最低でも二千万円はかかる。それをあの学生はあの賞で気付いてしまった。まだ当時十七歳の少女には酷な事実です。あの少女はそれからどこの大学に入ったか、どこかのコンクールに出たとかの話はまったく聞いておりません」

「じゃ、それ以来の賞となるのか。それじゃ、その人を呼んで、一緒に来てもらったらどうだ。そうだ。もしまだピアノを続けていたら弾いてもらってもいいんじゃないか」久我山は弱くなった腰を忘れて勢いよく立ち上がった。

 海野も立ち上がった。片足が浮いた。それを見つけた何人かは吹きだした。

「そうよ、思い出した。あのときも確か同じ曲だったわ。きらきら星変奏曲とラ・カンパネッラ。私もあのとき若かったから、あんな曲で全国大会に挑むなんておかしいって久我山センセに言ったら、センセはムキになっちゃって、だったらオレがウィーンに連れて行ってきらきら星を弾かせるって言ったのよ」

 久我山は机を叩いた。

「そうだ。あのときのピアノもすごかった。思い出したぞ。そうかぁ。なんの偶然だろうな。同じ曲でこんなにもわしの心が熱くなるとは」

 海野は座りペンをとった。

 特別留学推薦賞

「久我山センセと私も少し。あとはスポンサーも募りましょう。留学を出資してあげるのです。もちろん本人の意思を尊重しますが、あのときと同じ過ちを犯さないように致しましょう」海野は嬉々として紙を両手に掲げた。

「あの、そのような勝手な特例は」審査員のひとりが口に手をあてて海野と順位表を交互に見る。

「面白い」

 久我山が拳を海野に向ける。

「今度こそわしはウィーンでピアノを弾かせるぞ。わしが一番お金を出したっていい。わしがあの少年の才能を摘まないように育てよう。これこそが学生コンクールの意義だ」

 久我山は両手をあげた。

「さあ時間もおしているだろう。さっさと発表に移ろう。さあ、表彰式だ」久我山は肩を揺らしながらドアに向かう。

 ドアノブに手をかけて振り向いた。

「ところで海野先生、その十五年前の受賞者の名前、覚えていますか」

 海野は腕を組んで微笑む。

「確か、原さん。原瑠璃子といったわ」

 久我山は指さして言った。

「よし冬に行うコンサートにその人を呼んでおいてよ。一緒に表彰式を改めてやりましょう」

 ほんの十分前まで刻まれていた眉間の皺は目尻に集まって、御大とは思えないほどに茶目っ気たっぷりに久我山はブイサインをした。

 つられて海野もブイサインをした。


 審査発表会の時間になった。ロビーにいた人たちは客席に戻っていく。

 息を飲んで結果を待つ。

 井上先生はどんな結果になろうとも覚悟を決めていた。全国大会でアルトのピアノを聴けたこと、アルトに全国大会でピアノを弾かせてあげられたこと。それだけでもう充分であった。それを川島先生に伝えた。

 川島先生は「まずは結果を。それからのことはそれから考えましょう」と言った。

「まずは第三位、鈴木美香さん」

 声が客席の一角からあがる。

「第二位。村瀬英理子さん」

 歓声があがった。村瀬は舞台の上に立つ。賞状を受け取る。礼をすると顔が上げられなくなった。唇をきつく結ぶ。奥歯をかみ締める。小刻みに体が震える。「おめでとう」その言葉があちこちから飛び交い、拍手が包み込む。

 村瀬は首を少し振って息を吸う。顔を上げる。客席をまともに見ることはできないけど、ありったけの笑顔をつくった。

「私は私らしく」村瀬は審査員と客席に何度も頭を下げた。礼儀正しく、謙虚に感謝を表す。

 村瀬は客席の少し上の壁を見ながらそこへ手を振った。細く白い手が眩く光に照らされる。男子生徒からため息が漏れる。

 啓太は拍手を送った。清水もまた目立たないように拍手した。村瀬がそのふたりを見ることなく後ろへ下がった。

「それでは第一位の発表。ですが」

 アナウンスは言葉を切った。手にしている紙を注意深く読む。

「第一位 該当者はありません」

 村瀬が振り返る。川島先生は身を起こした。井上先生は背もたれにもたれかかった。

「異例ではありますが今回第一位は、なしということにさせて頂きます」

 場内が騒然とした。声という声が渦巻いた。

 啓太は立ち上がって母親の顔を捜した。母親と目が合った。母親は頷く。原おばあちゃんは首をかしげて笑顔のままだ。啓太は舞台に向けて振り返る。

 海野がマイクを掴む。

「今回は第一位の者がいないというかわりに、特別留学推薦賞というものを設けました。その賞についての詳しい内容につきましては特別審査委員長の久我山正成センセに話して頂きたいと思います」海野がマイクを久我山にわたす。

「今回、このピアノコンクール審査を約十年ぶりに引き受けまして正直レベルの高さに当惑しております。長年ピアノを弾き、また幾多の演奏家のピアノを聴いてきましたが今日ほどの素晴らしいことに出会えたことは他にはちょっと思い出せません」

 久我山の顔はほころび、少し赤らむ。

「そしてこのコンクールにあたり、第一位を該当者なしと致しましたのは、もはや我々の審査の範疇を超えてしまい、我々が点数をつけるということですらおこがましく感じられたからです。つまり、我々ではもうどれくらい上のレベルなのかをもう下せない力量に出会ってしまったのです」

 久我山は微笑みを絶やさないままアルトを一度見る。

「もう世界に聴いてみてもらい、改めて審査してもらいたい。もう彼にここでの優勝など意味はありません。もっと大きい大会へ出すために特別賞を設けました」

 久我山は手を伸ばす。

「ウィーンかポーランドのコンクールへ推薦します。留学の意思があるなら全面協力を私がさせていただきます」

 場内が静まる。

「よって当コンクールの頂点はここにいる会場すべての満場一致で森有人君に決定です。おめでとう」

 大歓声があがる。みんな一斉に立ち上がる。

「やったあ」啓太が声を大きくして拳を突き上げた。

「これってアルトが一番だってことだろ」啓太は桃子を見る。桃子がハンカチを顔にして何度も頷く。

「やった。やった、やった」井上先生が拳を振る。川島先生が金切り声をあげて井上先生に抱きつく。勢い余って倒れこんでしまって生徒に笑われた。それでもみんな笑っていた。

「森君の想いが通じました。それがとても嬉しい」井上先生は起き上がってまた踊るようにはしゃいだ。

拍手に迎えられてアルトが舞台の中央に立つ。

 恥ずかしそうに俯きながら、頭を下げて賞状を受け取る。

 一層の歓声が会場を包む。

 アルトが顔を上げて客席を見る。五年二組を見つけて小さく手を振った。

「啓ちゃん、なに泣いているんだよ」

 佐藤が啓太の肩を揺する。

「泣いてねえよ、ここが暑いから汗かいているんだ」と啓太は顔を袖で拭って、イスから立ち上がって出口に向かって走っていった。

「こら、啓太。どこ行くの」啓太の母親の頼子が啓太に気がついた。

 啓太は無視して走った。

 扉に手をかけて振り向いた。舞台上では誰よりも小さなアルトがさらに体を小さくしていた。啓太はアルトを見るとまた涙がこみあげてくる。啓太はそのまま会場からも飛び出して外に出た。

 啓太は外の空気を思いっきり吸い込んで笑った。無理に声を出して笑った。

「あっはっはっは。あーはっはっはっは」

 啓太は思いっきり手足を伸ばした。


 全国大会を終えてアルトがみんなの待つロビーに顔を出した。辰池小学校教師、五年二組の生徒がアルトを囲んだ。

「さすがオレの親友だ。お前は最高だ」

 清水は誰よりもはしゃいでアルトの肩に手を回して跳ね回った。アルトは困惑したような顔で、だけど笑顔だった。

「いつから親友になったんだ、あいつは」横山桃子が歯を見せて笑った。

 続いて村瀬英理子もみんなの前に姿を現した。村瀬もまた拍手で迎えられた。

「近くで見ると本当にかわいいわ」

「村瀬さんも全国で立派だったわ」

 賛辞の言葉はアルトよりも多かった。村瀬は謙遜しながら受け答えしていた。村瀬は大人に囲まれてもしっかりと言葉を発した。なにも言えないアルトとは好対照であった。

 啓太の父親の正行は村瀬を見て言った。

「うちのガキともえらい違いだな。逆立ちしたって仲良くなることはできないだろうな」と豪快に笑う。

「うちの子も捨てたもんじゃないんだけどねぇ。無理かしらね」と頼子も隣で笑った。

「ふたりとも、すごいね。すごいね、先生」

太田さやかが舌ったらずの高い声で手を叩きながら川島先生に言う。

「そうね。素晴らしいわ」川島先生は身を屈めて太田さやかの頭をなでながら言った。

「雅人さん」原おばあちゃんが声をあげた。

 ロビーの端のほうでイスに座り、アルトの様子をアルトの父親、雅人は見ていた。

 原おじいちゃんが雅人に近づき握手をした。背中を叩いてアルトの前まで連れて行った。

 アルトは雅人の顔を見上げて賞状を見せた。

「お父さん、一番、とったよ」

 雅人はアルトの声を聞いて何度も頷いた。頷きながら嗚咽した。涙が落ちる。アルトの手をとって握った。

「お前は世界一の息子だ。立派だ」

 震える雅人の肩を原おじいちゃんが優しく叩いた。

「お前を世界一のピアニストにしてやりてぇ。それが瑠璃子の夢だったから」

 雅人は泣き崩れた。原おばあちゃんが優しく微笑みかける。

「大丈夫よ。きっとなれるわ。だって、あなたの息子なんですもの」

 アルトは口をきつく結んだ。父親の手の熱さを感じていた。

 原おじいちゃんが雅人の背中を叩く。雅人は手を離し、その手をアルトの頭の上に乗せた。


 最後にみんなで記念撮影を撮ることにした。アルトと村瀬を中心にして賞状を持って。みんなを収めた五年二組の写真。だけどそこに啓太は写っていなかった。

 アルトも村瀬も啓太を探した。だけど啓太はそこにはいなかった。

 啓太は外に出た後、ひとりで走って帰ってきていた。泣いているところを見られたくないからだ。

「よかった、よかったなぁ、アルト」

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