第16話 辿り着く前に死ぬかもしれない

 熊の国は東にある。

 車にカーナビは付いていないけれど、方位磁石が付いていて東に向かっていることはわかる。見通しも良くて、このまま走っていればいつかは国境に着くと思う。でも、辿り着く前に死ぬかもしれないし、その前に胃の中が空っぽになる危険もある。


 簡単に言えば、気分が悪い。

 そりゃ、そうだ。

 セレネさんの運転は荒っぽい。

 人間の世界だったら、捕まっている。

 暴走以外のなにものでもない。


「す、すみません、セレネさん。ス、スピード、落としてください。車内が大惨事になります」


 私は、吐き気をこらえて懇願する。


「大惨事? なんで?」

「朝食をリバースしそうだからです」


 糸の切れた操り人形のようにぐったりしながら告げると、セレネさんが「ええっ!?」と叫び、車ががくんと止まった。その瞬間、胃の内容物が口からこんにちはしそうになって、私は気合いで朝食だったものたちを押し戻す。


「リナ、大丈夫?」


 後部座席から、乙女の不安げな声が聞こえてくる。


「ちょっと休憩したら、復活すると思う」

「何かすることある?」

「車から降りたい」


 その言葉を聞いた乙女が車から降り、助手席のドアを開けてくれる。私は転がり落ちるように外へ出て、ヘルメットを脱いで草の上に寝転がった。


「本当に大丈夫?」


 ジーンズにパーカーという軽装で良かったと思いつつ太陽に照らされていると、いつの間にかヘルメットを脱いだ制服姿の乙女が私を覗き込む。声を出すのも億劫で小さく頷くと、乙女が「膝枕してあげる」と私の隣にちょこんと座った。彼女の好意に甘え、と言うよりは、無理矢理甘えさせられた私は、乙女の太ももを枕に細く息を吐き出す。


 こんなことなら、酔い止めを持ってくるべきだった。

 今まで車に乗って酔ったことなんかなかったから、思いつきもしなかった。


「瀬利奈ちゃん、ごめんね。酔っちゃった?」


 乙女の隣から、セレネさんの声が聞こえてくる。


「ええ、まあ。でも、すぐに良くなると思うので気にしないで下さい」


 乙女の膝の上は心地が良くて、このまま休憩していれば胃を覆うようなムカムカもどこかへ行ってしまうはずだ。


 私は目を閉じる。

 春の陽気に、草を揺らす風の音。

 柔らかく私の髪を撫でる乙女の手。

 吐き気が少しずつ遠のいていく。


 夢と現実の境目をしばらく彷徨って、気がつけば体が随分と楽になっていた。どれだけの時間が経ったのかわからないけれど、私は体を起こして乙女の隣に座る。


「おはようございます」


 欠伸を一つして挨拶をすると、セレネさんが明るい声で言った。


「おはよう。気分、良くなった?」

「はい」

「リナ、大丈夫でももっとここで寝てて良いよ」


 私の腕を引っ張り、乙女が自分の太ももを指さす。


「あんまり休んでると、時間がなくなっちゃう」

「そうだね。ちょっと早いけどお昼食べたら、出発しようか」


 セレネさんがそう言って、コテツさんからもらった包みを開ける。中身は重箱で、乙女がぱかりと蓋を開けるとぎっしりとおにぎりとおかずが詰まっていた。


 胃は思ったよりも都合良くできているらしく、吐き気が治まったばかりだというのにお腹が空いてくる。乙女の「中身、鮭だ」という声に猫編集部で食べた焼き鮭の味が再生され、私はおにぎりを頬張った。

 重箱を見れば、卵焼きにウインナー、唐揚げも入っている。


「セレネさんって、猫の国の歴史本作りを手伝ったんですか?」


 気になっていたことを尋ねてから、卵焼きを口に放り込む。


「もちろん。おばーちゃんとかおじーちゃんに話を聞きに行ったり、印刷所に原稿を持ってたりとか。簡単なことだけだけど」

「手伝ったんですね」

「原稿書くのは眠たくなっちゃうけど、外へ行くのは好きだから。それに、編集長に頼まれたら断れないし」


 そう言いながらも、サボるのは良いらしい。

 セレネさんは猫編集部に姿を現すよりもいないことが多いから、前回だってそうだったはずだ。


 随分とざっくりとした仕事ぶりだなあと思う。それでも、最後には本作りを手伝っているところ見ると、タロウ編集長にはそこそこ人望があるようだ。


「今回もタロウ編集長に頼まれたんですか?」

「それもあるけど、面白そうだから一緒に行きたいなって。だって、瀬利奈ちゃんが獣使いとして熊を操るところ見たいし」


 セレネさんが頭上で輝く太陽よりも明るくにっこりと笑う。


「本気で操れると思ってるんですか?」

「そこは、できるって答えるところでしょ。できなくても面白いから、私はどっちでも構わないけど」

「ううっ」


 できると断言できない私は、小さく呻く。

 熊を操るところ。

 活躍するところを見せたい。

 そういう気持ちはある。

 でも、己のこれまでを振り返ると自信がない。


「獣使いって珍しい能力だからね。一緒にいられるだけでも、楽しいよ」

「そう言えば、この国にいる獣使いは私だけでしたっけ」

「そうだよ。他の国にもほとんどいないし、能力持ち自体が珍しいからね。あたしが見たことあるのは、天候を操る人くらいだもん」

「天候?」

「そう。雨降らせたりとか、天気にしたりとか。人間の世界では、雨女とか晴れ男とかそういう感じで呼ばれてる人。まあ、本当に能力がある人は少ないけど」


 んんっ?

 あれって、迷信的なものだと思っていたけれど。


 私は身を乗り出して尋ねる。


「もしかして、天候を変える能力を持った人がいると、雨が降ったり、晴れたりするんですか?」

「そーだよ。能力の強さには差があるから、たくさん集まらないと雨が降らないとかあるけどね」


 そういったものは、全部偶然だと思ってた。

 私は、ほほー、とふくろうのように相づちを打って、おにぎりに齧り付く。そして、重箱のおかずを胃の中に収めて、車に乗り込んだ。かなりのんびりしてしまったけれど猛スピードの旅は中止され、ヘルメットが必要ないくらいの速度でジープが進む。数時間走ると、セレネさんが大きな声で言った。


「熊の国が見えてきたよ。あの森の向こうに、熊が住んでる」


 猫の国と熊の国の境。

 国境と言っても塀で隔てられているわけではなく、フロントガラスの向こうに鬱蒼とした森が見える。緑が濃く、わさわさとした森は、可愛い熊さんが出てきそうな雰囲気ではない。


「……リアルな熊さんが出てきそうな森ですね」

「出てきそうというか、出てくるんだけどね」


 にこやかにセレネさんが言って、車を止める。


「向こうに畑があるから、車はここまで。少し歩くけどいい?」

「はい」


 素直に返事をすると、後部座席から乙女の期待しかない声が聞こえきた。


「熊、早く見たい!」

「すぐに見られると思うよ」


 あまり聞きたくない言葉が心の上にどんっと乗っかり、気が重い。でも、そんなことを言っていても仕方がないので、車から降りて歩く。


 てくてくてくと五分ほど。

 進んで止まれば、荒らされた畑が見えた。

 おそらく、ここが熊が来た場所だ。


 畑には囓りかけのとうもろこしや人参、スイカの皮が転がっている。少し遠くを見れば、いくつもある畑の大半が荒らされていた。ついでに、物置らしき小屋の扉が壊れていたり、壁が半壊していたりもする。


「酷いですね」


 これで猫が襲われていないって、ちょっと信じられない。


「そうだね。みんなが一生懸命作ったのに」


 セレネさんが珍しく低いトーンで言って、歩き出す。慌ててついていくと、何匹もの猫が見えてきた。

 話し合いをしているのか、にゃーにゃーという鳴き声も聞こえる。


 か、かわいい。

 すごくかわいい。

 井戸端会議、いや猫の集会。

 そんな感じで、非常に可愛い。


 私の頭の中は可愛いに浸食され、荒らされた畑のことが記憶から吹っ飛ぶ。そして、吸い寄せられるようによろよろと猫の集会に近づいてしまう。


 そうなれば、猫は蜘蛛の子を散らすように逃げて行き、私は一人取り残される。もちろん猫たちは、尻尾を後ろ足の間にくるりと巻き込み、うにゃうにゃと鳴いている。


「リナ、怖いって」


 後ろからぴっとシャツを引っ張り、乙女が言う。


「すごく怯えてるね」


 ぽんっと私の肩に手を置いて、セレネさんが言う。


「……すみません」


 当然、私はうなだれ、謝ることしかできない。


「瀬利奈ちゃんは、そこで待ってて。みんなに人間になるように言ってくるから」


 なるほど。

 タロウ編集長と同じで、人間になっていれば私が怖くないはずだ。


 ――そう、怖くないはずだった。


 残念なことに、逃げて行った猫の中から人間に変身してやってきた数人は私に近づいてこない。セレネさんの後ろから、こちらの様子を伺っている。


「おい、セレネ。さっきそこの人間から妖しいオーラが出てたけど、大丈夫なのか?」


 タロウ編集長と同じくらいおじさんな男の人が、びくびくしながら私を見る。


「大丈夫、大丈夫。怖くないから」


 セレネさんが力一杯にっこりと笑って、安心させるようにおじさんの肩を叩いた。


「すみません、怖がらせてしまって」


 私は、深々と頭を下げる。そして、少しでもみんなの恐怖を和らげようと乙女の後ろに回ると、背後から柔らかな声が聞こえてきた。


「獣使いさんが来られたと聞きましたが」


 私は振り向いて挨拶する。


「あ、私です。獣使いの吉井瀬利奈です」

「私は村長のルノンです。今日は、わざわざありがとうございます」


 そう言って、ミルクティー色の髪をしたお姉さんがぺこりと頭を下げた。

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