第四章 人間ならざる者たちの戦争

人間ならざる者たちの戦争1

 龍凜と紅姫がテレポーテーションしたのは中国の北京だった。

 中国の人口増加は著しかった。一人っ子政策の廃止と時代恐慌による外国人の大量移住で人口が爆発的に増加し、中国はパンク寸前まで追いやられた。人口の増加を抑制するため、政府は一人っ子政策を復活させた。

 しかし、一人っ子政策の実施は逆効果だった。むしろ、人口増加を増長させることになってしまった。

 第二子以降の子供は、チャイニーズ・マフィアや人身売買ビジネスで生活している者たちによって買い取られた。そして、男は奴隷、女は娼婦として売られた。娼婦となった女は子供と悪循環を生んだ。レイプの被害も人口増加に拍車をかけた。

 人身売買の横行は日常茶飯事で、政府もこれを暗黙の了解下で許可している。一人っ子政策は宙吊り状態。政府も人口増加を解決しようがなかったのである。失策を証明することもできず、問題の挟み撃ちにされている。

 北京はすっかり荒廃していた。飢餓と貧困と犯罪で溢れかえっていた。

 ぐったりと地面に横たわって死にかけている者、死に物狂いでごみを漁る者、一欠片の食料で争う者、犯されて叫ぶ気力もない者、ドラッグで放心して抜け殻になっている者。まさに地獄絵図だった。

 龍凜と紅姫は手を繋いだまま彼らの間を歩いていった。二人が目指しているのは人工のテレポーターだった。

 この人工のテレポーターは、万里の長城の八達嶺長城とケーブルで接続されている。九龍城砦を撤退してから、チャイニーズ・マフィアの拠点は万里の長城となっている。チャイニーズ・マフィアはこのテレポーターで万里の長城と北京を行き来して商品となる人間を収集し、外国で人身売買を行っている。

 紅姫は恥ずかしがっていたが、その手を離そうとはしなかった。彼女は凄惨な光景にびくついて委縮していた。


「ひどいな。吉原での生活は最悪だと思っていたが、北京と比べると天国だったのだろうな。九龍城砦はここよりもひどかったのか?」


「同じくらいひどかったかな。北京と同様、犯罪の巣窟だったからね。私もチャイニーズ・マフィアにドラッグ漬けにされたことがある。ドラッグの効果が切れると無性にいらいらして、殺意を抑えるために何度も壁に頭を打ちつけた。チャイニーズ・マフィアを殺そうとすれば無力な私の方が殺されてしまうからね。ドラッグのせいで幻覚にも苦しめられた。死ぬ幻覚ばかりだった。私は死に恐怖したよ。死ぬよりも地獄の中にいた方がましだった」


「死、か。遊郭で奴隷のように生きていた時分、わっちは死にたいとさえ思った。将来のことを想像しても不幸しか思い浮かばなかった。包丁で自殺しようとしたこともある」


 繋いだ紅姫の左手首には茶色く褪せた傷痕が残っていた。

 九龍城砦の屋上から飛び下りた時の浮遊感が蘇る。死への恐怖がなくなったのは恐らくあの時からだ。


「だが、ドラゴンと出会って人生が変わった。身請けされるなんて夢にも思わなかった。お主なら……わっちを幸せにしてくれるかもしれない」


 繋いだ手がぎゅっと握りしめられる。手のひらは柔らかく温かい。懐かしい感触にじわりと涙が滲む。

 龍凜は心の中で謝った――ごめん、私は君を幸せにできない。

 私は幸せではない。ブルーを失ってまた不幸になった。不幸な人間が誰かを幸せにできるはずがない。ルージュ、私は君をもっと不幸にしてしまうかもしれない。やはり私たちは別れるべきなんだ。

 龍凜は悲哀をそっと胸の奥にしまった。


「左腕をやられていたな。痛むか?」


「まあね。だが、弾丸は貫通している。とても左腕で刃物は振るえないがね。まあ、幸いにも私は両利きだ」


「そうか。負傷した状態でチャイニーズ・マフィアと取引できるのか?」


「負傷していなくても変わらないさ。取引が成立しなければ殺される。これは一か八かの取引だ。サムライを味方につけられなかったのだから仕方がないよ。さて、ここが万里の長城に直通するテレポーターだ」


 龍凜はテレポーターの前で立ち止まり、紅姫の手を離した。


「ここまで連れてきてしまったが、君はまだ逃げられる。私は君を守ると約束した。だから、言わなければならない。ルージュ、君は逃げろ」


 紅姫は頷こうとしなかった。むしろ、不機嫌そうにふんと鼻を鳴らした。


「わっちを逃がすことはわっちを守ることにはならない。お主、死ぬつもりなのであろう?」


 否定はできない。薄氷を一歩ずつ注意しながら踏む龍凜なら、左腕の傷を癒やしてサムライを味方につけてからチャイニーズ・マフィアと取引するだろう。

 龍凜は焦燥に駆られていた。藍姫との約束と紅姫との約束を守ろうとしてジレンマに陥っていた。

 敵は既に動き出している。傷を治療している暇はない。奇襲をかけられたらひとたまりもない。何かを守るためには選ばなければならない時もある。

 藍姫との約束を守ろうとすれば紅姫との約束は守れない。紅姫との約束を守ろうとすれば藍姫との約束は守れない。龍凜の生を前提にすれば、の話だが。

 わっちを逃がすことはわっちを守ることにはならない――これはどういうことだろう? 私についてくれば確実に殺される。それこそルージュを守ることにはならない。どうすればルージュを守れるのだろう?


「私は自殺するつもりはないよ。私は藍姫との約束を守りたい。君のこともね」


「それは本心か?」


 全てを見透かしたような瞳に、龍凜は視線を逸らした。


「わからない。どうしていいのかわからないんだ。私は二つの約束を守りたい。君を守る方法を教えてくれ」


「簡単だ、わっちと一緒にいてくれたらそれでいい」


「……それで君を守れるのか?」


「そうだ。お主と別れたらわっちは生きていけない。わっちは一人では生きていけない。籠の中の鳥が外に羽ばたいても長くは生きられないのと同じだ。認めよう、わっちは無知だった。客の話を理解できるように藍姫さまから世界のことを教わったが、それは一握の砂に過ぎなかった。わっちはお主がいなければ孤独だ。お主がいなければ何もできない。お主のために何かすることもできない。わっちはお主の足手まといだ」


「ルージュ……」


「それでもお主と一緒にいたい。駄目か?」


「…………」


 そういうことか――龍凜は内心で呟いた。

 つまり、私はどちらかの約束しか守れない、ということだ。ここでルージュと別れたら彼女を守れないが、ブルーとの約束は守れる。ルージュと一緒に逃げれば彼女を守れるが、ブルーとの約束は守れない。私が生きていてかつ約束をどちらも守るには、奇跡でも起こらない限り不可能だ。


「ルージュ、駄目だ。君を守りながらチャイニーズ・マフィアと戦闘していては二人共死んでしまう。心中したいのか?」


「心中、か。それもいいかもしれない。だが、それはお主が決めることだ。わっちか藍姫さまか、どちらか選べ。道は二つに一つだ。いや、道を二つにするという選択肢もある」


 道を二つにするという選択肢もある――これがハッピーエンドだ。道を選べばバッドエンドだ。道は選べない。

 運命は既に『デウス・エクス・マキナ』によって決められている。運命に身を任せてみるのも悪くない。案外、ハッピーエンドだったりするかもしれない。

 龍凜はもう一度手を差し伸べた。


「はぁ、身請けした責任は重いな」


「ふふふっ、責任はわっちの体重よりも遥かに重いぞ。ドラゴン、わっちはお主を信じている。お主ならわっちを幸せにしてくれる」


 紅姫は身請けされる時のようにはにかみながら手を取った。

 薄氷に足を突っ込んでしまったような気分だった。なんだか寒くなってきた。左腕から出血しているせいだろうか。妙に出血が多い。血管をやられてしまったかもしれない。


「手が冷たいな。顔色も悪い。簡単に手当てしておこう」


 紅姫はハンカチで左腕を縛ってくれた。これで多少は出血を抑えられるだろう。


「ありがとう、ルージュ」


「どういたしまして」


 龍凜と紅姫はテレポーターを見据えた。

 人工のテレポーターを何かに例えるとしたら巨大な門だ。人工のテレポーターは国によってデザインが異なるが、その中の暗闇は共通している。

 テレポーターの空間は宇宙と同じだ。上下左右がなく、重力もない。人工のテレポーターは時代をケーブルで接続しているため、テレポーテーションにラグが発生する。まあ、人工のテレポーターが不便なのはテレポーテーションできる時代が限定されるくらいで、テレポーテーション中は感覚がないため時間の感覚もない。ただし、実際には時間が経過しているため、注意しなければならない。距離と時間は比例する。

 万里の長城は北京の郊外にある。テレポーテーションにはそう時間はかからないだろう。

 テレポーターを通り抜けると、そこはもう万里の長城の八達嶺長城だった。

 チャイニーズ・マフィアの拠点と化した八達嶺長城にはテントが密集していた。テントの下の檻の中には、布切れ一枚で首輪をつけられた子供たちがいた。子供たちは皆痩せ細っており、龍凜はかつての自分を目の当たりにしているような気分になった。

 人身売買に出払っているのか、チャイニーズ・マフィアの数は予想よりもかなり少なかった。

 チャイニーズ・マフィアたちは酒やドラッグで堕落していた。首輪のついた少女を片腕に抱き、強引にキスしようとしている者もいた。

 胸くその悪い会話が耳につく。


「おい、商品には手を出すなよ。処女の方が高く売れるんだからよ」


「キスくらいならいいだろう。全身をマッサージするのも悪くないな。どうだ、お前もやってみるか?」


「いいねぇ。処女のままなら何をしてもいいからな。ドラッグ漬けにして調教してやるか?」


「やろうぜ。調教済みの商品ってことで売れば問題ないだろう」


 紅姫の握力がぐっと強くなる。手のひらが痛むくらいだ。


「下衆共が……同じ人間のすることか? 人間は商品ではない。くっ、むごいことをするな」


 チャイニーズ・マフィアたちは少女にドラッグを注射し、布切れを破いて全身をべたべたとまさぐる。少女はドラッグの快楽で腰を弓なりにしならせる。

 龍凜は少女の凌辱を止めるように声を張り上げた。


「王龍凜だ! チャイニーズ・マフィアのボスに会いたい!」


 チャイニーズ・マフィアたちの視線が龍凜と紅姫に集中する。何人かが銃や刃物を取り出す。

 龍凜と紅姫は厳重なボディーチェックをされた。ギャングのボディーチェックで慣れたのか、はたまた抵抗すれば殺されることを悟ったのか。「胸の谷間に何か隠せたらよかったのにな」と揶揄されても、紅姫はなんとかこらえていた。拳をぷるぷる震わせていたが。

 ボディーチェックが終わると、龍凜と紅姫はとあるテントの中に通された。


「王龍凜、お前の方から赴いてくれるとはな。九龍城砦から撤退させられて途方に暮れていたところだ」


「へぇ、その割には繁盛しているみたいだね。人身売買ビジネスは儲かっているかい?」


「まあな。政府の人間にも人気でな。特に処女の雌ガキがよく売れる。あらかじめ商品にドラッグを仕込んでいるから、ドラッグもよく売れる。それで? 用件はなんだ?」


「盗んだ金を返しに来た」


「ほう、それは殊勝だな。いくらある?」


 アタッシュケースを開けて金を見せると、チャイニーズ・マフィアのボスは満足そうに頷いた。

 チャイニーズ・マフィアのボス――金仁豹(ジン・レンバオ)は金礼虎の弟だ。仁豹は北京の支配者だが、彼は正式な支配者ではなく支配権もなかった。北京の支配権は消滅した。

 兄弟で中国と香港を牛耳っていたが、九龍城砦の支配権を奪われたことでチャイニーズ・マフィアの勢力は縮小した。仁豹が九龍城砦の支配権を取り戻そうとしているのは、礼虎がやってのけた以上の勢力を手に入れるためだ。


「隣の日本人は誰だ? お前の恋人か?」


「まあ、そんなところさ。ルージュだ。吉原の遊女だったが、私が身請けした。十年前、チャイニーズ・マフィアから盗んだ金も遊女の身請けに使った」


「遊女……ああ、日本の高級娼婦か。もったいないことをしやがって。中国なら食料よりも安く人間が買える。二人も身請けしてハーレムでも作るつもりか? 雌ガキなら掃いて捨てるほどいる。今なら安く売ってやるぜ?」


「いらない。私は愛する者と約束したんだ、平和な居場所を作る、と。チャイニーズ・マフィアと和解したい」


「その愛する者は死んだらしいな。お前が殺したのか?」


「…………」


「否定しないということはそうなんだな。はっ、傑作だ。大金を二度もどぶに捨てたな。隣のビッチを買うのにいくらはたいたか知らないが、お前はこれからも人生をどぶに捨て続ける。そして、いつか死ぬのさ。それは今日かもしれない」


 仁豹はボディーチェックで取り上げたナイフの刀身に爪を引っかけて刃を展開した。


「兄貴のナイフか。何故これで人間を殺し続ける?」


「理由はない。だが、強いて言うなら、私はそれで礼虎と両親を殺した。そのナイフには大量の人間の血液が染みついている。死神の鎌と同じさ。そのナイフでないと人間を殺した気がしない。だからだ」


 仁豹はナイフで葉巻の吸い口を切り、部下に火をつけさせた。


「王龍凜、ただ金を返しに来たわけではないのだろう? 何か企んでいるな?」


 龍凜はにっと笑った。


「何も考えていないさ。私はただあなたと取引をしたい」


「取引? 金を返すのに取引が必要か? なんならお前たちを殺して金を奪ってもいいんだぞ。十年前、お前がそうしたようにな」


「そうしたければすればいい。だが、それに伴う被害は保証できない。チャイニーズ・マフィアが壊滅する可能性もある。仮にも私は九龍城砦の支配者だ」


「ふん。一応、聞いておいてやろう。取引とは?」


「九龍城砦の支配権を正式に継承したい」


「寝言は寝て言え。九龍城砦の支配権を譲渡することはすなわち香港を譲渡するのと同義だ。第一、お前に九龍城砦の支配権を譲渡して俺たちになんの利益がある?」


「このアタッシュケースに支配権分の金が入っている」


「いくら払っても支配権は譲渡しない。逆に、俺がお前に金を払ってもいい。盗んだ金は返さなくてもいい。支配権を譲渡しろ。そして、九龍城砦から出ていけ。そうすれば生きて帰れるし、大金だって手に入る。奴隷と娼婦をつけてもいい」


 龍凜は顎に指を当てた。

 逆に取引を持ちかけてくるか。一見すると利益ばかりの内容だ。だが、これではブルーとの約束を守れない。それに、仁豹は私を生かしてここから帰すつもりはないだろう。この取引は受け入れられない。

 龍凜はアタッシュケースを仁豹に突きつけた。


「九龍城砦は私たちの居場所だ。あなたの取引には応じられない」


 すると、ナイフが腹部を狙って真っ直ぐに飛んできた。龍凜は腹部に突き刺さる前にナイフの柄を掴んだ。


「ふざけるな! お前は金も支配権も盗んだ! 金を返すのなら支配権も返せ! さもなければ俺たちは和解できない!」


 この時点で、龍凜とチャイニーズ・マフィアの取引は破綻した。龍凜と紅姫の死が決まった。

 チャイニーズ・マフィアたちが一斉に銃を構える。完全に包囲されている。もう逃げることはできない。

 龍凜は紅姫の肩をぎゅっと抱き寄せた。


「ルージュ、私を信じて」


 私がルージュの盾になる。この包囲網に穴を開けてテレポーターへの道さえ切り開けば、ルージュを逃がすことができる。


「君を逃がす。私が合図したらテレポーターに向かって走れ。私が時間を稼ぐ。万が一、追っ手がテレポーテーションしても若干のラグがある。君は生きろ」


「藍姫さまとの約束を破るつもりか?」


「約束をどちらも破るよりはましさ」


「わっちはドラゴンと一緒にいたい! ドラゴンが死ぬのならわっちも……!」


「二人で心中することはない。死ぬのは私一人で十分だ。君を守らせてくれ」


 仁豹がぱちんと指を鳴らした瞬間、龍凜はしゃがみながら紅姫を突き飛ばした。

 弾丸がトレンチコートと黒髪を掠める。流れ弾で何人かが倒れる。

 紅姫はこけたのはテントの下。チャイニーズ・マフィアたちの意識が龍凜に集中している分、ここから彼女が逃げるのは容易だった。


「走れ!」


 合図をしても紅姫は逃げようとしなかった。倒れたままどうするべきか迷っていた。


「君をブルーのように死なせたくない! 頼むから逃げてくれ!」


 紅姫は挫いた足を引きずりながら立ち上がった。そして、何度も振り返りながらテレポーターへと歩いていった。

 これでいい。これでルージュを死なせずに済む。ルージュは私の愛する者だ。ブルーと同じくらい大切で、ブルーと同じくらい愛している。もう同じ後悔はしたくない。二つの約束を守ることなんて簡単ではないか。たかがチャイニーズ・マフィアを全滅させればいいことだ。何かを守れなければ生まれてきた意味なんてない。せっかく不可能を可能にするための能力を得たのだ、今度こそ愛する者を守ってみせる。

 ばらまかれた弾丸の雨を最小限の動作で躱す。流れ弾で同士討ちを狙いつつ、流れるように喉を切り裂いていく。倒れたテントを利用して身を隠し、敵の背後から喉を掻っ捌く。これを繰り返す。

 テレポーターの周囲には紅姫はいなかった。彼女は無事テレポーテーションしたようだった。


「ちぃっ……!」


 わずかな油断が腹部に鋭い痛みをもたらす。足が止まったのをきっかけに、胸部、脇腹、左腕、右太ももに弾丸をもらう。

 それでも龍凜は倒れなかった。ナイフの柄を歯で挟んで死体からハンドガンをもぎ取り、冷静に敵の頭部を狙った。

 仁豹を探すが、どこにもいない。どうやら流れ弾の当たらないところまで逃げたらしい。

 ハンドガンのマガジンが空になる。左腕が使い物にならないため、ハンドガンを捨ててナイフに持ち直す。

 一人の喉を切り裂くと、右肩を撃ち抜かれた。右腕の力が抜けるが、龍凜は最後の希望であるナイフを離さなかった。

 ブルーとの約束は守れないが、ここで死んでも構わない。死ぬ前にルージュを守ることができたのだから。ルージュは言った――わっちを逃がすことはわっちを守ることにはならない、と。単なる自己満足に過ぎないかもしれないが、私は命を賭けて愛する者を守った。ああ、これが運命か。ハッピーエンドではないが、そう悪くない運命だ。

 複数の弾痕から生命の源が流れ出していく。視界が白く霞む。立っているのがやっとだ。銃が構えられる。龍凜は銃口から弾丸が発射されるのを呆然と待つ。

 だが、弾丸が龍凜の頭部に穴を穿つことはなかった。頭部に穴を穿たれたのはチャイニーズ・マフィアの方だった。

 振り返ると、オペラの仮面をつけたフランク・シナトラがいた。

 かっちりしたスーツに黒のパナマハット。フランク・シナトラはロシアのイズマッシュ社製のスナイパーライフル――SVDを肩に担いでいた。仮面で正体を隠しているが、龍凜にはすぐさまイタリアン・マフィアのドラグノフ・ルチアーノだとわかった。

 ドラグノフのSVDは最大まで軽量化されている。スナイパーライフルにもかかわらず、スコープも装備されていない。その代わりにバレルの先端には銃剣が装備されており、遠距離からの狙撃よりも接近戦に特化している。

 だが、ドラグノフの狙撃はアイアンサイトでも正確無比だ。九龍城砦での戦闘でも苦戦を強いられた。

 ドラグノフの圧倒的な狙撃でチャイニーズ・マフィアたちは少しずつ下がっていった。彼は前進して龍凜のそばで歩みを止めた。


「九龍城砦の支配者ともあろう者が無様だな、王龍凜」


「ルージュとすれ違っただろう。彼女をどうした?」


「何もしていないさ。テレポーテーションすればわかる。涙を流しながら君を待っていたよ」


 ドラグノフの発言は嘘ではないようだった。もし彼が本当に殺すつもりなら先ほどの時点でとどめを刺されていたことだろう。

 安心から脱力して倒れそうになるが、龍凜は左足でどうにか踏み留まった。


「私を殺しに来たのか?」


「そのつもりだったのだが、満身創痍の君を殺してもつまらないからね。これは個人的な救済だ。礼はいらない。いずれまた殺し合うことになるだろうから。近いうちにね」


「なるほど、殺すために生かした、と。あなたといいクイーンといい、私にはおかしなファンがついているようだ」


「くくくっ、君を殺すのは名誉あることだからね。一生遊んで暮らせるだけの金にもなる。だが、ここは僕が引き受けよう」


「恩に着る。ところで、どうしてオペラの仮面をつけているのかな?」


「言うまでもないことだ。チャイニーズ・マフィアに正体がばれたら、僕も君のように命を狙われてしまう」


「フランク・シナトラの亡霊かと思ったよ。さよなら、ドラグノフ。感謝はするが、今度会ったらまた敵同士だ。手加減はしないよ」


「楽しみにしている」


 龍凜はテレポーターの中に倒れ込んだ。

 休憩する間もなく北京に到着すると、うずくまってすすり泣いている少女がいた。いや、金色の瞳には少女が映っていた、と表現した方が語弊がないだろう。龍凜の瞳には十年前の藍姫が映っていた。


「どうしたんだい?」


 そう言うと、紅姫は涙に濡れた頬を上げた。


「ドラゴン……ひどい格好だ。チャイニーズ・マフィアもあのイタリアン・マフィアも皆殺しにしたのか?」


「まさか。ドラグノフが助けてくれた。さあ、逃げよう。そうゆっくりしていられない」


 紅姫の手を掴み、龍凜はわずかな力を振り絞って彼女を立ち上がらせた。逆に倒れそうになるが、彼女が間一髪のところで支えてくれた。

 紅姫に肩を貸してもらいながらテレポーターを目指す。彼女も足を挫いているため、一歩一歩が遅い。それでも着実に一歩ずつテレポーターへと近付いている。

 朧げな意識の中で、龍凜はこれからのことを思案していた。

 チャイニーズ・マフィアとの取引は破綻した。もはや戦うしかない。敵を全滅させること以外に居場所を作る方法はない。


「ドラゴン、これからどうするのだ?」


「戦う。邪魔する者は全て殺す。だが、その前に傷の治療をする必要がある。さすがに弾丸を受けすぎた」


「病院に連れていく。どこにテレポーテーションすればいい?」


「…………」


「ドラゴン? ドラゴン、しっかりしろ」


「ああ……九龍城砦にテレポーテーションしよう。あそこには私の仲間がいる。治療もしてくれるはずだ」


「わかった。ドラゴン、ちゃんと連れていってやるからな。大丈夫だ、きっと助かる。ドラゴンは死なない。死ぬはずがない」


 紅姫の言い聞かせるような声が遠のいていく。両足では立っていられなくなり、彼女の肩に体重を預ける。


「ルージュ、すまない……」


 死の恐怖に飲み込まれたのを最後に、龍凜は意識を失った。

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