スカーレット・レディー3
テレポーテーションの別名は、魂の移動。
ユビキタス・ネットワークの象徴とも言えるテレポーテーションは、人間の脳と電脳のシンクロによって成立する。すなわち、移動先は脳内の思考で決定される。
テレポーテーションのシステムは複雑なようで案外単純で、テレポーターの空間を魂のみで移動する。テレポーターの空間で人間の肉体は一度霧散する。移動後、肉体は再構築される。
魂の移動により、魂の存在が確立し、肉体が単なる器でしかないことが証明された。時代恐慌が勃発する以前には絶大な支持を得ていた機械論は全て棄却された。
アメリカの医師――ダンカン・マクドゥーガルの実験によると、人間の魂の重量は四分の三オンス――およそ二十一グラムであるとされている。彼は人間と犬を標本として実験を行ったが、測定は杜撰かつ標本が少なかったため、科学的な信憑性は得られていない。
実験の結果によると、人間には体重の変化があったが犬にはそれがなかったという。減少した二十一グラムが魂であるとすると、人間には魂があり、犬には魂がないということになる。つまり、ジュリアン・ド・ラ・メトリの人間機械論の誤謬が証明されてしまう。
人間の魂の重量が二十一グラムであるという実験の結果の真偽がどうであれ、人間が魂のみで移動できる時代になった。魂の移動――テレポーテーションは、この世界の移動の概念に大きな影響をもたらした。
テレポーテーションしている間の感覚はない。魂のみの状態であるため、何も感じない。
「ここがシカゴ……」
紅姫は狼狽している。初めてのテレポーテーションだ、当然の反応だろう。
ちなみに、遊郭の主には身請けすることを前提として紅姫の同行を許可してもらった。
背後でイエローキャブが走り去っていった。街を走り回っているイエローキャブがシカゴのテレポーターだ。
「ドラゴン、世界は広いのだな。眩暈がしたぞ。吉原の支配者であるわっちがちっぽけな存在に思える」
「ブルーもそう言っていたよ」
「ところで、先ほどのイタリア人が追ってくるのではないか? サムライのおかげで物騒なことにはならなかったが、吉原から移動したらまずいのではないか?」
「安心してくれ。これから私たちはギャングの取引相手となる。つまり、ギャングの領域となる。ここはギャングの縄張りだ。イタリアン・マフィアもギャングには手を出せないさ」
「イタリアン・マフィア? まさか、先ほどのイタリア人がイタリアン・マフィアだというのか?」
「そうだよ。ドラグノフ・ルチアーノ――私よりも多くの修羅場を切り抜けてきたヒットマン。エスプレッソ・ルチアーノともラッキー・ルチアーノとも呼ばれている」
「わっちはイタリアン・マフィアを殴ったのか……まあ、いい。どうせお主の敵はわっちの敵でもある」
日本とアメリカの実際の距離では時差があるが、『デウス・エクス・マキナ』の時差統制によって時差という概念はなくなった。これは人間が意図的に操作したわけではなく、『デウス・エクス・マキナ』が自動的に実行した。
『デウス・エクス・マキナ』は世界的な言語統制も行った。言語は消失し、人間は共通した言語を話すようになった。
この現象の詳細は不明だが、『デウス・エクス・マキナ』がなんらかのウイルスを創造して、それをユビキタス・ネットワークの内部に混入させたとされている。
人間は『デウス・エクス・マキナ』を使役しているが、時差統制や言語統制のように制御が効かなくなることもある。いや、人間は未だに『デウス・エクス・マキナ』に使役されているのかもしれない。カモフラージュしてユビキタス・ネットワークの中に潜んでいるのかもしれない。
機械仕掛けの神は、天使と悪魔の二面性を併せ持っている。表と裏があるコインのように。実際、世界にはコンピューターのユビキタス・ネットワークも拡散されている。
『デウス・エクス・マキナ』は二つのユビキタス・ネットワークを操作することができるという推測もあり、使役されているふりをして世界を監視しているのではないか。この推測はあながち間違いではない。何故なら、地球の核から遠隔で世界をコントロールしていた『デウス・エクス・マキナ』が現在では世界中にいるのだから。
先ほど走り去っていったイエローキャブが降ろしたのは、シカゴ・シアターの前だった。
閉鎖されたシカゴ・シアターはギャングの拠点だ。密造酒の製造やその取引もここでされている。贔屓の取引相手が訪問すればパーティーを催す。禁酒法時代のシカゴでここまで公然と密造酒ビジネスができるのは、ギャングが警察を賄賂で買収しているからだ。
シカゴ・シアターに足を踏み入れると、いかにも高級な雰囲気を醸し出したロビーが出迎えてくれた。
龍凜と紅姫の容姿を映えさせるレッドカーペット。ぶら下げられたスカートのようなシャンデリア。システィーナ礼拝堂を彷彿とさせる天井画。
シンプルとエレガントの融合――シカゴ・シアターはボスの趣味で大幅に改造されていた。どうやらボスは趣味がいいようだ。
龍凜は木製の箱をギャングに預けた。
ギャングにしては礼儀正しい対応でスーツを着ているため、ここがギャングの拠点としてのシカゴ・シアターではなかったらジェントルマンだと勘違いしていたことだろう。
木製の箱の蓋を開けて中身を調べるギャング。二つとも日本酒であることを確認して蓋は閉じられた。
今度はボディーチェックだ。あらかじめナイフはギャングに預けておく。発見されるものといえば、あとは煙草の箱とガスライターくらいだ。
同行する紅姫もボディーチェックを強制された。彼女は赤面して渋っていたが、龍凜の説得で仕方なく身体に触れることを許した。それにもかかわらず、手が尻に触れた瞬間、彼女はギャングにビンタを食らわせていた。ギャングに下心はなかっただろうが、理不尽なビンタは有無を言わせなかった。
入念なボディーチェックの後、龍凜と紅姫は劇場へと通された。木製の箱は二人のギャングが運んでくれた。
劇場の座席には一人の男が腰かけていた。その周囲には部下たちが控えており、ステージの上ではオーケストラがジャズを演奏していた。
親指よりも太い葉巻を吸っているのは、スカー・カポネ。この名は、かつての禁酒法時代のシカゴを牛耳っていたアル・カポネが由来している。ポマードでオールバックに撫でつけた白髪、エメラルドのごとき高貴な緑色の瞳、整えられた髭。顔面には複数の切り傷が残っている。高価なスーツが似つかわしい初老の紳士がギャングのボスである。
龍凜はスカーの隣の座席に腰を下ろした。
「『マイ・ファニー・バレンタイン』。私はチェット・ベイカーのファンでね」
「ほう。俺も『マイ・ファニー・バレンタイン』のカバーはチェット・ベイカーが好きだ。『マイ・ファニー・バレンタイン』は『ベイブス・イン・アームス』というミュージカルの挿入歌だ。鑑賞したことはあるかね?」
「いや、ないよ」
「『ベイブス・イン・アームス』の中で、ビリー・スミスという女がバレンタインという男に対して歌ったのが『マイ・ファニー・バレンタイン』だ」
「へぇ、男から女への愛を歌った曲かと思っていた」
「よくある勘違いだ」
ステージの上で歌っているのは女。改めて耳にすると、スカーの説明が正しいことがわかった。
龍凜は英語を習得するどころかアルファベットさえもちんぷんかんぷんだが、歌詞の意味は直感的に理解していた。これも言語統制の賜物だ。
「ビリーはバレンタインの欠点をつらつらと挙げる。だが、最後にはそれでも一緒にいてほしいと綴る。はぁ、この曲は別れた妻を思い出させる。妻もよく俺のことを馬鹿にしていたが、いつも最後には愛していると言ってくれた。俺も妻のことを心底愛していた」
「別れた理由は?」
「察しはつくだろう。妻は愛想を尽かして去ってしまった。俺はろくでなしだからな。犯罪ばかりやらかしては警察と抗争していた。だが、妻と別れてから目が覚めた。俺がしていることはなんの意味もないということに気付かされた。後悔先に立たずということわざを実感したよ。俺は妻を待ち続けたが、二度と帰ってくることはなかった」
スカーと藍姫が龍凜の中で重なった。
「憎悪は感じなかった?」
「いや、これっぽっちも感じなかった。当時の俺と一緒にいても妻は幸せになれなかっただろう。妻と別れたからこそ今の俺がある。むしろ、俺は妻に感謝している」
きっとブルーは私のことを憎悪しながら死んでいったのだろうな、と思った。
私とブルーの居場所を作るために戦っていたのに、ブルーがいなくなってしまったらなんの意味もない。私が戦い続けてきた意味も、ブルーが待ち続けてきた意味も。ブルーが病気だとわかっていたら戦闘をやめて吉原に帰っていたのに。私はブルーを孤独に死なせてしまったのだ。後悔先に立たず、死者は物言わぬ。
「何か曲のリクエストはあるかね? 演奏させよう」
「チェット・ベイカーの『オールモスト・ブルー』」
「なるほど、お前も不幸な人間の一人というわけだ」
スカーがぱちんと指を鳴らすと、部下が駆け寄ってきて頭を垂れた。彼は何やら耳打ちし、部下はステージの方へと急いだ。ギャングの部下も忙しそうだ。
しばらくして、トランペットとピアノの哀哭が劇場に反響する。
「お前の名は?」
「王龍凜」
「王龍凜? 九龍城砦の支配者か。お前は裏の世界ではあまりにも有名だ。酒の取引をしたいのだろう?」
「うん。吉原遊郭の高尾太夫のために製造された日本酒を売りたい」
「なるほど。ということは、隣のレディーが高尾太夫なのか?」
すると、紅姫は座席から立って丁寧にお辞儀した。
「ルージュだ。この取引でわっちの身請けが決まるのだ。わっちの自由はお主にかかっている」
「ほう。俺の名はスカー・カポネ。スカー・フェイスの異名もあるが、俺は嫌っている。以後、お見知り置きを」
紅姫とスカーは握手し、続いて龍凜も同じことをした。
「ところで、スカー・カポネの由来をご存知かな?」
「アル・カポネと顔面の切り傷だ」
「当たりだ。では、この傷痕を残したのは誰だと思う?」
「うーん、警察かな」
「はずれだ。チャイニーズ・マフィアのボスだった金礼虎だ」
龍凜はロビーで預けたナイフを思い浮かべた。
確かに、ナイフならこういう傷痕になるだろう。ただ、スカーの顔面は一度ではなく何度も切りつけられている。
「まだ俺も礼虎も若い時分だ。チャイニーズ・マフィアはしょっちゅうシカゴを訪れてはドラッグをばら撒いていった。俺たちの密造酒よりも安く売りやがるから、一時シカゴはドラッグ中毒者で溢れかえっていた。当然俺たちギャングも黙っていられない。ギャングとチャイニーズ・マフィアの抗争の火蓋が切って落とされた。もちろん警察もこの戦争に参加した。三つ巴よ。ある日、チャイニーズ・マフィアがシカゴ・シアターに押し寄せてきた。あのろくでなし共は密造酒を根こそぎ強奪していった。俺は逃げようとする礼虎の脚を撃ち抜いたが、チャイニーズ・マフィアの部下に全身を蜂の巣にされた。その後、俺は激高した礼虎に顔面をずたずたに切り裂かれた。さすがに死を覚悟したよ。だが、出血多量で生と死の狭間を彷徨っていた俺は、部下の治療でなんとか一命を取り留めた」
「妻は憎悪していないが、礼虎は憎悪している、と」
「その通りだ。スカー・フェイスの異名がつけられてから、俺は中国人を嫌悪している。中国人に罪はないが、俺の顔面を醜くしたのは中国人だ。俺は中国人とは取引しない」
「私は香港人だ。父は中国人だったが、母は香港人だった。私も香港の九龍城砦で生きてきた。それに、礼虎を殺したのは私だ。私が取引相手では不満かな?」
龍凜の問いに、スカーは呆気に取られて葉巻を咥えたまま静止した。それから、豪快に声を上げて笑い出した。
「確かに、中国と香港は全く異なるな。時代が再生されて、香港はイギリスの植民地となった。だが、中国に返還されて、やがて香港は独立した。龍凜、お前は強い。お前のその強さには原動力があるはずだ。それはなんだ?」
「愛だ。愛が私を強くする」
「礼虎を殺して得た戦闘能力ではないのか?」
「それは肉体的な強さだ。精神的な強さがなければ戦闘能力は飾りだ。肉体は魂の器でしかないのだから。ブルーと出会っていなければ、きっと私は感情の欠如した人形のままだった。ブルーが死んでも、愛が私を強くしている」
「ブルーというのはお前が愛していた者のことか?」
「そうだよ」
「ブルーは何故死んだ?」
「やけに詮索するね。取引相手の過去を把握する必要はないと思うのだが」
「いや、これは単なる俺の興味だ。答えたくなければ構わない。だが、俺は過去を話したぞ。公平な取引をしたいのなら、互いの過去を把握しておくべきではないかね?」
龍凜はスカーが藍姫のことを軽蔑するのではないかと心配した。藍姫が軽蔑されることに対してではなく、スカーへの殺意を抑制できないかもしれないという心配であった。
ドラグノフが遊女のことを高級娼婦だと表現した時も、龍凜の内心ではどす黒い殺意が渦巻いていた。紅姫が殴ってくれていなければ確実に戦闘になっていた。
だが、これまでの会話で感じたスカーの印象は、いわゆる表象的なギャングではなく、別れた妻を一途に愛する紳士であった。愛する者がいなくなってから後悔に苛まれているという境遇も同じだ。
トランペットとピアノの哀哭が止む。その代わりに、チェット・ベイカーのような甘い声音が龍凜の心を抉る。
深い溜め息を吐き、龍凜は首肯した。
「ブルーが死んだのは五年前のことらしい。曖昧に言ったのは、つい昨日聞いたことだからだ。まだ信じられないよ。ブルーは先代の高尾太夫だった。十年前、一目惚れして私が身請けした。私が平和に暮らせる居場所を作っている間にブルーは死んでしまった」
「アル・カポネも梅毒で死んだ」
スカーはもう一度指を鳴らし、部下に何やらカクテルを作らせた。
「春をひさぐ者の運命かもしれないな。いや、誤解しないでくれ。別に軽蔑しているわけではない。遊女は憐憫するべき人間でもある。そうだろう?」
「そう、かもしれない。わからない。憐憫なんてしたくないが、内心では憐憫している」
スカーの部下がシェイカーを振る。黄色の液体がカクテルグラスへと注がれる。ドライ・ジンとオレンジジュースが二対一のオレンジ・ブロッサムだ。
「最後に一つ尋ねたい。お前は何故ルージュを身請けしようとしている?」
スカーの表情をちらりと伺った後、龍凜は紅姫の瞳の奥を覗き込んだ。
赤色の瞳が呈するのは緊張。紅姫は貞淑な処女のごとく唇をきゅっと結んだ。
『オールモスト・ブルー』の演奏が終わる。劇場が静寂に包まれる。
「単純さ。私はルージュに一目惚れした。ただそれだけのことだよ」
スカーは「そうか」と言って葉巻の先端を灰皿に押し潰した。
紅姫はばっと視線を逸らし、痒いところに手が届かないといった具合にそわそわと身をよじらせた。
「王龍凜、ルージュ、取引は成立だ。ルージュを身請けできるだけの金を出そう。さあ、乾杯しよう。ブルーに」
「ブルーに」
「藍姫さまに」
三人はオレンジ・ブロッサムのグラスを掲げた。
乾杯したものの、龍凜はオレンジ・ブロッサムには口をつけなかった。紅姫もオレンジ・ブロッサムを飲もうとする気配はなかった。
スカーは怪訝そうに目を細めた。
「なんだ、酒を売りに来たのに酒が飲めないのか?」
「飲めるよ。だが、このオレンジ・ブロッサムに毒が盛られている可能性はゼロではない。あなたには感謝しているが、私は誰も信用しない。信用できる人間はいない。私は薄氷の上に立っている。常に薄氷を踏んでいるのだと注意していないと、いつか冷たい海の底へと引きずり込まれてしまう」
「なるほど、賢明だな」
ずっしりとした重量のあるアタッシュケースを受け取り、龍凜と紅姫はオレンジ・ブロッサムのグラスをスカーの部下に渡した。劇場から退散しようとしたところで、咳払いが二人を呼び止めた。
「一応、忠告しておこう。ギャングはイタリアン・マフィアと友好関係がある。シカゴを拠点にしているとはいえ、俺もイタリア人だ。これまでも抗争のたびに互助してきた。イタリアン・マフィアの要請があれば、ギャングもお前たちの敵になるだろう。たとえ俺がチャイニーズ・マフィアを嫌悪していてもな」
「雲霞のごとき敵が私の命を狙っている。これ以上敵が増えたところで多いことに変わりはないよ」
「余計な世話だろうが、取引相手として話すのはこれで最後になるかもしれないから言わせてもらう。王龍凜、お前は世界のどこにいても敵の渦中にいる。お前が言ったように世界は薄氷だ。ほんの少しの油断が死に繋がる。守るべき者がいればさらに危険が大きくなるということを忘れるな。愛する者の死を己の死と思え。後悔先に立たずだ」
「ありがとう、スカー。敵としてではなく、また会える日を楽しみにしているよ」
「俺もだ。お前たちの居場所が見つかるといいな。グッドラック」
素晴らしい『マイ・ファニー・バレンタイン』と『オールモスト・ブルー』を演奏したオーケストラにチップを払い、龍凜と紅姫はシカゴ・シアターを後にした。
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