シャングリラの開闢3

 右脚のスペツナズ・ナイフを抜き、フランに探してもらった救急箱の包帯を右脚に巻きつける。痛みを和らげるために老酒を瓶ごと飲む。


「ドラゴン、どうやって形勢を逆転させるつもりだ? このままではわっちたちも殺されてしまうぞ」


「やはり仁豹を狙うしかない。ドラグノフが追ってくる前に戦争を終結させなければ勝てない。チャイニーズ・マフィアの数を減らそう。下には仲間がいるし、多少は戦闘が楽になるはずだ」


 一方、金仁豹は部下に守られながらウォッカを飲んでくつろいでいた。銃声や阿鼻叫喚を音楽のように嗜んでいた。

 右脚の負傷を考慮すると、ナイフで戦闘するのは難しい。仲間から銃を借りて戦うのが望ましい。


「ドラグノフも深手を負っているが、できれば彼とはもう戦いたくない。スペツナズ・ナイフが厄介だ。おかげで右脚は当分使い物になりそうにない」


「わっちがお主の右脚となる」


「心強いな。君はいつも私を支えてくれる」


「わっちもお主に支えられている。支え合うことこそが愛し合うということだろう?」


「そうだね。それが真実の愛だ」


 龍凜は紅姫の肩を借りて立ち上がり、部屋から出た。階段を下りると、そこには惨憺たる景色が広がっていた。

 蜂の巣になった壁や遮蔽物。同じく弾丸の雨の餌食になったグロテスクな死体たち。散りばめられた薬莢。たなびく硝煙。

 すっかり冷たくなった同志からアサルトライフルを頂戴し、マガジンの残弾を確認する。無論、十分な数とは言えない。チャイニーズ・マフィアを減らすにはもっと弾数が必要だ。


「ルージュ、フラン、死体からマガジンをかき集めてくれ」


「何をするつもりだ?」


「遮蔽物の後ろで立ち往生している仲間にマガジンを回す。少しでも戦力を向上させてチャイニーズ・マフィアを押し返そう。マガジンは地面に滑らせて渡してやってくれ」


「わかった。フラン、理解できたか?」


 フランは「はい、ママ」と書いて答えた。どうやら紅姫はフランの中で正式にお母さんになってしまったらしい。

 紅姫は処女らしくうぶに当惑した。


「フラン、わっちはお主の母ではない。いいな?」


 もう一度「はい、ママ」という文字の羅列で答えるフラン。紅姫は諦めて肩を落とした。


「はぁ、もうママでいい」


「はははっ、ルージュならいいお母さんになれるよ」


「むぅ、これはお主の問題でもあるのだぞ? わっちがフランの母なら……お、お主は父ということになる」


「私もそのつもりだよ。ルージュ、この戦争が終わったら結婚しよう」


「なっ……!」


 突然のプロポーズに、紅姫は頬を赤く色付けた。恋をした少女のように幼気に、高嶺の花のように可憐に、愛の女神のように妖艶に。

 ここでプロポーズするべきだと思った。本来なら戦争が終結した後にプロポーズするべきなのだろうが、龍凜はこのタイミングを選んだ。理由は彼にもわからなかった。が、これが正しい選択だと思った。運命を変えられたような気がした。

 紅姫は小指を差し出した。

 この時、涙腺という名の蛇口が捻られた。頬を濡らす生温かい涙は冷たくなり、端整な顔はぐしゃぐしゃに丸めて開いた紙のようになった。

 龍凜は小指を立てたが、それを紅姫の小指と絡み合わせるのを躊躇っていた。指切りをするのが怖かった。というよりも、約束を守れないのが怖かった。


「十年前、ブルーとも指切りをしたんだ……だが、結局は約束を守れなかった……」


「お主は命を賭けて戦っているのだ、天国の藍姫さまもきっと許してくださる。ドラゴン、わっちを幸せにしてくれ。わっちはこの戦争が終わったらお主と結婚する。約束だ」


「君を幸せにできるかな……?」


「わっちを幸せにできるのはお主しかいない」


 龍凜はトレンチコートの袖で涙を拭い、紅姫と小指を結んだ。


「ルージュ、君のことを幸せにする。約束だ」


 キスをしたくなったが、ここは我慢することにした。キスは戦争が終わるまでお預けだ。

 三人は死体からマガジンを回収し、身動きが取れない仲間に送っていく。敵にはグレネードを贈り、遮蔽物ごと爆発させる。怯んだところで遮蔽物の背後に移動し、アサルトライフルとハンドガンで敵を牽制する。龍凜のアサルトライフルが的確に敵を仕留める。アサルトライフルのリロードをしている間、紅姫のハンドガンが敵の退路をなくす。戦況が好転し、仲間の士気が上がっていく。


 ――龍凜と紅姫は阿吽のごとく呼吸がぴったりと合っていた。


 少しずつではあるが、九龍城砦の住民がチャイニーズ・マフィアを押し返しつつあった。その証拠に、仁豹はウォッカの瓶を片手に部下と共に逃げていった。


「よし、チャイニーズ・マフィアの牽制は仲間に任せて、私たちは回り込んで仁豹を追い詰めよう。この戦争を終わらせてやる」


 紅姫に肩を借りて移動しようとした時だった。

 鋭利な殺気が迫り来る。龍凜は雛を守る親鳥のように紅姫を庇う。左腕が熱くなり、糸が切れたかのように力が入らなくなる。


「ドラゴン!」


「ルージュ、君はフランを連れて仁豹の足止めをしておいてくれ。できる限り距離を取って、危険になったら逃げるんだ。私はフランク・シナトラと決着をつけなければならない。私もすぐに追いつくから」


「きっとだぞ。ドラゴン、待っているからな」


 紅姫の勇壮な背中を見送り、龍凜は右手でアサルトライフルを構えた。


「邪魔者はいなくなった。しかし、龍凜、君には失望したよ。まさか戦闘を放棄して逃げ出すとはね。そんなにルージュが大切か?」


「私の命よりもね。ドラグノフ、君とはもう戦いたくない。プライドを守るために死んでも意味はない」


「いや、それは違う。プライドは命よりも大切だ。プライドを捨ててまで生きる意味はない」


「ドラグノフ、私はあなたと似ていることを認めたが撤回する。私とあなたは対照的な人間なのかもしれない」


「くくくっ、そうかもしれないな。さあ、戦闘を再開しよう。君は愛を賭けて、僕はプライドを賭けて。そして、命を賭けて。これが最後の戦闘だ」


 龍凜はアサルトライフルのトリガーを引いた。

 銃口から火が瞬くが、ドラグノフは回避することなく弾丸でおかしなダンスを踊る。スーツに穴が開き、そこから血液が飛び散る。滝のような血液が床に垂れ流れる。

 アサルトライフルが弾切れになっても、ドラグノフは倒れなかった。プライドが彼を奮い立たせていた。

 龍凜はアサルトライフルを捨ててナイフを右手に持ち替えた。


「これで君に近付けたかな、龍凜……君は愛のために何があっても倒れなかった……君は愛する者に支えられて立ち続けた……僕にはプライドがある……弾丸ごときで倒れるわけにはいかない……」


「ドラグノフ、もうやめてくれ! もう終わりだ!」


「いや、終わるのは君だよ……」


 血まみれの手からスペツナズ・ナイフが発射される。右脚が思うように動かず、左脚にスペツナズ・ナイフを受ける。

 龍凜は膝から崩れ落ちた。立ち上がろうとするが、両脚は負傷のせいで力が入りそうになかった。殺される――万里の長城の八達嶺長城で感じた絶望と同じだった。おまけに、出血で意識が朦朧としてきた。


「僕はラッキー・ルチアーノとも呼ばれている……数多の修羅場を切り抜けてきたからそう呼ばれている……」


 右手のナイフが地面に落ちる。


「スーツに仕込んでいたスペツナズ・ナイフの本数はわかったか……?」


「十二本……それが最後の一本だ……」


「正解だ……これで喉を切り裂いて終わりにしてやる……」


 黒髪を掴まれて白い喉にスペツナズ・ナイフの刃をあてがわれる。

 龍凜は瞼を閉じた。

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