人間ならざる者たちの戦争4

 イタリア、シチリア。

 ドラグノフは負傷した右脚を引きずりながら碧海を目指していた。無性に故郷の美しい海を眺めたい気分だった。

 当然ながら冬のビーチは無人だった。ドラグノフはSVDを収めたガンケースを砂浜に置き、その上に腰かけた。


「はぁ……」


 溜め息の理由はわからなかったが、憂鬱を孕んでいたことは間違いない。

 ドラグノフは俯き、スラックスに開いた穴が視界に入ってもう一度溜め息を吐いた。

 スーツの内に仕込んでおいたスペツナズ・ナイフを一本抜き取る。右太ももの弾痕に刀身を刺し込み、てこの原理で弾丸を取り出す。エスプレッソの缶コーヒーと一緒に購入してきたライターで刀身を熱し、傷口に押し当てる。

 缶コーヒーのプルタブを開封して一口含むと、やっと痛みが和らいできた。

 ドラグノフはパナマハットを脱ぎ、海風に茶髪をなびかせた。


「はぁ、僕は何をしているのだろう?」


 ドラグノフの独り言は波のさざめきにかき消された。いずれにせよ、誰の耳にも届いていなかった。だから、彼はここを訪れた。彼は一人になりたかったのだ。

 どうして龍凜を助けた? 狙撃していれば確実にとどめを刺せた。それなのに、僕はそうしなかった。弱者を一方的に殺すことは僕のプライドに反するから? いや、もしそうだとしても、龍凜は殺さなければならない。これはビジネスだ。

 明日、チャイニーズ・マフィア、イタリアン・マフィア、殺人株式会社の総戦力を挙げて九龍城砦を陥落させることが決定した。ついに王龍凜の首が取られるのだ。もはやこれは抗争ではなく戦争だ。

 熱いエスプレッソが身に染み渡る。まだイタリアン・マフィアに入りたての時分、失恋してこの海を眺めたことを思い出す。

 イタリアン・マフィアのメンバーとなってから、たくさんの人間を殺した。スコープなしのSVDとスペツナズ・ナイフで何人も殺した。その一人一人が誰かにとって大切な人間だった。これまでに何人の人間を悲しませてきたことだろう。

 北京のテレポーターの前でうずくまっていたルージュの悲しげな表情が、灰色の瞳に焼きついている。

 ルージュにとって、龍凜は大切な人間だ。龍凜にとってもそうだ。認めたくはないが、僕は二人の関係を壊すことができなかった。僕は何をしているのだろう? 救いたいのか? 殺したいのか? どちらかはっきりしろ!

 碧海がわずかに黒く濁る。太陽が雲に隠されたせいだ。


「龍凜、君はことごとく僕のプライドを打ち砕いてくれるな」


 ドラグノフは己の中で蠢く背徳を自嘲するように笑った。

 龍凜は僕にとって特別な存在だ。それまでイタリアン・マフィアとして機械的に殺人を請け負っていたが、龍凜は特別だった。戦えば戦うほど龍凜の魅力に惹かれていった。初めて殺してみたいと思った。龍凜ほど強くて美しい人間はいない。龍凜、君は不思議な人間だな。君は敵さえも魅了してしまう。


「ルージュ、君は龍凜に相応しい人間だ」


 ルージュは高貴だ。そして、無知だ。無知ゆえに強くて美しい。僕はソクラテスの名言になぞらえて「無知は死なり」と言ったが、ここで訂正しよう。「無知は美なり」、と。だが、これは龍凜と相反する美貌だ。だからこそ龍凜とルージュは相性がいいのかもしれない。ルージュ、君にはきついパンチをもらったな。君を殺して龍凜の精神を崩壊させるつもりだったが、僕にはできなかった。女を殺すのは僕のプライドに反するからできなかった、ということにしておこう。

 シチリアに帰ってきてよかった、と思った。海を感じながらエスプレッソを嗜んでいると、決意を新たにすることができた。


 ――背徳は死んだ。


 ドラグノフはパナマハットを目深にかぶった。


「王龍凜、僕は君を殺さなければならない。ドラグノフ・ルチアーノの名にかけて、君の心臓を弾丸で撃ち抜く」

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