殺戮の王と狂気の女王6

 龍凜と紅姫はコロッセオの前の噴水で合流し、大金の入ったアタッシュケースを片手にテレポーターを目指していた。


「ドラゴン、気分が悪いのか?」


「えっ?」


「ひどい顔付きだぞ。どこかで休んだ方がいいのではないか?」


「いや、平気さ。少し疲れただけだよ。ありがとう」


「……ふん」


 そうだ、私は疲れているだけなのだ。疲れが取れたら自ずと正しい結論を導き出せるはずだ。今日は脳を働かせすぎた。難しいことを考えるのはやめだ。酒を飲みたくなってきた。


「やっぱり休憩していこうか。ああ、あそこのバーにしよう。ルージュも何か飲むかい?」


「遠慮しておく。ましにはなったが、二日酔いがまだ抜け切っていないのでな」


 キャロルを一杯飲み、龍凜と紅姫はサンタ・マリア・イン・コスメディン聖堂まで移動した。

 サンタ・マリア・イン・コスメディン聖堂には、ボッカ・デラ・ベリタ――真実の口がある。真実の口は元は下水溝のマンホールの蓋で、海神トリトーネの顔面が彫刻されている。

 真実の口には有名な伝説がある。心に偽りのある者がこの口の中に手を入れると、切り落とされたり噛みちぎられたり抜けなくなったりするというものだ。映画『ローマの休日』でもこの伝説が取り上げられている。

 龍凜と紅姫が真実の口の前に立ったのは、これがローマのテレポーターだからである。口の中に手を入れることでテレポーテーションできる。そのため、有名な伝説は時代恐慌が勃発する前のものということになる。


「この金を持って中国にテレポーテーションするのか?」


「いや、私たち二人で取引するのはさすがに危険すぎる。だから、吉原に立ち寄って味方をつけていこう」


 すると、紅姫の表情が暗く沈んだ。吉原という言葉に反応したようだった。

 紅姫にとって吉原にはいい思い出はないだろう。確かに、かつて商品として売られていた籠を目の当たりにするのは気分のいいものではない。


「吉原には帰りたくない?」


「いや、我儘を言うつもりはない。わっちの故郷は吉原だ。藍姫さまがいなければ、わっちはここにいられなかった。己と恩人の故郷を嫌悪するべきではない。それで? 味方とは誰のことだ?」


「ジャパニーズ・ヤクザ――サムライだ。敵とは無縁な勢力といえば、サムライしかいない。ギャングはイタリアン・マフィアと友好関係があるし、他の犯罪シンジケートは信用できない。サムライは遊郭と繋がりがある。いわば遊郭の用心棒だ。吉原の支配者だった君の話には耳を傾けてくれるのではないかな」


「なるほど。だが、わっちに説得できるだろうか?」


「それはわからない。まあ、説得に失敗したら私一人でチャイニーズ・マフィアと取引するさ。君を危険な目に遭わせたくない」


 もしかしたら、この時が別れになるかもしれない。恐らく私一人ならチャイニーズ・マフィアは殺しにかかってくるだろう。もしそうなればブルーとの約束は果たせないが、ルージュを守ることはできる。

 真実の口に手を入れようとすると、トレンチコートの袖をぐいと引っ張られた。紅姫が差し出したのはナイフだった。


「お主にはこれが必要だろう? 日本刀が折れた時は冷や冷やしたぞ」


「ありがとう。これは役に立ったかい?」


「しつこく食事に誘ってきたイタリア人をこれで脅してやった。ふふふっ、脱兎のごとく逃げていったぞ」


「はははっ、それはよかった」


 龍凜はナイフを懐にしまい、真実の口に手を入れた。

 視界が暗転する。閉塞感が不安を煽る。が、それも束の間、何かがのしかかってきてそれどころではなくなる。


「ひゃあっ、何かが尻の下にっ! 動いているっ! きゃあああああっ!」


「ルージュ、私だよ。シカゴからテレポーテーションしてきた時も同じような反応をしていたよね? ちょっと、暴れないでくれるかな。痛いよ」


「おっ、おいっ、胸に触るなっ! 殺すぞっ!」


 もみくちゃになりながらもごみ箱から這いずり出した二人。龍凜はビンタされた頬をさすり、紅姫ははだけた胸元を両腕で覆い隠した。


「胸に触ったのはわざとではあるまいなっ? もしそうなら殺すっ!」


「誤解だよ。ルージュが暴れるからたまたま手が当たっただけだって」


「むぅ、それならいいが……いや、よくはないが! 吉原のテレポーターはいささか狭すぎる。人工のテレポーターを建築した方がいいのではないか?」


「そうだね。吉原にテレポーテーションするたびにビンタされるのはごめんだからね。まあ、贅沢は言えないよ。人工のテレポーターはケーブルで時代を接続しないといけないから、テレポーテーションに時間がかかる。おまけに、テレポーテーションできるのもケーブルで接続した時代に限られてしまう。『デウス・エクス・マキナ』が創造したテレポーターの方がよっぽど便利だ」


「へぇ、そうなのか。それにしても、なんだか騒がしいな。何かあったのだろうか?」


「遊郭の方からだね。喧嘩かな?」


 通りに出ると、遊郭の方から黒い煙が上がっていることがわかった。どうやら火事らしい。龍凜と紅姫は足早に遊郭を目指した。

 ただの火事にしては様子がおかしい。住民は何かに怯えるようにして遊郭とは反対の方向に逃げている。遊郭に近付くごとに人気がなくなっていく。

 すると、紅姫があっと声を上げた。遊郭の前の地面には、胸部の中心に弾痕のあるサムライの死体が転がっていた。それも、一つや二つではない。いくつもの死体で巨大な血だまりができていた。


「ただごとではないな。喧嘩どころの騒ぎではなさそうだ」


 遊郭から火事が発生しており、隣の長屋にも火が燃え移っていた。遊郭は既に燃え尽きて、炭化した柱や骨組みが辛うじて残っている状態であった。

 血だまりの中心で遊郭の残火を眺めている窈窕たる金髪の美人。紫のドレス、大きな白い帽子、黒のハイヒール。美脚を艶美に引き立てるのは、ストッキングとガーターベルト。右目には眼帯をつけている。

 彼女とは面識があった。彼女は龍凜に気付き、恍惚とした表情を浮かべた。


「クイーン・ハート」


「ダーリン!」


 殺人株式会社も動き出していたか。やはりイタリアン・マフィアのメンバーであるドラグノフ・ルチアーノから情報を伝えられていたらしい。

 クイーン・ハート――クイーン・オブ・リボルバー、クレイジー・クイーンの異名を持つ殺人株式会社のメンバー。

 クイーンとは十年前から九龍城砦で戦っている。クイーン・オブ・リボルバーの異名の通り、イギリスのエンフィールド社のエンフィールド・リボルバーを愛用している。そういえば、彼女の弾丸を受けて一度死にかけたことがある。


「ダーリン、待っていたわ。感動の再会を祝いましょう、花火は終わってしまったのだけれど。もう、ダーリンが遅いからよ」


「放火の犯人はあなたか、クイーン。この死体の山はどういうことかな?」


「せっかくの花火を消そうとしたのだもの、心臓を撃ち抜いて殺してやったわ。でも、よくご覧になって。血液が赤い絨毯みたいで綺麗でしょう? ふふふっ、ワルツを踊りたくならない?」


「私は踊れないよ」


「私が手取り足取り丁寧に教えてあげるわ。たまには二人で共同作業をしてみるのも悪くないと思わない? 部下は帰したわ、これで二人きり……とはいかないようね。あなたがダーリンを誘惑したあばずれね?」


 クイーンの問いに、紅姫は眼光炯々とした。


「わっちのことか? わっちはドラゴンを誘惑していないし、あばずれでもない。お主はドラゴンとどういう関係なのだ?」


「特別な関係よ。つかぬことを尋ねるけど、ドラゴンってダーリンのことかしら? っていうか、絶対そうよね?」


「お主の言うダーリンが王龍凜のことならな」


「ふん、澄ましちゃって。では、一応確認しておくけど、あなたはダーリンとどういう関係なのかしら?」


「えっ? わっちとドラゴンの関係……」


 つい先ほどまでとはまるで別人のようにかっと赤くなる紅姫。頬に両手を当ててしばらく悶えた。動揺を隠そうとしているようだが、その仕草が動揺そのものだった。


「おっ、お主に関係を確認される筋合いはないっ!」


 クイーンはいら立ちに舌打ちをした。


「ちっ、その動揺が答えのようなものだわ。ああ、腹立たしい! ダーリン、どうして浮気するのよ! 私は十年もの間この時を待ち続けてきたのに! 意地悪はもうやめて! 私はこんなにもあなたのことを愛しているのよ!」


「あなたの恋人になった覚えはないのだが。あなたはずっと敵だったし、話をするのもこれが初めてだよね? 殺されかけたこともあるし、狂っているという噂もある。あなたには悪い印象しかない」


「ひどいー! ダーリン、私のことが嫌いなんだ?」


「どちらかといえば」


「ひどいっ! 待って、ダーリンは誤解しているわ。殺そうとしているのは愛しているがゆえよ。私とダーリンは殺し合うことこそが愛し合うことなのよ。私は狂ってなんかいないわ」


 殺し合うことこそが愛し合うこと――これが真実の愛だというのか? いや、それはないだろう。やはりクイーンは狂っている。噂では何度も死にかけているらしい。常人どころか超人でさえ死んでもおかしくないような負傷をしても五体満足で生きている。彼女の視界には私たちとは異なる何かが映っているのかもしれない。

 龍凜が煙草を吸おうとすると、クイーンは血だまりの血液がドレスに飛び散るのも気にかけずに迫ってきた。思わず懐の中でナイフの刃を展開するが、彼女は丸腰のようだった。


「ダーリンの煙草に火をつけてあげたかった! ああ、やっとこの夢が叶うのね!」


 クイーンは豊かな胸の谷間からガスライターを取り出した。

 ガスライターには既視感のあるドラゴンが刻印されている。どうやって知り得たのか、龍凜のガスライターとお揃いだ。

 龍凜はぞっとしながらも煙草に火をつけてもらった。

 クイーンは満足そうに破顔した。晴れやかな笑顔だが、それはどこか歪んでいて純粋ではなかった。


「どうして同じガスライターを持っているのかな? もしかして、あなたはストーカーなのかな?」


「人聞きの悪いことを言うわね。私、視力がいいのよ。ダーリンが戦闘中に余裕をかまして煙草を吸っているのを見逃すわけがないでしょう? 強者の余裕には見惚れてしまうわ」


「別に余裕をかましていたつもりはないが……いくらなんでも視力がよすぎないか? 私はあなたに接近を許したことはない。リボルバーで撃たれた時も距離があったし、戦闘する時は常に遮蔽物があった」


「だって、あなたをずっと見つめ続けていたから。一時たりともあなたから目を離したくなかった。あなたをこの瞳に永遠に映していたい。あなたを殺したら死体をホルマリン漬けにして保存してあげる」


 クイーンが帽子を脱ぐ。ほのかな香水の匂いがふわりと漂う。柔らかな感触が頬に押し当てられる。

 さすがの龍凜もどきりとした。年上の美人のキスにはたじろがざるを得なかった。

 紅姫はあからさまに慌てて龍凜の肩を何度もたたいた。


「おいっ、キスされたなっ! お主っ、キスされたなっ!」


「ふふふっ、年上のお姉さんにキスされたのだから当然の反応よねぇ? さすがのダーリンもこれで私の虜ね。ねぇー、ダーリン?」


「ふっ、ふざけるなっ! 年増にキスされてもいい迷惑だっ!」


「はぁ? 年増ですって? まだ二十八歳だし! ダーリンより三つ年上なだけだし! 調子に乗るのもいい加減になさい、このあばずれが! あなたみたいな貧乳にキスされても嬉しくないわ!」


「ひ、貧乳、だと……? お主はわっちの逆鱗に触れたっ! この年増めっ、殺すぅっ! 殺してやるぅっ!」


 龍凜は拳を振り上げて詰め寄ろうとする紅姫を羽交い絞めにした。クイーンは愉快そうに笑い、両腕を組んでその上に胸を載せた。


「まあ、はしたない。この貧乳はもっとお淑やかにできないのかしら? ああ、貧乳には無理なのかもしれないわねぇ」


「くぅっ……! ドラゴン、離せっ! この年増の胸を引きちぎってやるっ!」


「それはさすがに怖いから。ルージュ、落ち着いて」


「ああ、野蛮な貧乳から私を守ってくれるダーリンも素敵! ねぇ、ダーリンも貧乳より巨乳の方がいいわよね?」


「ドラゴンはわっちを愛していると言ったのだ! こんなでか乳よりもわっちの方がいいだろう?」


「さ、さあ」


 龍凜は肩を竦ませてふっと息を吐いた。

 女の喧嘩というのはここまで醜いものなのか。やれやれ、付き合わされる私の身にもなってほしいな。

 ようやく紅姫の怒りが幾分か落ち着き、龍凜は彼女を羽交い絞めから解放した。

 紅姫は荒げた呼吸を整えつつ、鼻を鳴らしたクイーンをきっと睨みつけた。


「お主とドラゴンの関係が把握できてきたぞ。いや、ドラゴンはお主から一方的な関係を押しつけられているらしい。お主はストーカー気質のあるただの変態だ」


 すると、クイーンの碧眼が暗闇に潜む獣の双眸のごとく爛々と光った。


「はぁ? あなたに何がわかるというのよ? では、あなたとダーリンが出会ってどれくらい経つのかしら?」


「……三日だ」


「三日? たった三日? はっ、笑わせないでくれる? 私とダーリンは出会ってから十年が経つのよ。にわかのあなたに私たちの関係がわかるはずない!」


「……だそうだが、ドラゴンはどうだ?」


「私たちの関係は一言で片付けられる。敵同士だ」


 クイーンはうなだれた。


「もう、ダーリンってば、空気を読みなさいよー。ここは無言で頷くシリアスなところでしょうよー」


「だから、あなたとはそういう関係ではない。私を殺すつもりなのだろう?」


「一方的に殺すつもりはないわ。それは愛ではないもの。私はダーリンと愛し合いたいのよ」


「私の邪魔をしていることに変わりはない。私の邪魔をする者は誰であろうと殺す。たとえ子供でも女でもね」


 クイーンは口角を上げて、薄紅色の唇をぺろりと舐めた。


「素敵……いいわ、ダーリン! 素敵な瞳よ! 私は殺意でぎらつく金色の瞳に一目惚れしたのよ! もっと殺意で瞳を輝かせて!」


 殺意――九龍城砦での生活で龍凜と共に成長した感情だ。殺意はどんどん肥大化して他の感情を押し潰した。十年前、ついに殺意は破裂し、己を苦しめてきた全てを破壊した。殺意のビッグバンで他の感情が入り込む余地は生まれたが、やはり殺意は胸中に根付いていた。

 人間を殺すのに感情はいらない。殺意もいらない。ただ無心で殺せばいい。感情は後から追いついてくる。殺した後で感慨に耽ればいい。

 クイーンの瞳に殺意が宿ったため、龍凜はナイフを逆手に構えた。


「ルージュは隠れて。さすがにこんな開けた通りで君を守りながら戦うのはきつい」


「わかった。ドラゴン、死ぬな」


 アタッシュケースを受け取った紅姫は、そう言い残して長屋の後ろに隠れた。


「さて、これで邪魔者もいなくなったことだし、殺し合いもとい愛し合いましょうか。ずっと二人きりで戦いたかった。私だけを見つめてほしかった。ダーリン、私に殺される時は愛していると言って。それから、濃厚なキスをして。私を殺す時はきちんととどめを刺して。それから、濃厚なキスをして」


「いずれにせよキスしなければならないのか。まあ、拒否しても殺される時は強引にされるのだろうね」


「ええ。それはもう思う存分するわ。ダーリンが窒息死するまでするわ」


 クイーンは太もものホルスターからエンフィールド・リボルバーを引き抜いた。一瞬、ドレスのスリットからちらりと黒のショーツが覗いた。

 遊郭の残骸が崩れ落ちる。その瞬間、銃声が鳴り響く。

 反射的に上半身を後方に反らすと、ちょうど心臓があった空中を弾丸が過ぎ去った。

 正確な狙いだ。トリガーを引く瞬間も捉えられなかった。さすがはクイーン・オブ・リボルバーだ。


「あと五発。ねぇ、ダーリン、ゲームをしましょう。残り五発の弾丸であなたを殺せなければ、そのナイフで私を殺していいわ。『タイタニック』の例のシーンみたいに両腕を広げて、心臓が鼓動を止めるまでキスをする」


「五発も避けられる自信はないな。動く的を撃つのと同じだ。あなたなら五発撃ち尽くすまでもなく一発で仕留められるだろう」


「あははっ、そんなつまらないことはしないわ。私、サディストですもの。最後の一発で仕留めた方がゲームをよりスリリングに楽しめるわ」


 右肩を引くと、弾丸が胸部を掠める。クイーンは最後の一発で仕留めるとは言ったが、龍凜が避けなければ弾丸は心臓に穴を開けるだろう。

 龍凜は慎重に前進しながら弾丸を躱した。もう一発の弾丸はナイフで軌道を逸らした。

 これであと二発。私の心臓が弾丸で撃ち抜かれるのが先か、クイーンの心臓をナイフで貫くのが先か。

 胸部の中心の手前で弾丸を弾く。最後の一発で何か仕掛けてくるだろうが、弾道をしっかり見極めれば切り抜けられないことはない。

 龍凜の動体視力は支配者の能力の一つだ。九龍城砦の支配者の能力は戦闘能力だが、動体視力も戦闘能力のうちに含まれている。


「さあ、これで最後の一発よ。この一発でどちらかが死ぬ。ねぇ、興奮してこない? ああ、またショーツが大変なことに!」


「本当に困ったレディーだな」


「ダーリン、私の愛を受け止めて!」


 クイーンがエンフィールド・リボルバーを横に振り抜き、最後の弾丸が撃ち出される。弾道は曲線を描き、龍凜の心臓を貫かんとする。弾道の予測がつかない。心臓を狙っているのは明らかだが、変則的な角度が判断を鈍らせる。

 クイーン・オブ・リボルバーの弾丸だ、無傷で済むはずがないのはわかっていた。左腕はくれてやる。

 弾道を心臓から逸らすようにして、龍凜は思い切り体勢を倒した。

 最後の弾丸は左腕にヒットした。左手のナイフはなんとか保ったままだったが、もう力は入らなかった。


「ああ、ダーリン、このゲームはあなたの勝ちよ! 私を殺して! 濃厚なキスをして!」


 クイーンは鳥のごとく両腕を大きく広げた。

 だが、クイーンの左手にはいつの間にかダガーが握られている。これは罠だ。

 龍凜は振り下ろされた左腕を右手で掴み、鳩尾に膝蹴りを食らわせた。柔らかな感触が膝に触れたが、そんなことはどうでもよかった。ダガーを取り落としてくずおれるクイーンを見届けることもなく、龍凜は踵を返した。


「ルージュ、ひとまず逃げよう」


「とどめは刺さなくてもいいのか?」


「最初から逃げられたらそれでよかったのさ。敵を一人殺したくらいでは解決にならない。この金をチャイニーズ・マフィアに返すのが先決だ」


 龍凜と紅姫はどちらからともなく手を繋いでテレポーターへと急いだ。

 もはやクイーンにはシリンダーに一発の弾丸を込めることさえできなかった。ダガーを投擲することさえできなかった。意識が朦朧として、激しい吐き気と共に悲しみと怒りが込み上げてきた。

 クイーンは手を繋いだ二人が路地裏に消えるのをぼんやりと眺めていた。一人になると、彼女は嘔吐した。


「ダーリン、どうして……どうして殺してくれなかったのよ……私はもう抵抗することができないのに……どうしてとどめを刺さなかったのよ……まさか慈悲をかけられた……? 嘘……嘘よ! ダーリンは慈悲をかけたりしない! 邪魔する者は誰であろうと殺す、とダーリンは言った! では、どういうこと? 私には殺す価値もないということ? 嘘……嘘……嘘……でも、ダーリンは私を殺さなかったし、私に殺されてくれなかった……ダーリンは私を愛していない……? いやあああああっ! 嘘よっ! 信じないっ! 受け入れないっ! 私とダーリンは相思相愛なのよっ! 貧乳のあばずれには絶対にダーリンを渡さないっ! ダーリンを殺した後でじっくり拷問してやるわっ!」


 クイーンは泣きじゃくりながら嗚咽と嘔吐感を押し殺した。嫉妬にも似た感情が彼女を殺戮へと駆り立てた。

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