第三章 殺戮の王と狂気の女王
殺戮の王と狂気の女王1
イタリア、ローマ。
龍凜は赤く腫れた瞼に噴水の水をかけた。
「ルージュ、体調がすぐれないようだね。やはり二日酔いかな。まあ、酒に弱いのに四杯も飲んだらこうなるよ」
「うぅ、すまない……吐き気がひどいのだ……」
紅姫は噴水の水を飲んではせり上がってくる嘔吐感をこらえた。背中をさすってやると、少しは落ち着いたようだった。
さすがにイタリアでは着物が目立つため、ひとまず紅姫には赤のワンピースに着替えてもらった。赤漆の下駄はそのままでいいことにしたが、装飾品で結った髪も解いてもらった。
黒髪は地面に引きずるくらい長かった。かんざしで結っても膝の辺りにまで達していた。あまりの艶やかさに見惚れて髪を撫でていると、肩を思い切りたたかれた。
「温かいスープでも飲む?」
「いや、遠慮しておく……胃の中に入れてもどうせ吐き出してしまう……」
「コロッセオで吐くのは勘弁してほしいな。目立たれると困る。ここはイタリアだ。シチリアを拠点にしているとはいえ、ローマにイタリアン・マフィアがいないとは断定できない」
「そうだな……すまないが、肩を貸してくれ……」
「いいよ。それとも、またお姫様抱っこをしてあげようか?」
「馬鹿……それはそうと、昨夜のことで礼を言っておかなければな。お主にお姫様抱っこをされて電車に乗ったところまではぼんやりと記憶があるのだが、それからは何も覚えていない。ビジネスホテルまで運んでくれた上、ベッドで眠らせてくれたのだな。ありがとう」
「どういたしまして」
龍凜はビジネスホテルの自動販売機で購入しておいた煙草を咥えた。煙草の箱を差し出すと、紅姫は慣れない手つきで一本取り出した。煙管でよく喫煙しているようだったが、どうやら煙草は初めてのようだ。ガスライターで火をつけると、彼女はごほごほと咳き込んだ。
「ところで、コロッセオで優勝できる自信はあるのか? ひょろいお主が優勝できるとは到底思えないのだが」
「戦闘は私の得意分野だよ。それに、武器は拳だけではない。銃や爆発物の使用は禁止だが、コロッセオでレンタルしている武器の使用は認められている。殺人のプロである殺人株式会社とも戦っているし、恐らく優勝できると思うよ」
「もし負けたら?」
「死あるのみ。コロッセオではどちらかの息の根が止まって勝負が決まる」
「野蛮だな。まあ、そうでもないと多額の賞金はもらえないか」
「さて、私は受付でエントリーしてくるよ。ルージュは観客席で大人しくしているんだよ。くれぐれも吐かないようにね」
「むぅ、わかっている」
子供のようにあしらうな、とでも言いたげな表情だが、昨夜のこともあってかきまりが悪そうだった。
筋骨隆々とした半裸の男たちがコロッセオに集合しつつある。もうすぐ年に一度の最強を決定する試合が開催される。
最強の称号なんか興味ない。ただ金さえ手に入ればいい。盗んだ金を返してチャイニーズ・マフィアと和解し、九龍城砦の平和を実現する。私はブルーとの約束を果たすことができさえすればいいのだ。それ以外のことはどうでもいい。
ルージュの華奢な背中がひどく物悲しそうに見えた。気がつくと、龍凜は彼女を呼び止めていた。
「一応、護身のために持っておくといい。コロッセオの観客席は血の気が多くて安全ではないからね」
「あ、ありがとう」
ナイフを受け取った紅姫は、さっさとコロッセオの観客席を目指して駆けていってしまった。
煙草の火がまだついていることを忘れて、龍凜は噴水の水を顔面にかけた。
重苦しい罪悪感が心の中に雪のように降り積もっていく。塵も積もれば山となる――この罪悪感はいずれ闇となるだろう。
私は私がわからない。何故ルージュのことを心配している? ルージュはブルーではない。ルージュが死んだとしても、私は何も感じないはずだ。それなのに、どうしてルージュの思考ばかりが脳内を埋め尽くしている? 私はブルーを愛さなければならないのに。
龍凜は混乱していた。己の内心で発生する現象が理解できなかった。
生まれた瞬間から奴隷のように扱われてきた龍凜には、正常な感情の発現がなかった。先天的な感情は殺された。後天的な感情は母の歪んだ愛によって捻じ曲がった。感情が欠如したまま成長した結果、王龍凜という不完全な人間になった。奴隷から人間へと生まれ変わったが、機械仕掛けの神のちょっかいに翻弄される奴隷であることは変わらなかった。
もう一度冷たい水を顔面にかけると、顔面の感覚がなくなって手がかじかんだ。龍凜は五指の水滴を振り払い、両手をスラックスのポケットに突っ込んだ。
受付には長蛇の列ができていたが、特に質問されることもなくさくさく進行していく。ほとんどが古参なのだろう。つまり、この試合の参加者は猛者ばかりということだ。コロッセオで戦って死んでいないのは負けたことがないからだ。
「試合にエントリーしたいのだが」
「見覚えがないな。初めてのエントリーか?」
「そうさ」
「珍しいな。命が惜しければこんな試合にはエントリーしないだろうに。お前にも何か事情があるみたいだな」
「まあね。それで? エントリーできるのかな?」
「できるが、新人にはテストを受けてもらう。テストは試合前のショーとして公開される」
「へぇ、どんなテスト?」
「獣と戦ってもらう。ちなみに、試合はトーナメント形式で、もし倒すことができたらシードの権利を獲得することができる」
「なるほど。獣も倒せないようでは優勝どころか誰も倒せないということか」
「そういうことだ。しかし、お前も運が悪いな。新人がエントリーすることは想定されていなかったから、古参のための獣が用意されているのだ。ただの獣ではショーが盛り上がらないからな。お前、エントリーしたら死ぬぞ」
「はははっ、それは楽しみだ」
「……まあ、いい。名前を登録しておこう。本名でも偽名でも構わないぞ」
「ドラゴンだ」
エントリーが済むと、地下の倉庫へと通された。倉庫には多種多様な武器や防具が陳列されていた。どの武器や防具にも乾燥した血液が付着しており、倉庫の中は血生臭かった。倉庫には死がこびりついていた。
「ここの武器や防具なら自由に装備してもいい。鎧で全身を固めておくことをおすすめするぜ。お前の細腕では扱える武器も限られてくるな」
「お気遣いどうも。だが、自由に選ばせてもらう」
私は刃物の扱いに長けている。ナイフでもいいが、近接の武器を装備した相手には少々リーチが短すぎる。そうだな、私にぴったりの武器といえばこれか。
龍凜が手に取ったのは日本刀だった。
切っ先は鋭利、刀身は頑丈。近接の殺傷能力においては随一の武器だ。
防具はいらない。他の参加者と比べて腕力が劣るため、動きやすさを重視しなければならない。だが、正体を隠す必要がある。もしコロッセオの観客席に敵が紛れ込んでいたらいい的になってしまう。そうだな、視界を遮らないものがいい。
龍凜は半面のガスマスクを装着した。呼吸の邪魔になるため、キャニスターは外した。
「おいおい、一撃でももらったら死ぬぜ? まさか自殺するつもりか?」
「こんなところでは死ねないよ。私には果たさなければならない約束がある」
龍凜はネクタイを緩めた。
私はブルーのために戦っている。これまでも、これからも。たとえブルーがいなくても私は戦い続ける。戦いが終わったら、ルージュとは別れよう。さよならを告げよう。ルージュの居場所を作ったら、今度は私一人の居場所を作る。私とブルーの居場所は九龍城砦になるはずだった。私一人の居場所は別のどこかにある。
朽ちかけた木製のエレベーターに乗り、ゆっくりと心許なく上昇していく。漆黒の青年がコロッセオに現れると、観客席から盛大な歓声が上がる。
龍凜は日本刀を佩き緒で帯刀し、親指で鯉口を切った。
地下の檻から獣の咆哮が反響する。地震のごとき足音が近付いてくる。コロッセオに獣の巨躯が現れる。
思わず苦笑がこぼれた。
「これがテストか」
獅子の頭部と前脚、山羊の胴体、蛇の尻尾。ギリシャ神話のキメラだ。
だが、胴体には人間の女の上半身がそそり立っている。生えているのか、縫い合わされているのか。一糸纏わぬ裸体は石膏像のようだ。
このキメラはギリシャから輸入している。
ギリシャではギリシャ神話を時代として発生させており、ゼウスを自称する支配者が支配権を有している。ギリシャは抽象を具現化した神の国であり、人間の立ち入りは禁止されている。
ただし、ギリシャの神はもはや崇拝されていない。時代恐慌によって宗教は破綻しており、『デウス・エクス・マキナ』がユビキタス・ネットワークを通じて宗教を一掃している。この世界にまだ宗教が存在しているとしたら、それは『デウス・エクス・マキナ』を世界の神として信仰するものだ。
『デウス・エクス・マキナ』はろくでもない神だ、と龍凜は思っている。『デウス・エクス・マキナ』は世界の全てを掌握している。世界の運命はシステム化されている。
『デウス・エクス・マキナ』はブルーを殺した。私の人生もブルーの人生も、運命の歯車で既に定められていた。私がこのコロッセオでキメラと対峙しているのも、殺されるために輸入されたキメラも、運命の悪戯によって定められていた。運命とはなんて理不尽なのだろう。果たして運命を変えることはできるのだろうか。
龍凜はガスマスクの隙間から煙草を唇で挟み、その先端を蒼炎で焦がした。
獅子がコロッセオに雄叫びを轟かせる。山羊は後ろ脚の蹄で地面を鳴らす。蛇は裂けた口をちぎれんばかりに開いて威嚇する。女は見せびらかすかのように胸を隠そうともせず柔和に微笑む。
キメラが地面を踏みしめて駆け出した。瞬間、日本刀の柄と鞘に手をかけながら、龍凜は脳内で思考を素早く回転させた。
キメラを構成する生物は四体。獅子、山羊、蛇、人間。この中から本体を見出して効率的かつ確実に仕留めなければならない。
疾走する巨体が襲い来る前に、尻尾の蛇が目にも留まらぬ速度で噛みつこうとしてきた。龍凜は居合い斬りで頭部を切断し、日本刀を中段に構えた。
当然ながら蛇は本体ではない。蛇は奇襲のための囮だ。山羊が本体ということもあるまい。獅子か人間、本体はどちらかだ。
やはり蛇は囮だった。間合いに入ってきたキメラは獅子の牙で肉をかっさらおうとした。上顎と下顎が噛み合わされるが、龍凜は獅子の喉を切り裂いて飛び下がった。さらに間髪入れず前脚を切断し、キメラは前のめりに倒れた。
獅子が本体だったか。いや、待てよ。
女が髪を振り乱しながら苦悶の叫びを上げる。蛇が鞭のように地面をたたき、獅子が血液を吐きながら唸る。切断したはずの蛇の頭部と獅子の前脚が少しずつ再生されていく。
人間が本体か。なるほど、人間が生きている限り他の生物は何度でも再生できるということだ。仕組みがわかればこちらのものだ、すぐに仕留めてやる。
蛇の頭部と獅子の前脚が再生されるよりも圧倒的に速い判断で、龍凜は獅子の頭部を蹴って跳躍した。そして、すれ違いざまに日本刀を横に薙ぎ払った。
ごとりと落下する女の頭部。コロッセオに降り注ぐ赤い雨。
キメラは無慈悲にも瞬殺された。
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