第一章 果たされぬ約束

果たされぬ約束1

 黒髪と漆黒のトレンチコートを翻す。

 龍凜は笑顔をこらえられずにいた。

 歩みが速まる。胸が高鳴る。

 やっとブルーと再会できる。いよいよブルーとの約束を果たすことができる。ああ、なんて長かったのだろう。

 吉原の通りを歩くのは久しぶりだった。十年も前のことだというのに、藍姫と出会った時のことを鮮明に思い出すことができた。

 吉原は変わっていた。連なった長屋は遊郭や飲食店に建て直されており、風流な娼婦街と化していた。

 かつての吉原は、娼婦街と称するにはあまりにも甘美な街だった。遊女は高級娼婦と蔑まれることもあったが、遊女と娼婦は差別化されていた。娼婦であって娼婦でない――それが遊女であり、一夜の夢を見れる街が吉原であった。

 だが、現在の吉原はどうだろう。遊郭が乱立しており、まだ昼だというのに格子の中には胸元や太ももを露わにした遊女が煽情的な体勢で座っている。吉原は娼婦街に成り下がってしまったのだ。

 龍凜はスラックスのポケットに両手を突っ込み、さらに歩調の速度を上げた。

 ブルーはどうしているだろうか。私の迎えを待ってくれているだろうか。

 ところが、龍凜はぴたりと歩みを止めた。


「ブルー」


 呆然と呟いた。それはひどく儚かった。

 約束の小屋に藍姫はいなかった。いや、それ以前に小屋がなかった。小屋は取り壊されて遊郭になっていた。

 おかしい。ブルーと約束したはずだ。この小屋でまた会おう、と。もしかしたら、新しく遊郭を建築するために立ち退きを強制されたのかもしれない。では、ブルーはどこにいるのだろうか。

 一応、小屋だった遊郭を確認してみるが、残念ながら藍姫はいなかった。龍凜はかつて彼女が高尾太夫と謳われていた遊郭へと赴くことにした。

 歴代の高尾太夫が鎮座する遊郭はもはや城だ。建物は五階まで続いており、その上には天守閣が聳立している。無論、この天守閣は高尾太夫のために増築されたものだ。

 ノスタルジックな気分で遊郭を見やっていると、格子の中の遊女が蝶を誘う花のように微笑みかけてきた。


「お兄さん、可愛いわね。ねぇ、私と遊ばない?」


「遠慮しておくよ。私は高尾太夫に用があるから」


「へぇ、お金持ちなのね。ふられたら私と遊んでちょうだいな。先代は優しくて慕われていたけれど、後代は無口で無愛想だから」


「ありがとう」


 遊女のウインクに、龍凜は苦笑しながら暖簾をくぐった。

 恐らく先代が藍姫のことだろう。後代は藍姫から支配者の座を継承した遊女のことだろう。

 玄関でブーツを脱ぐと、遊郭の主が歓迎してくれた。


「いらっしゃいませ、王さま。いやはや、お久しぶりでございますな。王さまが藍姫を身請けなさってから十年が経ちましたかな」


 十年の時が過ぎたこともあり、遊郭の主は老けて白髪が目立っていた。が、謙虚な姿勢は相変わらずだった。


「本日はどういったご用件でございましょうか?」


「藍姫を迎えに来たのだが、約束の小屋にはいなくてね。ここに赴けば何かわかるかもしれないと思ったんだ」


 すると、遊郭の主はあからさまに伏し目がちになった。嫌な予感がした。


「王さま、ご存知ないのですか?」


「だから、ここにいる。藍姫はどこにいるんだい?」


「……私からはお答えできません。藍姫の後代の高尾太夫に会われるのはいかがでございましょうか?」


「そのつもりだよ」


「旧知のよしみです、初回はお代をいただきません」


「ありがとう」


 年季の入った木製の階段を軋ませながら天守閣を目指す。

 弦楽器の瀟洒な音色、騒がしくはしゃぐ物音、女の官能的な嬌声――遊郭は繁盛していたが、低俗になっていた。汚らわしい獣たちに弄ばれていた母が脳裏を過ぎった。

 呼吸に乱れが生じるほど長い階段を上り終え、天守閣に到着した。

 金襖には凜とした龍が描かれている。それは襖を開くのを一瞬躊躇ってしまうくらい荘厳だ。

 龍凜はトレンチコートの襟を正してよれよれのネクタイをきちんと締めた。それから、ゆっくりと襖を開いて後ろ手に閉めた。

 龍凜が立っている畳よりも高い段差の上には、美の権化が座っていた。


 ――彼女は赤の化身だった。


 黒髪をまとめる装飾品は赤。瞳はルビーのごとき赤色。肉感のあるみずみずしい唇には鮮やかな紅。華奢な身体には赤の着物。

 年下だろうが、美貌が年齢の概念を混乱させている。彼女の美貌は藍姫を彷彿とさせる。

 彼女は煙管を咥えてわずかにそれを突き出した。火をつけろ、ということだろう。

 龍凜はおずおずと段差を上がり、腰を屈めてトレンチコートの懐からガスライターを取り出した。蒼炎が煙草を炙り、彼女は金色の瞳を一瞥してから一服した。煙草の臭いと甘い匂いがした。


「下がれ」


 風鈴のように澄んでいて氷のように冷たい声音で、彼女はたたきつけるように言った。

 鋭い眼光に怯みつつ、龍凜は段差から下りて畳の上に胡坐をかいた。


「私は王龍凜。君の名は?」


 彼女は一息吐いてから口を開く。


紅姫くれないひめ


 紅姫――しっくりくる名だった。彼女に最も相応しい名だ。


「紅姫、質問してもいいかな?」


 しかし、紅姫は煙を吸って吐くばかりだ。無口かつ不愛想――これが紅姫に対して抱いた印象だった。格子の遊女の忠告がすぐに理解できた。

 龍凜はしばらく無言で紅姫を凝視した。

 吉原の支配者――高尾太夫に相応しい美貌だ。まさしく高嶺の花だ。紅姫には孤高な美しさがある。


「年はいくつ?」


「二十歳」


 紅姫は不機嫌そうに答えた。


「もう一つ質問がある」


「もう質問するな」


「藍姫は――ブルーはどこにいる?」


 紅姫は表情を強ばらせた。


「……お主は何者だ?」


「ブルーを身請けした者だ。ブルーを迎えに来た」


 紅姫は瞠目し、煙管の雁首を煙草盆に打ちつけた。


「紅姫、答えてくれ。ブルーはどこにいる?」


 すると、紅姫は肘をついて身を起こしながら手招きした。龍凜は再び段差を上がり、かしずくように膝をついた。

 瞬間、脳が回避の命令を発した。が、龍凜はあえてそうしなかった。

 頬が焼けるように熱い。父や礼虎に暴行された遠い記憶が脳裏を過ぎる。


「藍姫さまは亡くなられた!」


 無が龍凜の世界を暗転させた。例えるなら、天井から雨漏りした黒い雫が器を満たすかのように。

 藍姫が死んだ――脳内の片隅に追いやられていた可能性が現実となってしまった。負の思考の羅列が奔流となり、龍凜は呼吸できなくなった。

 嘘だ。私とブルーは約束した。果たされるから約束なのだ。果たされぬ約束なんて約束ではない。そうだ、私とブルーは約束をしたのだ。

 紅姫が再び平手を振り上げたので、龍凜はその手首を掴んだ。細い手は勢いを失い、へなへなと萎れた。手首を離すと、彼女はがくりとうなだれた。


「五年前、藍姫さまは亡くなられた……かわいそうな藍姫さま……藍姫さまは孤独に亡くなられたのだ……」


 紅姫は顔を上げて龍凜の瞳をきっと睨みつけた。


「何故お主は藍姫さまを身請けした?」


 返答に迷いはなかった。


「一目惚れしたから。私はブルーの美貌に魅了された。それに、ブルーは自由になりたいと言った。だから、私はブルーを身請けした」


「では、何故お主は藍姫さまを見捨てた?」


「見捨てていない。私はブルーを愛していた」


「それならお主は何をしていたのだ?」


「九龍城砦で戦っていた。十年前、私とブルーには何もなかった。居場所さえも。私の故郷である九龍にはチャイニーズ・マフィアが跳梁跋扈していたし、吉原では奇異の視線を浴びせられた。だから、私は居場所を作ることにした」


「九龍城砦でチャイニーズ・マフィアと戦っていたというのか?」


「そうさ」


「そんな話が信じられるか。お主のようなひょろい針金がチャイニーズ・マフィアと渡り合えるはずがない」


「これでも私は九龍城砦の支配者だよ。ブルーを迎えに来たのも、チャイニーズ・マフィアを香港から撤退させたからだ」


 紅姫はゆっくりと白煙を吐き出した。


「十年前、私はチャイニーズ・マフィアのボスを殺し、九龍城砦の屋上から飛び下りて吉原にテレポーテーションした。本能的にテレポーターの位置がわかっていたのかもしれないし、自殺しようとしていたのかもしれない。運命的に私はこの吉原でブルーと出会った。無論、当時の私には何もなかったから身請け金なんて持っていなかった」


「では、どうやって金を手に入れたのだ?」


「チャイニーズ・マフィアから盗んだ。チャイニーズ・マフィアは武器やドラッグの売買で儲かっていたから、高尾太夫を身請けできるくらいの金が手に入った。私はブルーを身請けし、居場所を求めて一緒に世界中を旅した。だが、チャイニーズ・マフィアは私を殺すために追ってきていた。そればかりか、殺人株式会社マーダー・インクを雇っていた。イタリアン・マフィアも加勢し、私たちの居場所はさらになくなっていった」


 殺人株式会社は殺人をビジネスとする組織だ。元はギャングとマフィアの大規模な抗争を抑制する中立的な組織だったが、現在は独立して世界中でビジネスを展開している。犯罪シンジケートの不利益となる人物を殺害するのが主な仕事で、チャイニーズ・マフィアに大きな損害を与えた龍凜はその対象となっている。独立してもあくまで中立性を保っている分、下手な行動を取れないのが厄介だ。


「このままではブルーを危険にさらしてしまう――だから、私は先手を打つことにした。迷路のような九龍城砦は、単独対複数で戦闘するにはちょうどよかった。実際、チャイニーズ・マフィア、イタリアン・マフィア、殺人株式会社と乱戦になってもこうして生き延びている。私は九龍城砦に居場所を作ることにした」


「何故一度たりとも吉原に帰らなかった?」


「ブルーの存在をばらしたくなかった。もしばれてしまえば、私どころかブルーまで殺されてしまう。それも、残虐極まりない方法で。私はブルーを守るために吉原には近付かなかった。ブルーには人気のない小屋に住まわせた。再会を約束し、私とブルーは一時の別れを決意した」


 龍凜は戦い続け、藍姫は待ち続けた。居場所を作るために奔走し、十年の時を経てついにそれを実現した。時既に遅しではあったが。

 藍姫がいなくなったというのに、龍凜は冷静であった。というよりも、その実感がなかった。虚無感が無機質な心臓にぽっかりと穴を開けているのみであった。


「君はブルーとどういう関係だったんだい?」


「一言で言うなら、藍姫さまはわっちの恩人だった」


 眼窩にはめられた宝石のような眼球を潤ませながら、紅姫は心なしか穏やかな口調で答えた。


「わっちは生まれた時から遊郭の中で生きてきた。藍姫さまも同じだった。かつてわっちは遊女ですらなかった。遊郭の雑用をさせられていたのだ。まるで奴隷だった。一日中働きっぱなしで、食事は一日一食のみ。しかも、それはやたらと水分の多い芋粥だった。常に空腹だった。睡眠もろくに取らせてもらえず、倒れでもしたら罵倒の雨が降った。遊女の生活が幾許もましに思えた。美しく着飾り、まともな食事も取れる。煙管も吸えるし、酒も飲める。籠の中とはいえ、贅沢ができる」


「ブルーが地獄から救ってくれた、と」


「そうだ。ひょんなことから藍姫さまの身の回りの世話をすることになり、わっちの人生は一変した。藍姫さまはわっちにも三食の食事を食べさせてくださった。着物や装飾品も買ってくださった。藍姫さまはわっちを奴隷ではなく人間として扱ってくださった。いつしかわっちは遊女となっていた。藍姫さまはわっちにとっては師匠でもあった。着物の帯の締め方、髪の結い方、文字の読み書き、弦楽器の演奏方法は全て藍姫さまから教わった。藍姫さまは誰に対しても優しくて、皆から慕われていた。わっちは藍姫さまに憧れていた。わっちも藍姫さまのように美しい高尾太夫になりたいと思っていた」


 無口な紅姫が堰を切ったようにしゃべっている。それほどまでに藍姫のことを慕っていたのだろう。


「わっちが十歳の時、藍姫さまは身請けされた。何もかも空白になってしまったようで寂しかったが、わっちは素直に幸せを祝った。遊郭を去られる直前、藍姫さまはわっちに高尾太夫の座を譲られた。わっちは驚いたが、同時に藍姫さまには心の底から感謝した」


 紅姫は「だが」と言葉を続けた。


「とある噂がわっちの耳に入った。藍姫さまが病床に伏していらっしゃる、という噂だった。わっちは遊郭を飛び出して、藍姫さまに関する情報を収集した。そして、閑静な立地の小屋に辿り着いた。噂通り、藍姫さまは憔悴していらっしゃった。存じぬ名をぶつぶつ呟いていたが、きっとお主の名だったのだろうな」


 依然として龍凜の内心にあったのは虚無感であった。涙が流れるどころか悲しみさえも感じなかった。

 金色の瞳と赤色の瞳が交わる。


「藍姫さまから預かっているものがあるのだ。だが、一つ確認しておきたい。お主、藍姫さまからなんと呼ばれていた?」


「ドラゴン」


 即答すると、紅姫は髪に挿していたかんざしを抜いて差し出した。


「これは?」


「藍姫さまが遺されたかんざしだ。ドラゴンに渡してくれ、と頼まれていたのだ」


 それは、紫陽花のかんざしだった。藍姫が挿していたかんざしだった。


「ありがとう」


 龍凜は無精で伸びた髪をまとめて紫陽花のかんざしを挿した。


「では、そろそろお暇させてもらうとしよう。君と話せてよかった」


「もう二度と会うことはない、か?」


 確かめるような口調に、龍凜は微笑しながら紅姫の白い手を取った。滑らかな手の甲にキスすると、彼女はうぶな処女のように少しばかり頬を赤らめた。


「恐らくね」


 龍凜は踵を返した。

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