スカーレット・レディー5

 歌舞伎町のとあるバー。

 初めて歌舞伎町に足を踏み入れる紅姫は、挙動不審になってきょろきょろしている。

 遊郭という籠の中から羽ばたいた紅姫にとって世界は初めてばかりだが、彼女がそわそわしているのは別の理由からだった。


「なあ、ドラゴン、ここは安全なのか?」


「安全とは断言できないね。まあ、私のそばにいれば安全だよ」


 紅姫の不安は、歌舞伎町の治安の悪さであった。

 歌舞伎町の時代は退行しており、暴力と風俗がはびこっている。テレポーターの普及によって大量の外国人が雪崩込んできたこともあり、日常的に犯罪が発生している。

 このバーに到着するまでに何悶着あったことか。柄の悪い男に絡まれたり、泥酔した男に殴られかけたり、遊女を侍らせていると揶揄されたりした。


「マスター、キャロルとスカーレット・レディーをいただこう」


 スカーレット・レディーは紅姫のためのカクテルだ。彼女は博学多識だが、カクテルについては無知だ。

 ホワイト・ラム、カンパリ、マンダリン・リキュール、レモンジュース、マラスキーノ・リキュールを二ティースプーン、装飾はオレンジの果皮。スカーレット・レディーはその名の通り赤色のカクテルだ。


「ルージュ、スカーレット・レディーは君にぴったりのカクテルだよ」


「カクテルには少し抵抗がある。わっちは日本酒しか飲んだことがないのでな。それに、酒には弱いのだ」


「確かに、シカゴ・シアターでもオレンジ・ブロッサムを飲もうとしなかったね。まあ、飲んでみてよ、一口でもいいからさ」


「わかった」


 蓄音機にかけられたレコードは、チェット・ベイカーの『アイ・フォール・イン・ラブ・トゥー・イージリー』。脆くて儚い歌声が、鼓膜に優しく浸透する。


「どこにいてもジャズが耳につくな」


「ジャズは嫌い?」


「いや、好きだ。ジャズはセンチメンタルな気持ちにさせてくれる。わっちもチェット・ベイカーの『オールモスト・ブルー』には感動した。ドラゴンはチェット・ベイカーのファンなのだったな」


「うん。チェット・ベイカーはドラッグに耽溺していたが、見事に復活を果たした。五十八歳の時、オランダのアムステルダムでホテルの窓から転落して亡くなった。トランペットの音色と甘い歌声はずっと変わらなかったが、私には彼が一曲一曲のために命を削っていたように思えてならない。だって、彼の曲には命が吹き込まれているから」


「面白い。命を賭けたら命が減るのか?」


 龍凜は首を左右に振った。


「命を賭けても命が減っているかどうかなんてわからない。命の灯火がいつ消えるのかなんて誰にも推測できない」


 すると、紅姫は申しわけなさそうに俯き加減になった。


「お主には謝っておかなければな。藍姫さまを亡くしたお主のことを考えもせずに平手打ちを食らわせてしまった。本当にすまなかった」


「いや、いいんだ。君は私がブルーを見捨てたと勘違いしていたのだから。あながち間違っていなかったしね。結果的に私はブルーを見捨ててしまった」


 病床に伏した藍姫は、天井を見上げながら見捨てられたと嘆いたことだろう。もしかしたら、憎悪されていたかもしれない。

 しかし、紅姫はぶんぶん首を振って否定した。


「お主は藍姫さまを見捨てていない。藍姫さまもお主を恨んでいない。もしそうだったら、かんざしを遺したりはしない」


 紫陽花のかんざしを指先でなぞる。青の化身の美貌がはっきりと脳内で蘇る。


「ありがとう、ルージュ。嘘でもそう言ってもらえると救われるよ」


「嘘ではない。わっちはお主と藍姫さまに感謝しているのだ。お主はわっちを籠の中から解き放ってくれた。わっちを自由にしてくれた。こう言ってしまうのは不謹慎かもしれないが、藍姫さまの死がなかったらわっちが身請けされることはなかった。藍姫さまもお主を愛していたのだろうな」


「藍姫さまも? ということは、ルージュも私のことを愛してくれているんだ?」


「はっ、はぁっ?」


「よかった。いつまでもそっけないからてっきり嫌われているのかと思った。ルージュ、私も愛しているよ」


 龍凜はそう言って笑顔を咲かせた。


「ばっ、馬鹿っ! そういうことをこんなところで言うなっ! 恥ずかしいわっ!」


 ちょうどカウンターの上に二つのグラスが置かれる。注文したキャロルとスカーレット・レディーだ。

 紅姫は羞恥を紛らわせるようにスカーレット・レディーを一息にぐいと飲み干した。

 ルージュはシャイな性格みたいだ。無口で不愛想なのが羞恥ゆえだとしたら合点がいく。私やイタリアン・マフィアやギャングに遠慮なく手を出していたから内気ということはないだろうが、たまに遊女らしからぬうぶな反応をすることがあった。もしかして、男に免疫がないのだろうか。

 紅姫はばつが悪そうに真っ赤な顔をそっぽに向け、不自然な大声でスカーレット・レディーのお代わりを注文した。


「スカーレット・レディーが口に合ったみたいだね」


「ま、まあな。見くびっていたが、なかなか美味しかった」


「ふふふっ、それはよかった」


「おい、何故にやにやしているっ?」


 相変わらず手加減なく肩をたたかれる。脱臼するのではないかというくらいの威力だ。


「痛いなぁ。いや、ルージュは男に免疫がないのかな、と思って」


「はっ、はぁっ? なっ、何故そんなことを尋ねるっ?」


「だって、からかった時のルージュの反応があまりにも可愛いからさ」


「かっ、可愛いとか言うなっ! くぅっ、勘が鋭いな……仕方がない、打ち明けよう。わっちは処女だ」


 龍凜は驚愕したが、同時に納得がいった。

 紅姫はお代わりのスカーレット・レディーも一気に飲んだ。


「遊郭の客は金持ちばかりだ。金持ちというのは絵に描いたような醜悪な人間ばかりでな。身体が目当ての客は瞳を見ればすぐにわかる。そういう客をふり続けているうちにお主に身請けされたというわけだ」


「遊郭の利益は大丈夫だったのかい?」


「藍姫さまのおかげで高尾太夫はブランドとなっているからな。わっちが客をふりまくったところで遊郭の利益が低迷することはなかった」


 紅姫はさらにスカーレット・レディーのお代わりを注文した。

 ほんのりと頬が上気している。早くも酔いが回ってきたようだ。重要なことは今のうちに話しておいた方がいいかもしれない。

 三杯目のスカーレット・レディーに取りかかった紅姫を横目に、龍凜は『アイ・フォール・イン・ラブ・トゥー・イージリー』を耳にしながらキャロルを口に含んだ。


「さて、これからのことについて話そうか」


「今夜のことか?」


「いや、これからの私たちの人生についてさ。九龍城砦からチャイニーズ・マフィアが撤退したとはいえ、脅威はまだ残っている。敵とのわだかまりを解消しなければ平和な居場所は作れない」


「今夜のことも決めておいた方がよいのではないかー? わっちは眠たくなってきた」


 まずい。予想以上に酔いの回りが早い。このままでは話にならない。

 紅姫がスカーレット・レディーのグラスを仰ごうとしたので、龍凜はそれを制止した。


「ルージュ、もう飲むのはやめておいた方がいい。二日酔いになってしまう」


「お主が飲めと言ったのだぞー」


 紅姫は制止を振り切ってスカーレット・レディーを呷った。龍凜は額に手を当てて溜め息を吐いた。


「はぁ、やってくれるな……とりあえず、明日の予定を話しておくからね。明日はイタリアのローマにあるコロッセオに赴くつもりだ」


「コロッセオ?」


「円形闘技場さ。時代の発生でローマの帝政が復活、現在ではイタリアから透明な壁で隔離された一つの国となっている。例えるなら、バチカンだ」


 時代恐慌の勃発により、国境の移動で必須だったパスポートは廃止された。テレポーターでテレポーテーションしてしまえば、パスポートの価値は皆無だ。

 時代恐慌は、犯罪者にとっては救済だ。テレポーテーションで逃亡も簡単な上、無政府状態の時代に移住すれば存在をカモフラージュできる。


「コロッセオでは毎日のように殺戮が行われている。だが、明日は年に一度の最強を決定する試合が開催される。優勝したら多額の賞金を獲得できる」


「その金で何をするのだ?」


「ブルーを身請けするためにチャイニーズ・マフィアから盗んだ金を返す。チャイニーズ・マフィアと話をつけることで、イタリアン・マフィアと殺人株式会社からも手を引かせる」


「なるほど。敵との抗争を終結させる根本的な解決はそれしかないだろうな。イタリアン・マフィアと殺人株式会社はチャイニーズ・マフィアの依頼で動いているわけだから、チャイニーズ・マフィアとの取引を成功させるしかない」


 紅姫がグラスを傾けて底に残った赤色の液体を舌で舐め取る。舌が婀娜にうねる。


「ただし、一つ大きな問題がある。チャイニーズ・マフィアは九龍城砦の支配権の返還も望んでいる。仮に金を返したとしても、支配権を取り戻すために私を殺そうとするかもしれない。だが、私は支配権を返すつもりはない。きっとチャイニーズ・マフィアは支配権で九龍城砦を再び犯罪の巣窟に変える。もしそうなったら、私とブルーの全てが無駄になってしまう。本当にブルーを見捨てたことになってしまう」


 私は戦い、ブルーは待った。ブルーが死んだからといって、約束を放棄していい理由にはならない。必ず約束を果たしてみせる。九龍城砦の時代を修正して平和な居場所にしてみせる。

 龍凜は拳を固く握りしめた。


「命を賭けてみるしかないね」


「寿命が縮むぞ」


「はははっ、チャイニーズ・マフィアと和解しないことには命はないも同然さ。ドラグノフに君の存在と吉原にいたことを把握されてしまったのは痛い。恐らくイタリアン・マフィアから殺人株式会社にも情報が伝わっているはずだ」


 すると、紅姫は飲みかけのキャロルを横取りしてすぐさま嚥下した。

 いよいよ白い肌が熟した林檎のように色付く。身体が熱を帯びてきたのか、着物をはだけさせて胸元と太ももが剥き出しになる。


「やれやれ、酒癖が悪いな。今夜泊まるのはビジネスホテルだ。カプセルホテルは窮屈だし個室しかないからね。いつどこで敵に襲撃されるかわからないから、極力離れないようにした方がいい」


「まさか眠る時もかっ? いかがわしいことをするつもりではなかろうなっ? わっちを酔わせたのはそういうことだったのかっ?」


「お代わりを注文してキャロルを横取りしたのは誰だろうね。ほら、そろそろ移動しようか」


「ひゃあっ! くっ、これからわっちをどうするつもりだっ?」


「ビジネスホテルまで運ぶつもりだよ」


 お姫様抱っこをすると、紅姫は四肢をばたつかせて暴れた。


「こらっ、やめろっ! ひゃんっ! 尻に触るなっ!」


「ルージュが暴れるから。さすがに飲みすぎだ」


「やめろー! わっちはまだ飲めるのだー! 飲ませろー! くぅっ、せめて下ろせー! 屈辱的だー!」


 龍凜は何度か殴られながらもなんとか電車に乗った。電車に揺られていると、紅姫はすうすう寝息を立てて熟睡した。電車には他にも派手な外国人が乗っており、絢爛な着物が目立つことはなかった。

 電車の中とは裏腹に奇異の視線を浴びせられながら、ビジネスホテルの受付で部屋の鍵を受け取る。体重と着物の重量を抱えて階段を上る。紅姫をお姫様抱っこしたまま部屋の鍵を開ける。

 部屋の中はかび臭かった。九龍城砦の部屋がフラッシュバックした。

 眠り姫をベッドの上に横たえる。ナイフと煙草の箱とガスライターを懐から取り出してトレンチコートをかけてやる。甘い匂いと酒臭さが鼻を衝く。

 カーテンを閉めてから、龍凜は倒れるようにソファーへと腰を沈めた。その途端、疲労感がどっと押し寄せてきた。


「はぁ……」


 くしゃくしゃの煙草の箱から最後の一本を咥える。ガスライターを点火する。煙草を一服すると、睡魔の誘いが意識を朦朧とさせる。

 死体のように眠る紅姫は可憐だった。白い肌を覆う衣服が邪魔だった。全裸にしてみたいという衝動に駆られた。

 龍凜は首を振った。


「抵抗できない相手にそんなことをするのは卑劣だ」


 それにしても、酒癖の悪さはブルーとそっくりだ。ブルーは酔っ払うと幼い子供みたいに甘えてきた。私もブルーもまだ子供だったが、歌舞伎町では金さえあれば子供でも酒を飲むことができた。居場所がない私たちはビジネスホテルに泊まり、その翌日には二日酔いで吐き気に苦しめられた。私たちは世界中を旅しては今日みたいにはしゃいでいた。

 ベッドの上で眠っているのが藍姫であるような気がして、ひどく彼女が愛おしくなった。

 だが、ベッドの上の眠り姫は紅姫だ。どんなに強く願っても、藍姫の代わりにはならない。もう二度と藍姫とは再会できない。

 涙がこぼれ落ちた。

 天国のブルーは、ルージュを身請けした私のことをどう思っているのだろうか。浮気者だと思っているだろうか。裏切り者だと思っているだろうか。ああ、ブルー、君に会いたいよ。君が目の前で眠っているルージュだったら、すぐにでもキスをしてやるのに。隣で体温を感じながら一緒に眠ってやるのに。

 龍凜は煙草を灰皿に押しつけて立ち上がった。

 紅姫の上に覆いかぶさり、端整な寝顔をじっと見つめる。ぷるりと潤った唇を指先で弄ぶ。ゆっくりと唇を近付ける。

 しかし、龍凜は途中でやめた。後退ってソファーに腰を下ろした。

 やはりルージュはブルーではない。高尾太夫の後代とはいえ、ブルーにはなれない。私は何を期待していたのだろう。十年前のことを繰り返せばブルーに会えるとでも? ルージュが死んだらまた高尾太夫を身請けするのか? いや、私はブルーを愛さなければならない。ルージュを愛してはならない。何が一目惚れだ。ただ、ルージュがブルーの代わりになると思い込んでいただけではないか。ああ、私は一体何をしているのだろう。

 絶望が涙腺を緩める。涙で視界が白く濁る。

 煙草の箱に手を伸ばすが、先ほどの一本で最後だった。龍凜は煙草の箱を握り潰した。


「ブルー、会いたいよ……悲しみなんていらない……私がほしかったのは君の体温だ……戦い続けてきた代償が君の死だなんてあまりにもむごすぎる……私は君のために戦い続けてきたのに……」


 この涙声は誰にも届かない。慟哭しようと天国の藍姫には届かない。

 ブルー、私を慰めてくれ……涙が止まらないんだ……悲しくてたまらないんだ……君がいない世界で生きるのは苦痛だ……。

 龍凜は紫陽花のかんざしを抜いてキスをした。かんざしには特有の甘い体臭が染みついていた。ブルーではなくルージュの匂いだった。

 悲嘆に暮れているうちに、いつの間にか龍凜は眠りに落ちていた。

 龍凜は目を開けたまま眠る。これは敵の不意打ちに素早く気付くための睡眠方法だ。これまでもこの睡眠方法のおかげで何度も命を救われている。

 龍凜は目を閉じて眠れる日を夢見ている。

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