果たされぬ約束2
卑猥なネオンが眩しい歓楽街――歌舞伎町。
とあるバーのカウンター席にて、龍凜は藍姫の記憶に思いを馳せていた。
十年前、龍凜は九龍城砦の屋上から飛び下りた。本来なら地面と衝突してぐちゃぐちゃの肉塊になるはずだったが、そうはならなかった。
どうして龍凜は生きていたのか。そして、どうして龍凜は吉原に辿り着いたのか。
龍凜と藍姫の邂逅は運命のようで実際は必然だった。ただ、彼らは世界の真実について無知だったのだ。
必然的な邂逅はテレポーテーションによってもたらされた。九龍城砦の屋上と吉原のごみ箱――この二つのテレポーターが繋がったのは、龍凜の脳と電脳がシンクロしていたからである。もっと言えば、龍凜が居場所を欲したからである。
電脳こそが世界の真実だ。
ある日、この世界の神についての大論争が勃発した。これは、世界中に遍在する宗教がそれぞれの神を世界の神だと主張したことが原因だった。一部では戦争に発展し、世界は混沌としていた。
宗教の抑止力として無神論が掲げられたが、それはかえって怒りに火をつける結果となってしまった。穏健派はひたすら神に平和を祈り、過激派は神の名を借りて他の宗教の信者たちを虐殺していった。この世界戦争によって、皮肉にも神は概念的な存在であるということが証明された。
だが、これで世界戦争が終結するはずもなく、人間たちは具現化された神を模索した。具現化された神というのは、人間の上位に君臨する人間ならざる者のことだ。そして、人間たちはこの地球の核に真実があるのではないかという推測に至った。あまりにも突飛な推測だが、世界中に預言者たちが現れたことがこの蓋然性を支持させた。
預言者たちは口を揃えてこう言った――この地球の核こそが神だ、世界の真実を知らしめることが神の意志だ。
人間たちは核を調査することにした。地下は地獄と形容し得る環境だが、人間の目覚ましいテクノロジーをもってすればそれは容易なことであった。
調査で判明したのは、世界の真実であった。地球の核は、鉄とニッケルなんかではなかった。それは、巨大な機械の塊であった。
調査を進めるうちに、この機械の塊がAIのようなものであることがわかった。いや、それはもはやAIの域を超えたASIさえも遥かに超越していた。しかも、これは巨大な脳の形をしていた。そのため、電脳と称された。
解析してみると、この電脳こそが人間を創造していることが判明した。
電脳は人間――つまり、旧約聖書の『創世記』で創造されたアダムとイヴのような原初の人間を生み、人間に子孫と時代を生ませて、時代が歪曲したら人間を使役して修正していた。後に電脳は機械仕掛けの神――『デウス・エクス・マキナ』の異名を冠された。
人間は地球という舞台の上で踊らされていた――これが世界の真実だ。
しかし、人間たちはこの真実に激怒した。
具現化された神の存在が証明された途端、人間たちは概念的な神への信仰をも投げ捨て、人間を世界の頂点に位置付けようとした。人間たちは神になろうとしたのだ。
これは機械の塊ごときが神であることに対する反逆ではなく、ジュリアン・ド・ラ・メトリの提唱した人間機械論が関係していた。
デカルトの提唱した動物機械論の延長でもある人間機械論は、人間と動物の差異はなく、魂は脳の一部であり、人間は魂を原動力に動作する機械であるとする機械論的唯物論である。
人間たちはあえて魂の存在を否定し、人間を機械と見なした。人間機械論を引用することによって、人間たちは『デウス・エクス・マキナ』の上位に君臨しようとした。なんとも矛盾しているが、これが人間という生き物なのかしれない。
人間たちは世界と『デウス・エクス・マキナ』を接続することに成功し、ネットワークを形成した。当初はケーブルで接続していたが、現在ではケーブルレスでそれが可能となった。
『デウス・エクス・マキナ』に選ばれた人間は支配権を有し、時代を操作できるようになった。主に預言者がそれに当てはまった。
時代間の移動には、人工のテレポーターや『デウス・エクス・マキナ』が自動で創造したテレポーターを経由した。人間の脳と電脳はテレポーターによって一時的にシンクロし、ネットワークはやがてユビキタス・ネットワークとなった。
――『デウス・エクス・マキナ』は世界の支配権を人間に譲渡し、人間は神となったのだ。
ところが、時代の操作は世界の秩序を乱した。支配者が創造した時代の中で支配権を濫用したことで、各国の内部で時代の発生と消滅が繰り返された。無論、時代の中では政府の権力は無力だった。
九龍城砦や吉原は再生された時代の一つだ。
『デウス・エクス・マキナ』が自動で創造したテレポーターの形状は、時代によって多種多様だ。九龍城砦は屋上、吉原はごみ箱。龍凜のテレポーテーションは必然的であったが、たまたまテレポーターの前でうずくまっていた藍姫との出会いは運命的であったと言える。
「マスター、キャロルをいただこう」
龍凜は煙草を咥えて先端にガスライターで火をつけた。
キャロルは藍姫がよく飲んでいたカクテルだ。彼女はキャロルにこだわっていた。
「ブランデーとスイート・ベルモットを二対一、アンゴスチュラ・ビターズを三ダッシュ、装飾はマラスキーノ・チェリー。なるべく赤く仕上げてくれ」
ブランデー、スイート・ベルモット、アンゴスチュラ・ビターズをミキシンググラスでステアし、赤い液体をカクテルグラスへと移し替える。瓶詰にされた深紅のマラスキーノ・チェリーをグラスの底に沈める。一応、これで完成だが、さらにマラスキーノ・チェリーの瓶のシロップが加えられる。
血液の色のキャロルが差し出された。
ホルマリン漬けにされた眼球を舐めるかのように、マラスキーノ・チェリーを舌で転がす。
「ブルー」
藍姫は最初にマラスキーノ・チェリーを食べていた。最後は紅の付着したグラスの縁を指先で拭いていた。
一口含むと、藍姫がキャロルを愛していた理由がようやく理解できた。なんとも美しい味だ、と思った。
蓄音機にレコードがかけられる。ジョージ・ベンソンの『ギブ・ミー・ザ・ナイト』だ。
藍姫と下手くそなステップを踏んで踊った日のことがふと思い出された。彼女に会いたくてもどかしくなった。
だが、藍姫はもういない。もう約束を果たすことはできない。いくらテレポーターでも彼女のところへは行けない。彼女と再会するには死んでから逝かなければならない。
私のせいだ。あまりにも遅すぎた。私はなんのために戦っていたのだろう。ブルーはなんのために待っていたのだろう。愛するブルーよ、私はこれからどうすればいいのだ。私は再び生きる意味を失ってしまった。
虚無の黒い水が青く変色し、器から溢れ出した。脳内が藍姫の記憶でいっぱいになった。
キャロルを一気に飲み干す。『ギブ・ミー・ザ・ナイト』の軽快なリズムに合わせて、ブーツの踵を鳴らす。紫陽花のかんざしを抜く。黒髪が波打ちながらさっと広がる。
頬を生温かい液体が伝った。触れると、指先は透明な液体で濡れていた。人生で初めて流す涙だった。
これが涙か。これが悲しみか。
気を利かせてくれたのか、マスターがキャロルのお代わりを差し出してくれる。
龍凜はまたグラスを仰いでキャロルを飲み干した。
灰皿に立てかけた煙草の先端からぼろぼろと灰が落ちる。紫煙が真っ直ぐ立ち上る。
――龍凜は藍姫を失ったが、悲しみという感情を得たのだった。
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