大会へ
小学生ピアノコンクールのエントリーが決まった。予選を通過して本選へ出場し全国大会に挑む。アルトは井上先生推薦で出場する。ピアノ教室には通っていないが教師の推薦で出場が決まった。
アルトは強い決意を持った。
アルトは夏休みをほとんど返上して練習に励んだ。井上先生がほとんどつきっきりで指導した。指導といっても教えることはほとんどなかったが大会未経験のアルトにピアノマナー、選曲の仕方なども教えた。
予選課題曲は選曲した三曲を六分以内で演奏することが義務付けられている。その切り替えのぎこちなさを矯正していく。本選では課題三曲から一曲を選択して演奏する。
勘のいいアルトはすぐに習得して上達していった。井上先生は教え甲斐をもっていった。
アルトはピアノに対して不満や文句を一切言わなかった。どんなに疲れていても練習をやめなかった。
村瀬も同じ大会へ出場する。幼い頃から目標にしていたコンクールである。数あるコンクールの中でもふたりはこの大会一本に決めた。まずは九月の予選である。
啓太もサッカー部が忙しくて夏休みはずっとサッカーの練習と試合でアルトの演奏はずっと聞いていなかった。団地だからアルトの家にはピアノは置いていない。夜になって団地のところでよく会ったりするがお互い疲れていて挨拶するぐらいだった。
啓太は母親から原のおじいさんがなにか言っているかを尋ねるが、なにもないと言われた。
啓太も秋には大きな大会を控えていた。小学五年生でありながら六年生を抑えてフォワードに抜擢されている。妬みを感じながらプレイするのは正直毎日疲れさせる。アルトのことを考える余裕もいつの間にか失っていた。
二学期。
啓太はアルトのことを「森君」ではなく「アルト」と親しみを込めて呼び始めた。アルトは嫌がりもせずに受け止めた。啓太はアルトに「啓太」と呼ばせるようにせがんだが「啓太君」と呼ぶのがアルトにとって精一杯であった。啓太は頭を掻きながら「ま、いっか」と笑った。
休み時間中、アルトは校庭に出なかった。マンガを描くのが得意な前川といつの間にか仲良くなって図書室で遊ぶようになった。
啓太はアルトと前川がふたりで図書室を行くのを見て頭を掻いた。佐藤が啓太を呼ぶのを聞いて啓太は校庭へ走っていった。
アルトは放課後も残ってピアノの練習していた。校庭では啓太がサッカーの練習をしている。音楽室に電気が点いているのを見て啓太は気合いを入れた。声をいっぱいにして走り回った。
音楽室にいる井上先生はアルトのピアノを聴きながら小学生大会に出すのでさえ惜しんだ。大人の大会に出しても遜色ない。アルトを指導しても自分にはなにも返ってこない。給料が発生するわけでもない。だけど酔狂がごとくアルトの練習につきあっている。
それは指導という形をとったアルトのピアノの鑑賞だった。アルトのピアノをいつまでも聴いていたい。その欲求が重なっていた。
予選と本選の課題曲はもうほとんどマスターしている。あとは全国大会用の曲だ。全国大会はオリジナル以外どの曲を弾いてもよかった。五分以上十分以内で複数曲をカットして演奏しても可であった。
しかし予選まですでに一週間切っている。十一月下旬に行われる全国大会のことは後で考えてもいい。まずは予選だ。
翌日に迫る予選を啓太は知っていた。だけどクラスには黙っていた。自分も感じているプレッシャーを余計に与えたくなかった。
「どお、調子は」
休み時間に啓太は誰にも聞こえないようにそっとアルトに聞いた。
「啓太君は僕のことなんでも知ってるんだなぁ」とため息をついた後に「コンクールってはじめてだし、ああいうホールでやるのもはじめてだから、どうなるかわからないけど、でも一所懸命やるよ」アルトは笑った。
「校庭から音楽室が見えるんだ。いつも遅くまでがんばっているよね。だから大丈夫だよ、きっと」と啓太は誰にも見られないようにブイサインをした。
コンクール経験があるって言っていた村瀬に様子を聞こうと啓太は思ったが、村瀬英理子は欠席していた。思い返せば風邪でもないのによく村瀬は欠席していた。啓太は「あ」と声をあげた。笑顔になってアルトの肩を軽く叩いた。
「ふたりとも、がんばれよ」
「それ、村瀬さんにも言ってるの。うん、もし会えたら伝えておくよ」
アルトと啓太は握手した。
「オレ、明日も試合だから演奏見にいけないけど。本当応援してるよ」
佐藤が啓太を呼ぶ。啓太はアルトに手を振って佐藤のところへ駆けて行った。
アルトの付き添いには原夫婦と井上先生がついた。会場には川島先生と啓太の母親頼子も来ていた。
頼子は川島先生を見つけて挨拶をした。
川島先生が今日は啓太のほうも試合があるのではないかと聞いたら啓太は母親が来るのをひどく嫌がったそうだ。かわりにアルトのほうを見てくれと言った。応援というよりアルトの演奏を聴いてほしいとお願いされた。それを聞くと川島先生は可笑しくて仕方がなかった。
頼子は自分の息子のことを話しながら頭を下げた。あまりいい評判になっていないことは薄々知っていた。だけど川島先生は笑っていた。
「お宅の息子さん、すごくいいです。私は確かにしょっちゅう怒っていますが啓太君のことすごく気に入っています。なにより、今日森君がこのコンクールに出場できたのも実は啓太君のおかげなんじゃないかと思っています」そう優しく微笑んだ。
頼子は嬉しくなってまた頭を下げた。
予選が始まった。
大会は日を追うごとにレベルアップしていると評判であった。それでも厳しい審査によって途中で演奏を中止される子もいた。
頼子はどこがいけないのかさっぱりわからなかった。川島先生も「厳しいわね」と言うだけであった。
村瀬英理子が出てきた。全身ピンクのドレスを身に纏い、颯爽としていた。伸びた体躯は小学生離れしている。
観客席で井上先生は聴きながら思った。あの音楽室の演奏からまた音が変わった。音が非常にクリアになっている。よほどの練習を積んだのかがうかがいしれた。井上先生の採点ではほとんどノーミスであった。
村瀬の演奏が終わる。安堵の表情だ。一礼をして舞台袖へ歩いていく。
「あのこ、村瀬さんですよね。綺麗な子ね。うちの子と同じクラスだとは思えないわ。ピアノもすごく上手だった」頼子はため息をつく。「あのこ、開発住宅の子ですもんね。いかにもお嬢様って感じで」
川島先生はなにも言わずにいた。川島先生にとってはどの子も同じ教室にいる同じ子供だと思っているからだ。
そして森有人の名前が呼ばれた。アルトの番である。アルトは新調された服を着て登場した。原夫婦がこの日のために買った服だ。
原おばあちゃんはアルトがピアノの前に座っただけで涙がとまらなくなっていた。
「ばあさん、今から泣いていたんじゃアルトがよく見えないぞ」おじいちゃんが心配そうに声をかける。おばあちゃんは何度も頷くが涙はとまらない。
その晩の啓太の夕食はすごく豪華なものになっていた。出前で寿司がとられてステーキまで焼かれた。
「なに、私がインターハイ出場したときもこんな豪勢なことしなかったのに、どうしたの。なんかあったの」啓太の姉の裕子が目を丸くする。
「母ちゃん、今日の試合は勝つには勝ったけどまだお祝いしてくれるほどじゃないよ。決勝は十月だもん」啓太は頭を掻く。
父親の正行も首をかしげる。心当たりは何もない。
頼子はとくになにも理由を説明しなかった。ただ上機嫌だった。音痴な歌まで歌っている。突然笑い出しては啓太の背中を叩く。わけのわからない啓太はしかめっ面をするだけであった。
啓太は頼子に「今日のアルトのピアノはどうだった」と言ったとき「あ」と声を上げた。頼子はなにも言わずに笑顔でブイサインをしていた。
啓太は「おお」と声をあげて飛び上がった。頼子と両手同士で握手して踊った。裕子と正行は口を開けて呆然としていた。
「やった、やった。やったなーー」啓太ははしゃいだ。
啓太は座りなおして寿司とステーキを思いっきりよく口の中に入れた。
「おい、あんまりいっぱい入れるから、ほら、なにむせて泣いてるんだ、お前は」裕子はティッシュを何枚かとって啓太の口と目を拭いた。
啓太はいつまでも咳き込んだ。そして笑いもずっと収まらなかった。
村瀬は学校に新聞を持ってきた。自分が予選を通過しているのをみんなに知らせるためだ。新聞には小さい字だが確かに「村瀬英理子」の名前と「森有人」の名前が掲載されていた。小学生の部 第一次予選通過。
次の大会はいつなのかクラスの話題はこの日はそれで持ちきりであった。
川島先生が教室に入ると清水が川島先生のもとへ走ってきた。
「かば子先生、知ってる。あの村瀬さんがピアノで賞とったって。あ、賞じゃなかった。そう大会で優勝じゃなくて、予選で勝ったんだよ、すごくね。で、次も勝ったら全国大会だって、先生、すごいね。すごいね」
川島先生は手で清水を制しながら、席に戻した。
「実は先生も村瀬さんと森君のピアノコンクール、みてきました。だから結果も知っています」
「えー、なんで大会やっていたのも知ってるの。オレも行きたかったのに」清水は声をあげた。
「あなたはサッカーの試合があったでしょう。なに言ってるの」と先生が言うと「そんなのキャンセル、キャンセル」と清水が笑った。
川島先生は「いい機会ね」と村瀬とアルトを教壇の上にあげた。
「このふたりは権威ある大会の予選を通過しました。次は本選が十月。それも通過すれば十一月に全国大会出場になります。みんなも応援してあげましょうね。でもまずは、予選通過したことにおめでとうと祝福してあげましょう」川島先生は拍手をした。
教室が拍手で華やいだ。村瀬とアルトは照れくさそうに笑った。啓太も誇らしげに拍手をする。
「先生、次の大会にはオレも連れて行ってよ。だから教えてよ」清水はくいさがる。
川島先生は笑いながら「村瀬さんがいいって言ったらいいんじゃない。あとお金とるわよ。だからお母さんにも断わらないとね」
清水は「えー」と言って村瀬を横目で見る。村瀬は視線に気がついて笑顔になる。清水は舞い上がって「えー、なんだよう」と言いながら席に大人しく戻った。
川島先生は清水を見ていると微笑ましくて仕方がない。
「さあ授業をはじめるわよ」川島先生はいつもより大きな声で言った。
その日の晩、啓太がそろそろ寝ようとしていた時間に外から大きな音と声がした。男同士の声であった。
「やめなさい」と母親の頼子が止めても、啓太は窓をそっと開けて外を見た。
原のおじいちゃんと男がもめていた。啓太はアルトのことがすぐに頭に浮かんで外へ飛び出した。サッカーの練習で疲れているのを今更ながらに思い出して、少し痛む足を引きずった。こめかみを軽く叩きながら走る。
「ちょっと、啓太」母親もついていく。
原のおじいちゃんと口論している男は酔っ払っているように見えた。外に出てみたが啓太は男を前にしてたじろいだ。啓太は振り向いて原家を見た。窓辺に原のおばあちゃんがアルトを抱えて外を見ていた。
「お前はなんだ、今頃帰ってきて。アルトを返せとは何事だ」原おじいちゃんは咳き込みながら言った。
「うるせえな。文句言わずにアルトを返せ」男は背広を着ていたが服は汚れて、所々切れていた。髪は薄くなっていて残った髪の毛はぼさぼさ、ちれぢれであった。足は震えて息が切れていた。吐く息の臭さは遠くにいても匂ってきそうであった。
「アルトのお父さん」啓太は声をかける。
「なんだ、このガキは」男が啓太を睨む。
「啓太君、驚かせたかい。ごめんな。わざわざ外にまで出てくれて悪いんだが、ここはじいさんたちだけにしてくれないか」
啓太はそれでもふたりの間の場所まで歩いていく。頼子は声も出せない。
「見たところ、アルトと同じ歳か。ひっこんでろ、ガキ」男のツバが啓太の顔にかかる。それでもひるまずに啓太は男の目から視線を外さない。
「てめえ、なんか文句あんのか」男が歯軋りする。
「原じいちゃん、このおじさん、どうしたの。アルトもあそこですげえ怖がってるけど」啓太は原おじいちゃんをみる。
「アルトがピアノコンクールで予選を通過しただろ。新聞にアルトの名前を見つけて、ここに来たんだ。来るなり、アルトにピアノをやめさせるように言ってきたんだ」原おじいちゃんは指を痙攣させながら男を差した。
「なんだって」啓太は男を睨む。
「おじさん、アルトはピアノがすごくうまいんだよ。コンクールの予選をせっかく突破したのになんでピアノをやめさせるの」啓太は全身を身振り手振りで男の前でしゃべった。
「お前に関係ないだろ。すっこんでろ」男が怒鳴る。その声であちこちの窓からベランダから顔が覗かれる。
「関係ないわけないだろ。アルトはオレの友達なんだぞ。お前、アルトがどれだけ練習しているのか知っているのか」啓太は男に負けない声の大きさで威圧した。
「てめえ、このガキが」男が啓太に掴みかかる。
頼子の悲鳴が飛ぶ。原おじいちゃんはあまりのことに動けなくなっている。
男にはさほど握力は感じられなかった。啓太は返そうと思えば技を返すことができた。だが視線の先にアルトが見えた。啓太はそのままアスファルトに叩きつけられた。
「この馬鹿者」原おじいちゃんが力なく男を殴る。
「一年前はいい青年だったのに」原おじいちゃんは歯を食いしばった。
啓太は背中をさすりながら立ち上がる。
「大丈夫か啓太君」啓太はブイサインをする。すぐに唇を一文字に結ぶ。
「でも、本当になんでアルトがピアノをやめなきゃいけないの」
男は道路にツバを吐いた。
「女房が、瑠璃子がやっていたピアノをまだやってると聞いてよ、ふざけんなって思ったんだ。いつまでもぐじぐじ死んでしまった女房をひきずりやがって」
啓太が男に近づく。
「男だったら切り替えていかなくちゃいけないだろ。なにがピアノコンクールだ」男の言葉は途中で切られた。
啓太はとうとうガマンができなくなって男を殴りつけた。男は吹っ飛んだ。
「ふざけてるのはどっちだ。この酔っ払い。アルトがどんな気持ちでピアノやってると思ってるんだ。アルトの気持ちを考えたことがあるのか」啓太の拳は腫れあがった。啓太はそれでも男の上に乗りかかった。
アルトは外に出ていた。
「啓太君、もうやめて。お父さんに乱暴しないで」男の顔にアルトの手が添えられる。
啓太の拳が止まる。母親の頼子や川島先生に言われたことがある。
「アルト君の指は黄金に匹敵する。だからアルト君は指をとても大切にしている」
その手がなんの躊躇もなく、男をかばっている。「ぐうお」啓太は嗚咽を漏らした。
啓太は立ち上がった。
「アルト、悪かった」
男は体を震わせてうずくまっていた。
「おじさんもごめんなさい。だけど、アルトのピアノを絶対やめさせないで下さい。殴っておいてなんだけど、お願いします。アルトのピアノは本当にかっこいいんです」啓太は頭を下げた。
「一度、アルト君のピアノを聴いてみてはどうかしら。きっと気持ちも変わると思います。ぜひ、どうですか。本選は十月ですから」
頼子は男のそばまで行き、しゃがんで言った。
男は泣いているようだった。だがうずくまっていて確かめられない。だが泣いていようが泣いてなかろうが、その場にいる、啓太、原おじいちゃん、頼子、そしてアルトにはどうでもいいことであった。
「雅人君、今日はうちに泊まっていきなさい。狭い部屋だから今晩はアルトと一緒に寝なさい」
啓太は原おじいちゃんが抱きかかえてそれを手伝うアルトを見ていた。
「母さん、オレ、またやっちまったかな」と啓太は家に帰りながらうなだれた。
「いいえ、あなたはよくやったわ。間違ったことはしていません。殴ったことはよくないけど」頼子は啓太の頭をなでた。
近所の人々はもう誰も顔をみせていなかった。
啓太のサッカーチームも順当に勝ち進んでいった。啓太は練習も試合も誰よりも走った。その真摯な態度は六年生の意識も変えた。その技術力、精神力、態度でもって揺るぎないエースストライカーの座を絶対なものにした。
啓太はいつも練習で怒られたり、くじけそうになったりしたら音楽室を見上げた。煌々と照らされている音楽室。それを見れば力が蘇る。
自分が言い出してやらせたピアノだけど、だけどアルトはピアノを続けている。
いつかの夜に言った、アルトの気持ち。自分は好きでサッカーをやっている。だけどアルトはどんな気持ちでいるのか。音楽室から漏れる光でしかわからない、アルトの気持ち。
そして啓太はそのアルトには負けたくないと強く思った。いつまでも遅くまで練習するアルトには負けたくない。その気持ちが練習や試合にも無意識に表れた。
アルトはいよいよ本選を迎える。その日はサッカー決勝大会と重なった。
それに気がついた清水は顔を手で覆った。
「オーノオ。応援できない。応援してもらえない。なんでよりによって同じ日なんだ。ジーザス」フリーキックを外したサッカー選手のように天を仰いだ。
「お前はどうせ、ベンチスタートだから愛しい村瀬のコンクールのほうに行けば」佐藤が清水の頭をはたく。
「お前だってベンチだろうが」清水は佐藤を追いかける。
「オレのほうが試合出場機会、お前より多いもんね」と佐藤が逃げる。
桃子は啓太に「残念ね」と声をかける。啓太は頭を掻いていた。
「まぁ、アルトはきっと全国大会にいくよ。そのとき行ければいい。サッカーの試合は次で終わりだから。オレはレギュラーだから抜けるわけにいかないしね」啓太は笑った。
啓太はアルトを呼ぶ。
「調子はどうだ」
アルトはいつも啓太がやるブイサインをした。
啓太と桃子はそれを見て声を合わせて声を出して笑った。
「アルト、まずはオレが優勝決めるからよ」
その日は朝から小雨が降っていた。
ピアノコンクール本選会場では辰池小学校の先生、五年二組のサッカーチームではない男子生徒がほとんど来ていた。原のおじいちゃん、おばあちゃん、啓太の母親と姉も来ていた。
一方のサッカー場では女子生徒が応援に来ていた。小雨は降っているが中止するほどではなかった。本降りになったら中止か延期になるがその心配もなさそうな天気であった。
清水はいないのはわかっていてもつい村瀬を探してしまう。いないのを確認するとベンチに戻っていった。
啓太は遠くの空を見上げた。曇り空のむこうでアルトのピアノの鳴っているのを想像した。
ホイッスルが鳴る。試合が始まった。
啓太は執拗なマークにあう。大きな選手が覆いかぶさるように啓太をマークする。パスがまわせない。唯一の小学五年生というところをつかれた。
それでも啓太は豊富な運動量で走り回る。シュートにいけないまでも体を張ったプレイスタイルでボールを運ぶ。
「あのフォワード、後半のこととか考えてないのか。すげえ動くな」相手チームの監督が腕を組む。
「おい、その十番をもっと囲め。それでつぶしてしまえ」相手チームベンチから声がでる。
啓太はボールをキープする。
「そんな簡単にオレがつぶれるかよ」ドリブルでひとり、ふたり交わす。
応援席から黄色い声援が飛び交う。
桃子は片隅にいながら「コンクールのほうに行けばよかった」とひとりごちた。
啓太は絶好調だった。空いてるスペースに走りこみ、パスを受ける。やわらかいトラップ。ディフェンスが置かれる。ドライブシュート。キーパーは動けない。決まった。
「うおおお、いとも簡単に決めやがった」清水が立ち上がる。
啓太はベンチにブイサインをする。
「この芝のコンディションでよくあんなドライブ決められるな。あの十番、将来はすごい選手になるかもしれないぞ」相手チーム監督がため息を漏らす。だからといって負けるわけにはいかない。
試合は啓太のチームが支配していた。啓太もワンマンプレイに走らずに献身的なプレイに徹した。そのことが余計に相手チームを惑わせた。
啓太はフォワードでありながらピンチのときは最後尾まで戻った。ディフェンスを行い、味方がボールを拾うと誰よりも前へ走った。その動きに誰もついていけない。
「前半点を入れるのがはやすぎた。見ろ、啓太がペナルティエリア内に入っただけでボールも受けてないのに三人がかりでマークがついている。あれじゃパス出せないぞ」監督が頭を抱える。
「監督、でもその分スペースが空くんじゃないですか。そこをつけばゴールできますよ」清水が口を挟む。
「それでも中にボールを入れられない。さすが決勝まで勝ち上がってきたチームだ。ああ、ボールとられちまった」監督は指を噛んだ。
清水は頬をつねった。「なんだよ、それじゃまるでこのチームは啓太でもっているようなもんじゃないか。なんだよそれ、団地のくせに、そんなことあるかよ」
佐藤はその独り言をベンチ後ろで聞いた。歯軋りしながら清水の背中を睨んだ。
相手チームは中盤から先へ進めなくなっていた。啓太が防いでいるからだ。それでも自分も前へ行けない。マークが厳しいからだ。
均衡した状態のまま一点リードで前半を終えた。
「啓太、顔拭けよ」佐藤がタオルを出す。
「ああ」啓太が受け取るがベンチに座ると動かなかった。息は切れて話せない。
「負けないぞ、負けないぞ」啓太は聞き取れない独り言を口にする。
清水は啓太を見てますます不機嫌になっていった。啓太がなにも言わないのもさらに拍車をかける。苛立ちが募る。
ベンチの隅でちょっとした騒ぎが起こった。ミッドフィルダー選手の足がつってしまい、試合続行が難しくなったのだ。
清水はそれを聞いて「はああ」と語尾を強くして言った。啓太は後半も出ると言っているのにこの六年生選手は(なにもしてないのに)疲労でもう試合に出ないときてる。
「監督、オレを出してください」清水は思い切って言ってみた。
ベンチの選手が「なに」と一斉に清水を睨んだ。控えの選手にもまだ六年生選手はいる。今日はさらにもう後がない決勝戦である。
「お前、さっきも生意気な意見を言っていたな。お前になにができる」監督が睨む。
清水はたじろぐが引き下がらない。
「お前試合が始まる前に応援席見ていただろ。なんだ、好きな子にかっこいいところ見せたいだけだろ」六年生が清水をからかう。
清水は拳を握って息を吸い込んだ。
「うるせえ、そんなんじゃねえ。村瀬は応援席なんかにいねえよ」清水は叫んだ。
佐藤とベンチにいる鈴木は吹いた。「言った」と口を大きく開けた。
「なんだ、フラれたのか、かっこわりぃ」六年生たちは笑う。
「フラれてなんかいない。今日はピアノコンクール本選でいないだけなんだ。向こうでがんばっているんだよ」清水は耳まで真っ赤にさせて声を枯らせて叫び続けた。
監督は清水の背中を叩いた。
「じゃあ、行って来いよ」
清水は背中を叩かれて自分の言ったことにやっと気がついた。横を見れば佐藤と鈴木が口笛を吹いていた。
タオルを頭からかぶっていた啓太にも清水の言っていることは聞こえていた。元気が湧いてきた。笑える力があるってことはまだ元気だということに気がついたのだ。
後半がはじまる。
「色男、優勝の報告しような」啓太が清水の肩を叩く。
「うるせえ、蹴り倒すぞ」「蹴るのはボールだけにしろ」二人は鼻で笑った。
後半、相手はふたりの選手を入れ替えてきた。啓太の新たなマークが交代されたのだ。
後半の啓太のマークはラフプレイが目立った。ファウルスレスレだった。
「おい、小学生がそんなプレイするなよ」監督は向こうベンチと審判にアピールした。
審判の目を盗んでユニフォームが引っ張られ、啓太がボールをキープしたらスライディングがいくつも飛んできた。
啓太は前半の疲れもあって裁ききれない。体当たりに近いガードをされる。啓太も意地になって倒れないから笛が鳴らされない。
「佐々木、無理しなくていい。倒れたらイエローもらえるかもしれないぞ」監督が手をメガホンに見立てて叫ぶ。
啓太は体の柔らかさももっていてバランスを保って、ぶつけられても倒れなかった。そうなると相手はもっと強気になっていく。
「啓太、ボールをまわせ」清水が手をあげる。
前半のプレイとは違って啓太はボールをとったらパスで繋ごうとせずにドリブルで突破を試みてばかりであった。
「あいつの悪い癖がでちまった」佐藤は頭をおさえた。
「ムキになるな、啓太」監督がそう叫んだときであった。
笛が鳴った。相手チームにイエローカードが提示される。その下で啓太が倒れこんでいた。額が割れて血を流している。
「啓ちゃん、大丈夫か」佐藤が走ってくる。タンカも運ばれる。試合は一時止められた。
啓太は監督に声を掛けられるとゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫です。歩けます。試合も続けます」啓太は手をどける。
「バカ、そんな傷でできるか。まずは手当てだ。来い」監督が啓太をベンチに行かせる。
額からおびただしい血を流し、歩く。相手チームを睨む。その迫力に戦慄をみる。
ベンチでは父親の正行が手を振って待っていた。
「どうだ、今日は棄権するか。ひどい怪我だぞ。お前は前半点を入れて、よくやったんだ。もう、いいんじゃないか、あとはチームに任せて」
ベンチに寝かされて手当てを受ける啓太の傍に座って正行は言う。
啓太は上半身を起こして首を左右に振る。
「こら、まだ治療は終わってないよ。包帯を巻くから大人しくしていて」救護係の保健の先生、藤田が啓太を寝かせる。
「今日だけは負けられないんだ。オレは負けたくない。アルトがピアノでがんばっている。アルトのほうがつらいんだ。お母さんを思い出してしまうのにオレが言い出したばっかりに、だけどがんばっているんだ。こんな怪我がなんだ」啓太は腕で目を隠して言った。
正行は言葉を失う。
試合は啓太不在のまま試合が続けられる。清水は気持ちが空回りしてミスを連発する。チームは押されていく。ディフェンスが突破される。
センタリングが上げられる。啓太が退場してからわずか五分で同点に追いつかれた。歓声と悲鳴が場内上空で交わる。
啓太の耳にいろんな声がつんざく。感情が入り乱れる。啓太は黙って包帯が巻かれるのを待った。武者震いがとまらない。
「はい、応急処置だから無理はだめよ。本当は試合には出しちゃいけないほどの怪我なんだから」包帯をきつく固めて藤田先生は啓太を送り出す。
啓太は藤田先生に親指をたてて笑顔を向けた。勢いよくピッチへ走り出す。
「あのこ、本当は立ち上がれないほどの怪我で痛くてたまらないハズなのに泣き言ひとつ言わないわ」藤田先生は手についた血を洗いながら言った。
「うちの自慢の息子です」正行は腕を組んで豪快に笑った。
啓太は怪我の痛みを堪えながら声を張り上げた。
「関山君、裏気をつけて。そっちじゃないって。なにしてんだよ」啓太は叫んで走って戻る。ディフェンスラインまで戻ってボールをカットする。
六年生選手は懸命な啓太のプレイを前にしてややふてくされ気味になった。怒鳴られた関山選手はすっかり固くなって練習の動きができない。啓太は誰にもパスを出せなくなっている。相手にとってはこれほどやりやすい戦略はない。その啓太も怪我している影響はやはり否めない。
「あいつを囲め。あいつを封じれば逆転もできるぞ」相手監督から、観客席からそのような声が啓太の耳に入る。
それでも啓太はドリブルでひとり、ふたりを交わし突き抜ける。啓太に人が集まる。限界までひきつけて清水にパスを出す。啓太に迫っていた選手は勢いを止められずにぶつかっていく。啓太は倒される。足をくじいた。悲痛の声をあげる。
ホイッスルは鳴らされない。チームが優勢だからだ。清水はほぼノーマークだった。ペナルティエリア内にはキーパーとディフェンスがひとり。
「オフサイドギリギリのパスだ。佐々木は絶妙のパスをオレに送った」清水は吐き気をもよおした。ディフェンスとキーパーが走ってくる。他の選手も一気に清水に押し寄せる。心臓が痛いぐらいに高鳴る。体は雨ですっかり冷え切っている。
「清水、はやい」監督の声が発せられたが遅かった。または清水にはその声は聞こえなかった。思い切って蹴ったボールはゴールバーにも触れずに高く飛んでいってしまった。
「あいつ、あんなチャンスを潰しやがった」
「佐々木のプレイが無駄になった」
「なんであんなヤツが替わりに出たんだ」
味方チームから野次られる。
清水は膝を落とした。雨は強くなっていき視界がぼやける。
「清水、なに座っているんだ、戻れ」六年生選手から怒鳴られる。だが清水は蹴り上げた方向をずっと見ていた。
啓太が少し足をひきずりながら清水のもとまで走って行き、肩を軽く叩いた。
「ドンマイ」そう言うと戻った。
「待てよ、佐々木」清水が立ち上がる。
啓太は振り向く。
「お前、自分が怪我してまでパスをオレに出しておいて、シュートを外したオレになんで文句言わないんだよ。いつもなら一番キレるくせしやがってよ」佐々木は口いっぱいにしていたツバを一気に吐きながら叫んだ。
「雨で足がふんばり利かなくてすべったんだろ。見ればわかる」啓太は笑った、ように見えた。啓太が手をあげる。
「まだ試合は終わってない。そんなところでボケっとしてると今度は蹴ったぐるぞ」啓太が叫ぶ。
「うっせえ、このバカ」清水は走った。
雨はひどくはならない。だが小雨はいつまでも降った。観客席からはボールの行方がよく見えない。雨は選手各々の体力を奪った。ボールは転がらない。水分をたくさん含んだ芝ではボールは止まる。ドリブルもパスも難しい。
清水は気付いた。だからこそ最初啓太が点を決めたシュートはドライブシュートだったのだ。ボールを地につけないシュートをうったのだ。だが啓太はそのことはなにも言わない。
啓太と清水が守りに入る。
清水のスライディングで水しぶきがあがった。ひるんだ相手の隙を啓太は見逃さない。カット。清水は懸命に走った。啓太もドリブルで進出していく。
「カウンターだ。行けえ」監督が叫んだ。
啓太の息はハーフラインも超えていないのにすでに息が切れていた。頭の包帯はとれかかり、足も痛む。もものうらが痙攣を起こしている。つま先の爪も感触だけだがおそらく割れている。
それでも味方の六年生選手は誰も追いつけない。啓太と清水は確かに足ははやいがもう気力そのものがついていけなくなっていた。
相手チームの戻りがはやい。ディフェンス四人はすでに待ち構えている。
清水は左サイドを走っている。どのタイミングでパスを出すか、またはどんなシュートをうつか。
痛みと疲れでなにもわからない。
「啓ちゃん、時間があと少ししかないよ。このままだと延長になっちゃうよ」佐藤がベンチから立ち上がって叫ぶ。
その声は啓太と清水も聞こえた。そして気持ちは同じだった。「延長にまでもつれこんだら負ける。チームの体力の差は明らかだ」さらに啓太は自分の体力が限界を超えているのを自覚している。ここでインターバルをとられたら気力も持続できずに立つことすらできなくなる。
大きな息をするたびに口に雨水が入っていく。咳き込みそうになる。チカチカとノイズみたいなものが目の前を浮遊する。耳鳴りがする。意識が時々失われる。そのときアルトのピアノ曲が頭の中で響いた。アルトが最初に弾いてくれた「きらきら星」
啓太の顔に少しの笑みが浮かんだ。鬼の形相が和らいだ。
つかの間、相手チームが啓太に襲い掛かる。啓太は巧みなフットワークでボールをコントロールして奪われない。
「うおおお、あいつ全盛期のストイコビッチかジーコみたいだ」監督が佐藤の背中を何度も思いっきり叩く。
ペナルティエリア内まで入る。密集地帯でも啓太はボールをキープする。一瞬のフェイントでディフェンスの背中を抜ける。足のふんばりが利かない。震える足一本で支えながらシュート。
ボールは浮き気味になり、ゴールポストに当たる。「あああ」ため息がベンチ側から漏れる。
ボールが跳ね返る。クリアしようとする相手を啓太は押しのける。
「どけえ、どけコラア」啓太は上空を舞うボールを追った。
啓太の包帯はほどけてしまう。額からまた流血する。雨で血はさらに流れて啓太の顔は血でいっぱいになった。ほとんど目が見えなくなった。だがゴールは目の前にあり、ボールが上にあるのはわかる。
啓太がジャンプする。ヘディングシュートを防ごうと相手チームも一緒になって跳んだ。キーパーもパンチングしようと拳骨を伸ばす。
啓太の体は小学五年生でもまわりにひけをとらないぐらいに大きい。体の強さも負けていない。啓太は誰よりも打点が高かった。
啓太はインパクトの瞬間に首を振った。ボールはゴールに向かわずに落ちた。落ちたところは清水の足元だった。
「なに」完全に全員フイをつかれる。しかしキーパーはいちはやく着地した。反応している。
ボールに血がついているのを清水は見逃さなかった。土と雨と血で汚れたボールを柔らかくトラップする。
清水はさっきの自分のシュートが頭をよぎった。ボールを浮かせないように、足を振りぬいた。清水は意識しすぎた。足にジャストミートしなかった。ボールの左腹が蹴られてボールは低空に飛んだ。
水分を含んだ芝でそのボールはうまくはじかれてスピンしながら滑って行った。キーパーもボールをとれずに後逸してしまう。回転鋭いボールはそのままゴールへ吸い込まれていった。
血と雨で視界がなくなろうとも啓太はそのボールの行方がしっかり見えていた。
笛が鳴った。試合終了の合図だった。
「やった」
「勝った」
飛び上がって喜ぶ人たちの中、啓太と清水だけが冷静だった。
試合終了とともに雨が急にひどくなった。土砂降りとなり、すぐに撤収された。
雨音ですべての声が消された。
雨の中、啓太と清水は抱き合って喜んだ。誰も見ていない中、ふたりだけでその喜びを分かち合った。
観客席もみんな帰っていたが桃子だけが残って啓太たちを見ていた。
「本当に仲いいふたりなんだから」
井上先生はアルトの演奏を聴いていると胸が痛んだ。本選のアルトの旋律はどこか力強さを失っていた。完璧で隙のない演奏であるが表現力がまったく感じられない。圧倒的なピアノが影を潜め、大人しい凡庸なピアノであった。
アルトはコンクールだからわざとやっているのだろうか。コンサートとコンクールの区別を自分でしていて、一切の感情を捨てる機械のような演奏を心がけているのか。
完璧以上に弾けるアルトが抑えている。井上先生は勝手にそう思い込み、寂しさを感じていた。誰の心に届かない機械のような完璧なピアノ。
井上先生は曲が終わるとホールに残る余韻に浸っていた。長い時間に感じられた。アルトは舞台の上で立ち上がり一礼をする。
アルトはこういうコンクールは初めてだと言っていた。大きな会場での演奏経験はない。しかしそれを知らない人は今、アルトを見てどう思うだろうか。付き添いで朝会ったときも、挨拶をしても、会場入りしても、控え室で待っているときも、緊張感も自然体を感じさせた。そして舞台袖へ引き上げていく様も。
ピアノと対峙するとアルトはさらに落ち着き払っている。アルトはそのときのピアノと対話している。
「今日はどういう話をしよう」だからこういう音を奏でよう。
アルトはピアノを友達にする。
井上先生はアルトとピアノを誤解していた。そして確信した。
アルトのピアノは最強である、と。
村瀬とアルトは本選も通過した。
辰池小学校は一気に沸きだった。サッカーチームの優勝は十年以来の快挙であったし、なによりピアノコンクール全国大会出場はこの近辺でも初である。しかもふたりも。
全校朝礼でふたりは壇上に上げられた。
アルトは照れくさそうにしていた。村瀬は堂々と挨拶をした。「全国大会でもがんばります」村瀬は元気よく言った。アルトは最後までマイクに近づけずにずっとうつむいてズボンの裾を握っていた。
「オレたちもすげえことやったのに、霞んじゃったな」と清水は啓太に笑った。
啓太は「な」と笑った。
啓太はアルトを誇らしげに見ていた。
村瀬の立ち振る舞いは五年生だけでなく六年生も、中にはませた四年生男子をも虜にした。この日も村瀬はまるで朝礼で呼ばれるのをわかっていたかのようなフリフリのついた高級子供服店で購入したようなピンク色の服をカジュアルに着こなしていた。白い顔の村瀬は白い手を振って壇上から降りた。
啓太の頭には包帯が巻かれている。ミイラ男とからかわれては啓太は追いかけまわした。
川島先生は走る啓太を見つけては叱った。安静にしていなければならないのに、啓太は家にいるのは退屈だといってきかない。サッカーの大事な試合も当分ないから練習も止められた。啓太のクチグセはいつからか「つまんねえ」になった。
村瀬が新聞を持ってきた。全国大会出場をみんなに教えるためだ。朝礼で一度発表されたが新聞をみせることでみんなに実感をもってほしかった。
小学生の部ではピアノ全国大会出場者は関東大会からはわずか四名。他近畿大会からは二人、中部大会から二人、九州大会から二人、北海道大会から二人。合計十二名からであった。
「全国から十二人だけだなんてやっぱりすごいのね」村瀬を囲む女子達は賞賛の声をあげた。
新聞記事には本選出場者同様に「村瀬英理子」の名前と「森有人」の名前がしっかりと記載されていた。
村瀬は全国大会に出場することがピアノをはじめたときからの夢であった。四年生から参加できる去年の大会では本選にも進めなかった。それが一年で夢が叶った。
村瀬は放課後になると家には帰らずにそのままピアノ学校へ向かった。
ピアノ先生の河村先生が村瀬の腱鞘炎を心配するほどピアノは凄みを増していた。
学校では明るく笑顔を欠かさないように気をつけているがピアノを弾くときは一切を消し去る。もっとピアノが上手くなりたい。
村瀬にとってもはや全国大会は夢ではなくなっていた。
「私、絶対に優勝したいんです。一流のピアニストになりたい」休憩するように言われても聞かなかった。黒鍵三十六個、白鍵五十二個の八十八個の鍵盤をみる。ひとつひとつのハンマーアクションに宇宙がある。自分はまだそこまで到達できていない。到達しないと一流にはなれないと言い聞かせた。
村瀬は小学校入学とともに引っ越してきた。そのときに河村先生のいるピアノ教室に通い出した。そのときの村瀬の演奏印象はあまりない。どこにでもいる親からやらされている一生徒のひとりであった。発表会やコンクールに出ても評判にはならず、上位に食い込むほどではなかった。本人もどこか自覚していて将来の履歴書欄に趣味はピアノと書ければいいというぐらいだっただろう。
昨年のコンクールでも参加規程が四年生からだとはいえ未来につながるようなピアノではなかった。目標を全国大会に据えてはいたが特にくやしがるふうにも見えなかった。いつもの丁寧な上品さをもっていた。
音が変わったのは初夏を迎えてからであった。なにがあったのか村瀬はなにも説明しない。ただ取り組む姿勢や態度は激変した。理想の音が出ないときは苛立ちを抑えきれずにイスを何度も放り投げた。何度も同じ楽章を納得いくまで引き続けた。あるときは何度も「Eb」の音を叩き続けた。
なにがあったか河村先生は知らない。そんなことは興味がない。ただこのまま優勝してくれたら自分の名前もあがる。事実、もう村瀬は中学生、高校生を凌駕し、音大の生徒ともわたりあえるところまできている。だが村瀬は実力に驕ることなく練習を続けた。
村瀬はピアノを弾きながらアルトの演奏と比べてしまう。最初に音楽室で聴いたピアノ、予選、本選。その旋律が忘れられない。同じ曲を弾いても、どのように弾いても敵わない気がする。だけど負けられない。アルトにだけは絶対負けたくなかった。
アルトは曲が自由選択なる全国大会でどんな曲を演奏するのか。村瀬は自分の得意曲では勝てない気がした。今までの自分ではとてもじゃないが勝てない。
教室が終わる時間になっても村瀬はピアノから離れようとはしなかった。
家に帰ってもピアノを鍵盤がわりにして指を動かした。あまり眠れない日々が続いた。
井上先生は学校も無視できない立場に置かれていた。アルトの指導は井上先生のみがみているということで他校にも轟いた。
アルトは毎日音楽室でピアノ練習をしていた。井上先生も毎日付き添った。
川島先生は夕方になるとおにぎりの差し入れを持ってくる。
「どうですか、森君は」
井上先生はお茶をすすりながらアルトを見て答えた。
「私はなにもする必要はありません。一応音楽室を使う以上監督していなければなりませんので、ここにいるだけです。コンクールは一発勝負です。しかも団体スポーツと違ってまわりの助けもありません。ステージに立てばあとは孤独な戦いです。私にも経験がありますが子供にその精神状態は酷です。当日はなにが起こるかわかりません。逆をいえばあとはそういう覚悟だけを決めるだけです」井上先生は微笑んだ。
アルトもまた休憩をとらなかった。自分で鳴らすピアノの音しか聞こえないかのように。
アルトが弾くショパン・エチュードのテンポは速かった。音量が大きい。
「あんな小さな体でよくあんな音が出せるもんよね」川島先生は自分で持ってきたおにぎりをほおばった。
井上先生は口をおさえて笑った。「あの子の体には音楽がたくさん詰まっています。余計なものはなにもありません。だから体の大きさは関係ありません」
アルトは一音一音を丁寧に響かせる。ピアノの音と楽譜に記された音符の音。どこまでも忠実に響かせた。
アルトの父親、森雅人は偶然にまた新聞に自分の息子の名前が載っているのを見つけた。次は全国大会だという。
物流センターでダンボール梱包するとき新聞紙を使用する。そのとき発見した。日付は近い。全国大会もまだ先である。同僚にさぼっているのを咎められるとその新聞の切れ端を千切って後ろポケットに仕舞った。
雅人は大学卒業してからずっと勤めていた商社会社をクビにされていた。世間一般に知られている有名一流企業。
妻の瑠璃子を事故で失ってから無断欠勤が続き、クビにされた。住んでいたマンションにも家賃を払えなくなり、安アパートに移った。酒をあおる日々が続いた。
原夫妻が場所を突き止めてアルトを預かることにした。雅人はなんの抵抗もせずにアルトを渡した。そのときのアルトは痩せ細り、満足な食事を与えられていなかった。外に出ることも許されず、軟禁状態であった。当時のアルトの目は虚ろでなにを話しても返すことがなかったほどだった。
雅人にはすでに親としての意志を放棄していた。アルトは雅人が手を上げただけで、体を痙攣させて怯えた目をする。抵抗すればさらに殴られるのか、それともすべてをあきらめているのか、そこから逃げようともよけようともしないアルトがいた。
原おばあちゃんはなにもわからないのにアルトの顔を見ただけで泣き出した。雅人はふてくされるように部屋の隅でタバコをふかしていた。原おじいちゃんはその様子をみて決心してアルトを引き取った。
ただアルトの戸籍はそのままにした。母親を亡くし、さらに父親から戸籍を抜くことはアルトに深い影を落とすと判断した。原おじいちゃんは雅人が更生すればアルトを返す、その気持ちもあった。
その雅人も貯金はとうに尽き、アルバイトを始めるようになった。転々と安定せずに職を変えていった。若い頃の輝きや集中力は失っていた。虚脱感だけが毎日募る。なにをやってもいつでもやる気がでない。
夜になると瑠璃子を思い出し、悪夢をみては眠れない日々を送っていた。毎日胸がかきむしられる思いがする。動悸息切れする。
アルトの地区大会の会場と日時は知らされていた。だけど行く気にはなれなかった。ピアノはどの音を聴いただけで瑠璃子を思い出す。雅人にとってそれはとても耐えられるものではなかった。
新聞記事にはアルトの名前が記されているだけで写真はない。どのような演奏であったかも書いていない。ただ「森有人」が全国大会へ出場することが決まったと書いてあった。
拳を握ればアルトを殴った記憶が蘇る。雅人はその新聞記事の切れ端を大事にした。その記事には全国大会の日時が書いてある。雅人の記憶の片隅にそれは残された。
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