きらきら星ひかる

音楽室へ

「もう一回言ってみろ」

 辰池小学校五年二組の教室から学校外にまで聞こえそうな声が発せられた。次いで机のひっくりかえる音、椅子が跳ねる音、教科書が落ちて踏まれる音。悲鳴が飛び交う。

 教室の扉が開く。

「こらあ、なにやっているの」

「やべえ、かば子先生もう来た」

「誰がかば子だ、こら佐々木、ちゃんと机戻しなさい」息を一度吸い込まれて発せられた先生の声は五年二組の教室から町中に響いた。

 佐々木啓太は机を片しながら肘で清水仁志の肩を突付いた。その手を清水は振り払った。その振り払った手を啓太はつかんだ。

「なにすんだよ、離せよ」

「うっせえ、バカ」

「なにを」

 取っ組み合いがはじまった。また女子達の悲鳴がおこる。

「またなにやっているのよ、ちょっと佐々木君、こっちに来なさい」

 先生は啓太の手をひっぱって教壇に上がって頭に拳骨した。

「なんで、オレだけなんだよ」啓太は頭を押さえてわめいた。

「あなたがちょっかいを先に出したでしょう、先生ちゃんと見ていたんだから」先生は啓太の背中を軽く叩いた。

 啓太は頭を掻きながら席に戻る。

「川島先生、あの子だぁれ」太田さやかが手を挙げて舌ったらずの高い声をあげた。

 廊下で立ち尽くす少年が両手でズボンをいじりながらそこにいた。教室の扉が開けっ放しで一番前に座っている太田が見つけた。

 教室はその声でまた騒々しくなった。一番後ろに座っていた清水はダッシュで一番前まで行って扉の向こうを覗き込む。

「転校生、マジ、本当。先生、転校生なの」清水が先生の横腹を叩きながら言った。

「そうよ、まったくこれが第一印象になっちゃうなんてとんだ災難だわ。みんな仲良くしてあげてね」

 少年は手招きをされても動けずにいた。先生をじっと見つめていたまま。

「森有人(モリ アルト)君です。みんな、よろしくね」

 川島先生が背中を押しながら教壇の中心まで連れて行った。

 アルトは「あ、あ」と言うだけでシャツを握って足を震わせていた。

「ちっちぇーな、コイツ、これでオレたちと同じ五年なのか」清水が作り笑いのような大きな声をあげた。

「わーあははは」清水の笑いにつられて教室の中は爆笑となった。わざとらしい笑い声はアルトの心に突き刺さった。アルトはもう目線をあげることができなくなった。

 教室では笑っていない生徒も何人かいた。啓太もそのひとりで窓際の席から外を眺めていた。横山桃子もそのひとりで肩肘ついてため息をついた。軽蔑の思いをこめて清水を睨んだけど、それも馬鹿馬鹿しく思って机にうつぶせて狸寝入りをした。

 いつまでもやまない笑いに川島先生は痺れを切らして手を叩いて、静粛を求めた。清水の後頭部を小突いて席に戻させた。

 前日から用意されていた一番前の席に先生はアルトを誘導した。

 黒板に大きく書かれた「森有人」の文字が消されて授業が始まった。

 アルトは昨日の晩、一所懸命に考えた自己紹介を一言も言えずに終わってしまったことを、どう受け止めたらいいのかわからずにいた。五年生なりに考えたけど今更それを先生に言ってやらせてもらうわけにもいかない。自己紹介をしないですんだと気持ちを切り替えることがなかなかできずに、そのうちにお腹が痛くなってきた。そのことも言い出せずにアルトは泣きそうになった。


 一時間目が終わり、川島先生が教室から出る。五分の休み時間。男子何人かがアルトのまわりに集まってくる。

「なぁなぁ、どこから来たの」

「なんかできる」

「なんで転校してきたの」

「家どこなの。団地のほうなの」

 矢継ぎ早に質問を浴びせられるが、アルトはなにひとつ答えられない。ひとつを答えようとすると他の質問を被せられる。アルトは首をまわしては口元を震わせていた。

「なんだ、コイツつまんねーやつだな」清水が机の脚を蹴った。

 アルトは手で口をおさえた。

「こいつ女みてー」笑い声がおこる。

「なんか震えているぞ、気持ちわりいよ」

 アルトの前で何人かがおどけてみせる。アルトの机を叩いたり、中にはアルトの頭を小突く者もいた。アルトは俯いてしまいなにも言い出せない。アルトの周りに集まらない生徒は遠巻きに様子を見ていた。その中に参加しないまでもみんな気にしていた。女子はとくに小さな声で「かわいそう」と言い合って微かな嘲笑さえ浮かべていた。

「あ、こいつ泣くかも」清水はアルトの顔を覗き込んではやし立てた。

 アルトは両手で耳をふさいだ。そのことがさらなる騒ぎの口実を与えることになった。

「やめろよ、くっだらねえことはよ」机を叩いて立ち上がったのは啓太だった。

「また、お前かよ、いちいち、いちいちなんだよ、うっせえな」清水が中指を立てて怒りを露わにする。

「いじめはやめろって言ってんだよ」啓太がそう言うと教室は静寂に包まれた。

 啓太はアルトの机前まで歩いていく。清水は啓太を睨みつける。アルトは顔を上げられないのでどういう状況になっているのかがわからない。

 啓太は「な」と笑って清水の肩に手を置いた。その手を清水は振り払った。

「なに調子こいているんだ」清水が啓太に向かっていき、アルトの机の上で喧嘩が始まった。アルトの顔に啓太の肘が当たり、清水のうわばきが胸に当たる。金属のぶつかり合う音がする。

 そのとき教室の扉が開いた。

「まあたあんたたちは。なにやっているの」川島先生が清水と啓太のそでをつかんで教壇上にひっぱった。

 みんなの前で怒られることはよくある。いつもは神妙な顔つきで立たされる清水だが、今回は川島先生に怒られながら啓太をずっと睨んでいた。

 次の休み時間からは誰もアルトのそばには近づこうとしなかった。話しかけてもなにも返ってこないアルトに清水は興味を失せていたし、まわりも同じ感覚をもっていた。啓太は二十分の休み時間では仲のいい友達と校庭に駆け出してサッカーをする。

 アルトは教室にひとり残されて、俯いて座り、机の表面をじっと見つめたままであった。

 啓太は昼の休み時間がはじまるとアルトを誘ってみたがアルトは聞こえないふりをした。無理に誘おうとしたら清水が「おい、いじめてんじゃねーよ」と言ってきたからやめた。


 放課後になると掃除当番を残してみんな一斉に教室を飛び出していこうとする。アルトは一日言葉を発することなく教科書を片付けて下校準備をする。川島先生は啓太を呼び止めた。啓太はばつの悪そうな顔をした。今日ケンカをしすぎたから呼び出されたと思った。職員室まで来るようにと言われた。川島先生はそれほど怒っているようには見えない。それでも職員室に行くのは気分のいいものではなかった。

 職員室に行くとさらに川島先生に手招きされて応接室に通された。啓太は初めて入る部屋に躊躇したが、びびっているのを見透かされるのが嫌で胸を張って先生に連れて入った。

 小さなテーブルを挟んでお互い向かい合って硬いソファに座った。体はさほど大きくはないが同級生に比べてわりと背の高い啓太は座ると川島先生と目線の高さが同じだった。今まで上から見下ろされて話されたり、立たされている啓太が座っている先生からたしなめられることばかりだが、この場では初めて目線の高さは同じだった。そしてここには先生と啓太のふたりしかいない、ということも初めてだと思った。

 啓太は考えすぎて緊張してきた。ツバを何回飲んだかわからなくなっている。

「佐々木啓太君、あなたを見込んでお願いがあるの」

 まっすぐに大きな目で見られてすべてを飲み込まれそうになって啓太はたじろいだ。身動きをとれない。「かばってより、がまがえるだよ、こりゃ」

 川島先生はなかなか言い出せないようにいたが意を決したように続きを言う。

「今日転校してきた森有人君と友達になってほしいの」

 一瞬の間があったが啓太は吹きだした。そして笑い転げた。

「なんだよ、先生それは。そんな真剣な顔してさ、なんだよ、なんだよ。あはははは」

 その笑い声を聞いて川島先生は胸に手をあててほっとした。しかしその気持ちはすぐに裏切られた。

「先生、友達ってのは頼まれてなるもんじゃないでしょ。無理矢理合わない同士が友達になるなんて変な感じになっちゃうよ。チェルシーファンとマンUファンが友達になるようなもんだよ」

 きょとんとして川島先生が言う「チェルシーってなに。さくらんぼのこと」

 啓太はそれを聞いて顔を手で覆う。

「おおお、日本国民がこんなんでワールドカップは大丈夫なのか」

「なに言っているのかわからないわ」

「つまり、サッカーの話もできない先生とオレとは友達になれないってことだよ」啓太は立ち上がってシュートの格好をする。

 川島先生は座るように促す。

「それでも私はあなたにお願いしたいのよ」

 言葉を挟んで啓太が話し出す。

「先生、オレも今日休み時間に誘ったんだよ。だけど無視されちゃったよ。オレとは友達になりたくないんじゃないかな。大人しそうだし、すぐケンカしちゃうオレとは合わないんじゃないの」

 川島先生は大きな胸の前で腕を組んだ。「お笑い好きな鈴木とか、漫画家目指している前川とか、オレより友達にふさわしいヤツに頼んだほうがいいよ」

 啓太は勢いつけてソファから立ち上がった。

「ところで先生、あの森君は団地なの、開発なの」啓太は不敵な笑みを浮かべた。

「団地よ」川島先生は答えた。

 啓太はそれを聞いて鼻で笑った。

「ああ、それならよかった。こっち派だな」

「またくだらないことを。しかも森君はあなたと同じ四十五号棟よ」

 啓太はそれを聞いて口笛を吹いた。

「あの棟、どこか開いていたっけ」

「佐々木君、座って」

 啓太ははやく遊びに行きたかったけど言われるがままに座った。

「同じ棟だからという理由であなたにお願いしているわけではないのよ。もちろん鈴木君や前川君にも友達になってほしいわ。だけど最初にあなたに友達になってほしいの」

 啓太は決まり悪そうに首を回しながら頭を掻いた。

「先生にそうやってお願いされるなんて変な感じだなぁ。いつも怒られてばかりなのに」

「ふざけないで聞いてほしいの。これは他の人には決して言ってほしくないんだけど、約束してほしいんだけど」

 啓太は川島先生が少し震えていることに気がついた。

「最近、森君、交通事故でお母さんを亡くしています。しかも同じ車に乗っていたということだから、おそらく目の前でお母さんが亡くなられるところを見ています」

 啓太は「え」と声をあげた。

「お母さんのほうのおじいさん、おばあさんと一緒に暮らす団地に森君は住むことになりました。お父さんは事故時には一緒ではなかったようだから生存はしているようだけど、先生はそこから先はわからないの」

 啓太は目をそらさずに川島先生の目をしっかり見ていた。川島先生はこういう目をした啓太が好きだった。虚勢だとしても逃げない姿勢をもつ啓太に一目置いていた。

「だから今は心を閉じているだけだと思うの。それはいつ開くかとか解くかはいつになるのか、どうしたらいいのかはまったくわからないけど、だけど先生は佐々木君に力になってほしいのよ」

 啓太は口に手をあてた。

「先生の話は難しいよ。心が閉じるとか、なに言ってるのかわからないよ。オレ、勉強できないの知ってるでしょ」その手は頭に触れて掻いた。

「ごめんね、だけど先生の言ってること、なんとなくでもわかるでしょう」

 啓太は返事をしないでゆっくり立ち上がった。

「オレ、帰る。サッカーしてえ」

ランドセルを力なく背負う。

扉を開けて「失礼しましたあ」と啓太は言う。一応の職員室を出るときに言う学校の規則だ。その扉を閉めるときに啓太は舌を出して川島先生に笑顔をみせた。

「先生もいろいろ大変だな」

 啓太は捨てゼリフを残して走って去っていく。川島先生は遠くなる足音を聞きながら鼻で笑った。「生意気言いやがって」


 サッカーを終えて疲れ果てて家に帰る。団地の階段を上がっていくだけでカレーの匂いがしてきた。それが自分の家からだとわかると喜ばずにはいられなかった。啓太は靴を脱ぎ捨てて台所へ駆けていく。母親の頼子が料理をしている背中が見える。

「今日カレーなんだね」啓太が覗き込む。

「いい匂いがするだろ」母親が微笑む。

 啓太は母親の顔を見てアルトのことを思い出す。啓太には自分の母親が突然いなくなるなんてすぐには想像できない。このカレーも食べられなくなるなんてことと。

 姉の裕子が帰ってきた。裕子は剣道部でその「ただいま」の声はいつもの気合いの声と同じ感じだからせまい団地の部屋に響きまくる。母親と啓太がふたり同時に耳をおさえたものだから笑いがこみあげる。

「姉ちゃん、そんな大きな声で言わなくても聞こえるよ」

「バカ、今年こそ我が成丘高校はインターハイを決めるんだから今から気合い入れないでどうすんだ。引退試合がかかっているんだから」裕子は指を竹刀に見立てて「とおー」と啓太に面の打ち込みをする。

 カレーができあがる頃に父親の正行が帰ってきた。

「父ちゃんはいつもタイミングいいよね。なんでいつもできたときに帰って来るの」啓太は大きな父親の背中を見て言った。

「それはおめぇ、母ちゃんと父ちゃんは愛し合っているからうまく伝わっているんだよ、な、母ちゃん」と正行は大工道具をベランダに仕舞いながら言った。

「バカなことを外に向けて言ってるんじゃないよ、恥ずかしい。ほら、啓太できた皿を持っていきな。裕子はテーブルを前に出して片付けて頂戴」

 啓太と裕子は「はあーい」と間の抜けた返事をする。

 カレーをほおばりながら啓太はアルトが転校してきたことを言った。

頼子は首をかしげて「この時期にめずらしいわね」と言った後に「また新しくできたマンションに越してきたのかしら」と言った。

啓太は首を横に振る「この四十五号棟に住むことになったって言ってた。森って人いたっけ」

 母親は四十五号棟に森はいないと言った。新しく越してきた人の話も聞かない。

「森君のお母さんが交通事故で死んじゃったんだって。だからおじいちゃん、おばあちゃんの家に住むことになったって先生言ってた。お父さんとは一緒に住まないみたい。なんでだろうね」

「後でどこの家か聞いてみるわね」頼子は言った。

「交通事故でお母さんを亡くしてその子は大変だな、啓太、お前友達になってやれよ」正行がおしんこをかじりながら言う。

「うーん、でもなんか暗い感じでさ、オレとは合わない気がするんだよね。休み時間にサッカーに誘っても無視されちゃったしさ」啓太は頭を掻いた。

「啓太、その頭を掻くクセどうにかならないの。でもその子もお母さんを亡くしてばかりでまだ気持ちの整理がつかないんじゃないの。それを暗いって言っちゃかわいそうよ」頼子はそう言うと啓太のカレーのおかわりをつぎに台所へ向かった。

 おかわりのカレーを持ってきたのを待って啓太は言った。

「今日、かば、いや川島先生に放課後、応接室まで呼び出されてさ、森君と友達になってくれってお願いされちゃったんだよ。わけわかんないよ。なんでオレなのかって。普通はこういうのって学級委員の池上とかもっと気が合いそうな人に頼むもんじゃないの。よりによってオレに真剣な顔で言うんだもんな。変だよね」

 カレーを口いっぱいに入れる啓太を見ながら姉の裕子はカレーを食べていたスプーンを止めた。

「それは啓太、あんた見込まれたってことじゃないの。男をみせなさいよ」裕子は啓太の背中を思いっきり叩いた。

「痛ってぇな。なんだよ、男をみせろって。チンチンでも出せっていうのかよ」啓太はそう言ってはまたカレーをかっ込んだ。

 正行、頼子、裕子は顔を見合わせて、笑った。長い間笑った。

「ばーか」裕子が啓太の頭を小突く。

「なんだよ、馬鹿、馬鹿って。わかってるよそんなこと。どうせ勉強できねえよ」

 笑いをとめた正行がくわえていた楊枝を口から外して啓太の目をまっすぐに見た。

「いいか啓太、お前は自分が正しいと思ったことを胸張って全力でやれ。オレはお前を信じているぞ」と陽に焼けた真っ赤な顔をさらに赤くして豪快に笑った。そして鍛え上げられた太い腕で啓太の頭をぐしゃぐしゃにした。

 啓太は頭を揺すられながら「うん」と力強く答えた。


 次の日の休み時間、黙って座っているアルトをサッカーに啓太は誘った。だけど動こうとしない。それでも袖を引っ張って外に連れ出そうとする。

「おーい、いじめはやめなさいよ」清水がサッカーボールを抱えてからかう。

 啓太は清水を無視する。

「森君ってサッカー知ってる。オレは将来ヨーロッパのサッカーチームに入るのが夢なんだ。プレミアリーグ、セリエA、リーガエスパニューラ、ドイツのブンデスリーガもいいかな。そこでプレイしたいんだよね。でさ、そのオレのサッカーも見るだけでもいいからさ、ちょっと外行こうよ」

 啓太はアルトを抱き起こそうとするもそれも拒否された。腕を振って拒んだ。啓太は頭を掻いた。

 もう男子のほとんどは外に出て行ってしまった。女子の何人かが教室に残っているぐらいだ。

「なにが駄目なんだい、あとなにか言ってくれないかな。昨日もだけどなにも言わないよね。どうして」

 啓太はしゃがんでアルトの顔を覗き込む。アルトは顔を背ける。啓太は感情が爆発しそうなのを懸命に堪える。

 朝に母親の頼子から言われていることがある。「森君のおかあさんのこと、先生から友達になるように言われていること、それはどんなときも絶対に言ってはならない。もし口が滑ってでも言ってしまったときは二度と家に入れない」だけど啓太には自信がなかった。こうまで拒否されると勢いで言ってしまいそうだ。

 啓太は欧州サッカープレイヤーのマネやワールドカップの実況したりしてアルトの気を向けようとした。サッカーボールを蹴る仕草を一所懸命にアルトに見せた。いや、アルトは見なかった。うつむいて黙ったままだった。

 休み時間が終わって男子が教室に戻ってきた。佐藤が啓太を見つける。

「なんだよ、啓ちゃんなんで来なかったの。いつもは一番サッカーしてるのに」

「悪いな憲太郎。昼の休み時間には行くよ」啓太はアルトの机から離れた。

 五分の休み時間にも啓太はしつこくアルトに話しかけた。「啓ちゃーん、ジャンプ読もうよ」と佐藤が誘っても啓太は「あとで」と言ってなにも言い返さないアルトを相手し続けた。

 昼の休み時間にも啓太はアルトを誘った。

「一度でいい、一度でいい」と啓太が何度も頭を下げるからアルトはとうとう根負けして立ち上がった。

「やったー、やっほーい」と啓太は喜んでアルトの背中を押して校庭へ向かった。

 校庭に立つアルトに啓太はゆっくりめのパスを出した。

「森君、リターンだ。こっちに蹴り返してくれ」啓太は手を挙げて叫ぶ。

 アルトはぎこちない足取りで助走をつけてサッカーボールを蹴ろうとするが外れてしまい、勢いそのままひっくり返って転んでしまった。サッカーボールは遠くまで転がっていってしまった。

「なんだよアイツ、あんなのも蹴られないのか、どんくさいヤツだな」と清水は笑った。つられて他の仲間もアルトを指差して笑った。

 アルトはよごれのついたズボンを叩きながら立っては呆然としていた。

「おい、お前、なにボーっとしてるんだよ。さっさとボールを取りに行けよ。サッカーできないじゃないか」清水が怒鳴った。

 アルトは耳を塞いでしゃがみこんでしまった。それを見て清水はさらに怒鳴った。

「悪い、悪い。今のはオレが蹴ったんだからオレがボールを取りに行くよ」と啓太が右手を挙げてボールに向かって駆け出した。それを追って佐藤も走り出した。

「啓ちゃん、正直あんなヤツに気を遣うことないよ。いくら転校生だからってあれじゃ駄目だと思うよ。今だって全然謝る気ないし。今日の啓ちゃんなんかおかしいよ。どうしてあんなヤツを庇うんだい」佐藤は小声で啓太の袖をつかみながら言った。

 啓太は黙ってサッカーボールをつかんで、それを大きく仲間のいるところまで蹴った。

「憲太郎、くわしいことはオレもわかんないけど森君は苦しんでいるんじゃないかって思う。心が閉じてるってやつだ」

「なんだよ、それ」

「オレもよくわかんない。だけど開けてやりたいんだ。その閉じてるやつを」

「それがなんで啓ちゃんなのさ」

 啓太は笑顔をみせるだけだった。

「おーい清水、クロスプレイの練習しようぜ。高くボールをあげてくれ」啓太は両手を振って叫んだ。

 清水がループ状にパスをあげる。啓太はジャンプしてヘディングシュートを決める。

「おー、やった」清水と啓太がハイタッチする。啓太は横目でアルトを見る。アルトはしゃがんでそっぽを向いていた。

 啓太はアルトのところに駆け寄る。

「森君、今の見た。ああやってシュート決めるとすごく気持ちいいよ。ちょっと頭痛いけど。だからちょっとこっちでオレたちとサッカーしようよ」

 クラスメイトはふたりを見ながらため息をついた。清水はツバを校庭に吐いた。

「いいよ、僕にはあんなことできないよ。今の僕、見ただろ。僕は運動がまるでできないんだ」アルトはつぶやいた。

 啓太は満面の笑みを浮かべた。

「やっと喋ってくれたね。これ、クラスでオレが一番だよね。やった。森君がやっとオレに喋ってくれたよ」啓太はアルトの背中を何度も思いっきり叩いた。

「バカにするな。もう教室に戻るよ」アルトはそう言うと啓太を押して校舎に駆け出した。

 啓太は二、三歩後ろに下がったが気を持ち直してアルトを追った。

 クラスメイトは啓太たちを無視してサッカーを再開していた。佐藤憲太郎だけが啓太を追った。

「どうしたら君の閉じた心ってやつを開けることができるんだい」啓太はアルトの前にまわって言った。

 アルトは睨んだ。

「心なんて閉じてないよ。君はなんだい、もう放っておいてくれよ」

「駄目だ。放っとかない」

 ゲタ箱から上履きを取り出そうとするアルトの蓋を啓太はおさえた。そこに佐藤が後ろから啓太の肩をつかんだ。

「啓ちゃん、もういいよ。駄目なんだよ、コイツは」

 啓太は振り向いて佐藤を殴った。

「なんだよ、駄目って。なにが駄目なんだよ。そんなこと言うなよ。昨日転校してきて、そんなことすぐに言うなよ」

「啓ちゃんこそなんだよ、オレは啓ちゃんのことを思って言ってるのになんでオレが殴られるんだよ、わけわかんねえよ、なんだよ」

 佐藤はゲタ箱を蹴っ飛ばして校庭に走り出した。

「ごめん」啓太はもうそこにはいない佐藤に謝った。

 振り向くとアルトが上履きを抱えて立っていた。啓太と目が合うと教室に向かって走って行ってしまった。

 啓太はゲタ箱を拳骨で突いた。手の関節から血がにじんだ。


 放課後。いつもなら啓太に声を掛け合う仲間は今日は誰もいなかった。鈴木が啓太に声をかけようとしたが佐藤がそれを制して鈴木の腕をひっぱった。それを目にした啓太はなにも言えなかった。

「どうした啓太、なにかあったのか」横山桃子が啓太の背中を叩く。

 気のない返事をする啓太に桃子は首を横に振って肩をすくめ大袈裟なポーズをとる。

「はああ、なにがあったのか知らんけど、ちょっとケンカしたぐらいでなんだ情けない」宮崎から越してきた桃子は少しの九州なまりで大声を出す。桃子はにこにこ笑っていた。

「うっせえな」と啓太は桃子を押しのけてまだ教室に残っているアルトのもとへ駆け出した。

「森君、昼休みは本当にごめんね、悪かったよ。謝るから許してくれよ」

 アルトは無視してランドセルを背負って帰ろうとする。

「昼休みにオレの得意なサッカーを見せてあげただろ。森君の得意なことってある。それをオレに見せてくれないかな」啓太はアルトの前にふさがるような形で立った。

「なにもないよ」アルトは振り切ろうとするが俊敏な啓太に阻まれる。

「なにかあるだろう。ほら、うちのクラスにはマンガを描くのがすげー得意な前川ってやつがいてさ、君も絵を描くのが得意だったりしないかい。そしたら前川と友達になればいいんじゃないかな」

 アルトは啓太を押しのけようとするが啓太は譲らなかった。

「あんた、さっきからなによ。啓太がこんなに頼み込むなんてめずらしいんだからさ、なにか答えたらどうなんだい」桃子が近づいて来てツインテールの髪を揺らしながらアルトに向かった。

「なにもないったら」アルトは啓太を思いっきり押しのけて走って教室から出て行った。

「おい、掃除の邪魔なんだけど。帰るなら帰ってくれよ」学級委員の池上慎一郎が啓太の背中を箒で突付きながら言った。

「ああ、悪いな」啓太はそう言うとランドセルを背負って教室から出ることにした。


 啓太は桃子と一緒に帰った。今日はサッカー場に行っても誰も相手にしてくれない気がするから。

 桃子と啓太は幼稚園から偶然なのかずっと同じクラスだった。小学二年生ぐらいまでは一緒によく遊んでいたがまわりが男子と女子を気にし始めてからお互い距離をもつようにしていた。

 帰り道を桃子は見上げた。ここら一帯は十年前ぐらいから地下鉄や電車の駅が開通して都市再開発プロジェクトが立ち上げられたのだった。橋ひとつ向こうには商業施設が立ち並び、高級マンションが次々と建設されていった。また高級住宅地区もできつつあった。その一方でバスもろくに通っていなかった時期からある団地や昔ながらの商店街も同じようにそこにはあった。人口は急激に増えたが学校が新たに創られることもなく、地区区分が曖昧なまま小学校など指定されていく。

 大人たちはさほど気にしていないが小学校高学年から中学校では見えない身分制度がそこには存在していた。世間でいわれる格差社会は子供たちにも波紋は広がりいじめの温床に繋がった。

 啓太のクラスではまだ団地から登校している者が数を圧倒していた。しかし開発と呼ばれる派には学級委員長の池上など優越の差は少しずつだがでていた。啓太はなるべく気にしないように努めていたが清水のように団地に住んでいたのが開発マンションに越して急に威張り出すのを見ては、いつも歯がゆい思いをしていた。清水は清水でそのことをいいことになにかと言うと開発派の格差のことを口に出しては啓太をからかうのでいつもケンカになっていた。

 気にせずにはいられない心の奥底に沈むものが誰かしら全員にあった。

 建設中のマンションは毎日騒音を出している。開発計画発足のときは見慣れぬ大型クレーンを見てははしゃいでいた啓太だったが、今ではこの町を襲う怪獣のように見えて仕方がなかった。

「最初テレビでさ、どこかで都市開発がはじまったとき、いいなぁ、自分のとこもならないかなぁと思ったけど、いざ自分のところがそうなると、そんなにいいこともなかったね。いつも工事の音とかうるさいしさ、新しくできたデパートも別におもしろくないし」桃子は後頭部に両手をあてて空を眺めた。

「開発か」啓太も巨大なクレーンを眺める。

 桃子は少し走り出し、振り向く。

「でも新しい友達もできたし、もう今となってはしょうがないよね。私たちは未来を受け入れるしかないよね」桃子は笑う。

「なに言っているんだ、お前」啓太は頭を掻いた。

「あんたみたいなバカに言ってもわからないか」と桃子は笑った。

「なにを」と啓太は桃子を追っかけた。追っかけながら桃子が大人に見えた。なんだかわからないけど、追いかけながら、追いつけない気がした。

 桃子と別れて歩いているとパート帰りの母親の頼子に途中で会った。頼子は大きなエコバックを両手に持ちながら手を振った。しょうがないから啓太はひとつ持つことにした。並んで歩くと頼子が言った。

「啓太が言っていた森有人君、二階の原さんのお孫さんだったわ。今朝わざわざ家に挨拶に来てくれてね。うちの孫をよろしくって」

「原ってあの原じいさんとこの」啓太はエコバックを振り回して言った。

「そうよ、あんたが小さい頃よく竹トンボをつくってくれたあの原さんよ」

「ふうん」と啓太はエコバックを両手で持つように持ち替えた。

「原さんの娘さんって音楽の学校に行っていたんじゃなかったっけ」頼子が指を口にあてる。

「へええ、音楽。すげえな。オレはリコーダーとか全然できないからなぁ。ドの半音とかできないのはオレと清水ぐらいだし」啓太はリコーダーを吹くマネをする。

「じゃあ森君も音楽得意かな」啓太は笑顔で頼子の顔を覗き込む。

「原さんの娘さん確かピアノをやっていたわ。高校生ぐらいまでやっていたと思う。そう、原さんのおばあちゃんが言っていたのを思い出したわ。当時はこの辺はそういう学校がなかったからバスで遠くまで通っていたって言っていたわ、そうよ」

 啓太は持っていたエコバックを上に放り投げた。

「こらあ、その中には卵が入っているのよ」

 頼子は叫んだが啓太はちゃんとキャッチして「へへへ」と笑った。


 翌日になっても佐藤憲太郎は不機嫌だった。挨拶しても返事がない。それでも啓太は佐藤の頭を小突いたりして気をひこうとする。それでも佐藤は無言であしらった。

 横で桃子がにやにやしながら拳を顔のところに突き上げる。親指をつきたてて「行け、行け」とゼスチャーをみせる。

 啓太はアルトを見る。昨日と同じように俯いて動かない。啓太はどっちを優先させたらいいのかわからないのか体が泳ぐ。桃子は耐えられなくなって声を出して笑ってしまう。

 結局どうにもならなくなって放課後までなってしまう。

 啓太は思い切って言った。

「森君、君もしかしてピアノが得意なんじゃないか。今から音楽室に行ってピアノ弾いてくれないか」

 アルトの肩が震えた。

「ピアノ、弾けるの」アルトが啓太の声をするほうに顔を向けた。

 啓太は思いっきりの笑顔でブイサインをしていた。啓太と目が合うとアルトは顔を伏せた。

「でも、そんな得意じゃないし」そう言うアルトの手を啓太はひっぱった。

 佐藤は「けっ」と面白くなさそうに言った。

「佐々木、そんなサッカーさぼっていてプロになれると思ってるのかよ」

 啓太は拳を高く上げて答える。

「おー、憲太郎、やっと話しかけてくれたな。嬉しいぞ、オレは」啓太は声を出して笑う。

「関係ないこと言うな」佐藤が捨てゼリフを吐いて行ってしまう。

「桃、じゃなかった横山、今日これから予定あるか」啓太が手を振る。

 横山桃子は吹きだして笑う。「別に言い直さなくてもいいのに、ああ、今日は別に塾もないしなにもないよ」背負うとしたランドセルを机に下ろした。

「じゃあ、ちょっと一緒に職員室来てくれないか」啓太が手招きする。

「ひとりで行けよ」桃子が笑う。

「いいじゃないか、嫌なんだよ、一人で行くの。それに横山が一緒だとうまくいきそうな気がするんだ」

「ああ、私みたいな優等生が必要なのね」

「うるせえな、頼むよ」

「しょうがないな、いいよ」

 啓太はウィンクして手を合わせた。振り向いてアルトも一緒にひっぱっていく。

 三人で職員室に入る。「失礼しまあす」桃子が声を出して扉を開ける。

「あ、いた。井上先生」啓太が歩き出す。音楽の井上響子先生が飲みかけのお茶を吹きだしそうになる。

「なに、私。なんの用」ロングヘアーを後ろにゴムで縛って向きなおす。

「音楽室を貸してほしいんですけどいいですか。鍵貸して下さい」啓太が頭を下げる。

 川島先生が三人を見つける。啓太がアルトの袖をつかんでいる。桃子が一緒に頭を下げている。桃子の後ろでどうしたらいいのかわからずに、おどおどしているのがわかるアルトがいる。川島先生はとくに口を挟もうとしないで見守ろうと思った。川島先生の隣に座る五年一組担任の江原先生が話しかける。

「あれは先生のクラスの佐々木君じゃないですか。井上先生になに話しているんですかね。あと後ろにいるのが例の転校生ですね」

 川島先生は自分が啓太たちを見ていることがばれないように顔を伏せて返事をした。

「そうね。さすが彼は行動が早いわ」と川島先生は含み笑いをする。

「なかなかの問題児で父兄の評判はよくきかないし、川島さんも手をやいている生徒なんでしょう」江原先生はペンを右手上で回しながら啓太たちを眺めながら言った。

「そうね。でも骨があるわ。今時にしてはめずらしいぐらいの。ああやって横山さんと一緒に来るところがいいわね。あ、うまくいったようね」川島先生は顔を伏せたまま見ている。

 啓太は音楽室の鍵を受け取って井上先生にお礼を言った。桃子も大きな声で「ありがとうございました」と言った。アルトを連れて職員室を駆けた。「失礼しまあす」桃子がそう言うと「かば子先生、そんな見張ってなくても大丈夫だって」と啓太はアッパーカットのスゥイングをしてみせた。

「誰がかば子だあ」と川島先生が腕を振り回して立ち上がると啓太たちは一目散に走って出て行った。川島先生と井上先生の目が合ってお互いに大声で笑った。

 音楽室に入って啓太はピアノに向かって走って行き、手招きをした。

「ねえ、なんか弾いてみてよ」啓太は鍵盤の蓋を開けると、桃子はグランドピアノの響版を開ける。ピアノがセッティングされると、アルトの足が微かに震えた。

「やっぱり、無理だ。帰る」アルトは振り向いて扉を開けようとする。啓太がダッシュで戻る。いくつもの机にひざが当たったけど構わずに走った。

「駄目だよ。ここまでやっと来たんだから。一回でいいから弾いてみせてよ」啓太は両手を水平に伸ばして扉の前に立ちはだかる。

 桃子は鍵盤をひとつひとつ叩く。ピアノの音が音楽室を反響させる。その音に気付いたアルトはピアノを見る。桃子は笑顔で手招きする。

 桃子は啓太がなんでアルトを音楽室に連れてきたのかわからない。急に誘われて来ただけで理由もなにも説明されていない。だけど啓太がなにかをしようというならそれに協力しないわけにはいかなかった。その理由は自分でもよくわからないけど。

 アルトは唇を結び、ゆっくりとピアノに向けて歩き出す。

 啓太は胸に手を置いた。桃子がいてよかったと思った。

「どうぞ」桃子がピアノのイスを引いてアルトを座らせる。アルトは照れながらピアノの前に座る。

 アルトが鍵盤をひとつひとつ音を確かめるように叩いた。啓太は音楽室の中央ぐらいのところにあるイスに座った。拍手をしようとしたけどやめた。さっきも同じように桃子も鍵盤を叩いたけど、音が少し違うように感じた。アルトのほうが体に響いた。

桃子も下がって一番前のイスに座る。アルトがイスを座りなおして姿勢を正した。


 アルトの肘があがる。曲がはじまった。

「あ、これ聞いたことがある」啓太は思った。桃子が鼻歌を歌いだす。

「きらきら星ね」桃子が言った。

 アルトは鍵盤から桃子に顔を向けて笑顔になった。

啓太は「あ」と声がでた。アルトが笑った。確かに笑っていた。アルトの弾くピアノと相まって心臓が高鳴る。涙がでそうになった。とてもいい曲に聞こえた。

曲が終わる。アルトは鍵盤から手を離した。その余韻はしばらく残った。


桃子が拍手をした。啓太も遅れて拍手をした。「とてもお上手ね、素敵」桃子は拍手しながらピアノの傍まで歩いていく。

「ねえ、もっと弾いてみせて」桃子は言う。だけどアルトは視線を落としたまま動かなくなった。

「ねえねえ、スラッシュボールの歌弾ける」啓太が踊りながらピアノのところまで走ってくる。

「スラッシュ、ってなに」アルトが首をかしげる。

「知らないの。すげえ、はやってるマンガで水曜七時からやってるアニメの歌。走って、飛んでつかむぜハート 燃えるスラッシュー、戦え、いくぜえ~って知らないの」啓太は歌いながら説明する。

「僕、今テレビはNHKしか見てない。おじいちゃんが見てるから。それにあんまりテレビよくわからない」アルトは首を左右に振った。

 踊っていた啓太は体を止めて「あ」と声を漏らした。

「でも楽譜があれば弾けると思う」アルトが小さな声でつぶやいた。

「うっそ、なんでもできるの」と桃子が聞き返した。アルトは天井を見上げて少し唸ったが「大体できると思う」と答えた。

「本当。待ってて。ちょっと図書室で探してくる。なにか楽譜があるかもしれないから」桃子は言うが早いか音楽室から走って出て行った。

「なんだ、アイツ」啓太はあっけにとられていた。

 啓太はピアノの鍵盤を叩いてみる。改めてアルトと音の違いを知る。なにがどう違うのかはよくわからないけど、明らかに違うのだけはわかる。アルトはなにも言わずに啓太がピアノに触れるのを見ていた。

 啓太は一度ツバを飲み込んで、頭の中で何度も言葉を考えながら、ピアノに向かって言う。

「森君は原じいちゃんのとこに住んでいるんでしょ。オレも同じ号棟だからさ、昨日母ちゃんに聞いたんだ。オレ、小さい頃とか原じいちゃんにすげえお世話になってるからさ、なんか恩返しっていうか、してやりたいんだよね」

 アルトはうつむいたまま。

「君のお母さん、ピアノがうまかったって教えてもらって、だから森君もひょっとしたらピアノが得意なんじゃないかって思ったんだ。そしたら本当に上手でびっくりした」啓太がドレミと鍵盤を弾いた。

 アルトは立ち上がった。そのとき手がピアノに触れて大きな音が響いた。

「お母さんのことは言わないで」アルトは啓太を睨んだ。啓太は目を逸らさないでアルトを見つめなおした。

 アルトがピアノから離れて音楽室から出ようとする。そこへ戻ってきた桃子と扉付近でぶつかりそうになった。

 本を抱えて息を切らしている桃子の横をアルトは通り過ぎて、そのまま走って出て行ってしまった。

 立ち尽くしている啓太に桃子が苛立ち「なにしてるの、追いかけなさいよ。またなんか余計なこと言ったんでしょ、アンタ、バカ」と叫んだ。

 啓太は動けずに立っていた。桃子の罵倒は続いた。だけどなにも言い返せない。桃子は持っていた本を一度机に叩きつけるが、拾いなおして叫んだ。

「あんたいつからそんな情けなくなったの。音楽室の鍵はひとりで返しに行きなさいよ」

桃子はそう言うと音楽室から出て行こうとした。

「待ってくれ」啓太は桃子をとめた。「あいつのことで話がある」啓太は息を飲んだ。桃子に話そう、桃子なら大丈夫だ。

 啓太は桃子にアルトの母親が交通事故で亡くなったこと、また母親がピアニストだったことを教えた。だからアルトにピアノをやらせたかったという気持ちを伝えた。

 桃子は真剣な顔で聞いていたが、啓太の話が終わると視線を落とした。

「もしかしたら森君、あんたのせいでさらに傷ついたかもよ。どうするの」桃子は啓太を見ることができない。

「オレは友達になりたい。桃子も森君のピアノを聴いただろ。すげえよな。ピアノ思った通りうまかった。みんなにも聴いてもらってすげえって思ってほしいんだ」啓太は手を大きく広げて叫ぶように言った。

「私は、よくわからない。帰る」桃子は力をなくしたように音楽室から出て行った。

 啓太はひとり音楽室に残された。もうこれ以上なにも考えられなくなった。


 翌朝になって啓太は佐藤憲太郎に殴ったことを謝った。佐藤は顔を掻いて黙っていたが抱きついてくる啓太を許すことにした。啓太は桃子を見つけてブイサインをしたが桃子は顔を背けた。啓太は佐藤の肩を組んで笑った。

 アルトは今日も俯いて黙っていた。誰も話しかけなかった。啓太は見て知っていたが今は声をかけないことにしていた。啓太には考えがあった。

 四時間目は音楽の授業だ。音楽室へ移動して、今日もいつものようにリコーダーの進級試験が行われる。できる生徒はどんどん難しい曲に挑戦するが、できない生徒は音をちゃんと出すことから試される。啓太と清水のふたりだけまだ曲に移ることができずにいた。

「先生、もうつまんないよ。できないよ」清水が泣き言を言う。

「どうした、ふたりとも。サッカーだってリズムが大事でしょう。ここで躓いてどうするの」井上先生は手を叩く。

「オレこんな指を器用に動かせないよ。サッカーは足でやるスポーツだから手先は難しいよ」啓太はリコーダーを振り回す。

「屁理屈、屁理屈」井上先生はピアノ伴奏をはじめる。

 啓太は先生のピアノを聞く。やっぱり曲は正確だけどアルトの音とは明らかに違う。

「先生、きらきら星ってやってみて」啓太は言ってみた。「どうして」と聞き返す井上先生に「どうしても」もきかない。

 井上先生は小さなため息をついた後弾いてみた。啓太は一小節を聴いてその曲を止めた。

「なによ、弾けって言ったりやめろって言ったり」先生は怪訝な顔をする。

 啓太は振り向いて「森君、弾いてみてよ」とアルトを呼んだ。教室がざわついた。みんなのおしゃべりが止まってアルトに注目した。

「なに、アイツピアノできるの」清水がリコーダーを机に太鼓に見立てるように叩いた。

「だったら私が弾きたい」そう言って手を挙げて立ち上がったのは村瀬英理子だった。男子が一斉に立ち上がった村瀬を見る。

「私だって音楽教室通ってピアノやってるんだもん。生徒が弾いていいなら私だって弾きたいわ」長い髪の上に結ばれた大きなリボンを揺らしながら村瀬は空中でピアノを弾く。その滑らかに動く指を見て男子のほとんどがうっとりと見入った。

「いや、オレは森君のピアノをみんなにも聴いてほしいんだ」啓太は村瀬に向かって手で塞ぐ格好をとった。

「どうして」大きな目をさらに見開いて村瀬は言った。「私だって聴いてほしいわ」

 涙ぐんだように見えた清水は啓太の前に立った。「村瀬がああ言っているんだ、弾かせてやれよ。お前が言ってる森は下見たままで弾く気ないじゃないか。村瀬に弾かせろ」清水は啓太のおでこと自分のおでこをぶつけながら睨みをきかせた。

「森君のほうが先生よりうまいよ」啓太は譲らなかった。

「なんでわかるんだよ」清水が啓太の足を踏んだ。

「昨日、聞いたんだ。すごくよかった」

 清水は二、三歩下がって啓太を指さして大声で笑った。

「は、は。万年音楽2のお前がよく言うぜ。お前に音楽のなにがわかる。リコーダーも満足にできないお前が音楽のよさがわかるっていうのかよお」清水はまわりも扇動させるように笑った。

「お前だって、できないじゃないか」

 次の瞬間、啓太は持っていたリコーダーを放り投げて清水に飛びかかった。机の倒れる音が音楽室を反響させる。女子の悲鳴。男子のやんやの声。

 せっかくいい考えだと思ったのに、なんでこううまくいかないんだ。その気持ちが拳に宿り、いつも以上に本気で清水を殴った。

 音楽の授業はふたりのケンカで終わってしまった。そのまま給食の時間になり、昼休みになった。

 啓太と清水は校庭に出ることを許されずに職員室に呼ばれた。ふたりの前に川島先生、井上先生、その上、一組の江原先生、教頭先生も立っていた。

 清水はツバを飲んだ。清水は一度大きな体に大きな口の教頭先生に怒鳴られて以来、苦手になった。清水は啓太のやや後ろに隠れるように立った。

「井上先生に聞きました。今日の音楽の授業のことだけど」川島先生が口を開いた。

「なんで授業をそうやって妨害するの。他に真面目に授業を受けているみんなの迷惑でしょう。なんでわからないの」

「そのことだけど、先生」啓太は言い出す。

「なんだ、言い訳か。なんでお前はまず謝らない」教頭先生が前に出る。

 清水は「ひ」とさらに後ろに下がる。

 啓太はひるまず一歩踏み出す。

「言い訳じゃありません」

「子供のくせに素直じゃないな。お前が噂の佐々木か。いかにも生意気な顔しやがって」教頭先生と啓太が対峙した。

 教頭先生のタバコによる口臭が啓太の気分を悪くさせる。しかし顔は背けない。

「ケンカしたのは謝ります。だけどオレは森君にピアノを弾かせてやりたかった。みんなに聴いてほしかった。それで、みんなすげえって思ってくれたら、森君はみんなと友達になってくれるんじゃないかって思ったんだ。だって本当に森君のピアノはすげえんだ。オレ、よく音楽のことはわかんないけど、森君は一曲だけ、きらきら星ってやつを弾いただけだけど、オレ、なんていうんだっけ、こういうの、そう、感動したんだ。そのとき一緒にいた桃子もよかったって言ってた」

 啓太はうっすら涙を浮かべていた。

「だからって授業中は駄目だろ」教頭先生が口を挟む。

「だったら、いつやればいいんですか。このハゲ、ふざけるな」啓太は叫んだ。

 清水が後ろで「バカ」と言う前に教頭先生の激が飛んだ。

「お前、先生に向かってなんてこと言うんだ、無礼者。このバカタレ」

「わからずやだって言ってるんだ。バカはどっちだ。森君がひとりで可哀想とか思わないのか」

「この野郎、いい度胸だ」教頭先生が啓太の胸倉を掴む。そのまま持ち上げる。

「教頭先生、まずい、体罰になる」江原先生が仲裁に入ろうと教頭先生の腕をつかむが、止まらない。腕力で圧倒された。

「知ったことか、このガキ」

 必死で啓太は抵抗を試みるが話にならない。清水は口をあんぐりと開けて見ているだけだった。足が竦んで動けない。

「待ってください」そう言ったのは井上先生だった。

 教頭先生はその声に啓太を下ろした。

「このハゲオヤジ、大人のくせに本気で絞めやがった」啓太は咳き込んだ。

「なんだと」教頭先生は睨む。

「教頭先生、待って。佐々木君、そんなに言うならまず先生が聴いてみるわ。その森君のピアノ、先生も聴いてみたいわ」

 教頭先生は鼻であしらった。「井上先生、こんなヤツ甘やかすことないですよ」

 啓太は笑顔をみせた。川島先生にブイサインをしてみせた。

 川島先生は啓太の頭に手を乗せた。本当は狂喜乱舞して叫び出したかったのを懸命に堪えた。笑いそうになるのをガマンしてアゴが痛くなるほどだった。江原先生は川島先生に気がついて肘でつついた。


 休み時間から戻ると清水は職員室の武勇伝をみんなを囲ませて語った。教頭先生に啓太とふたりで戦った、啓太が教頭先生に首を絞められて持ち上げられたこと等。啓太は机にうつ伏せして「疲れたあ」と漏らした。

「啓ちゃん、清水の言ってること、本当なのか。あの教頭先生を倒したとか言ってるの」佐藤憲太郎が啓太の体をさすって興奮していた。

 迫真の清水の演技にまわりは感嘆の声をあげた。横目で啓太は見て大きなため息をついた。

 啓太は腕に隠れながらアルトを見た。アルトは変わらずひとりでいた。

 啓太は立ち上がった。アルトの前に立ってしゃがむ。顔の位置を合わせた。アルトが啓太に気付く。

「今日、放課後、音楽室使わせてくれるって。音楽の井上先生も聞いてくれるって。さっきはごめんな」啓太は頭を下げる。

「もう、放っておいてって言っているでしょう。もう弾きたくないよ」アルトはうずくまる。

 啓太は立ち上がる。「わかった。今日で最後でいいよ」できるだけ笑顔になるように努めた。啓太はアルトを殴ってやろうかとも思ったけど踏みとどまった。

 五時間目のチャイムが鳴って川島先生が教室に入ってきた。

 啓太は首を振って席に着いた。


 放課後になると五年二組の生徒がほとんど揃って音楽室にやって来た。清水が言いふらしたのだ。

 音楽室には川島先生、江原先生が後ろで立っていた。教頭先生もいた。啓太は教頭先生を一瞥して「あかんべえ」をした。教頭先生は咳払いをする。

 音楽室のカーテンが閉められた。

「先生、私もみんなの前で弾いてみたい。さっきも結局弾けなかったんだもん」

 村瀬英理子が手をあげて言った。

 川島先生が啓太を見る。アルトの背中に触れようとした啓太の手が止まった。

「好きにしたらいいよ。さっきの授業と違って今は時間があるんだ。そのかわり森君にも弾かせてあげてよ」啓太は手で村瀬を促した。

 村瀬は両手でガッツポーズをした。スカートがふわりと浮かぶ。八重歯が光る。男子もつられて無意識にガッツポーズする。

 ピアノの前に村瀬が座る。男子全員が熱い眼差しを送る。女子も村瀬の凛とした姿に憧れに似た眼差しを向ける。

 鍵盤に触れて、手を浮かせ、曲が始まる。

「ベートーヴェン・エリーゼのために」

 体をしなやかに動かし、滑らかに弾かれる様は音楽の井上先生も感心するほどだった。ミスはほとんどない。いいピアノの先生についているのだろうと想像に難くない。教頭先生は満足気に目を閉じて聞き入っている。一曲を弾き終わると拍手が巻き起こった。

 清水は誰よりも大きな声援をあげた。学級委員の池上慎一郎は「ブラヴォ」とスタンディングオベーション。

「なんだ、ブラジャーって」鈴木が笑う。池上は鈴木に軽蔑した目で見る。

 続いて「モーツァルト交響曲第四十番」

 曲を聴きながら啓太は苛立ちを隠せなくなっていた。いつまで弾くつもりだ。はやくアルトに弾かせたくてたまらなくなった。確かにうまいけどなにかが足りない。啓太はなにかわからないけどそう思えて仕方がなかった。

 弾き終わると村瀬は立った。拍手が降り注ぐ。男子は笑みがとまらない。口笛も吹かれる。

 村瀬がアルトにピアノを促した。挑発的な意味をこめているのが見て取れる。

 アルトがゆっくりと立ち上がる。

「これで最後だからね」アルトが啓太に言う。啓太は「おう」と返事する。

 アルトがピアノの前に座る。

 先ほどの喧騒が一気に止んで、アルトのピアノを聴こうと静まった。

 アルトはなかなか動こうとしなかった。緊張感が高まる。

村瀬は自分の最初の演奏に臆したと思った。得意げに鼻息が漏れる。

 やがてアルトの手が高くあがった。


「ショパン・英雄ポロネーズ」

 アルトが鍵盤を叩き出すと、音楽室にいるすべての者がピアノに集中された。

 そのピアノの音はそれぞれの聴く者の体の奥から鳴り響いている感覚であった。聴いているという感覚より、もっと深いところにその音楽があった。アルトのピアノは芯にくる。アルトの左手が高速に動く。だが自然に見える。その動き以上にピアノに迫力があった。

 井上先生の呼吸が止まった。そのままへたり込んだ。川島先生は井上先生が倒れこむのが見えたが動けない。

 音楽室にいる全員が金縛りにあった。

 啓太はアルトがなんの曲を弾いているのかはわからない。初めて聴く曲だ。高揚してまた優しく流れる曲調にすべてが奪われる感じがした。そのうちなにかを考えるのがすべて無駄な気がして思考を停止して聴く事だけに専念した。

 村瀬は鍵盤が見える位置に座っていた。あんな縦横無尽に素早く指が動くのを初めて見た。ショパン・ポロネーズ第六番「英雄」は知っている。コンサートでも聞いたことがあるし、目の前でピアノの先生が弾いているのを見たこともある。しかし今、目の前にある光景は別物であった。まぎれもない同じ曲だったとしても。その音は異質であった。

 肘がはじかれるように上にあがり、また横滑りしていく。ピアノ本来の最大の力を発揮するが如くアルトのピアノは弾かれていった。

 教頭先生は先ほどと違って迂闊に目を閉じられなくなっていた。

 曲が終わる。アルトの肘があがり、それはゆっくりと下ろされた。


 アルトは立ち上がった。

 村瀬英理子の演奏後は拍手がすぐに起こったのに、アルトが立ち上がっても誰も動けなくなっていた。村瀬のとき、男子は拍手のタイミングを計っていた。今はそんな余裕はなかった。

 井上先生は腰を抜かして放心していた。ピアノを聴いてここまでなったのは初めてであった。

 もう村瀬のピアノのことなど誰も覚えていなかった。

 アルトがピアノの置いてある教壇から降りようとした。

「もう一曲弾いてくれないかな。村瀬も二曲弾いたんだ。森君も二曲弾いたっていいだろう」啓太が席から立ち上がってアルトに言った。

「一曲だけって約束でしょ。もう弾かないよ。充分でしょう」アルトは啓太を睨んだ。

 川島先生が拍手をしながら走ってきた。

「森君、先生からもお願い。もっと聞かせて。先生すごく感激したわ。音楽聴いてこんな感情になったのははじめてよ」

 そう先生が言うと生徒達もまた曲をせがんだ。やっと拍手がおこった。すげえ、すげえの声がみんなからあがる。

 村瀬は胸の奥が痛んだ。頭痛もしてきた。生徒がアルトとピアノを囲んでいくのを見ては、自分のしてしまったことがとてつもなく恥ずかしく思えた。「あああああああ」深いため息がでた。

 まわりの生徒に担がれて無理矢理再びピアノの前にアルトは座らされた。

 アルトは顔を上げると啓太が笑顔でブイサインをしていた。アルトは観念したように鍵盤に手を置いた。

「おい、始まるぞ。戻れ」啓太の号令で生徒達はあわただしく席に戻った。

「井上先生、イスに座ったらどうですか。また森君の演奏がはじまりますよ」江原先生が井上先生に声をかける。正気に戻った井上先生は取り乱しながら空いている席を見つけてとりあえず座った。

 各々のイスの引きずる音が止んだ。それを合図のようにアルトの肘がまた浮かんだ。二曲目。


「ドビュッシー・月の光」

 一曲目の英雄ポロネーズとは違って一気に優しく安らぎを与える演奏へと変貌した。本当にアルトが月のように青白く輝いているかに見える。輝きというより光がこぼれて、それが包まれていく。

 井上先生はドビュッシーが好きでよく授業中でも弾いた曲だが、生徒は居眠りを始めたり、途中でおしゃべりをしたりされていた。小学生にこの曲の良さがわかるのにはまだ早いかと曲のせいにしていたが実はそうではなかった。現にアルトの演奏では誰も注意力が散漫になっている生徒はいない。全員がアルトのピアノ演奏に聴き入っている。

 フォルテによって惹き付けているわけではない。細かい小さな音にも魂が込められているのがわかる。それが聴いている者みんなが理解している。

 楽譜の音符を追っているだけではない。ミスタッチを恐れている演奏では心までは揺さぶられない。音楽を知る者でしか興味を示さない音楽は音楽とはいえない。井上先生は英雄ポロネーズのときはなにも考えられなかったが今度は様々な考えが渦巻いていった。音符の意味を思い知らされた。

ピアノを長年やってきた自分と比べて、その半分以下の年齢の子が確かに自分以上の演奏をしている。それは悔しさではなく、なにか別の幸せの予感を思わせた。それがこの月の光という曲のせいなのかはわからない。

村瀬もドビュッシーはわりと得意としている。中でも月の光はコンクールでも幼い頃、入賞を果たした曲でもある。何度も練習して、先生の演奏を聴き、また一流ピアニストの演奏するCDを聴いては反芻した。取り入れられるものは取り入れる努力をしてきた。だがアルトのピアノはすべてを打ち崩した。アルトはすでに自分のピアノ演奏を持っている。この演奏をしたら怒られる、褒められる、表彰される、コンクールで優勝するという次元を超えている。

村瀬は最初、自分がしゃしゃり出たことに対して恥ずかしく思った。今は今までの自分のピアノに対する姿勢が恥ずかしく思えた。そしてその気持ちを受け入れることができたなら自分の演奏に後悔はない。そこまで強く思える気持ちを持つほどにアルトの演奏は力強かった。

曲の終わりはその曲が終わったと誰も気付かないほどに終わりを告げた。アルトの両手が上がり、その手は膝の上にゆっくりと置かれた。


拍手は川のせせらぎのように起こった。熱狂的に叩かれた拍手ではなく、皆心から自然に手を叩いていた。心の中に仕舞われたアルトの音楽に押し出された拍手。

啓太の目から涙がこぼれた。涙があふれていることに自分でも気がつかなかった。手を叩きながらアルトの姿がぼやけていくのをただ見ていた。

桃子と佐藤は啓太が泣いているのにすぐに気がついた。だけどなにも言わないことにした。桃子と佐藤の目が合ったがお互い背けた。ふたりは視線をアルトに向きなおして拍手をした。

アルトは立ち上がり礼をした。

清水が啓太の前まで走ってきた。雄叫びを上げた。「本当だ、コイツなんか泣いてるぞ。おーい、佐々木が泣いてやがるぞ」清水がはやし立てる。

啓太はそこではじめて自分が泣いていることに気がついた。「泣いてないぞ」啓太が袖で涙を拭った。

「泣いてるじゃねえか、バーカ」清水があかんべーをする。

 生徒達は立ち上がりだし音楽室から出て行きだした。誰が言ったわけではないが今日の演奏はこれで終わりという雰囲気であった。

ピアノの前に立つアルトにひとりひとり声をかけていった。「よかったよ」「また弾いてね」「上手だった」「ピアノ弾けるってもっとはやく言ってくれたらよかったのに」アルトに手を振って帰っていく。アルトは曖昧に返事をしながら、でもひとりひとりに手を振り返していた。

村瀬がアルトの前に立つ。

「今度のピアノコンクールには出るの」

「僕はいつコンクールがあるとか知らない」

「残念ね。私、あなたのピアノを聴いてまたがんばる気になったわ。今度はあなたに負けたくないって思った。コンクールに出なさいよ。出たほうがいいと思うな」

 そこに井上先生がアルトに話しかける。

「森君は誰にピアノを習ったの」

 アルトは井上先生を見上げるが俯いてしまう。「お母さん」アルトはつぶやいた。

「お母さんの名前は」井上先生はしゃがみこんでアルトの顔を覗き込む。

「瑠璃子です」

「瑠璃子。森瑠璃子か。お母さんの旧姓わかる。お母さんが結婚する前の名前は」井上先生はアルトの肩に手を置いた。

「原です」

「原瑠璃子、原瑠璃子」井上先生は口に手をあてる。

「先生、森君のお母さん知ってるの」村瀬は井上先生に顔を近づける。

 井上先生は唸ってはみたが「うーん、わかんない。なにしろ音楽大学だけでも沢山あるからね。ちょっとわからないわ」と言って立ち上がった。

「今でもお母さんに教わってるの。それとも他に先生についている」そう井上先生が言うとそばにいた川島先生が井上先生の腕をとってピアノの奥まで誘導した。

 アルトは黙りこくってしまった。

「森君に演奏を教えたお母さんはきっとすごく上手なのね。ね、私、お母さんに会うことできるかな。私も森君のお母さんに教わってみたいな」村瀬は屈託のない笑顔で大きな目を輝かせながら言った。

「お母さんのことは言わないで」アルトは叫んだ。

 そのときまだ音楽室に残っていた者は全員アルトを見た。ふいの大きな声にみんな振り返った。

「どうしたの。私、変なこと言ったの」村瀬が怯えた顔で震えた。

 井上先生は口を両手でおさえたまま固まってしまい、川島先生はアルトをまともに見ることができない。

 啓太はアルトを見ていた。拳を握り締めて立ってアルトを見つめた。動けない。佐藤が啓太に声をかけるがその声は聞こえなかった。

 アルトは走り出した。呆然とするまわりをよそに走って音楽室を出た。

 啓太は後を追った。後ろで桃子の声がした。「啓太、がんばれ」

 啓太のほうが足が速い。階段の降り口でもう捕まえた。

 啓太はアルトの腕を掴んだ。その手をアルトは振り解く。息を切らせてアルトの目には涙が浮かんでいた。

「ごめん」啓太は思わず言ってしまう。

 アルトが睨む。「なに、ごめんって」

「かえってつらい思いをさせちゃったと思って」啓太はアルトの目をまっすぐに見る。

 アルトは目を逸らす。

「オレ、君のお母さんがピアノやってたって聞いて、それとあと、オレ、君のお母さんが死んじゃったのも知っているんだ。交通事故だったんだろう」

 アルトの顔は真っ赤になった。

「知って、知っていたって。知ってて君はこんなつらいことを僕にさせたの」

 アルトは全身を震えさせていた。顔は引きつり痙攣していた。

「ひどい。ひどすぎる。お前は」アルトの言葉は最後のほうは聞き取れないほど口がうまく動かなくなっていた。

 アルトは泣き出した。その手を階段の欄干に叩きつけた。

「なにをする」啓太はアルトの体を押さえつけた。

「もうピアノなんかやめる。もう二度とやるもんか。こんな、こんな手なんてなくなってしまえばいい」アルトは涙で顔をいっぱいにさせた。

「馬鹿野郎」啓太はアルトの顔を殴った。アルトはへたり込んだ。

「そんなことしたら死んじゃったお母さんが悲しむだろう。そんなことしたらせっかくお母さんに教えてもらったピアノはどうするんだ。お母さんは天国で悲しむだけだろ」啓太も泣いていた。啓太はうずくまって床を叩いた。

「ピアノ続けてくれよ。みんなあんなに褒めていたじゃないか。やめるなんて言わないでよ。頼むよ」床を手のひらで叩きながら啓太は泣きじゃくった。

「やめるなんて言わないでくれよ」啓太は叫んだ。

 アルトは啓太を見ながら「お母さん」とつぶやいた。手が痛んだ。

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