ミューズを殺せ

早稲田暴力会

 ハセマツリカ、って覚えてますか、と私が切り出すと、作りかけの像の前に立っていた深谷が振り返った。白髪交じりの無精ひげを指先で撫で、彼女の名前を呼ぶために唇を開く。ハセマツリカ、と深谷は繰り返す。ハリのない唇の端が、少し震えていた。

 私は深谷の顔から、その後ろにある像に目線を移す。塑像は縦が一五〇センチほどで、深谷の作るものにしてはコンパクトな部類だった。骨組みの木材の上に粘土をつけている途中で、まだ完全に姿を現していない。それでも、深谷の技術とセンスの確かさがあらわれていて、未完成なのに、美しかった。

 むしろ、完成していないからこその美しさが、そこにある。肉が溶けている途中の女。あるいは、肉をまとっている途中の女。深谷がアトリエ代わりにしている海辺の倉庫には、その大きさに相応しく、たくさんの作家が出入りしていたけれど、作りはじめてから完成するまでのすべての瞬間が美しい作品を作ることができるのは、ただ深谷一人だけだった。

 美を作り出せる技術は、力だ。あらゆる暴力的なものを、さもただ美しいだけのものである、と思わせて、見る人に強制的に飲み込ませてしまえる、性の悪い力。私はそれにあこがれていて、同時にひどく嫌悪している。嫌悪しているのに、それがどうしてもほしい。だから、私はここにいる。

 美そのものを錬成できるなら、どんな思想も飲み込ませることができる。ゆえに、芸術にかんする思想には精査が必要である、と述べたのは美大時代の教員だった。私はそれを聞いて、美を作り出せる力がほしい、と思った。だって、どんな暴力も、美しさの前には漂白されてただよいもののように受けとられるなんて。私ははじめてハセマツリカの写真を見たときのことを思い出す。あの瞬間、私のすべてが決まったのだった。ハセマツリカ。万人の、そして私のミューズ。もっとも、私が彼女に対してミューズと呼ばざるをえないのは、ひどい屈辱だったけれど。

 そんなことを考えながら再び深谷の方を見ると、彼は怪訝そうに皺の寄った目蓋を持ち上げていた。けれど、すぐに目を細めて、覚えてるも何も。と言った。覚えているも何も、ここでは常識のひとつである、と。眠たそうな印象を与える表情でかすかに笑った。目蓋がたるんでいるのがその原因だろう。重たい一重目蓋が黒目の半分ほどを覆っている。この目で見えている世界はどんなものだろう、と多くの人が嫉妬している眼球。その黒目は、加齢によって薄く白く濁っていた。

「ハセマツリカ、伝説のミューズ。あの女のせいで何人の気が狂っちまったか分からないとかいう。ま、一番狂っちゃったのは、撮った朝川だろ。ああいうのは、ポリコレとか言われているイマじゃもう古いけど、でも、あの写真集ば伝説だよ。ハセマツリカ。あれが犯罪じゃなければ、日本写真史の中でも名が残るような女だったね。誰もが彼女のことを忘れはしない。批評家が頑張れば百年後にも残せるけど、やっぱり倫理との折衷っちゅーのは難しいんだろうね。もちろん、政治のために芸術があるわけでも、芸術のために政治があるわけでもないけど、常に無関係ではいられんしなあ。たぶんだけど、朝川もハセマツリカも死んだら再評価されるんじゃないかな。そんときゃ俺もお前も死んでるだろうけどさ」

 私はその言葉を聞いて、そうですか、と返した。予想していた通りだったし、何か答えを求めていたわけではないから、それで満足だった。深谷も、それ以上何か言うことがなかったのか、話題を切って、私にピンク色と白と灰色を混色するように、と指示を出した。私は近くの地べたに置かれていた配色スケール表を拾って、深谷が述べる色のイメージを具体的に尋ねる。

「白色は、どちらかというと青っぽい方がいいな。ミルク色というよりは雪色の方。灰は、黒橡系統の色。それを、明度の高い色にして。ピンクは、ほらあそこにあるブラジル産の大理石みたいな色がいい。やってみて。オーケーだったら、一番デカい箱いっぱいに増やして」

 はい、と私は頷いて、アトリエの壁際に作られた三畳ほどの大きさの流し場に向かう。コンクリートの水切り場に伏せられていた絵の具入れのタッパーをひとつとって、珊瑚色の絵の具の粉末をとりあえず三匙すくって入れた。

 ブラジル産の大理石は、私の作りかけの裸婦像だった。スケッチを見せると、深谷は、高橋にしてはいいんじゃないの、と気のない口調で言った。一応、深谷の弟子ではあったけれど、深谷は私の作るものを子どもが作ったガラクタ、だと公言して憚らない。それでも、深谷の弟子になることすら叶わない人も多い中、拾ってもらえたことは幸運なことだった。

 大理石を削るのには力が必要だった。大理石を掘るのははじめてで、なかなか慣れない。そのせいで、右腕が腱鞘炎になりかかっていて、制作ペースが落ちている。一週間前、あれが完成するのは、いつになるんだろうね、と深谷は悪気なく言った。

「完成しない作品は、よっぽど力量がない限りはゴミだね。新人賞レベルのお前に未完成というテーマはまだ早いよ。とっとと作っちゃいなさい」

 アトリエでビールの缶を傾けながら、深谷は大理石をペタペタ手のひらで叩きながら笑った。

「こんなデカいゴミ、長期間置いておけるほどうちのアトリエは広くねえなあ」

 触っている部分は像の頭にあたるところで、その動作の悪意に、私は腹が立った。深谷は悪いとすら思っていないだろうけど。よっぽどその辺に転がってる金鎚で、像を触る手つきと同じように、深谷の頭を打ってしまいたかった。

 進みあぐねている作品を見て喜ぶ趣味はない。それでも深谷の色を作るためにはその前に立たなくてはいけない。深谷は現代美術の巨匠で、専門は油絵だったけれど、彫塑にポップアートにプロダクトデザインと手広い分野で活躍していた。

 そして、どれもがすべて美しい。彼の皺だらけの手から作り出されるものは、美だった。美のバリアントを、四十五年間作り続けている人間。美のひとつすら手に入れられない私は、それを見るたびに気が狂いそうになる。巨匠に嫉妬なんてちゃんちゃらおかしいと言われればそれまでだけど。それでも、やっぱり妬ましいものは妬ましい。

 像の前に立って色を混ぜる。もう少し東雲色に近い方がいいか、と別の色を足して、またパレットナイフで色を混ぜる。金属のブレードにのせて大理石の色合いと比べる。絵の具は大理石よりオレンジ色に寄っていた。ダメ。やりなおし。大理石は光を反射させて、つやつやと輝いている。触れば溶けてしまいそうな風合いで。私の手が入らなくとも綺麗だなんて、ムカつく。むしろ、私の手が入らない方が美しいとさえ言われているような輝きだった。

 クソ、どいつもこいつも私のこと馬鹿にしやがって。



 色をこねて、日が暮れるまでそうしていた。リテイクのたびに色を流して作り直す。結局三色ともオーケーが出たのは、午後九時のちょっと前だった。今日も自分の制作に入ることはできなかった。まあ、色を混ぜていると腕が痛くなっていたから、早く終わったとしても、できるわけじゃなかっただろうけど。

 深谷が晩飯を食おうと言ったので、アトリエからほど近い和食屋に行った。最初は、今やっている個展の苦労話や美術理論をぶったりしていたけれど、酒が入るにつれて深谷は下世話な話しかしなくなった。いつものことだけど。私はろくろく聞かずに、ただつまみを口に運んでいた。

「頼子はいいねえ。何よりおっぱいがデカいし。お前知らないだろ、アイツ乳首の上にほくろがあるんだよ」

 下世話な話でも、まだ私の知人でなければ聞いていられる。けれど、今日はよりにもよって、同期の今田頼子と寝た話だったから、うんざりだった。今田のほくろの位置なんか知ってたって、なんの役にも立ちやしない。私はへーと雑に相槌を打ちながら、卵焼きを噛んで飲み込んだ。

 日本画家の今田は、顔が派手な美人で、グラマラスだったから、深谷のお気に入りだった。絵の話ではなく、今田の肉体を気に入っているという意味での「お気に入り」だけど。深谷が作品を評価している若い弟子は、おそらく一人もいないから、それも道理だ。

 深谷は今田の絵を児戯に等しいと評価していたけれど、世間的には新進気鋭の人気画家だった。大学卒業二年目で個展も開いている。私とは雲泥の差。大手の化粧品会社のパッケージデザインにも採用されているし、カルチャー誌に特集も組まれていた。期待の新人・美しすぎる日本画家、今田頼子。

 深谷と寝るメリットも特にないはずの今田が、いまだ彼との肉体関係を続けているのは、今田が深谷の熱狂的なファンだったから。独立しないのもそのためらしい。本人いわく、作品どころか深谷という人間すらも愛している、とのこと。私は深谷の作品は好きでも、あまり深谷のことは好きではない。作品が優れているからこそ人間性は嫌いだった。指導をもらっている身で悪しざまに言うのも気が引けたが、それが本心だった。

「いやあ、俺も二十そこそこの女から愛されちゃうなんて、まだまだ男の廃業は先だな。芸術の方が先に辞めちゃうかもなあ」

「そうですか。残念ですね」

 カウンター席の下で、深谷の膝がわざとらしくべったりと私の膝に触れる。私は椅子を引いて距離をとり、肘で深谷の脇腹を押し返す。

「なんだよお、高橋は相変わらずノリの悪い堅物だな。俺より頭かたいんじゃねーのか」

「先生のノリに全員が合わせられるわけじゃないですから」

「まー、とりあえず作品は作れよ、俺と寝ない、作品も作れないじゃアトリエにも置いとけねーぞ」

 ワハハ、とデカい声で笑って、日本酒の入ったお猪口を傾けた。私は口をつぐんだまま手もとの日本酒を飲み干す。深谷の女癖の悪さは周知の事実だった。深谷より一回り年下の奥方は

「子どもさえこさえなければいいんです」

 と笑っている。それに、深谷の奥さんも、もとは彼のアトリエにいた画家志望の人間で、最初の奥さんから寝とったから、文句も言えないのだろう。

 私の周囲にいる人間は、みんなある種の神話の信奉者だった。芸術家は女癖が悪い方がインスピレーションに富むという神話。女と寝ることで芸術家は高みに到達するとかたくなに信じている。女は、二つに分かれている。ひとつが、男と同様に、自分のミューズを信じて疑わない人たち。もうひとつが、自分がミューズに据えられることで、永遠の美になる、と懸命に信じている人たち、だった。後者は、深谷と寝ればミューズになれる、という神話を崇拝している。深谷は配偶者も恋人も直接のモデルにしたことなんてないのに。でも、私だけが清いというつもりはない。結局、私もハセマツリカのことを考えれば、同じ穴のむじなにすぎなかった。

 まだ一合しか飲んでいないのに吐き気がして、すでにでき上がっている深谷を連れて店を出た。タクシーを止めて、座席に深谷を押し込んだ。自分は助手席に乗って、運転手に深谷宅の住所を告げる。車の走る速度で過ぎていく外をぼんやりと見ながら、私はとりとめなく考えごとをしていた。

 私にミューズはいらないし、ハセマツリカは私のミューズではない。そう、言い切れるようになりたかった。だから、それを証明できるような作品を作らなくてはいけない。腕の炎症が身体の内でじくじくと熱を持つ。ああ、あんなふうにいびきをかいて寝こけている人間が、憎い。でも何より憎いのは、自分の力量がなくて美しいものが作れない、という事実だった。

 深谷の家の前でタクシーが止まる。そして、深谷を起こして、立ち上がらせ、ふらふらとしているのをそのままにチャイムを押した。すぐに扉が開いて、浴衣の奥方が出てくる。すっきりした顔の美人で、五十五でこれなんだから、若い頃は相当の美人だったんだろう。奥方はタクシーの代金を支払って、「ほら、入りますよ」と深谷の身体を支えて歩かせた。玄関にある趣味のいい椅子に座らせ、靴を脱がせている。私は、深夜にすみません、と頭を下げて帰ろうとする。と、奥方は深谷の傍に膝をついたまま、

「今日はありがとうねえ。深谷とするときは避妊だけはよろしく頼みますね」

 と、言った。

「……私、先生とは寝てないんですが」

「時間の問題。この人が若い女に手をつけないはずがないでしょう」

「それなら、女を周囲に置かせない方がいいんじゃないんですか」

「別に。私は深谷を愛していますが、作品があっての深谷ですから。作品さえ作っていれば、どんなにろくでなしでもいいの。私は深谷を愛せる」

 そう言って、笑った。私は幸せそうな顔で寝こけている深谷を一瞥して、もう一度頭を下げてタクシーに乗り込んだ。

 タクシー代は、深谷の家までと、深谷の家から私の家までの料金が支払われている。それが、深谷の家に彼を送るときの様式だった。私は飛ぶように進んでいく車窓から、尾を引いて流れていく光を見ている。深谷も、深谷の周りにいる人間も、嫌いだった。深谷も可哀想だったし、今田も奥方も哀れだった。私もその中の一人。車が揺れるたび、内臓がかき乱されて吐きそうだった。

 私はハセマツリカの写真のことを考える。ゴミ集積場の、生ゴミの上に寝っ転がる姿。キッチンの流し台の中に詰め込まれて水を注がれている姿。コンビニ弁当を腹の上にぶちまけられている姿。死体みたいに力なく横たわっている、十二歳の裸の少女。

 写真集の内容は、ページ順にすべて思い浮かべることができた。写真は全部で二十枚。それ以降、ハセマツリカは一枚も写真に撮られることはなかった。

 でも、あの鮮明な色遣いの写真だけで、十分だった。「誰もが彼女のことを忘れはしない」。私も、彼女が映った写真のことを忘れたことは、一秒たりともなかった。それが私を責め続ける。違う。私が加害し続けている。永遠に、ハセマツリカのことを、殺し続けている。


 帰宅したのは深夜零時。自分のアパートのドアを開けると、狭いワンルームの窓際に置かれたベッドに、長い黒髪を垂らして、ハセマツリカが寝ていた。あの写真のように、死んだように。私はそこで我に返って、首を振った。嘘。マツリカではない。そこにいるのは、長谷川茉莉花という名前の、ただの女。

 彼女を起こさないようにそっと靴を脱ぎ、シャワーを浴びる。手や腕に付着した絵の具を落として、パジャマを着て部屋に戻った。扉を開けて中に入ると、青色の闇の中、茉莉花はベッドの上で身体を起こして座っていた。

「起こした?」

「別に」

 ごめん、と言って部屋の電気を点ける。眩しい、と茉莉花は言った。私はもう一度、ごめんと言った。

 部屋の中は一週間前と比べると、混沌として汚れている。茉莉花にゴミを捨てる能力がない、と気が付いたのは、ここ数日の発見だ。手当たり次第、床に置かれたままの空き缶やカップ麺の殻を、ゴミ袋につっ込んで封をした。それを玄関に持って行って、クイックルワイパーで床を拭く。美都ってば相変わらずマメねえ、小学校のとき真面目ちゃんって呼ばれてたっけ、と歌うように言って、ベッドの上にあったティッシュを床に捨てた。腹を立てながらそれをゴミ箱に投げる。

 そういえば、茉莉花の実家は汚かった。


 茉莉花がこの部屋に転がり込んできたのは、一週間ほど前に偶然再会したからだった。

 新宿の画廊に行った帰り、駅の前の喫煙所に立ち寄ると、そこに茉莉花はいた。ぼんやりとタバコをふかしているその横顔に、一瞬、時間が巻き戻ったのか、と、殴られるような衝撃が、あって、くらっと脳震盪のような、不随意の気持ち悪い感覚が、私の全身を覆いつくす。

 脳ミソの中できゅるきゅると何かが巻きとられる錯覚がした。その記憶がしまわれていた部分が、とたんに勢いよく動きはじめて、熱を持つ。古びてしまった記憶、居心地悪くも焼きついて消えてくれない記憶の、無造作に切り出された断片が、砂嵐のように視界に降り注ぐ。無秩序なフラッシュバック。一度瞬きをすると、その瞬間、目蓋の裏を、光が過ぎていく。指先で触れた腹のすべらかな皮膚の感触が、においが、湿った欲望が、そのとき口からこぼれ出てもう戻らない言葉が、茉莉花の視線が、すべてが、ざらざらした手触りの記憶の破片となって、現在の私につき刺さっていく。刺さったそばから、私は十二歳のあの日の私に、戻っていって。中学一年の、暑い夏の日。真っ白い光に照らされた埃っぽい小さな和室、真っ黒い髪を白い細い手でそっと耳にかけて、私を見つめて、私の頬に涙を落とした瞬間の、小さい飛沫、の、感覚と、私を触る遠慮のない手つき。怖かった? 気持ちよかった? 楽しかった? あらゆる感情は渦巻いて、ひとつになって、私はその中に沈んでいく。どれかひとつをとり出すと、周辺にある感覚も一緒に引っ張られて、すぐに分からなくなる。でも、ひとつだけ言えることがあるのなら、私には茉莉花が刻みつけられているということだった。掘りつけられている。タトゥーのように、鮮明に、美しく。

 不意に肩にどんと何かがぶつかって、引き戻された。顔を向ければ、ビジュアル系ファッションの男が、迷惑そうに私を押しのけて喫煙所から出ていった。手の力が上手く入らなくて、持っていた世界堂のビニール袋を、灰まみれのコンクリートに落としていた。拾い上げて、もう一度彼女の方を見る。

 彼女は、そこにあった。十年前と変わらない、美しさで。タバコの煙を吐く。人を火葬したさいに立ちのぼる煙のように、ゆっくりと空に溶けて消えていった。

 私は、耐えきれずに声をかけてしまったのだった。まりか、と呼ぶと、私の方を見る。何秒間か悩んだそぶりの後、美都? と私の名前を呼んだ。頷くと、久しぶり、と笑う。赤色の唇の間から、薄い煙が漏れる。

「私のことまりかって呼ぶの、小中の友達だけなんだ。それ以降がまり。だから、名前を呼ばれると、誰に呼ばれたのかすぐに分かる。脳ミソで検索しやすいんだよ」

 私と茉莉花は高校で進路が別れて以来、一度も会っていなかった。茉莉花が私のことを分かったのは、私が名前を呼んだからだった。

 私はというと、すぐに分かった。だって、離れた後も、私の手の内から離れていったことが許せなくて、わざわざヤフオクで買い求めたあの写真たちを、繰り返し繰り返し見ていたから。

 ゴミ集積場の、生ゴミの上に寝っ転がる姿。キッチンの流し台の中に詰め込まれて水を注がれている姿。コンビニ弁当を腹の上にぶちまけられている姿。死体みたいに力なく横たわっている、十二歳の裸の少女。

 今は法律が改正されて、写真を持っているだけで犯罪だった。でも、私の人生を捻じ曲げた女の、私の運命を捻じ曲げた写真を捨てることなんて到底できなくって。彼女は手のうちにないけれど、あの写真だけは手の中にある。そのことだけが、私の唯一の希望だった。希望、そう希望。希望というよりも欲望と呼んだ方が正しいのかもしれない。あるいは絶望。いずれにせよその写真がかきたてる感情は、ひとつの言葉が言い表せる範囲をゆうに超えていて、たぶん、手に負えるものではなかった。

 そんな、私を動かしててやまない写真を見続けているうちに、私は今の道に進もうと、勝手に決心していた。「せっかく成績がいいのに美大に行こうだなんて」。父親とは現在も和解できていない。彼は私を弁護士にしたかったのだった。「美術だなんて役に立たないこと」。でも、私はそれを押し通した。

「虚学なんてやめなさい。それはお前を助けない」

 美術が虚学かどうかは私には分からなかったけれど、彼の言う通り、美というものが、私を助けたことは一度もなかった。でも、そんなにも何の役にも立たないのに、私にとっては、家族よりも人生よりも、美と呼ばれる何かが大切だった。ハセマツリカの幻影を追うことの方が、私にまつわるあらゆるものより、はるかに重要で意味のあることだった。

 ハセマツリカの幻影。真っ白い皮膚に落ちる薄灰色の影と、黒い髪の毛が艶やかに跳ね返す光。その両方が溶けて広がって、光になって私を照らし、影になって私を暗く覆いつくしている。それが、ぎゅっと百六十五センチまで縮んで、周辺に肉をまとって、唇三寸に火を点して、いた。JR新宿東口の喫煙所に。

 黒くて長い髪はまっすぐに背中の中央まで伸びていて、風が吹くたびに柔らかく揺れて、その一本一本がつややかに光っている。真っ白い肌はミルクを凍らせて掘り出して丹念にやすりをかけたみたいな、触れたらきっと冷たいんだろうな、と想像させる気高さで彼女の輪郭を作り上げている。大きくて色素の薄い瞳は、青みがかった灰色にも見える茶色で、光が映り込んで、彼女の感情とは無関係にきらきらと光っている。瞬くと、長くて黒い睫毛が、目の下の皮膚を舐める。全部あのときのまま。写真集から抜け出してきたみたいだった。輪郭や鼻筋はすっと痩せていて、骨の繊細さがうかがい知れて、一層美しかった。きっと、服の下もあの写真そのままで、やっぱり美しいのだろう。

 そんな観察をしながら、半ば上の空で聞いたところによると、茉莉花は男の家を転々としていて、ちょうど今の男と喧嘩別れをしたばかりらしかった。

 どうしているの? と尋ねると、「ネットカフェ」と返ってくる。

「お金がかかるけど働いてないから」

 へえ、と私は言った。私もアルバイトで食いつないでるし、似たようなものかも。そう言うと、ちょっと意外そうな顔で私を見る。

「美都は今何やってるの?」

 私はちょっとためらってから、「彫刻を掘ってる」と答えた。茉莉花は、アーティスト? と尋ね返す。私はそんなところ、と首肯して、彼女から視線を外した。アーティスト様ねえ、意外。茉莉花は嫌味とも本心ともとれない口調で言って、タバコを捩じり消した。

 本当はそこで別れるべきだった。でも、そのまま彼女を手放すことがどうしてもできなくて、「せっかく会ったんだから、ちょっとしゃべろうよ」と、思わず言ってしまった。彼女は丸くて大きい瞳を少し細めて、目の下の筋肉を緩やかに盛り上げながら、「美都の部屋で飲もう」と、提案してきた。私は、お金がないからそう言っているんだと勝手に想像していたのだけれど、茉莉花はそのまま私の狭いワンルームに住みつくつもりだった。

 私が部屋に上げると、玄関に酒の入ったビニールを置いたまま、私のベッドに寝っ転がった。

「ちょっと」

「私ここで寝る」

「え、もう寝るの?」

「違う違う。明日からの話」

「はあ?」

「せっかく再会したカワイー幼馴染なんだから、いいじゃん。次の男が見つかったら出てくよ」

 私は毛布を引き伸ばして包まる茉莉花の、白い頬を見ていた。馬鹿にされているんだろうな。でも、私は結局断らなかった。断れなかったといった方が正しいのかもしれない。弱みというか、負い目というか。そういうものがあると茉莉花は勘づいていて、こういう振る舞いをしているんだろう。

 私は次の日家を出る前に、そっとキャビネットに鍵をかけた。そこに入っている、ハセマツリカの写真を見られるわけにはいかなかったから。


 ハセマツリカを撮った現代写真家の朝川洋嗣は逮捕されていた。ここ数年はまた写真を発表しているらしいが、捕まる前に撮っていたものとはうって変わって無機物しかモチーフにしていない。もともと裸婦写真の権威と呼ばれていただけに、かつての勢いはなく、大学時代からの盟友と公言している深谷すらもが酷評していた。詰まらんものしか撮らなくなっちゃったねえ。醜い老体晒すよりか死んだ方がマシなんじゃないの? 数年前にブログでそう言っていた。当時私はまだ大学生で、まさか深谷に師事するとは思いもしなかったから、気にも留めていなかったけれど。

 罪状は、児童買春、強制性交等罪、猥褻物頒布等の罪だった。他にも余罪があったかもしれない。平たく言えば児童ポルノにかんする罪だった。扇情的な「芸術写真」を撮って公開したから捕まった。おまけに、十二歳だった当時のマツリカと性交してしまっていて、それで実刑判決が出た。マツリカは十二歳には見えない、化粧をすれば十八にも二十歳にも見える大人びた容姿だったから、朝川は十二歳と知らずにセックスしていたようだったけれど。それでも言い逃れはできず、治外法権のゲイジュツ大家が捕まったということで、連日ワイドショーでは大騒ぎだった、記憶がある。

 マツリカ同様私も十二歳で、当時その意味合いが理解できていたかといえば怪しいのだけれど。それでも、同級生はみなハセマツリカのヌード写真のことを知っていた。一時は本屋に並んでいたから、表紙を目にした人も少なくない。おまけに、ちょうど携帯が普及しはじめたタイミングだったから、ハセマツリカという名前を入力してボタンを押せば、マツリカの写真を見ることができた。いまだに「伝説のミューズ」と呼ばれているだけに、いくら削除を繰り返しても、転載される彼女の裸体がインターネットの海から消えることはない。十数年が経った今も、手のうちにあるスマホで検索すれば、同じように十二歳のハセマツリカの写真が閲覧できた。その名に恥じないインターネットタトゥー。焼き鏝で押された烙印は消えないし、こぼれたミルクももうもとには戻らない。 

 それから、なおも悪いことに、朝川がマツリカとセックスをしているとき、彼女の母親が隣の部屋にいたという。彼女の母親は、熱心なステージママというやつで、あまり美しくない両親からあまり裕福ではない家庭に生まれた、天使のごとく美しいわが子を、何とかして有名にしたくてたまらなかった、らしい。それで、売ってしまったのだ。本人はだいぶ正気ではなかったから、売ったとも思っていなかったのかもしれないけれど。

 ニュースが出てから、茉莉花はそこから二年と少しの間、一度も教室に来なかった。保健室や相談室で目撃されることはあっても、行事でも見かけなかった。卒業式すら出ず、そのまま私たちの前から消えた。卒業した後、何度も遊びに行った彼女の実家の前を通りかかってみると、もうすでに引っ越してしまった後だった。茉莉花のその後の消息は、誰も知らなかった。一週間前に再会するまでは。


 今思えば、おそらく、茉莉花のあの行動は、朝川にやられた事柄の何らかの副産物だったんだと思う。ある観点から言えば、私は茉莉花に、人生を崩された。彼女が朝川にそうされたように。

 私はあの暑い夏の日に繰り返し跳ぶ。夢の中で、あるいはうつつのふとした瞬間に。その跳躍はまったく突然訪れて、そして有無を言わさずに私の手を握り、十二歳のあの日に引きずり込む。頭のどこかが擦り切れるように回りはじめるのが予兆で、私がどんなことを考えていようと、何をしてようと、その感覚があるやいなや、意思に反して、あそこに戻ってしまう。

 たしか、試験期間の最終日で、ちょうど十二時で日課が終わってしまう日だった。私と茉莉花はやたらと重い学生カバンを肩にかけて、遮るもののない日射しを首の裏に受けながら、学校から長く伸びる道をだらだらと歩いていた。白いワイシャツに、膝丈の紺スカート。風のひとつもなく、アスファルトに吸い込まれた、昨日の雨が気化するときに出る熱を、ローファーの裏に感じながら、ぽつぽつとテストの出来についての話をしていた。

 うだるような暑さ。光は真っ白くて、視界が揺れる。汗が脇の下や額から噴いて、髪やワイシャツを濡らして不快だった。きっかけともつかないきっかけは、たぶん、私が茉莉花よりも点数がいいだろう、と言ったことだった。私は単純な事実としてそう言ったに過ぎない。でも、茉莉花は気に障ったらしく、隣に並んでいた私の肩を押し飛ばした。私はよろめいて転ぶ。手のひらを砂利に擦って切った。膝をガードレールにぶつけた。アスファルトは重たく熱く湿っていて、太ももにじっとりとした感触があって、気持ちが悪かった。茉莉花は、その切りそろえた前髪のすぐ下にお行儀よく並ぶ瞳で見下ろして、何も言わずに私に手を伸べた。私は手のひらをスカートで払って、彼女の手をとって、立ち上がった。茉莉花の手のひらは汗でしっとりとしていて、私の手と合わさって、ぬるりと滑った。ごめん、と私が言うと、茉莉花はにこりともせず怒ったように視線を前に向けて、何も言わずに歩きはじめた。彼女は怒っていた。でも、私の手をきつくきつく握って歩き続ける。炎天下のアスファルトを延々と。

 彼女の家は、小さい一軒家で、古びていた。もとは彼女らの祖母の家で、祖母が死んだ後もその家に家族は住んでいた。朽ちかけた門扉は木が湿って、むっとするにおいを立ちのぼらせていた。茉莉花は立てつけの悪い戸に鍵を差して、ゆすぶるようにして解錠する。蹴っ飛ばしながら扉を押し開いて、私を無言で迎え入れた。

 私はお邪魔します、と薄暗い廊下の奥に向かって小さく告げる。誰も答えることがなく、ただ昼のワイドショーの音声が、居間の方からかすかに聞こえていた。ワハハハハというSEが耳の奥にいやにこびりついた。

 茉莉花が脱ぎ捨てたローファーと自分のローファーを端に寄せて、そっと廊下に上がった。歩くたびに床板は軋んで、汗で湿気った靴下越しに、ざらざらとした埃の感触を伝える。何度も来ているのに、他人の家と言うものは慣れない。ウチとは違う、けものじみたにおいがするから。動物飼ってないよね、と半歩先を行く茉莉花に耳打ちすると、野良猫がよく上がる家だから。と茉莉花は言った。彼女は袖を捲って七分にしたワイシャツの袖から腕を剥いて見せる。この間ひっかかれたの。赤い爪痕が、鈍く彼女の真っ白い腕に残っていて、私の目の裏に焼きついて、離れない。

 彼女の自室は、三畳の物置きだった。小さな窓のある畳敷きで、古い藺草のにおいがする。学習机に乱暴に二人分のカバンを投げ置いて、それから机の上にくっついているベッドの上にもぞもぞと上がる。子ども用の学習机とベッドとクローゼットが一体になったもので、それだけで部屋はいっぱいだった。残りの空間には、脱ぎ捨てた服や小学校のときの教科書が乱雑に敷き詰められていて足の踏み場もない。

 ぼうっとしていると、ベッドの上から手が差し出されて、その手をとって、ベッド脇の梯子を上がる。梯子の上は、寝乱れたシーツの敷かれた空間で、ゲームセンターのプライズのぬいぐるみがいくつか、そこにあった。私と茉莉花は手を握り合ったまま、二人で向かい合って座って、黙っていた。茉莉花はどちらかと言えば無口で、沈みがちな子どもだった。陰気で気分屋だったから、みんなに嫌われていた。

 でも、茉莉花とは家が近くクラスが一緒で、付き合う頻度はほかの子らよりも多かった。それに、別に好きじゃなかったけれど、嫌いだったかと言えばそうでもない。小学三年くらいからすくすくと脚と腕と首が伸び、いつでもそれを窮屈そうに折り曲げていた。痩せていて、それから顔が美しかったから、疎まれてはいたけれど、虐められたり馬鹿にされていたりはしていなかったはずだった。子どもの美の感覚なんて、ろくろくあてにならないんだろうに、それでも茉莉花はその見た目のせいでいつも居心地が悪そうだったし、いつもひとつ頭がとびぬけていた。

 だから。私は受け入れたんだと思う。茉莉花のその手が、私の指を握ったその手をそっと口もとに持っていき、そっと歯を立てたのを。思い切り噛まれたものだから、一瞬、痛くて、泣き出しそうになる。それでも、茉莉花のその真剣な表情を見ていると、どうしてか何も言えなくて、私は唇を噛みしめて、自分の声を飲み込んだ。

 閉め切った窓の向こうから、蝉の声が聞こえる。離れた部屋から、茉莉花の母親の笑い声がしていた。私は茉莉花の、いたって真剣な顔を見つめながら、その形のいい唇の中に、私の平凡な指先が飲み込まれているのを見る。唾液の生暖かさがじっとりと浮く汗と混じって、手首の方へと垂れていく。私はその毛穴が粟立つような不快さに、何も言わずじっとしていた。

 ひときわ強く歯を立てられると、骨に食い込むような肉の痛み。私は顔を顰めて、それに耐える。茉莉花はそうやって噛みついたまま、声を押し殺して涙を流した。ガラス玉のような、複雑な色合いの眼球の上に、透明な膜が浮かび上がって、表面張力で盛り上がって、ゆっくりと重さを伴って膨らんでいく。目頭のところで溜まって、一粒分の大きさになると、茉莉花の頬へとするりと落ちた。真っ白い頬の肌理は整っていて、水が吸い込まれることなく弾かれて、するすると落ちていく。私の膝の上にかかったスカート生地は、もうすでに茉莉花の唾液で黒い染みを作っていたけれど、そこにぽつりと落ちた。飲み込まれて消えた。

 茉莉花は声を出さずに泣き続けて、やがて私の手から唇を離した。見れば人差し指と中指のつけ根に、歯形がくっきりと残って赤くなっている。そうして彼女は無造作にワイシャツを脱ぎ捨て、キャミソールになると、私に抱きついて、そっとまた泣いた。肩口には誰かの歯形が残っていて、キャミソールの縁から覗く乳房の周りにも似たような傷が点々と残っていた。

 彼女は私のワイシャツのボタンを丁寧に剥いて、私をキャミソールにする。それから、私の背中に手を回して、私の肩に顔を押しつけて、ずっと泣いていた。汗の甘ったるいにおいが鼻いっぱいに立ち込めて、むせそうなほどだった。なまぬるい雫が肌に落ちると、私の皮膚を伝って落ちていく。窓から真っ直ぐに差す光の中を埃がちらちらと舞っていた。恐る恐る背中に手を回すと、その皮膚がなめらかなことに驚く。ニキビひとつない肌はどこまでも整っていて、指先でなぞると、念入りに磨かれた蜜蝋みたいだった。

 茉莉花は、私の肩に噛みついて、泣いていた。私は肩の筋肉を引きちぎらんばかりに込められる力に、たぶん、興奮していた。嫌とか不快とか、そういう理性的な感覚よりも早く、繊細なガラス細工を手のうちに抱いていること、それが私に噛みついているということに、頭が茹るような心地よさを感じていた。皮膚と皮膚が触れあったところから、溶けていくように存在が混ざる。ろうそくを二つくっつけた状態で火を点けたみたいな。私は私とはほど遠い美しいものと、触れ合ったそばからひとつになって、熱の中に溶けていく。それが甘美なことであるというのは、本能で分かっていた。美。手の中にある、美しい少女。

 私のもとに美は訪れないと悟ったのはこの瞬間だった。美というものをなんとしても手に入れなければならない、と決意したのも。また、美というものは、誰かを惹きつけると同時に、ひどく残酷なものだと思った。

 だからこそ、私はこの後騒ぎになったハセマツリカという女に執着しているのだった。だって、長谷川茉莉花は私のもとに何ももたらさない。私の前からすでに消えてしまったから。ただ、私の魂に、美しさという暴力的な快楽を植えつけて。

 だから私は、私を拒み続ける美を追い求めている。

 どうか、美というものがミューズの形をとっていませんように、と祈りながら。でも、それって矛盾だ。だって、私の美の原始的な源泉は、茉莉花なんだから。茉莉花が消え、マツリカがそれに代わった。マツリカを見ているうちに、私の人生はどんどんと予定されたものからずれていった。マツリカだけは私の手もとに残り続けている。一体、私は何をどうすればいいのだろう。マツリカの写真集を後生大事に握りしめて、茉莉花を泊めて、それとは無関係な美を目指して像を掘っている。何をすべきなのか私にはちっとも検討もつかなくて、胸の内が煮えたぎっている。


 クイックルワイパーを定位置に戻して、私は床に引いたマットレスに寝転がる。母親が泊まるときのために用意してあったものを、今は私が使っている。薄っぺらくて、一晩寝ると腰が痛かったが、まあ、仕方がない。マットレスの脇に置いてあったリモコンで、部屋の電気を落とす。暗くなると、蓄電されていた蛍光灯がぼんやりと白く光っていた。

 ごそごそと音がして、ふと首を傾けると、茉莉花がベッドの上に座って、何やら動いている。じっと見ていると、だんだん目が慣れてきて、それで上衣を脱いでいるのだと分かった。

「何してんの」

「なんか、寂しいし、美都でいいやって」

 そう言うと、ベッドから飛び降りて、そのまま私にすり寄ってくる。私は彼女の身体を両手両足で押し返すが、途中で右腕がじくりと痛んだ。押し返す力が弱くなった隙を縫って、私に跨った。毛布一枚隔てて、身体と身体が触れあっている。長い髪の毛が、私の頬をくすぐった。

「何、急に」

「いーじゃん別に」

「私はよくない」

「私がいいって言ってんの」

「だから、幼馴染となんでやらなくちゃいけないの」

「もう忘れちゃった? 私が抱きしめたら真っ赤になって興奮してた美都ちゃん。そんなアンタが何か言えるの?」

 私は暗闇の中で、茉莉花を睨みつける。彼女の大きい瞳は、暗闇では光が入らず、黒洞々としている。空虚が湛えられた暗闇がそこにあって、私を見つめていた。私は一瞬ひるんで、口を閉じると、ほら、やっぱり、と茉莉花は笑ったのだった。

「やっぱり、忘れてなんかないんでしょ。そうでしょう。だから?」

「だからって、何が」

「あのさ、私、見ちゃったんだよね」 

「何を」

「私が転がり込んだ日に、美都が鍵かけたキャビネット。昨日、美都が寝てるときに」

「鍵!」

 玄関の鍵とおんなじキーホルダーにつけてその辺に置いておくんだもん、と茉莉花は悪びれずに歌って、毛布を引っぺがす。上半身が外に出ると、私の上衣のボタンに手をかけた。

「あんなもの。私と会ってない間も後生大事に持ってたんでしょう。変態」

「ちがう、あれは……」

「あれは、何? あんなものがゲイジュツだって信じてるの? たとえ美しくても、十二歳の女陵辱してるハメ撮り写真が、ゲイジュツになるの? くっだんねー。じゃあ、今までの男のスマホのフォルダにあるハメ撮りだって芸術ってことね。やっすくてバッカみてぇ」

 ほら、アンタが大切に握りしめてた、まさにその裸だよ。そう言って、私のパジャマの襟を握りしめたまま、揺さぶった。首が絞まって苦しい。手のひらで彼女の手を握って、首を絞めようとする動きを止める。ぽたりと頬に雫が落ちて、それで茉莉花が泣いているのだと分かった。

「彫刻やってるって聞いて、鍵かけたの見て、そうだと思ってた。開けてみて、やっぱりだった。最初は友達だし、なんか、許したい、って思って戻したんだけど、でも、マツリカになる前からの友達ですら、私のことを茉莉花と見てくれないってことに気が付いて、それで、頭にきた」

「茉莉花、ごめん」

「いまだに街歩いていてもマツリカって呼ばれて、自分の裸の写真見せられる。永遠の美ですね、朝川巨匠のミューズですね、握手してくださいだなんて、ほんと死ねばいいのに」

 永遠の美って永遠の恥辱の真隣にあるの。知ってた?

 と、茉莉花は、なんの感情もないような声でそう言った。涙が浮かんでいたはずの、やたらと大きい眼球の表面は、もうすっかりと乾ききっていた。薄い茶色の黒目に、私の、薄ぼんやりとした顔が映り込んでいる。私は、ああ、私は今どんな顔をしているんだろうと思いかけて、そこで茉莉花の感情に想いをはせなかったことに、嫌気がさす。茉莉花はそれを知ってか知らずか、私に向かってうっすらと笑いかけて、

「私。美都に悪いことしたなって、ちょっと後悔してた。だって、私がレイプされた後、私は一番仲が良かった美都が綺麗なのが許せなくって、あんなことしちゃったわけだし。でも、それも馬鹿だった。私だけが、すでにつねに汚れているんだから。アンタは高いところからいつまでもそうやって私の裸を見ているんでしょう。私にアンタは汚せない」

 ずるい、と、私にではなく、どこか遠いところに向かって呟いて、笑った。薄い赤い唇をいびつに歪めて。そうして私の頬を一発拳で思い切りぶん殴る。私が何も言わなかったことに、また腹を立てたように、ああ、と声を上げて前髪を掴んで私の顔面に向かって唾を吐く。私が指の一本も動かせないさまを見て笑うと、私からするりと離れて、裸の上半身に、会ったときに着ていた服を着て、それからズボンも履き替えて、カバンを持ってそのまま出ていった。がちゃん、と玄関の戸が閉まる音がする。閉ざされた音。それは私の美だったものが、私から明確に切断される音だった。

 私は頬を服の裾で拭って、布団から出る。それから、キャビネットの扉を開けて、ハセマツリカの写真集をとり出した。キッチンに持って行って、コンロの上で火を点ける。ビニールの溶ける気持ちの悪いにおいが広がった。音もなく、火が揺らめいた。オレンジ色の火が。本は燃えた端から黒い紙片になって、崩れ落ちていく。鼻の先が熱い。はじめからこうするべきだったのに。遅すぎた。何が、「それが私を責め続ける」、何が「私が加害し続けている」だ。永遠に、ハセマツリカのことを、殺し続けている? その自覚があるなら、やめる努力をすべきだったのに。

 私に泣く権利はない。

 火はすべてを焼き尽くす。火は真っ白い十二歳の裸体を燃やして灰にする。でも、こんな事柄で、私の中にこびりついているマツリカが消えるわけではない。これで消えるんだったら、そんなに苦労はしないだろう。事実として、私はマツリカにとらわれているし、人生をささげているも同然だった。簡単に逃げ出すことなんてできない。でも、それでも、私は私の美から排斥されたからには、私はそこから離れなければならない。みずからの意志で。絶対に。黒い塊になった写真集だったものを、隣のシンクに投げ入れて、上から水をかけた。ぼろぼろと形を崩して、流れていく。手を見ると、すすが飛んでいて真っ黒だった。私はその手で顔を覆う。手から肉の焼けるような、炭化したにおいが漂って、吐き気がした。煮えたぎる胃液が逆流して、おえっ、とえずきながらその場にしゃがみ込む。頭の上では水が流れ続けている。目頭が熱くなって、指先で擦ると、目が痛んだ。灰が入ったから。私はキッチンの縁にすがりつくように立ち上がって、眼球を流水で洗い流す。私に泣く権利も吐く権利もない。ただただ、流れる水に手も顔も頭も浸して、炭の残骸が流れてしまわないように、手のひらでかき集めていた。そうして、それを握りしめていた。夜が明けるまで、何時間も。

 私にはもう茉莉花もマツリカも想って泣く権利はない。これから一生。


 翌朝、アトリエに向かうと、鍵当番の今田がいる以外は、無人だった。メンバーは大体十二時近くなってから来るのが常だから。私も、鍵当番の日以外は、朝にバイトを入れているし、バイトのない日は昼まで寝ている。だから、入り口を開けると、今田が「高橋? なんでこんな」と開口一番に言ったのも、道理と言えば道理だった。

「珍しく早い。アンタいつも昼出勤じゃなかったっけ」

「やることがあるから」

 私は膠を煮ている今田にそれだけ言って、それから自分の大理石の前に立つ。一番太い鑿と槌を手に、脚立に上がる。掘りかけの彫像の、てっぺんに金属の刃をあてがって、槌を振り下ろした。勢いをつけて、二度三度。表面に近い部分が剥がれて、削れていく。柔らかい大理石は、削れやすかったから。肘を支点に、全力をこめて振りかぶった。筋肉が攣ったように痛かったが、そんなことを考える暇など私にはない。鑿の刃が石の奥底に割って入った。丁度頭部に当たる部分が、真っ二つに割れて、床に落ちていった。ごちん、と重たい音がして、床にぶつかって、また端の部分が割れる。そのまま、首から下も、同じように真っ二つになるように鑿を入れた。

「ちょっと、アンタ何してんの。その石いい値段じゃなかったっけ?」

「いや、なんか、割らなくちゃいけない理由があって」

「はあ? ただでさえ締め切り厳しいのに、今年のコンペもう諦めたの?」

 いや、と首を振ってもう一度槌を振るう。今田は、気でも狂ったか、と呟きながら、火のところに戻っていった。かんかんと胴体部分も割っていく。崩れて床に落ちていく破片が、もともとどこに配置されていたものか分かるように頭で記憶しながら。胴体を割り切って、鑿と槌を置く。脚立から降りて、砕かれた石の真ん中に立って、ぐるりと周囲を見回した。

 赤い粉塵が霧のように漂っている。瓦礫が散らばっていて、まるで人間を爆破して、ぶっ飛んだ肉片みたいに見えた。

 それは、ハセマツリカの幻の肉体だった。別に、啓示を受けたわけでも、インスピレーションを受けたわけでもない。そうではなくて、私からマツリカへの、絶縁状。もちろん茉莉花へ、ではない。茉莉花には、もう向こうから二度、絶縁されているわけだから。これは私の中のマツリカに向けてのものだった。

 私の中から立ち去ってもらわなければならない。それは、私の意志で。そして、私自身の手で、新しく、マツリカではないものへと作り替えなければならなかった。

 棚から出してきた、大理石用の接着剤で、脚の部分より上の胴体を継いでいく。後で樹脂で埋めるから、大まかに接着できればそれでよかった。パズルのように、同じ切り口同士を貼り合わせて復元していく。その場に座り込んで、延々と作業をしていると、いつの間にか時間が経っていて、振り返るとメンバーがそれを見ていた。

「倒して割ったの?」

「自分で割ってた」

「気が狂ったか」

「あれ高くなかったっけ。貯金使い切ったとか言ってたのに」

 口さがないアトリエのメンバーが、私に聞こえるような声でしゃべっていた。私は、見世物じゃないし散った散った、と手で追い払うと、誰もそこまで関心があったわけでもない、各々が自分の作業に戻っていった。大きいものの配置を決めて、それから細部へと。それでも床に散った破片のすべてが収まるわけではなくて、全体の一割くらいが床のゴミになっていた。

 次に、大理石の像の傷を樹脂で埋めていく。樹脂加工をしているメンバーから用具を借りた。銃に似た機械で、断片の中に樹脂を流した。クレバスをなぞるように念入りに。様々な方向から丹念に流すと、立像の全体が復元できる。ただ、もとの石にはなかった、稲妻のような傷が、像のてっぺんから真っ直ぐに、走っていた。

 これはもうすでにマツリカの姿ではない。だって、マツリカに欠点はなかったから。瑕疵があるマツリカなんて、それはもうハセマツリカたりえないから。

 汗をぬぐいながらふと振り返ると、深谷が立っていて、腕を組んで私の作業を眺めていた。

「これ、自分で割ったの?」

「はい」

「ふーん」

 そう言って、クラックのまだ乾いていない樹皮に瞳を近づけて眺める。

「これ、乾いてくっついたら、もともとの構想通りに掘るの?」

「そのつもりです。あ、でも、もとよりも抽象度を上げようかと」

「なんで割ったの?」

「なんていうか、幻想をそのまま掘り出しても、意味ないなって。そういう幻みたいなものを、一回ぶっ壊したくなったんです。私は二度とそういう幻想に頼りたくないんです」

 そう答えると、またフーンと気のない調子で鼻を鳴らした。足底で床を擦る。ざりざりと粉が擦れる音がした。

「これさ、今度ブログで使っていい?」

「どうぞ」

「もうちょっと形ができてきたら、写真も撮らせてもらうね」

 そう言って深谷は像から離れて行った。それで、深谷は彼の作りかけの像の前の椅子に座って、粘土の続きを貼りつけていく。私は、ブログか、と内心でため息をついた。あのブログ。悪趣味ったりゃありゃしないブログで、またコケにされるのか、と考えると、気が重かった。

 深谷がキュレーションメディアと組んでやっていたブログには、辛口批評という名の、若手の作品を酷評するコーナーがあった。さんざんなことを言われるに決まっているから、アトリエのメンバーの中で「ブログに使っていい?」は深谷の恐怖の一言だと言われていた。もちろん、若手に限ったことではなく、中堅でも大家でも、中途半端なものを作れば口汚く罵られる。朝川を罵倒していたのも、このコーナーだったはずだし。しかも、深谷は美術理論を大学で講義しているだけあって、専門家顔負けの批評を展開してくるから一層悪い。暴言の上、論理的構築まで持っている。才能もあれば、理もある。心の強さも討論の強さも持っている。どこをとっても隙がない。何人たりとも勝てるわけない。

 私は数週間後の水曜日に更新されるそれが、おそらくキツイ口調で、思いつきで行動するのはやめましょう、なんて馬鹿にされるんだろうな、と思った。もう少しでき上がったら写真を撮るだなんて言われると、やる気が削げる。そうでなくても、このぐちゃぐちゃになってしまった像をここからまた整えて、アクセスできたことのない、でもこの世のどこかには存在しているはずの「美」へと昇華させることすら、かなり困難なのに。深谷や朝川にはたやすくアクセスできる観念は、確かにこの世に存在している。でも、私の前にその扉は開かれてはいない。

 痛む腕を抱えたまま、自分の中に、ハセマツリカの幻影とは無関係な美を再び構築して、彫り上げることなんて、本当にできるのか。分からない。でも、このアトリエに所属するためには、やらなくてはいけない気の遠くなる作業が逃れようもなく待っている。その途方もない道のりと、それでいて私の求める観念はどうせ手に入らないという予感で、視界が暗くなる。

 まばたきをすると、大理石の色が濃く映った。その血によく似た色合いに、マツリカの裸体が脳ミソの裏側にフラッシュバックする。その姿は火の中に投げ込まれて、白い爪先から焼かれて、どんどん灰に姿を変えて崩れ落ちていく。焦げたにおいが鼻の奥を覆いつくす。眩暈によろけると、誰かが置きっぱなしにしていた水の入ったバケツを蹴り倒してしまう。水が、流れて細かい赤色の石粉を溶かして流していく。排水溝に向かって流れていく水は、血によく似ていた。ハセマツリカを割ったから。私は私の手で、ハセマツリカの頭蓋骨に鑿をふるって、肉体をこそげ落として、しまったから。どこかから鉄臭いにおいが漂ってくる。たぶん、メンバーが鉄の加工でもしているんだろうけれど、私にはその金気臭さが人のにおいに感じられて仕方がなかった。

 胃が痛んで、吐き気がした。眩暈も収まらない。そんなところで、また像に向かい合うことを思えばげんなりしてしまって、樹脂が内部まで乾かないと彫りようもない、と適当な口実をつけ、その日は帰ってしまった。

 アパートの扉を開くと、自分の部屋には茉莉花の名残だけがあって、彼女の姿はなかった。焦げ臭いにおいが充満していて、扉を開けただけで具合が悪くなるほどだった。そのうえ、隙間には彼女の体臭らしき甘ったるいにおいがする。ビニールの溶けるにおいと混ざって、最悪だった。私はそのにおいの中、布団の中に潜り込む。最後の晩だから。最後。これから、私は彼女のことを思い出さない。毛布には牛乳っぽい肉のにおいと、バニラの香水が染みついていて、私は一層気分が悪くなる。でも、窓を開けることすら惜しくて、目をつぶって眠ろうと努力をした。眠りは私に訪れない。

 真っ暗い中、身体の感覚だけが研ぎ澄まされていく。シーツの滑らかな触り心地、毛足の長い毛布の湿った暖かさ。窓を開けないのも、毛布を洗わないのも、私の最後の想いだから。毛布に鼻を押しつけてにおいを嗅ぐ。喉の奥まで胃液が逆流して、そういえば朝から今まで何も食べていない、と気が付く。それでも私は目を閉じる。白い腕や黒い髪や薄茶色の瞳の、影だけを見て寝る。明日朝起きたら、私はそれらをもう思い出さない。最後の未練だと言い聞かせて。

 胃液を飲み下しながら、身じろぎひとつできなかった。浅い眠りが私を覆って、半眠半醒の状態で、朝を迎えた。アラームの音で目を覚ます。徹夜をしたときのように、頭がだるくて重たかった。白っぽい光の中で、私は引きずるようにして身体を起こす。私は私の意志で行わなくてはいけないことを、順番にはじめるためにはうってつけの朝だ、と思った。祈るように。

 洗濯機にシーツと毛布を入れて、スイッチを押す。窓を開けて、一週間で随分汚れた部屋を整えた。彼女の置いていったタバコもライターもゴミ箱に入れた。茉莉花のシャンプー。茉莉花のブラシ。ヘアゴム。リップクリーム。抜け落ちた髪の毛。痕跡は次から次へと湧くように出てくる。それを、ひとつ残らずビニールに投げ込んでいく。ものをもとの配置に戻した後、掃除機をかける。写真を燃したせいでひどい有様のキッチンも掃除して、最後に着ていた服を洗濯カゴに入れた。それで、風呂に入る。私はもう思い出さない。写真の中の彼女の姿を。風呂場でそう言えば、籠った自分の声が跳ね返ってくる。自分の気持ち悪さは重々承知だった。でも、じゃあ、どうすればいい? 誰も答えをくれるはずはなく、これが最善だと言い聞かすことしかできないでいた。



 一週間、私は毎日早めにアトリエに向かい、そして淡々と像を切り出し続けていた。割ったときとは比べ物にもならない細い鑿で、こまかく表情を切り出していく。樹脂は柔らかく、ナイフで容易に削れるから、割ったことの弊害はあまりなかった。遠く離れて眺めてみると、傷は随分不格好だった。でも、これでいい。傷がある、ということが私の意志の証左だったから。

 私は雑念を振り払うように、細部を削る。腕の痛みは悪化していたけれど、そんなことにかまけている場合ではなかった。肘から先の筋肉が常に熱くて腫れぼったい。サロンパスを貼りつけているせいで、自分の身体が常にメントール臭かった。部屋もアトリエにも服にもそのにおいはこびりついて、目や鼻がスースーした。でも、焦げ臭いにおいは蘇らない。それ幸いと、私は石を削る。おかげで進捗のほどは上々だった。こんなに集中して制作したのって、いつぶりだろう。もしかしたら、美大受験のとき以来かもしれない。ハセマツリカを作るために、一心不乱にデッサンをやっていたとき。でも、原動力になっているものは逆で、私は心の内だけで笑った。

 ちょうど一週間で、私は形を切り出し終えた。そこからやすりがけの作業に入った。はじめは金属のやすりで、面と面の境界線をなめらかにしていく。その後に、水を浸けた紙やすりでなめらかにする。最初は粗い紙で、次第に番号の大きいやすりを用いる。マスクをしてやすりがけしていると、不意に肩に手が触れた。振り返ると、髪の毛を無造作にまとめた今田が立っていて、ちょっと表情が険しかった。化粧はあまりされていない。大きい絵画の展覧会があって、今田はそこに作品を出展できるはずだったから、彼女も彼女で忙しいのだろう。汚れた白衣の袖を指先で直しながら、私の方を見ずにあのさあ、聞きたいんだけど。と、言った。

「何」

「高橋、アンタ深谷先生と寝たことあったっけ」

「いや、ないけど……」

「あっそう」

 そう言い終えると、今田は厚ぼったい唇に力を入れて閉じる。その後に何か続けることもなく、そのまま立ち去って行った。なんだったんだ、と気が削がれたように感じた。ふと時計を確認する。今日の朝作業をはじめてからちょうど四時間ほど経っていて、時刻は正午だった。

 私はやすりを地面に置いて、粉を払う。作業着を脱いで、中に着ていたTシャツとジーンズになると、肌に触れる空気が冷たくて心地よかった。カバンを持って、アトリエの外に出た。何か食べないと、とアトリエから車道一本挟んだコンビニに入り、水と納豆巻きを買う。歩きながら納豆巻きのラベルを剥がし、のりを巻きつけて口に入れる。一息で食べて、水で喉に流し込む。午後、も、やらないとなあ。と、信号を待って、倉庫の脇の喫煙所に向かう。タバコに火を点けてベンチに腰かけ、はあ、と息を吐けば、胃がちりついた。

 私、今の像を掘り終えたら、筆を折った方がいいのかもしれない。まあ、道具はもっぱら鑿とやすりだけど。だって、もう私の美は私のところから立ち去ってしまったのだし。それに、マツリカをもう凌辱しないという意志があったって、いつまでそれが貫けるのか分からないし。私は馬鹿だから、徹底できないかもしれない。もしも、再びマツリカの影を追いはじめてしまったら、嫌だから。

 そんなことをぼんやりと考えながら、タバコを喫んでいると、ガチャリと倉庫の裏扉が開いて、見慣れた影が出てくる。

「高橋」

「今田も休憩?」

「……うん」

 今田は一瞬嫌な顔をした後で、はあ、とため息を吐き、そうして私の腰かけるベンチにどかっと座った。スチールの、外気に触れっぱなしのせいで、腐食しかけているベンチが軋む。肉付きのいい尻を持ち上げて、勢いよく脚を組んだ。

 手に持っていたハイライトを咥えて、かちりとライターで火を点ける。はあ、とまた乱暴に吐き捨てて、横目で私を睨めつけた。さすがにこんな態度をとられるといい気はしない。私は灰皿にタバコを弾きながら、「何」と、今田に尋ねた。

「べっつにい」

「やったら棘があるじゃん」

「高橋には関係ないんですけど」

「じゃあ私に当たるのやめてほしいんだけど」

「うるさいなあ、私の親じゃあるまいし」

「いや今田の親なんか知らないんですけど」

 私はイライラしてきて、ペットボトルの蓋を開けて水を飲み込む。舌の上がタバコの美味くもないいがらっぽい味でいっぱいで、最悪。今田は何が気に入らないんだ。別に今田とは不仲でもなければとりわけ仲が良いわけでもない。単に、アトリエのメンバー。それだけ。そんな、親密でもないのに、甘えるような不機嫌をぶつけられる筋合いはない。いっそ不躾で腹立たしい。

 アトリエから、大きな金属音が聞こえる。誰かが鉄を切っているんだろう。鉄を切る場所は隔離されていたけれど、熱が伝わって倉庫の室温が上がる。収まるまで休憩しよう、と、私が吸殻を水に落として、新しいものに火を点す。今田はその威勢のよさに不似合いなくらい、ゆっくりとタバコを吸うのが常で、私が立ち去らず、新しいものに火を点けたのを見て、不満そうに鼻を鳴らした。

「深谷先生がさ」

「うん?」

 指先でタバコを挟んだ今田が、ぽつりと言葉をこぼす。

「アンタの今作ってる像をさあ」

「……何」

「褒めたんだよ。ベッドの中で」

「ハア? 何それ」

 それだけ言って、今田はまだ長いタバコを水に落とす。ジュウと蒸発する音がして、今田は腰を浮かす。それから、三秒くらい動かずに立ったまま、小さく舌打ちをしてベンチに座り直し、またハイライトに火を点けたた。すぱあ、と勢いよく煙を吐いて、あーあ、と今田は叫んだ。

「あーヤダ。ゴメン。馬鹿みたいな嫉妬。私の絵もさあ、陰で褒めてくれたらいいのに」

「あの人めったに褒めないよね」

「だから憎たらしいつってんの。いつもそうだけど、高橋って脳ミソ入ってないよね」

「あるよ一応」

「譬喩だよ、アンタとしゃべってるとほんとイライラする。んで、アンタがさあ、先生と寝てたら、まだ、ああ高橋ってあんなにぼんやりした顔のくせにトコジョーズなんだ、とかさあ、溜飲下すこともできたんだけど、やっぱセックスしてねえっつったし」

「してないし、褒められたのも、私の責任じゃない。っていうか、ぼんやりした顔って失礼じゃない?」

「事実じゃん」

「うるさいなあ。大体、先生だって人と寝てるときに、人のこと褒めるなって感じ。それ以上でもそれ以下でもない」

「分かってるよ。だから謝ってんじゃん」

 分かってる。分かってる。と二度、自分に言い聞かせるがごとく言って、今田はタバコを咥える。

「私さあ、たぶんね、先生に褒められたくて先生と寝てるのかも」

「そうなの? へえ」

「そんで、才能があるって褒められて、私の絵を描いてほしい」

「それってさ、馬鹿にされてない?」

「知ってるよ! そんなこと、骨身に沁みて知ってる。でも、心の奥底でそう思ってんの。どうしようもないじゃん。っていうか、アンタこそ馬鹿じゃないの? 神経逆撫でする天才か?」

「それは知らないけど」

 あーもー! と叫んで、今田は咥えタバコで髪をかきむしる。

「本当にムカつく。今の像ぶっ壊してやりてえって思ったら自分でぶっ壊しちゃったし」

 今田は、鑿と槌を持つ真似をして、私が大理石を割った姿を模して笑った。私もちょっと笑って、それから、今なら聞いてもいいのかな、と思った。

「今田。あのさあ」

「何」

「話変わるんだけど、ハセマツリカって知ってる?」

「うん。あの児ポのやつでしょ。タイトルなんだっけ」

「『処女に告ぐ解体』。」

「ウワッ、タイトル悪趣味極まってんな」

「うん。でさ、私あれが好きなの。あの、写真が」

「へー、経緯はともかくとして、写真自体はいい写真だもんね。朝川洋嗣の最後の大作。最後にして至高のミューズだっけ」

「うん。でね、あのハセマツリカって、幼馴染なんだ。友達だったの」

「……それってさ、最悪じゃない?」

「うん。最悪。友達が凌辱されてる写真が、私のミューズだった」

 今田は奇妙な表情で、私の顔を眺める。しばらく黙って、それから、

「やっぱアンタ神経切れてるわ」

 と、言った。責めるわけでもなく。そのままタバコを二、三口吸って、水に落とす。

「まあ、でも、似てんのかもね。私もアンタも」

「うん」

「どうしたらいいんだろうね。矛盾だってのも、馬鹿にされてんのも、分かってるんだけど」

「うん。結局、ハセマツリカに、この間、私が『処女に告ぐ解体』持ってるの知られて縁切られた」

「当然」

「私も、でも、そんなことがしたかったんじゃない。ただ、私のミューズが、そうであったっていうだけだったんだけど。でも、それが人を傷つけるのも分かってる。人を傷つけてまで、彫像やりたいのかどうかも分からない」

「永遠の自己矛盾だよね。っていうか、美しすぎる日本画家今田頼子。確かにさ、私は美人の部類だけど」

「自分で言う?」

「事実だもん。顔の造詣が黄金比に類してるんだからいいでしょ」

「勝手に言ってろ」

「でも、一応絵で描いてるのってさあ、そういうものではない美しさを追っている、ってテーマなんだよね」

「画風が古風流麗、トランディショナルな規律に沿ってるから」

「そう。やってて悪趣味だと思う。でも、それが一番評価に近いもので、そうじゃない画風だったときはミソッカスに批評されてたから、これでしか食っていけないんだろうと思う」

 ああ、もう。どうしたらいいんだろうね。今田は言って、膝に頬杖をつく。私はその隣で、ベンチの上で膝を抱えて、タバコを吸い継いだ。

「私、深谷先生が嫌い」

「奇遇。私も」

「今田、好きって言ってなかったっけ」

「好きだよ。でも嫌い。憎い。でも、あれに愛されることができたら、あれに評価されたら、どんなに気持ちいいんだろう、と思う」

「私は、もっと単線的に嫌い。嫌いで、でも、私が作ったものをフックアップされなきゃどうにもなんないわけでさあ。じゃあ、どうすんだって話だよね」

 今田は、水にタバコを落として、新しい紙に火を点ける。先が焦げて灰になっていく。指を燃やしているみたいに見えて、私は慌てて首を振った。

「ねえ、高橋。アンタさ、無人島に行っても像を掘る?」

「……今田は?」

「私はねえ。描くと思う。でも、今とは全然違う、もっと分かりにくい、誰にも評価されないような、好きな絵を描くな。美大時代みたいに」

「私は、たぶん、逆。世界で一番好きな女の顔を、世界で一番美しく美麗に掘る。『処女に告ぐ解体』の真似をして掘る。ハセマツリカを掘る」

「それって現実でそれをしないって決意?」

「うん」

 頑張って、と今田は感動もなく言って、それきり黙った。私は吸いつぶした吸殻を水に落として、じゃあ、とアトリエに戻る。今田のぼさぼさの頭を見て、今田とはじめてしゃべったような気分だった。倉庫の壁からは、金属を切る甲高い音はもう聞こえない。午後、あの像をどこまで磨けるのだろう。腱鞘炎は悪化するばっかりだったけれど、そっと腕に鼻を寄せてにおいを嗅げば、強いメンソールのにおい、むせて、でもそう悪いものではないのかもしれない。



 アトリエの中に入ると、丁度、深谷が私の像の前に立って、ぼんやりと眺めているところだった。背後から近寄ると、高橋、と名前を呼ばれる。

「はい」

「これ、もうじきに完成?」

「そうですね。もうちょっと研磨して、シームレスな表面にしようかと思って。まだ、細部の磨きが終わってませんから、数日はかかると思います」

「そう。写真、完成のときのもほしいんだけど、今の状態も撮って載せていい?」

「どうぞ」

 そういうと、倉庫の棚から一丸をとり出してきて、像の前で構える。パシャリ、と一枚。パシャリ、ともう一枚。ホワイトバランスが悪いな、と深谷は手もとでカメラを弄って、それからもう一枚。ぐるりと一周しながら側面と背面を撮って、顔に当たる部分をズームアップして、もう一枚。

「これは傷なの?」

「そうかもしれません。でも、亀裂とか断絶とか、そっちの方が正しいのかも」

「亀裂、ねえ。あと、これってもともと具象画だったわけじゃん。なんで抽象に変えたの?」

 私は唇を閉じて考えて、それから、

「具象にして、外側にあるミューズ的なものを描くのが嫌だったんです。私の中にある、美というものを掘ってみたかった」

「それはゆえに自分?」

「あるいは」

 フーン、と深谷はいつもの調子で鼻を鳴らし、顎髭を指先で撫でる。

「まあ、楽しみにしておけよ。とりあえず、明後日更新の分に載るんじゃないかな」

 そうですか、と私は応えて、サンドペーパーを手に持つ。マスクをして、脚立に上り、顔の部分にやすりを当てる。紙を動かすと、さらさらとした細かい粉が噴き出て、空間に舞い上がっていく。それが、倉庫の窓から差し込む光に照らされて、ちらちらと光る。私は脳が、擦り切れるように、動きはじめ、あの、暑い夏の日に跳ぶ、瞬間、脚立からバランスを崩して、コンクリートの床へと転落した。顔を上げると、大丈夫? と近くで作業していた、調色最中のポップアーティストが駆け寄ってくる。ああ、なんだ、跳ばなかった。こんな簡単なことだったんだな、と思うと笑えてきて、怪訝な顔で見下ろす画家を置き去りに、一人でひとしきり笑った。大丈夫、と画家に告げ、私は自分で脚立を立て直し、またその上にのぼる。手のやすりを再び石にあてがって、やすればやするほど、ミューズだったはずの残骸を継いだ像は、なめらかにその表情を消していく。もうこれは、私のミューズではない、と思えば随分気分がよくて、延々と私はその像を磨き続けた。日が暮れるまで。明日も明後日も、同じ作業が続くはずだったけど、なめらかでとろけるような、形を持たない像は、私の目には美しく映って、満足をもたらすものだった。


 翌日も同じように作業をして過ごした。像の進みは上々で、後一日ぐらいで仕上がりそうな予感がした。夕方ごろ、キリのいいところで片付け、家に帰った。と言うのも、更新が十二時に行われるからだった。深谷が嫌いとか何とか言ってはいるが、やっぱり自分の作品への評価が気にならないはずがない。風呂に入り、電子レンジでコンビニのパスタを温めて食い、それから映画を見て時間を潰す。十一時半となったところで、いてもたってもいられずに、スマホを家に置いたままTSUTAYAに見終えた映画を返しに行ったくらい。残り三十分が一番耐えがたい。そわそわしているのが馬鹿みたいで、コンペとかによく残っている人は、こういう状態が頻繁にあるのか、と思って感心した。

 アパートに着くころには、日付が変わっていて、靴を脱ぎ散らし、ベッドの上にダイブして、充電器に繋いだスマホを握りしめた。サイトにアクセスすると、美術日日報WEB版という画面が表示される。「深谷博見の週刊美術」というバーナーの隣にNEWという表示があって、私はそれを慎重にタップする。

「第三八一回 【高橋美都 断絶のあるミューズ(一)】」

 ミューズ? 私は親指でスクロールして、読み進める。


 新進気鋭の彫刻家、高橋美都を知っている人は少ない。彼女は一度全国彫像美術大賞の佳作に入った後は、なんの経歴も持たない無名の作家であるからだ。高橋は多摩美術大学からアトリエ深谷に入社、制作活動をはじめるが、三年間鳴かず飛ばずだった。このまま潰れてしまうのではないか。ぼくは心配しつつも、でも美術とは孤独な戦いである。ぼくはただ祈るように彼女を見守り続けていた。


 うるせえ、と思わずつぶやいて、ページに張られた私の、大昔の受賞時の写真を飛ばす。そんな経歴であるのは事実だ。でも、だからと言って、深谷に見守られていた覚えはない。大体、深谷は誰に対しても無関心で、特に出来の悪い弟子に対しては冷徹だった。まあ、でも冒頭で怒っていても仕方がない。「次ページ」というボタンをタップして、続きのテキストを表示した。


 しかし、そのような充電期間を経て、高橋は意外な跳躍を遂げる。彼女はそれまで、具象的な裸婦像を専門にしていて、いわば誰にでも作れそうな、リアルタッチの美少女フィギュアにも類似した裸婦像ばかりを作っていた。そんなものは海洋堂の作ったものの方が何倍も流通価値があるのは自明だった。

 しかし、ここ数ヶ月彼女が制作している、大理石に素材を変えた裸婦像は、とても特徴的である。まず、裸婦像というテーマは変わらず、抽象度を上げた。これによって、レディメイドともつかない陳腐な表情や顔つきは失われ、なめらかな流線形が浮かび上がってくる。その抽象は、様々な美しい女性を思い起こさせると同時に、きわめて限定された、個別の人間像をそこにもたらしている。これは、彼女のミューズである。彼女のミューズは遍在して、同時に偏在している。

 また、トリッキーな試みとして、彼女は像をみずからの手で割り棄て、それをまた貼りつけることで、作品にアクセントをくわえた。高橋はこれを「断絶」と呼ぶ。そのひび割れた線は、まるでルーチョ・フォンタナがカンバスを破ることで、面に三次元的な奥行きを創造したように、三次元の像に「断絶」を呼び込み、四次元的な表現を可能にしたのだった。


 ここまで読んだとき、私はもちろんまんざらでもなかった。だって、そうだろう。ルーチョ・フォンタナと似た亀裂と呼ばれるなんてこと、そうそうないだろうから。私は飛び上がるような喜びを必死で抑えながら、次のページを表示する。そこには、数日前に撮られた大理石の像の写真と、それから私がやすり掛けをしている横顔の写真が貼りつけられていた。いつの間に、と思ってちょっと不快だったが、確かに人間が見えた方が、記事としては面白みが出るのかな、とか、そんなことを考えて飛ばす。


 そして、その亀裂を持った裸婦像を、彼女は「自分の姿である」と述べた。「私は、外側にあるミューズ的なものより、私の中にある、自分自身というものがもっている美を掘ってみたかった」。この言葉を聞いたとき、彼女は外面的な、テンプレート的なミューズを捨て、みずからというミューズを信じ、掘りつけているというその覚悟に感心した。ぼくは、彼女が彼女自身のミューズであるという構造に、心から美しいものであると思った。彼女が一般的なミューズ像ではなく、傷を持ったミューズ像を掘り描くことは、つまり、彼女自身が彼女のミューズであったように、誰しもが、ミューズ的なものになることができる、ということも示唆しているのである。先にぼくは「これは遍在するミューズ像であると同時に、偏在するミューズ像である」と述べたが、それと同時に、傷つけられることで、再び「偏在するミューズ像から遍在するミューズ像」への転換を行っているのである。その点において、この彫像は、一度その目で見るべき価値があると思われる。(【高橋美都 断絶のあるミューズ(2)】に続く)


 私は一読して、その意味がとれずに二度三度と読み返した。そして、その中で、深谷が、私が私自身をミューズに仕立てていると思っていること、私は万人をミューズにしようと思っていること、など、まったく逆の読解がなされていることに愕然とした。頭に血がのぼる。かっと頬が熱くなって、耐えきれずに言葉にならない声を上げた。遠吠えのような叫び声。金切り声の間で、私は曲解だ、と叫んだ。

 私がミューズを否定して、抽象的な、ミューズの形をとっていない美、というものを目指しているということが伝わっていなかった。歯噛みして、地団駄を踏む。悔しい。だって、そうだろう。作品なんて、鑑賞されるようにしか鑑賞されない。私がいくらこういうものですと主張したって、それが読みとれないようなものであるのなら、それは失敗であるはずなのだ。私はスマホを力いっぱいゴミ箱に投げつける。金属製の蓋の留め具にぶつかって画面が割れた。悔しくて、耐え難くて、私は声を上げて泣いた。

 どうして、私にはミューズが殺せないんだろう。私は、ミューズを撃ちたい。そんなものに頼らない、純粋な美というものがほしい。喉から手が出るほどに。もしも深谷とセックスして手に入るのなら、いくらでもセックスするし、腕を食って腕が上がるならば、ためらいなく口に入れて飲み込める。でも、実際はそんなことって、ない。男とセックスして絵が描けるようにも、詩が書けるようにもなったりはしないのだった。

 私は隣の部屋の男から、うるせえと怒鳴られてもなお泣いた。道のりの長さが、美へ到達することの困難さが、私を途方に暮れさせる。そんなことを言われるくらいなら、マツリカを凌辱するものを作っていた方が、露悪的で魂には優しい。どうしてそんなことを言われなくちゃいけないのか。私は泣いて泣いて泣き続けて、そのまま寝落ちた。翌日、私はアトリエに行く気も起きなくて、冷凍のピラフを食って日がな一日寝ていた。そうして、夢のはざまで思い至った。

 ミューズなんて、撃ち殺してしまえばいいんだって。


 次の日、鍵当番だったから、朝一番でアトリエに行けば、今田が表扉の前で立っていて、私を睨みつけていた。今田は先日と打って変わって、長い髪を丁寧に巻いて、胸もとの開いたニットに、膝丈のスカートをはいている。ホリの深い大造りな目鼻立ちで、ラテン系という印象の顔は、濃い化粧で一層その印象を強めていた。目蓋の上のアイシャドウは紫色で、舞台メイクのようなのに、どういうわけか似合っている。分厚い唇も、フューシャピンクのグロスで丁寧に彩られている。私が、先生とデート? と聞くよりも早く、今田は早口で私に言った。

「昨日アンタに言いたいことがあったから、化粧して髪わざわざ巻いて行ったのに、サボるなんて聞いてない」

 ふん、と鼻を鳴らして腕を組む。黒色の目が座っていて、いかにも文句ありげだった。

「言ってないからね。っていうか、そのカッコ威嚇なわけ?」

「威嚇……。うん、心を強く持つため」

「心を強く?」

 と尋ねると、今田は黙って頷く。こんなところでしゃべっているのも変だろう、と鍵を持ったまま、喫煙所の方へと歩いて行った。どうせこんな時間に来る勤勉なメンバーはそうそういない。

 喫煙所で、この間と同じベンチに腰かけると、今田も私の隣に座った。ハイライトをとり出して、今田は火を点ける。私はメビウスに着火して、ハア、と息を吐いた。で、どんな用事? となるべく穏便にことを済ませたくて極力穏やかに尋ねると、今田は、一度ハアー、と大きく息を吐いて、それから吸って、私の顔を見つめて、満面の笑みで言った。

「ザマあみろ」

 そう言って、今田はアハハハハと高らかに笑った。私は頭に血の気がのぼるのを感じる。今田は狂ったように、ハハハハと笑い続けた後、それから、はあ、と肩を落とす。

「ごめん、可哀想でたまらないな、と思った」

 とため息を吐いて、そう言った。それから、

「ごめん、嘘。ずるい。ずるくて憎くてたまらない。でも、ちゃんと読めていない深谷にもイライラする。嘘。馬鹿な先生よりも、力がない自分が悔しい。嘘、いや、たぶん、全部本当で、全部嘘。高橋を慰めたくて来たんだけど、高橋を殺したくて来たような気もする。もうね、なんだか全然分からない。分からないんだけど、来なくちゃいけないと思って」

 そう言って、今田はタバコを指に挟んで、手のひらで顔を覆った。

「べつにね、私の方が名前も売れてるし、評価も高いし、収入もあるし。深谷と親密な仲だし、顔も可愛いし、大学時代の評定もよかったし、深谷から推薦文もらったこともあるし、日展に絵は展示されるし、アンタに負けてるところなんてない。分野も別だから、作品の出来だって単純比較できるものじゃない。でも、何だか、どうしようもなく、アンタに何か言いたくて、たぶん、この間喫煙所で話なんか聞いちゃったからだと思った。別にそんなに仲良くないのに。でも、あんなふうな話を聞いた後に、深谷にああ書かれたりしたら、私だったら腸が千切れるくらい悔しいだろうなと思った。それだけ」

 そこから、今田はその大きな瞳を、必死でまたたかせて涙を飲み込む。たばこを吸っては吐いて、深呼吸をするかのように、必死になって吸っていた。

 私は今田の感情が、ああ、私と同じような苦しみを飲んで、どこかを漂っているんだ、と思った。

「私、はじめて今田と友達になりたいと思ったよ」

 私がそう言うと、今田は、

「私は高橋となんか友達になりたくない」

 ううん、嘘。いやでも、本当。今田はそう言いながら、私のタバコを持っていない方の手を握りしめて、少しだけ泣いていた。私は、反対の立場だったら、こんなに素直に人のことを思えるのかな、と考えて、きっとそうではないと結論づける。

「私、そのうちに独立しようと思う。前々から思ってはいたんだけど、踏ん切りがつかなくって。それが、アンタと話してたら、何だか、ここにいる意味ってないような気がしてきた」

「それは、先生の記事が気に食わなかったって意味で?」

「ううん、なんだかもう、先生にミューズとか言われたくて仕方ないことが、そんなふうに馬鹿にされて喜んでいる自分が、馬鹿だなあって。いや、前々から思ってたし、今もそれでもいいとも思っているんだけど。このままずっといられるわけでもあるまいし、どこかで区切りが必要だろうから」

 今田の苦しみに寄り添えなくてごめん、となんの気もなしに言えば、今田は、そういうことを言うからアンタはヒトをイライラさせるのよ、と顔を覆っていた手を外して、力なく笑った。

「あのさ。じゃあ、私も最後にひとつ、今田に言うね」

「何」

「私、あの像が完成したら、もう一度壊す。それが、私の誠実さな気がする。それで、深谷先生を怒らせたら、私もここをやめるよ」

「どうするの、これから」

「教員免許もあるし、しばらく働いてお金貯めてからまた考えようかなって」

「それもいいかもね」

 今田は、気もなさそうに言って、まだ吸い残っているタバコを水に落として立ち上がった。

「私、今日は帰るわ。家でする作業があって」

「あっそう」

「いつ壊すの?」

「今日」

 私が言えば、今田は笑った。アンタってぼんやりした顔のくせに、直情的だよね。私は頷いて、今田の後姿を見送った。

 アトリエの倉庫は海のすぐそばにあったから、どこからか、潮のにおいがしていた。そのおかげで、喫煙所のベンチやシガレットスタンド、あるいはアトリエのシャッターなんかがさびやすい。私は表門に戻って、ひとつひとつ鍵を外していく。周囲の出入り口を全部開けて回って、それから倉庫の中の電気を点けたた。

 自分の像の前に立つ。像はピンク色と珊瑚色の間の石で、白い斑が入っている。つるりとした立像は、高さが二メートルに少し足りないくらいで、周囲は私が両腕を回したら届きそうな様子だった。水に浸けたサンドペーパーで丁寧にやすっていく。紙やすりの側も、指先でも分からないくらいのおうとつ具合になっていて、磨くと少し濁った水が出るだけで、もう粉も散らない。さよなら、私の像。と心の中で呼びかけながら研磨していく。指先で触れれば、なめらかな石の表面が、きゅっと音を立てた。

 脚立にかけて、何時間もそうして表面を磨いていた。次第に、ピンク色の色が輝いて、天井からの光を照り返す。ああ、とろけそうな風合いに、冷たい手触り。ほとんどが仕上がっていた。後は、名前を掘りつけるだけ。時計を見ると、もう何時間も経っていて、とりあえず先に休憩にしよう、と思った。

 つなぎを脱ぎ捨てて外に出ると、喫煙所には、珍しいことに深谷が座っていた。深谷はもとヘビースモーカーだったはずだが、体調を何年か前に崩したときに弱気になって、吸うのをやめてしまった。それがそこに腰かけてタバコをふかしているものだから、私は二度見直してしまった。

「先生、吸ってていいんですか」

「奥さんには言いつけないでくれよ。一ミリだから」

「タールの重さの問題じゃないと思いますけど。まあ、吸ってる私が言うのも変なんで、言葉も持ち合わせていませんけど」

 私がそう言うと、ほっと胸を下ろすように煙を吐いた。

「ときに高橋、お前、あれ完成したらどこかに飾らないか?」

「私には当てがないんですが」

「俺がどうにかしてやるよ」

 そういうのを聞いて、私はとりあえず頷いた。どうせ壊すから、関係のないことなんだけれど。そんなことを思いつつ聞いていると、

「あのブログ見た好事家が、横浜のホテルに飾りたいってよ」

「はあ」

「結構な額出るってさ」

 うーん、聞きたくなかった、と思いながら、メビウスの端を噛む。私が喜んでいないのを見て、深谷は、

「はじめてだと慣れないこともあるもんな。まあ、こういうときは喜ぶんだよ」

 と言って、そのたるんだ頬肉をゆっくりと持ち上げた。皺がもったりと動いて、優し気な表情になる。たぶん、あのブログも含め、かなり善意で行動しているんだろうな、と言うことが、ひしひしと伝わってくる。それだけにかえって、悲しいような苦しいような気分で、私は煙を吐いた。

 もうすぐ完成します、と深谷に言うと、深谷はどれと私の像を見についてきた。私が見せて、最後その像の足もとに、小刀でMITOと刻む。深谷は嬉しそうに、その様を見ていた。周りに人だかりができる。アトリエのメンバーはおおむねあの記事を読んでいたから。誰かが現代のミューズ、とふざけてはやした声が聞こえた。

 私は指先で石粉を払い、完成しました、と告げる。お疲れ、と深谷がねぎらいの言葉をかけてくれた。使っていた脚立を持って、一歩前に近寄る。まばらな拍手の中、私はその脚立を振りかぶって、その像の腹のあたりにフルスイングで打ち込んだ。手から脚立がすっぽ抜けて、脚立が勢いよく像にぶつかり、そのまま後ろへと倒れていく。オイ、と誰かが叫んだ。危ない! 高橋、バカヤロウ、お前。私が倒れつつある像を蹴っ飛ばすと、何人かのメンバーに肩や腕を引かれてとり押さえられた。でも、もう、遅い。像はゆっくりとコンクリートの床に、打ちつけられて、細く絞った首や腰や脚の部分が、衝撃で割れた。隣にあった作業台を巻き込んで、大きな音を立てて崩れていく。赤っぽい粉が待って、窓から射す光にきらきらと光っていた。でも、そんなものにはもう何の意味もない。

 誰も、何も言わなかった。私は三人がかりで床に押しつけられていて、「やすりのかけすぎで、気が狂った?」と誰かがささやいていたのが聞こえた。かつかつ、と硬い靴底がコンクリートにぶつかる音がして、目の前に男物の趣味のよい靴があらわれる。首だけで上を見ると、表情のない深谷がそこにいて、私の目線に合わせるべく、しゃがみこんだ。

「倒したのはわざと?」

「ええ」

「なんで倒したの?」

「私が作ったのは、「断絶のあるミューズ」なんかじゃないからです」

 床の付近の埃が口から鼻から喉に入って、しゃべるたびに息苦しかった。深谷は、ちょっと顎髭を撫で、鼻をフーンと鳴らして、それから、たるんだ唇をゆっくりと動かす。

「じゃあ、テメエは何作ったっつーんだよ。作品の意図なんて、鑑賞者に伝わるものでしかねえんだよ。それが伝わらなかったからって、鑑賞者を否定するのは、そりゃ傲慢ってもんだ。中学生じゃねーんだからよ」

「分かってます。だから、壊したんです」

「はあ?」

「だから、壊したところまで含めて、作品です」

「それが何だってんだよ。ただ、壊れたようにしか見えなかったけど」

「いいんです、私は壊したかったから」

「……じゃあ、あれは何だよ」

「私は、ミューズを壊したかった。だから、あの姿が、完成形です」

 そう言うと、深谷は鼻で笑って、立ち上がった。それから、接着剤とデカめの台座を用意して、くっつければ、と私のことを見下ろして言う。あの形がその姿であるというのなら、そうなんだろう、と。

 私は抑えつける腕を振りほどいて立ち上がる。それから、脚立と、作業台と、大理石の混交したその空間をみて、ああ、すがすがしい朝焼けみたいな東雲色で埃が散っている、と思った。深谷がそこを立ち去る前に、私に

「それが断絶のあるミューズじゃないなら、なんて呼ぶのが相応しい?」

 と尋ねる。それに対して、私は

「ミューズを殺せ」

私のも、テメエのもだよ、全部。と答えた。深谷は力なく笑って、ああそうかよ、とそれだけ言った。


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ミューズを殺せ 早稲田暴力会 @wasebou

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