スカーレット・レディー4

 貴婦人は風に飛ばされないように大きな白い帽子を押さえた。

 見上げると、エッフェル塔がある。フランスのパリにいると、どこにいても忌まわしいエッフェル塔が見える。

 舞踏会で着るような紫のドレスと金糸のような金髪をなびかせながら、クイーン・ハートは嗜虐的な笑みを浮かべた。


「殺人株式会社のクイーン・オブ・リボルバー……お前のような美人に殺されるのなら本望だぜ……」


「あら、潔いのね。つまらないわ。私はもっと恐怖と苦痛に歪む表情を楽しみたいのに。ほら、餓死寸前の犬のように命乞いしなさい」


「ちっ、このサディストめ……お前がクレイジー・クイーンとも呼ばれている理由がよくわかったぜ……」


 力なく壁にもたれかかった男は、呼吸するのもやっとのようだった。それはそうだろう。四肢の関節にそれぞれ三発ずつ、合計十二発の弾丸を撃ち込まれているのだから。四肢はちぎれかけて、ぶらぶらと振り子時計のように揺れていた。

 男を中心に血液が広がっていく。石畳の上に血液の海が形成されていく。

 この男はイタリアン・マフィアのメンバーだったが、他のメンバーを殺害したことで裏切り者と見なされた。イタリアン・マフィアも彼を抹殺しようとしたが、イタリアからフランスに逃亡したということで殺人株式会社が雇われた。

 クイーンはフランス人だ。しばらく故郷に帰っていなかったため、フランスに逃亡した裏切り者の殺害を請け負った。故郷に帰ってくると、懐かしく輝かしい記憶が思い出された。エッフェル塔を除いては。


「ねぇ、すぐに殺しても退屈だからお話ししましょう? 全身から血液が流れ出していく感覚をじっくり味わいなさい」


「くそっ、いかれてやがる……」


「ふふふっ、褒め言葉ね」


 クイーンは傲慢に見下ろしてくる鉄の女を碧眼で睨みつけた。


「これは十五歳の誕生日の話よ。幼少の頃から私の夢はエッフェル塔に登ることだった。十五歳になったら、幼心に立てていた計画を実行することにしていた。パリの象徴でもあるエッフェル塔の頂上に登れたら、フランスの支配者になれるような気がしていたのよ。当然なれなかったんだけどね。私はサンドイッチと紅茶を詰め込んだバスケットを背負ってエッフェル塔を見上げた。もちろん命綱なんて使わなかったわ。ずるはしたくなかったもの」


「結局、登れたのか……?」


「ええ。私はエッフェル塔の頂上で昼食を取った。この世界で唯一のことを成し遂げた優越感は今でも忘れられないわ。昼食を平らげた後、ふと『タイタニック』の有名なシーンが脳裏を過ぎった。ほら、タイタニック号の先端でジャックに抱かれながらローズが両腕を広げるシーン。私はあのシーンをまねてみた。誰かが背後にいるつもりで両腕を広げた。すると、強い風が吹いてきて、私はバランスを崩した。身体が硬直して両腕を広げた体勢のまま、私は落ちた。傍から見たら鳥のようだったでしょうね。エッフェル塔にぶつかるたびに全身に激痛が走った。地面と衝突するまでに私の身体は既にぼろぼろだった。地面にたたきつけられた私は、石畳の上を這って病院を目指した。誰も助けてくれなかったわ。というよりも、満身創痍の私をゾンビか何かだと勘違いして逃げていったわ。四肢は滅茶苦茶になって身体のところどころから折れた骨が突き出していたし、進んだら血液の跡が残っていたからまさに蛭だった。看護師は病院の前で意識を失った私のことを肉塊だと思っていたらしいわ」


「九死に一生を得て頭のねじが外れたんだな……」


「あははっ、そうかもしれないわね。それからというもの、エッフェル塔が視界に映るたびに古傷が疼くのよ」


 エッフェル塔嫌いのギ・ド・モーパッサンから「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざが生まれたが、エッフェル塔まで移動するのにどうやってエッフェル塔を視界に映さずに辿り着けるのだろうか、とクイーンは思っている。

 ギ・ド・モーパッサンはよくエッフェル塔のレストランに通っていたため、嫌でもエッフェル塔を視界に映していたことになる。どうしてもパリに滞在したくてかつどうしてもエッフェル塔を視界に映したくないのなら、エッフェル塔に住むことが唯一の解決になるだろう。それか、エッフェル塔を倒壊させるか、だ。


「私はきっと神に愛されているのよ。およそ三百メートルの高さから落下して生きている人間は私くらいしかいないもの。時代恐慌で再生されたクリミア戦争では、弾丸が頭部を貫通し手榴弾の爆発に巻き込まれて四肢がちぎれかけたけれど、こうして五体満足で生きている。眼帯はつけなければならなくなったけどね」


 右目の疼痛。眼帯を撫でる。


「クリミア戦争で私は死なないことを確信した。だから、危険の中に身を置いていつまで死なずにいられるか試すことにした。殺人株式会社のメンバーになったのはそういうことよ。実際、瀕死の負傷をすることがあっても私は死ななかった」


 中折れ式のリボルバーのシリンダーを露出させて排莢する。六発の薬莢が石畳の上を跳ねて軽やかな金属音を奏でる。太ももに巻いた弾帯から一発の弾丸を抜き取る。それを装填し、シリンダーを回転させながらバレルを元の位置に戻す。


「あなたを殺す銃の名を教えてあげましょう。この銃は、イギリスのエンフィールド社のエンフィールド・リボルバー。クイーン・オブ・リボルバーの異名通り、私はリボルバーを愛しているわ。リボルバーの装填数は六発。マガジンのリロードは簡単で淡白だけど、シリンダーのリロードは手間がかかって面白い。一発ずつ弾丸を込める感覚がたまらないのよね。楽しいゲームもできるわ」


 クイーンはエンフィールド・リボルバーの銃口にキスをした。


「ねぇ、ロシアンルーレットをしましょう? 六発中五発がはずれなら、ハイヒールで足蹴にしてあげる。ふふふっ、死ぬまで踏んでやるんだから」


 狂気的な笑みを浮かべたところで、クイーンは「あら?」と首を傾げた。


「ちっ、ゲームの前に死ぬなんてとことんつまらない虫ね。ああ、興醒めだわ。あなたたち、このごみを掃除しておきなさい」


 クイーンは顎で部下をあしらい、エンフィールド・リボルバーを太もものホルスターへと収めた。

 溜め息がこぼれる。雑魚を殺してもつまらない。たとえエッフェル塔を倒壊させたとしても退屈凌ぎにしかならないだろう。

 誰にも殺されずに死ぬなんて絶対に嫌だわ。私は誰かに殺されて死にたい。命を賭けて戦って殺されたい。私を殺せる人間はいるのかしら。そうね、もしいるとしたら私の可愛い獲物ね。


「王龍凜、あなたとさしで殺し合いたい! ああ、妄想が捗る! ダーリン、あなたのせいでショーツがびしょびしょになってしまうわ!」


 すると、胸の谷間の携帯電話が鳴った。

 電話をかけてきたのはイタリアン・マフィアからだった。また殺人の依頼でしょうね、と思った。

 咳払いするクイーン。不機嫌な口調で「もしもし」と応答する。


「やけに機嫌が悪いな。だが、これを耳にしたらよくなるはずだ。お前の願いが叶うかもしれないぞ」


「何よ、もったいぶらないでよ。私はダーリンの妄想で忙しいんだけど」


「そのダーリンについての情報だ。ドラグノフ・ルチアーノから提供された情報だが、日本の吉原で遊女と一緒にいるところを見かけたらしい。酒の取引でアメリカのシカゴにテレポーテーションして見失ったとのことだ」


「遊女と一緒にいた、ですって?」


 クイーンの内心で嫉妬にも似た感情が湧き上がった。異常なくらい愛している者に浮気されたような気分だった。

 遊女と一緒にいたということは、ダーリンは彼女を身請けした……つまり、少なくともダーリンは彼女を愛している……私というものがありながら、ダーリンは浮気した……。


「どうして? 私はこんなにもあなたのことを愛しているのに! 殺しても殺されてもいいくらい溺愛しているのに! あなたのことを一時でも忘れたことはないのに! 夢の中にもあなたが現れるのに!」


「クイーン、落ち着けよ。どうやら遊女は高尾太夫らしい。お前もなかなかの美人だが、吉原の高尾太夫とは比較にならないだろうさ」


 イタリアン・マフィアの皮肉は、涙目のクイーンの耳には届かなかった。


「許さない! ダーリン、仮初めの美貌に惑わされるなんてあなたらしくない! 私を愛さない限りあなたの幸せはあり得ない! 私が生きている限りあなたの幸せはあり得ない! あなたも彼女も殺してやる!」


 携帯電話を思い切り石畳にたたきつける。紫のドレスと金髪を翻す。

 ああ、いらいらする。古傷が痛いくらい疼く。


「あなたたち、エッフェル塔を倒壊させるわよ!」

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