第二章 スカーレット・レディー
スカーレット・レディー1
吉原遊郭の天守閣から臨む景色は雅やかだった。藍姫が瞳に焼きつけていた景色だった。
「もう二度と会うことはないのではなかったか?」
紅姫の美貌は藍姫のそれと酷似していた。当然だ。吉原の支配者は美しくなければならない。というよりも、吉原の支配者となった時点で美しくなるのだ。
時代の支配者は支配権を得る。支配権とはすなわち能力のことだ。
九龍城砦の支配者は戦闘能力を得る。吉原の支配者は美貌を得る。
支配権は継承されるシステムになっており、九龍城砦の支配者は礼虎を殺害した龍凜、吉原の支配者は藍姫から高尾太夫の座を譲られた紅姫となった。
龍凜は常軌を逸する戦闘能力でチャイニーズ・マフィアを圧倒し、犯罪の巣窟である九龍城砦の治安を少しずつ改善していった。住民の支持を得て、ついにはチャイニーズ・マフィアたちを九龍城砦から追放した。
武装した住民がテレポーターや九龍城砦の周囲を常に監視しており、犯罪は砂を一粒ずつ爪で掴むように撲滅されている。龍凜は住民の希望となり、支配者としての地位を確立させている。
しかしながら、藍姫や紅姫は支配者といえども、実質的には吉原の支配権を有していない。支配権という名の能力は美貌。実質的な支配権は吉原遊郭の主にある。支配者が地位のピラミッドにおいて最上位でないことから、発生した時代の中でも吉原は珍しいとされている。
能力とはいえ、紅姫の美貌は人工的ではない。青々と生い茂った草原に咲き誇る花のごとき自然な美貌を有している。
龍凜は紅姫の美貌に見惚れていた。
「煙草を吸ってもいいかな?」
「ふん」
紅姫は不愛想に鼻を鳴らしたが、恐らく肯定したつもりなのだろう。目と鼻の先に煙管を突き出してきたことがその証拠だ。
龍凜はガスライターで煙管の煙草に火をつけてから咥えた煙草にも同じことをした。
「九龍城砦に帰るつもりだったが、昨夜は新宿のカプセルホテルに泊まった。とても一人で九龍城砦に帰る気にはなれなかった。カプセルホテルの窮屈な空間で横になっていると、思考が脳内で迸った。夜がひどく長く感じられて、これまでにないくらいの孤独感に押し潰されそうになった。結局、一睡もできなかったよ」
「わっちもだ。お主のせいで藍姫さまのことを思い出してしまった」
そう言われて気付いたが、紅姫の眼窩の下にはうっすらと隈ができていた。不機嫌そうな表情は睡眠不足が原因だろう。
「用件を言え。わっちはこれから眠る」
「では、率直に言おう。紅姫、君を身請けしたい」
すると、紅姫は目を見開いてぴたりと静止した。
煙管が落ちる。畳の上に煙草が散らばる。
「もし冗談なら殺すぞ」
眼球を剥き出しにした赤色の瞳の奥には殺意があった。返答次第では本当に殺されかねない剣幕であった。
「私は本気だ。藍姫への罪を償うために身請けするのではない。私は君の美貌に一目惚れしたんだ。だから、身請けしたい」
龍凜が断言すると、紅姫は瞑目して俯いた。
紅姫はしばらく沈思黙考した。彼女は込み上げてくる何かをこらえているかのようだった。
「もちろん身請けを強制するつもりはない。君がここにいたいのなら、私は諦めて九龍城砦に帰る」
開かれた赤色の瞳が潤んでいるのを龍凜は見逃さなかった。
「身請け金はあるのか?」
「身請けできるだけの金はここにはない。だが、今日中には手に入れる」
「また盗むつもりか?」
「いや、取引する。これ以上敵を増やすわけにはいかない」
「誰と取引するつもりだ?」
「アメリカのギャングさ。シカゴは禁酒法時代だ、酒の取引には応じてくれるはずだ。吉原遊郭の天守閣でしか飲めない日本酒を倍以上の値段で転売しようと思う」
「なるほど」
危険があることや取引が成立しないことは否めない。だが、紅姫が身請けを受け入れてくれるのなら、どんな手段を使ってでも身請けしてみせる。
「ただし、自由には死のリスクが伴う。私の周囲は敵ばかりだし、九龍城砦も安全とは言い難い。もしかしたら、君の居場所はないかもしれない。それでもいいかい?」
紅姫はとつおいつすることなく強く頷いた。その瞳には、提灯の火で浮かび上がった藍姫の瞳と同じものが宿っていた。
「なんとしても身請け金を手に入れてみせる。だから、君はここで待っていてくれ」
「何を言っているのだ、わっちも同行するぞ」
「だが、危険だ。君を危険にさらしたくない」
「自由には死のリスクが伴う、と言ったな。お主がわっちを守れ。遊女を身請けするには責任が伴う。わっちを藍姫さまのように殺すな」
紅姫の気の強さに唖然とした後、龍凜は頷きを返した。
「約束する。たとえこの命を賭けても君を守る」
十年前のように手を差し伸べた龍凜。紅姫は急にしおらしくなって、頬を紅潮させながら手を取った。
「これから君の名はルージュだ」
「ルージュ、か。ドラゴン、わっちの命、お主に預ける」
はにかんだ紅姫はさながら幼い少女であった。
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