スカーレット・レディー2

 深煎りのコーヒー豆の芳醇な香り。弦楽器の可憐な音色。

 コーヒー豆たちがミルでごりごりと挽かれていく。ミルはクラシカルな手挽き式で、ハンドルを回すたびに香ばしさが鼻腔を刺激する。宝石のようだったコーヒー豆が、あっという間に粉砕されて細かくなる。

 ミルが仕事を全うすると、今度は直火式でエスプレッソを抽出するマキネッタの出番である。マキネッタ内のバスケットが外されて、粉末と化したコーヒー豆がそれに詰められる。

 ポットの湯がマキネッタへと注がれる。恐らく水はこのカフェの前を流れる川のものだろう。せせらぎが耳に心地いい。耳を澄ませているうちに、黒い粉末を詰められたバスケットが再びマキネッタと一体化する。

 ガスコンロの蒼炎がゆらりゆらりと不気味なワルツを踊る。マキネッタはその上から優雅な足運びを見下ろす。次第に熱を帯び、驕奢なマキネッタも激しくステップを踏み出す。マキネッタの口から白い吐息が濛々と立ち上る。

 ドラグノフ・ルチアーノはエスプレッソの一挙一動に釘付けだった。

 抽出された少量のエスプレッソが、小ぶりなデミタスカップを満たす。黒い液体はまるで重油のようだ。

 やはり水からこだわっているエスプレッソは至高の美味しさだった。それに付け加えて、風流な雰囲気の中で嗜むエスプレッソは格別だった。

 もしまずければエスプレッソを淹れた者を殺しているところだ。エスプレッソの味には淹れる者の人間性が表れる。まずいエスプレッソを淹れる者に生きる価値はない。

 ドラグノフは舌の味蕾一つ一つにまで染み込むエスプレッソをゆっくりと時間をかけて味わっていた。

 エスプレッソをこよなく愛することから、ドラグノフはエスプレッソ・ルチアーノの異名を持つ。

 かっちりしたスーツがこれほどまでに似合う紳士はそういないだろう。癖のある茶髪を覆い隠すようにしてかぶった黒のパナマハット。狩猟をする獰猛な獣のような瞳は灰色。顔立ちは整っており、痩身長躯であるため、よく女からもてはやされる。

 フランク・シナトラを気取ったイタリア人のドラグノフは、イタリアン・マフィアのメンバーだ。

 シチリアを拠点にしているイタリアン・マフィアは、主に武器の売買をビジネスとしている。ベレッタ社と連携しており、信頼のあるビジネスを世界中で展開している。本来なら殺人の依頼は請け負わないが、重要な取引相手の一つであるチャイニーズ・マフィアのボス――金礼虎が殺害されたということでイタリアン・マフィアも動員されている。

 殺人の対象は、九龍城砦の支配者――王龍凜。殺人のプロである殺人株式会社でさえも手に負えないということでイタリアン・マフィアも加勢という形で参戦したわけだが、龍凜は三つの勢力と互角に渡り合っている。それどころか、九龍城砦のチャイニーズ・マフィアを撤退させている。いずれはギャングの協力も仰がなければならないかもしれない。

 九龍城砦では複数の優勢を活かせない。龍凜が劣勢を覆すことは不可能だが、いくらまとまっていても狭小な空間では複数であることの意味をなさない。

 チャイニーズ・マフィアもイタリアン・マフィアも殺人株式会社も、これまで多くのメンバーを龍凜に殺されている。いっそのこと九龍城砦ごと破壊して時代を消滅させるという措置も考案されているが、それでは根本的な解決にはならない。

 もし龍凜が生きていれば、再び九龍城砦という時代を発生させることができるのだから。それに、依頼の内容は龍凜の殺害と支配権の譲渡だ。九龍城砦はチャイニーズ・マフィアの拠点の一つであり、彼らにとっては政府の権力が及ばない安全地帯だ。龍凜が瓦礫の下敷きになって死んでしまえば、支配者と共に時代は消滅してしまう。つまり、再び九龍城砦という時代を発生させることは不可能になる、ということだ。

 それゆえに、龍凜を確実に仕留めて九龍城砦の支配権をチャイニーズ・マフィアに譲渡しなければならない。支配権を取り戻すためなら、チャイニーズ・マフィアはいくらでも金を出すだろう。

 九龍城砦から拉致してきた住民を拷問して得られた情報によると、龍凜は日本の吉原にテレポーテーションしたらしい。九龍城砦は武装した住民によって監視されており、龍凜の留守をしているのだという。

 ドラグノフは、イタリアン・マフィアの中ではヒットマンだ。前述したようにイタリアン・マフィアが殺人を請け負うことはごく稀だが、彼は危険地帯での取引に同行したり裏切り者を抹殺したりしている。彼には類いまれなる狙撃の才能があり、殺人株式会社からスナイパーの勧誘をされたこともある。

 龍凜は僕の正確無比な弾丸を避けた。僕のプライドはずたずたに傷付けられた。僕は龍凜を殺さなければならない。狙撃で殺さなければならない。さもなければ、僕は獲物を仕留められなかった負け犬になってしまう。

 ドラグノフはようやくデミタスカップを空にし、ギターケースよりも大きなガンケースを持ち上げた。


「ごちそうさま」


 ドラグノフが微笑みかけると、着物のウェイトレスは真っ赤になってカウンターの中へと隠れてしまった。代金を払ってカフェを後にしようとすると、いつの間にか外には女たちが集まってきていた。

 カラフルな着物の山がわらわらと蠢く。黄色い声が鼓膜に響く。


「やれやれ、困ったな」


 ドラグノフがイタリアン・マフィアであるとは露知らず、女たちは彼の爽やかな魅力にすっかり夢中になっていた。

 かの有名なソクラテスは「無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり」と言った。「無知は死なり」と言ったのはドラグノフだ。

 だが、ドラグノフは基本的に子供や女を殺さない。弱者を一方的に殺すことは彼のプライドに反する。

 ただし、例外もあった。当時の龍凜はまだ子供であったが、ドラグノフは小さな頭部に照準を定めた。さすがに子供の頭部から血液、脳漿、頭蓋骨の欠片が飛散する光景を拝むのは抵抗があった。引き金にかけた指が震えていたのを鮮明に思い出せるくらいだ。

 しかし、ほんのわずかな逡巡がドラグノフのプライドを打ち砕いた。己の弾丸が己のプライドを撃ち抜いた。

 依頼された以上、子供だろうが殺害しなければならない。これはビジネスだ。

 例のミスは龍凜の殺害を正当化した。使命感と同時に、獣の本能がドラグノフの欲求をくすぐった。

 十年前、僕は龍凜を無力な子供だと勘違いしていた。だが、狩猟の対象は凜然たる龍だった。僕は龍を殺し、プライドを取り戻すのだ。

 興奮した女たちの間をすり抜け、足早に路地裏の角を曲がる。ついてこられても面倒なので、少し離れたところで振り返る。どうやらうまく撒けたみたいだ。

 路地裏から出ると、目の前は酒屋だった。

 ドラグノフは酒を飲まない。すぐに酔いが回ってしまう上、たったの一口でも二日酔いになってしまうからだ。

 酒屋を通り過ぎようとしたところで、ドラグノフは歩くのをやめた。


「ひょろいのに意外と腕力があるのだな。だが、それはわっちの身請け金だ。落としでもしたら水の泡だ。手伝ってやろうか?」


「いや、平気だよ。君の細腕では持ち上げられないだろう」


 酒屋の中から現れたのは、外国人と遊女だった。

 中国人だろうか、いや、予想が正しければ香港人か。黒髪に紫陽花のかんざしを挿した香港人は、木製の箱を二つ積み重ねて運んでいる。見覚えのある夜の帳のごときトレンチコートを羽織っている。その隣の豪華絢爛な赤の着物を身に纏った遊女は、吉原の支配者――高尾太夫だろう。この美貌を有した女はそういない。


「王龍凜」


 ドラグノフは独りごちてにやりと口角を上げた。


「王龍凜!」


 今度は声を張り上げる。

 龍凜は立ち止まり、視界を妨げていた木製の箱を緩慢な動作でそっと地面に置いた。


「ドラグノフ・ルチアーノ」


 両者の間の空気がぴんと張り詰める。


「こんなところで出くわすとは奇遇だね」


「とぼけなくてもいい。待ち伏せていたんだろう?」


「はははっ、僕もそう暇ではない。逃げた龍を殺さなくてはならないからね」


「ここで私を殺すつもりかい?」


「いや、それは危険だ。吉原にはジャパニーズ・ヤクザもといサムライが彷徨いている。サムライは我武者羅だから嫌いでね。もうずっと昔のことだが、銃を構えても立ち向かってきて冷や冷やさせられたよ。サムライにはこんな逸話がある。かつて弾丸を日本刀で斬るサムライがいた。そのサムライはアメリカのサーカスで活躍していた。だが、ある日、酒に酔った客がサーカスに乱入してこう叫んだ。ハンドガンの弾丸しか斬れないのか、他の銃でも試してやろう、と。客はマシンガンを五秒も乱射したが、サムライは無傷だった。今度はリボルバーを六発連続で撃ったが、サムライは投げられた卵でも切るかのように弾丸を斬ってみせた。サーカスはこれまでにないくらい盛り上がり、歓声が飛び交った。ところが、ショットガンを一発撃った途端、日本刀は真っ二つに折れて、サムライの身体には大きな風穴が開いた。サーカスは絶叫の嵐。結局、サムライもショットガンの散弾は斬れなかった。しかし、話はこれで終わりではない。後でわかったことだが、散弾のうちのいくつかは斬られていた。もし日本刀が折れていなければ、サムライは生きていたのではなかろうか。つまり、僕が言いたいのは、ショットガンを前にしても怯まなかったサムライの精神こそが武器である、ということだ。日本刀は折れるが、サムライの精神は折れない。僕はサムライを尊敬しているのさ」


 ドラグノフはサムライについて饒舌に語った後、ふと我に返った。


「いや、すまない。くだらない話をしてしまった」


「サムライがいる吉原では戦闘するつもりがないことはわかった。サムライの逸話も面白かったよ。では、さよなら、ドラグノフ」


「まだ会ったばかりではないか。こうして君と言葉を交わすのは初めてだ。九龍城砦では何度も命のやり取りをしているがね。もっと感動の余韻に浸ったらどうだ?」


「私たちもそう暇ではないのでね。それに、あなたは逃げた龍を殺さなければならない。こんなところで時間を費やしている暇はないのでは?」


「そう慌てることはない。狙撃の醍醐味は、血眼になりながら獲物を待つことだ。待つ時間が長ければ長いほどとどめを刺す快楽は大きくなる。君を殺す瞬間が楽しみだ。ところで、隣の遊女は身請けしたのか? 高級娼婦に大金をかけるなんて愚かしい」


 蔑みの眼差しで遊女を一瞥すると、彼女は白い吐息が混じり合うくらい詰め寄ってきた。


「ふん、唾でも吐きつけるのか?」


「いや、殴る」


 刹那、がくりと視界が揺らいだ。ドラグノフは憤怒よりも驚嘆を感じた。

 口内に錆びた鉄の味が広がる。顔面が歪んでいるかのような錯覚に襲われる。


「遊女を馬鹿にするな。遊女はなりたくて遊女になったのではない。生きるために子供を売った両親のエゴが遊女を生む。遊女のことを二度と高級娼婦と呼ぶな。それに、わっちはもうすぐ遊女ではなくなる」


 ドラグノフは口の端の血液を拭い、称賛の意を込めて拍手した。

 まさか女に殴られるとは。しかも、もの同然の奴隷に。

 ドラグノフは娼婦を蔑視していた。

 金を出せば股を開く娼婦は人間ではなくものだ。遊郭に売られると同時に、人間からものとなる。人身売買も同じだ。両親から真実の愛を受けられず、その代わりに男には虚偽の愛を与える。所詮、娼婦は虚偽の愛を売る人形でしかないのだ。

 だが、勇敢にもイタリアン・マフィアの顔面を殴った遊女のおかげで、娼婦に対する偏見が解けた。

 この遊女の中では、僕はイタリアン・マフィアではなくただのイタリア人なのだろう。まあ、仮にイタリアン・マフィアであったとしても容赦なく殴られていただろうが。


「無礼を詫びよう、セニョリータ。名はなんというんだ?」


「ルージュだ」


「ルージュ、君の名は忘れないだろう。僕を殴った女として記憶に残り続けるだろう」


 龍凜は木製の箱をひょいと持ち上げた。


「ドラグノフ、あなたとはいつか決着をつけなければならない。あなたが敵として私の前に立ち塞がるのなら殺す。私の邪魔をする者は殺す。待っていては私を殺せないよ。あなたの方から殺しにおいで」


 龍凜の挑発に、ドラグノフはぞくりとした。殺意にも似た興奮が全身を駆け巡った。

 これほどまでに殺す価値のある人間がいるだろうか。いや、いない。一発の弾丸で殺すには惜しい。愛する者を殺し、精神を殺してやる。肉体にとどめを刺すのはそれからだ。

 不敵な笑みを浮かべながら、ドラグノフは携帯電話を取り出した。

 龍凜の情報を報告しなければ。できれば龍凜とさしで戦闘したいが、報告を怠ったことがばれたらボスにどやされてしまう。さて、情報を整理するとしよう。

 酒屋から出てきたということは、龍凜が運んでいた木製の箱の中身は日本酒だ。木製の箱は二つ。個人的に購入するには多すぎる。取引のための日本酒である可能性が高い。それを裏付けるのはルージュの発言だ。もうすぐ遊女ではなくなる――つまり、龍凜はまだルージュを身請けしていないということだ。そうなると、この取引は身請け金を得るためのものだ。酒の取引なら禁酒法時代のシカゴが打ってつけだ。


「はぁ、殺人株式会社の耳にもこの情報が入るのだろうな。バトルジャンキーのクイーン・オブ・リボルバーなら僕の獲物を横取りしかねない。彼女も龍凜を気に入っているみたいだったからね」


 ドラグノフは一転して憂鬱な溜め息を吐いた。

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