人間ならざる者たちの戦争3

 まどろみから覚醒すると、腹部に違和感を感じた。首を持ち上げると、それが紅姫であることがわかった。

 紅姫は包帯まみれの腹部に顔を伏せて居眠りしていた。状況を整理するのに時間がかかったが、全身の激痛ですぐさま合点がいった。

 そうだ、私は万里の長城でチャイニーズ・マフィアと戦って負傷したのだ。

 紅姫の体温が生きているということを実感させてくれる。彼女はずっとそばにいてくれたのだろう。恐らく夜も眠らずに見守ってくれていて、疲れて居眠りしてしまったのだろう。

 龍凜は腹部の上から床に垂れた黒髪を指で梳いた。


「ルージュ」


 すると、紅姫は小さく唸りながらむくりと起き上がった。寝ぼけているのか、ぐるぐると周囲を見回してから龍凜の瞳を見つめた。


「おはよう、ルージュ」


 そう言うと、紅姫は堰を切ったように泣き出した。

 いくら瞼を拭えど涙が溢れる。嗚咽で過呼吸気味になっても涙は止まらない。

 龍凜は呼吸できなくなってしまうのではないかと心配しながら、紅姫の背中をただ優しくさすっていた。

 ようやく嗚咽が治まってくると、紅姫は涙を見せまいと俯いた。龍凜は火照った頬に手を添えて顔を上げさせた。


「一度は約束を果たせなかったけど、もう二度と約束は破らない」


「馬鹿、起き上がるな……傷が開くぞ……」


「平気さ。治癒能力も支配権の一つでね。すぐにでも戦えるよ」


「もう戦わないでくれ……わっちはお主が一緒にいてくれるだけでいい……居場所なんていらない……」


「……すまない。私はまだ戦わなければならない。ブルーとの約束を守らなければならないから。だが、君との約束も守る。何があっても君のことを守る」


 赤色の瞳が潤んできたので、龍凜は紅姫を抱き寄せてキスをした。


「私は君に謝らなければならない。君に一目惚れしたと言ったが、本当は一目惚れではなかった。ただ、君がブルーの代わりになると思っていた。だが、君はブルーではなかった。だから、戦いが終わったら君と別れるつもりだった」


 愛しい黒髪を手の甲で撫でる。

 藍姫はもう帰ってこない。いつまでも死者に執着していては前に進めない。守れる約束も守れない。


「君を愛している。これは真実だ。信じてくれ」


「わっちはお主を信じるしかない……ドラゴン、わっちも……わっちもお主を愛している……」

 龍凜と紅姫はもう一度キスをした。人間の原形に再生しようとするかのように、互いの身体を激しく抱きしめ合った。

 プラトンの『饗宴』にて、アリストファネスは人間の原形フュシスについてこう語った。

 かつて人間の性は三種類――男、女、男女おめがあった。男女というのはいわゆる両性具有者アンドロギュノスのことで、男女こそが人間の原形であった。

 男女は男と女を結合した一つの性だった。ゆえに、肉体は球状で、腕が四本、脚が四本、一つの頭部には顔面が二つ、性器が二つあった。

 本来、男は太陽、女は地球、男女は月から生まれたとされていた。月は太陽と地球から生まれたとされており、男女も両親に似たため球状となった。

 男女は凶暴かつ驕慢であった。やがて彼らは神たちを冒涜し、天界との戦争を目論んだ。それに怒ったゼウスは、男女の肉体を真っ二つに両断した。こうして男と女が生まれた。

 両断された人間の原形は、かつての半身を探し求めた。そうして再び遭逢すると、肉体を一つにしたいという欲望に燃えて四肢を絡ませ合いながら抱きしめ合った。

 現代の人間にも、人間の原形の性質が生きている。ゆえに、人間は愛し合う。

 熱くなっていく二人の体温。艶めかしい水音。粘り気を帯びて糸を引く唾液。

 快楽はそう長く続かなかった。銃声が反響して、龍凜と紅姫は我に返った。

 快楽の後味はまずかった。九龍城砦の住民が部屋に入ってきて気まずい空気は霧散した。


「王、殺人株式会社だ。同志たちが屋上で迎え撃っているが、いつまで持ちこたえられるかわからない。クイーン・ハートが圧倒的な脅威だ」


「全く、しつこいストーカーだな。そんなに私の邪魔がしたいのか」


「王、お前は俺たちの最後の希望だ。二人でテレポーテーションして逃げろ」


「二人で敵だらけの屋上を切り抜けるのは不可能だ。ルージュはそんなに速く走れないし、私も負傷している」


「これを使え」


 住民から手渡されたのはスモークグレネードだった。チャイニーズ・マフィアかイタリアン・マフィアの忘れ物だろう。味方と敵の視界を奪う代物だが、逃げるためなら役に立ちそうだ。

 龍凜は重い身体を持ち上げた。


「ルージュ、吉原に戻ろう。やはりサムライを味方につけておいた方がいい。こんな状況になってしまった以上、私一人で三つの勢力と戦える自信はない」


「同感だ。だが、くれぐれもサムライを敵に回さないように注意しろ。あの変態がサムライを大量に殺したせいで殺気立っているはずだ」


 洗濯されたシャツに袖を通し、ネクタイを緩く締める。トレンチコートを羽織り、煙草を一本取り出す。


「ドラゴン、わっちも着物に着替えたい」


「着物では動きにくいだろう。それに、ワンピースも似合っているよ」


「そ、そうか? だが、これは藍姫さまにいただいた大切な着物なのだ。吉原に帰る前に身につけておきたい」


「わかった。着替えるといい。あまり時間はないからね」


「お主は反対を向いておれ。振り返ったら殺すぞ」


 紅姫がワンピースの裾に手をかけて睨みを利かせたので、龍凜は慌てて反対を向いた。

 衣擦れの音が鼓動を速める。体温が下がると、柔らかな唇の感触が蘇る。

 龍凜は唇をなぞった。その背後では、紅姫も唇を意識して悶えていた。

「もういいぞ」と言われて振り返ると、そこには赤の化身がいた。黒髪は龍凜と同じようにかんざしで結われていた。

 やはり赤の着物の方がしっくりくる。黒髪も装飾品でごちゃごちゃしていなくて大人っぽさが増している。

 龍凜は紅姫の手を取った。


「私の手を離さないで」


「離すものか」


 九龍城砦の住民の先行で屋上へと続く階段を上っていく。階段には、負傷して治療を受けている者や致命傷を受けて死を待つ者がいる。見慣れた光景だ。

 辛うじてクイーンたちは屋上で足止めされていた。住民の消耗も激しかったが、九龍城砦への侵入を防いでいるのは都合がよかった。

 龍凜は住民からハンドガンを借り、クイーンの部下たちを次から次へと連続で撃ち抜いた。射撃が止んだ隙を窺って紅姫の手を引き、屋上の遮蔽物に身を隠した。


「生きていたのね、ダーリン。北京でドラグノフ・ルチアーノとばったり出くわして、ダーリンが死んだかもしれないと耳にして飛んできたのよ。はぁ、杞憂だったわ。ダーリンが死ぬはずないわよね。ダーリンを殺すのは私だもの」


「クイーン、残念ながらあなたの相手をしている暇はない」


「いいえ、嫌でも相手をしてもらうわ。あなたはもう私から逃れられない」


「ストーカーもほどほどにしてくれ。レディーは殺したくない」


「ダーリン、あなたの優しさは私を苦しめる。私のことを思ってくれるのなら殺して。私かあなたが死ぬまでこの戦いは終わらない。私たちはメビウスの輪の上にいるのよ。どちらかが死ぬまで幸せにはなれない」


「殺し合いで幸せになれるわけがない。あなたは狂っている」


「そう、狂っている。あなたもね。私たちは特別な人間よ。私たちは人間を超えている。幸せも狂っていて当然でしょう?」


「あなたと一緒にしてほしくないな」


 龍凜はスモークグレネードのピンを抜き、宙高くに放り投げた。

 煙幕が張れるまでの間、ハンドガンで敵の数を少しでも減らしておく。やがて敵の姿が白煙に飲み込まれる。敵は銃を乱射して弾幕を張る。

 敵の位置はあらかじめ把握しておいた。あとは遮蔽物を利用しながら前進するのみだ。


「ルージュ、私を信じてひたすら走るんだ。弾丸は全て私が受ける」


「……冗談だろう?」


「冗談だよ」


 肩を思い切り引っぱたかれた。ちょうど傷口であったため、激痛が電流のように走った。


「馬鹿っ! 冗談でもそんなことを言うなっ!」


「い、痛いなぁ、傷に障る。私が盾になってでも守るという意味だったのに。ちゃんと弾丸は避けるよ」


「むぅ、すまなかった」


 煙幕が完成すると、龍凜と紅姫は遮蔽物から飛び出した。

 紅姫の下駄の音で敵に位置を察知されるが、ハンドガンで片付ける。マガジンが空になる。


「ダーリン、逃げられないと言ったでしょう? 煙幕を張っても位置がばればれよ」


 クイーンの声がした方向から弾丸が飛来し、龍凜はハンドガンを投擲した。弾丸はハンドガンと衝突し、ハンドガンは空中で分解された。

 龍凜は紅姫の身体を抱いて屋上から飛び下りた。

 テレポーテーションしてしまえばこちらのものだ。吉原にテレポーテーションすればサムライがいる。たとえ殺人株式会社が追ってきたとしても、ある程度の時間を稼ぐことができる。そもそも移動先を特定できなければ追ってこれない。

 龍凜と紅姫は九龍城砦から姿を眩ませた。

 屋上から九龍を見下ろして、クイーンは舌打ちをした。


「ちっ、逃げられたか。でも、無駄よ。あなたは私から逃れられないのだから。フラン、ダーリンの移動先を分析して」


 エンフィールド・リボルバーのシリンダーに六発の弾丸を込め、クイーンは不敵な笑みを浮かべた。


「ダーリン、いよいよ運命の時よ」

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