幸せとの邂逅3

 瞼を開けると、盲目の錯覚に陥った。暗闇で視覚が機能していなかったからだ。

 ひどく息苦しい。閉塞感が胸を締めつける。

 しつこい嗚咽が鼓膜を振動させた。どうやら少女がすすり泣いているようだった。

 嗚咽は狭い空間の外から聞こえる。

 方向もわからないまま空間を手探ると、手のひらに何かが当たった。その感触は木のようだった。たたいてみると、それはわずかに浮いた。龍凜はそれをぐっと押し上げた。

 すると、空間はたちまち開放された。龍凜は膝を高く上げて木製の箱から転げ落ちた。


「はぁ、ひどい目に遭った」


 むくりと起き上がってトレンチコートの土を払った龍凜。九龍城砦の屋上から飛び下りたはずだが、何故かごみ箱の中にいた。

 首を傾げていると、少女がうずくまって見上げてきているのが視界に入った。龍凜の疑問は新たな疑問によってかき消された。少女の頬には涙が伝っていたのだ。


「どうしたの?」


 龍凜には涙の概念がなかった。悲しみの具現化――それくらいしか理解していなかった。だから、少女が涙を流しているのが異常なことに思えた。

 少女は無言を返した。

 もしかしたら、自己紹介もなしに話しかけたのがまずかったのかもしれない。


「私は王龍凜。君の名は?」


「名はない。だが、あえて名乗るなら藍姫だ」


 藍姫と名乗った少女はか細い涙声でそう答えた。


「ここはどこ?」


「吉原」


「吉原?」


「日本の吉原だ。お主はごみ箱の中に住んでいるのか?」


「いや、香港の九龍城砦だよ。もしかして、ここは天国?」


「天国ではない。ここは地獄だ」


 地獄、ねぇ。だが、いずれにせよ死んではいないようだ。どうやら日本という国に瞬間移動してしまったらしい。

 龍凜は改めて藍姫をじっと見つめた。

 提灯の火で輝く黒髪は艶やかで、煌びやかな装飾品で結い上げられている。瞳はサファイアのごとき青色。玲瓏たる声音は性別の壁を麻痺させる。唇には血液のような紅を差している。それとは対照的に、肌はミルクのように白い。派手な青の着物は女性的な魅力を引き立てている。裸足には黒漆の下駄を履いている。大人びた妖艶さがあるが、まだ容貌には少女らしいあどけなさが残っている。


 ――藍姫は美しかった。


 きっと藍姫は高貴な人間なのだろう。そうでなければこんな贅沢な格好はできない。先ほどまで布切れ一枚で生きてきた私とは違うのだ。


「藍姫はさぞ幸せなのだろうね。それなのに、どうして涙を流すんだい?」


「幸せではないからだ。わっちは籠の中の鳥。皮肉だろう? 不自由な鳥が吉原の支配者だなんて」


 矛盾しているな、と龍凜は思った。

 藍姫は視線を上げて金色の瞳を見据えた。


「お主は何者だ?」


 龍凜は言葉を紡ぎ出すために脳内で思考を整理した。

 私は王龍凜。十五年の人生を九龍城砦の中で生きてきた。

 龍凜ははっと刮目した。

 私には何もない。私は王龍凜以外の何者でもない。いや、私は王龍凜という器の虚無だ。精神と肉体には生の烙印が押されているが、魂は白紙タブラ・ラサのままだ。そもそも魂なんて存在しないのかもしれない。


「私は何者でもない」


 龍凜は譫言のように呟いた。これを答えと受け取ったのか、藍姫は表情を弛緩させた。


「わっちと同じだ。わっちには何もない。居場所もない」


 確かに、龍凜と藍姫の境遇は類似していた。が、二人には決定的な相違があった。それは、自由か不自由か、だ。

 龍凜は九龍城砦の屋上から飛び下りたことによって自由になった。藍姫は遊郭から逃げ出しても未だに不自由だった。


「私と君は違う。私には翼がある。だから、ここにいる。生きている」


「では、お主の方が幸せなのだな」


 藍姫は羨望の眼差しを宙に彷徨わせた。龍凜は否定の意を込めて首を横に振った。


「仮に幸福の尺度があったとして、私たちは比較できない。不幸は万人にとって不幸でしかないのだから」


「……そう、だな。すまなかった、龍凜」


「謝ることはないよ。ところで、藍姫はどこに住んでいるんだい?」


「遊郭だ。まさに籠の中だよ」


「それならどうしてここにいるのかな?」


「抜け出してきたのだ。だが、後悔している。気が遠くなるくらい世界が広いことと居場所がないことを思い知らされたのだからな。さて、そろそろわっちは帰るとしよう。居場所がないとはいえ、わっちが生きていられるのは籠の中のみよ」


 藍姫が重い腰を上げようとしたので、龍凜は片手でそれを制止した。

 藍姫は眉をひそめた。


「なんだ? できれば夜が明ける前に戻りたい。さもなければこっぴどく折檻されてしまう」


「藍姫、自由になりたくないか?」


 藍姫は渋面を浮かべた。


「冗談ならやめてくれ。笑えないぞ」


「冗談ではないよ。どうしたら自由になれる?」


「身請けしてくれたら自由になれるが……身請け金は莫大だ。とてもではないがお主に払えるとは思えない」


「いくらだって払ってみせるさ。私が君を身請けするよ。ただ、一つ確認しておきたい。自由には死のリスクが伴う。不自由には保護が付随する。籠の中から羽ばたいたが最後、居場所がない世界で生きていかなければならない。それでも自由になりたいかい?」


「龍凜と一緒にいられるのなら」


 藍姫はこくりと頷いた。

 藍姫のために人生を捧げよう。たとえ世界中の人間が敵になったとしても、きっと私が守ってみせよう。出会ったばかりの少女に命を賭けるなんておかしいかな。

 だが、龍凜は藍姫の中に同じ色の魂を垣間見た。もしかしたら、一目惚れだったのかもしれない。


「これから君の名はブルーだ」


「ブルー、か。お主のことはどう呼べばいい?」


「そうだな……ドラゴンでいい」


 龍凜は手を差し伸べた。藍姫は戸惑いつつもその手を取った。

 仰いだ空は神々しく白んでいた。

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