第14話 隣の国って聞きました
早寝早起き、すっきり爽やかな朝、まだ眠そうな乙女を連れてミヨルメントに向かう。よく眠っただけあって自転車をこぐ足も軽い、と言いたいところだけれど、筋肉痛で足が重い。
原因は、昨日母親から頼まれた買い物の荷物持ちにある。移動に車を使ったとは言え、若いんだからそれくらい持ちなさいと山のような荷物を持たされたせいで筋肉が死んでいる。
それでも、よいしょよいしょとミヨルメントまで自転車を走らせて、おはようございます、と挨拶をしながら編集部に入るとタロウ編集長がいなかった。
「もしかして、仕事なくなりました?」
開口一番、現状から予想されることをサカナさんに尋ねる。
「ちゃんとありますよ。編集長は瀬利奈さんが仕事に行くための準備をしているので、しばらく待っていてください」
「隣の国へ行くのって、大変なんですか?」
猫の国は、北海道くらいの広さがある。猫編集部がどの辺りにあるのかは知らないけれど、隣国まで歩いて行けるということはないだろう。確か、管理局と呼ばれる場所も歩いて五分という場所にはないと言っていた。
「そうですね。少し遠いですから、車を手配しています」
「車? 車に乗って行くんですか?」
「ええ。セレネが運転します」
タロウ編集長が人間界と同じ乗り物があると言っていたが、それが車だとは思わなかった。
私は、編集部を見回す。
今日も編集部は通常運転で、周りを見ても誰も本を作っていない。サカナさんはさっきまで小説を読んでいたし、コテツさんは電卓を叩いている。乙女は、机に突っ伏して寝ているようだ。そして、セレネさんはいなかった。
「セレネは、編集長と一緒に出かけていますよ。もうしばらくかかると思うので、そこの本棚にある本でも読んで待っていてください」
私の心を読んだかのように、サカナさんが言う。
言葉に促されるように壁際の本棚を見ると、中には本がぎっしりと詰まっている。隣にはマガジンラックがあって、そこには雑誌も置かれていた。
「サカナさん。猫が読む雑誌、本当に作るんですか?」
「編集長は作るみたいですね」
「皆さんは作らないんですか? 本を作っているところ、見たことがないんですけど」
「本を作りたいのは、編集長だけなので。私は、ここに本を読みに来ているだけです」
サカナさんが漬物よりもあっさりと言って、微笑む。
「コテツさんは?」
窓際の定位置で正座をしているコテツさんに問いかけると、さっぱりと明るい声で答えが返ってきた。
「作らないですよ。僕は、お金の計算が楽しいからここで働いているんです」
なるほど。
二人の言葉を合わせると、本作りには興味はないが自分の好きなことができるからここにいる、ということになる。
どうりで、タロウ編集長だけが真面目に仕事をしているわけだ。
「でも、雑誌のネタが集まれば仕事はしますよ。前回の猫の国の歴史をまとめた本もみんなで作りましたし」
サカナさんの言葉に、昨日の記憶が蘇る。
猫の国の歴史をまとめた本を作ったけれど売れなかったという、タロウ編集長の言葉が。
一体、どんな本なのか気になって本棚に向かう。
壁にぺたりとくっつけて置かれた本棚の前まで行き、背表紙を眺めると色々な本があった。白とか、灰色とか、青とか。なんかこう色々な色の本がずらーっと並んでいる。
文字は書かれているが、どんな本かはわからない。
それは、並んでいる本の四分の一に肉球によく似た文字っぽいものが書かれていたからだ。他にも、平仮名でにゃーとか、うにゃといった猫語が書かれている本や、それの英語版らしき本もあったけれどどちらも内容は理解できない。残りは、人間の世界の本でサカナさんがよく読んでいる小説が収まっている。
隣のマガジンラックを見ると、猫向け週刊誌を作る参考にするためだと思われる人間の世界の雑誌が置いてあった。どんな雑誌を参考にして猫向けの週刊誌を作るのかと近寄ると、マガジンラックの後ろに扉が見えた。
「なんだろ」
気になってドアノブを回してみるが、使わない部屋なのか鍵が掛かっていて開かない。引き戸だったりしないかなと、左右にスライドさせてみようと思ったけれどぴくりとも動かなかった。
「なんか面白いもの、あった?」
マガジンラックの前でうーんと唸っていると、しっかりと目が覚めたらしい乙女の元気の良い声が聞こえて、背中に温かい物体がくっついてくる。
「あー、乙女。猫の国の歴史が書いてある本ってどれ?」
私は扉を開けることは諦めて、背中にぴたりと張り付いている乙女に猫語の翻訳を頼む。
「んーと、これとこれとこれ」
乙女が私の隣にやってきて、三冊の本を指さした。
「じゃあ、これ読んで」
背表紙に肉球文字が書かれている本を取りだして、乙女に渡す。
「えっとね、“これは猫の国の歴史をまとめた本である”って書いてある。その後は、二匹の猫がどうしたとかって。……この国の歴史が書いてあるだけだけど、読んだ方がいい? つまんないよ?」
大嫌いなドライヤーを近づけられたときのように、しかめっ面で乙女が言う。その表情から面白いものではないことが読み取れて、この本が売れなかったというのも仕方がないことだと思えた。
「じゃあ、いいや」
そう言うと、乙女は“つまらない本”を本棚に戻して、マガジンラックから雑誌を手に取る。
「雑誌、好きなの?」
「んー、あんまり好きじゃない」
「好きじゃないんだ。そう言えば、乙女って私が雑誌読んでると邪魔しに来るよね? パソコンもだけど。あれって、雑誌とかパソコンが好きじゃないから排除したいとかそういう感じなの?」
彼女は、私が雑誌や本を読んでいると必ずと言って良いほど、邪魔をしにくる。ノートパソコンを使っているときは、画面を覗き込んだり、キーボードの上に寝転がったりしてくる。
「ちょっと違う」
「じゃあ、なんで邪魔するの?」
「だってリナ、本読んでたり、パソコンしてると遊んでくれないんだもん。だから、邪魔するの」
「遊んで欲しいの?」
「遊んで欲しくないときもあるけど、とりあえずほっとかれるのはやだ」
え? なにその理由。
可愛すぎない?
いや、乙女は間違いなく可愛いんだけど。
でも、構われたくはないけど、ほっとかれたくもないなんて理由で邪魔しにくるなんて、可愛いを百回言っても足りないくらい愛らしくて耐えられない。
私は、乙女をむぎゅーと音がしそうなくらい抱きしめる。ついでに、ふわふわの髪に頬を擦り付けた。
「うわ、なに。リナ」
「可愛い!すっごい可愛い。もっと邪魔していいよ」
乙女にべったりとくっついたまま、壊れたロボットのように可愛いを連呼する。猫のときは力いっぱい抱きしめることができないけれど、人間なら加減をする必要がない。私は背中に回した腕に力を入れて、溢れまくってだだ漏れの愛情を乙女に押しつける。
けれど、愛情の押し売りはいらないとばかりに、腕の中の乙女が私の肩を押してくる。
「リナ、ちょっと苦しい。離れて」
ぐいいいっ。
音にするならこんな感じ。
彼女は私を力一杯押して、腕の中から抜け出す。
猫の時にもやられることがあるけれど、こういう時の乙女は心底嫌そうな顔をするからちょっと傷つく。
でも、その顔も愛らしい。
「ごめん、ごめん。あまりにも乙女が可愛くて」
ぱんっと手を合わせてぺこりと頭を下げると、いつの間にやってきたのかタロウ編集長の声が後ろから聞こえてくる。
「おい、そこ。遊んでるな。準備ができたぞ」
「今日行く場所って、ケット・シーの国ですよね?」
私は、くるりと振り向いて尋ねる。
「ケット・シー? 行き先は熊の国だぞ」
「えっ? 昨日、隣の国って言いましたよね?」
「ケット・シーの国も隣の国だが、熊の国も隣だ」
「西がケット・シーの国で、東が熊の国なんですよ」
タロウ編集長の言葉に、サカナさんが注釈をぺたりと貼り付けてくれる。
「そんなあ」
喋る猫に会えると思って、わくわくしていたのに。
熊も可愛いと思うけれど、猫に会いに行くと思っていたから気力がぷしゅーと抜ける。けれど、肩を落とす私のことなどお構いなしに、タロウ編集長が今日の仕事について説明を始めた。
「いいか、人間。お前がやるべきことは、国境付近で暴れている熊を追い払うことだ」
「え?」
「獣使いの力で熊を魅了するなり、説得するなりして、熊の国へ送り返せ」
「ええ?」
暴れ熊の説得?
猫の国に人間の世界にいる猫と同じ猫がいることを考えれば、熊の国には人間の世界にいる熊と同じ熊がいるはずで――。
私の頭に“死”という文字が浮かぶ。
「管理局まで、熊が猫の国の畑を荒らしたり、暴れているという苦情が来ている。担当者が何度か熊の国まで行って話をしてきたんだが、改善されないらしい。そこで、この編集部に獣使いがいると知った管理局から、力を貸してくれと頼まれてな」
私は一縷の望みをかけて、淡々と説明するタロウ編集長に尋ねる。
「……熊って、ファンシーな熊だったりします? 森のくまさんみたいに落とし物を拾ってくれそうな感じだったり、ぬいぐるみっぽかったり」
「そんな熊がいるか。ヒグマとか、ツキノワグマとかそういう奴だ。落とし物を拾うどころか、食うぞ」
「そんなの、私も襲われて死ぬヤツじゃないですかっ」
「まあ、そうだな。襲われたら死ぬな」
「そんな熊、触って魅了するなんて無理ですよおおおっ。触る前に食べられます。他のちゃんとした獣使いの人に頼みましょうよ」
「獣使いなんて、そうそういるか」
「いないんですか?」
「この世界の住人には、そういう能力がない。あるのは人間だけだが、滅多に見つからないからな、能力を持った人間なんて。だから、この国にいる獣使いはお前だけだ」
「……マジですか?」
「本当だ。だが、心配はいらん。お前なら熊にだって勝てる。なにせ、動物はみんなお前から逃げて行くんだからな。襲ってくるわけがないし、死ぬわけがない。ある意味、無敵だ」
無責任にタロウ編集長が言い放ち、サカナさんも「瀬利奈さんの好き好きオーラがあれば大丈夫です」と太鼓判をぽんっと押す。
「確かに、確かに動物に逃げられますけどっ。でも、熊には試したことがないですし、ちょっと怖いかなーって」
「――人間、お前はパンダが可愛くないのか?」
「可愛いです。可愛いに決まってます」
「なら、大丈夫だ。パンダも熊だ。暴れているのがパンダとは限らんが、お前ならやれる」
もう一度、タロウ編集長が自信たっぷりに断言した。
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