第5話 社会

 おっさんの過去を聞いてから数日が過ぎた。

 あたしは何も変わりなく、いつも通りの日々を過ごしている。授業をさぼって、闇時間や放課後に美紀と喋って、バイトして。一人暮らしになったから親と顔を合わせることもないし、割と充実した日々だ。

 だけどその一方で、やっぱりおっさんのことが気になっていた。

 あたしから見たらおっさんは何も悪くない。悪いのはおっさんじゃなくてその父親だし、おっさんが事件を起こしたのはなんて言うか、としか思えない。おっさんは被害者なんだと思う。だけど、世間的に悪いのはおっさんで、親族から恨まれて……。

「はあー……」

 やるせなくて、あたしはため息を吐いた。

「歌音ちゃん、またそのおじさんのこと考えてたの?」

 休み時間の校舎裏、美紀が隣から聞いてきた。

「まーねー」

 あたしは答える。自分の事じゃないのにすごくもやもやすると言うか、イライラすると言うか……。

「私たちが生きるこの社会って、何なんだろうね」

「わかんねー……」

 わかんねーよなあ。まああたしたちはもともと頭が良くないってのは自覚してるから考えても答えは出ないかもしれないけどさ。でもやっぱ納得いかなくて、考えちゃうわけよ。

「お、前原。やっぱりここにいたか」

 急に呼ばれて振り向くと、そこには担任の田中先生がいた。

「あ、田中先生」

「なんだ、関谷もいたのか。お前たちが仲がいいなんて思いもしなかったな」

 田中先生は珍しいものでも見たような顔だ。

 この田中先生はあたしたちの担任の先生だ。あたしのことを叱ったりしないけど、なんだか見てみぬふりをしてるような、そんな普通の先生。まあ何も言わない分数学の遠藤よりはましかな。だから一応先生を付けて呼ぶ。

「田中センセー、なんか用ですか?」

「ああ、前原、お前今からでも授業に出ないか?」

「はあ?」

 いきなりどうしたんだ? 今まで何があっても見てみぬふりだったこの人が、急に先生っぽいこと言い始めたぞ?

「なあ、出てみないか?」

 再び言われたので聞き間違いでもないらしい。とりあえず理由を聞いてみるか。まさか美紀と同じくお話がしたいとか言うわけでもないだろ。

「センセー、急にどうしたんですか?」

「うん、実はな――」

 田中先生が声を小さくして言う。

「前原の出席日数がやばくてな」

「はあ、出席日数……」

 要するにサボリ過ぎてるから進級できないぞってわけか。まあそりゃそうだよな。当たり前だ。でも今さらそれ言いに来るか?

「でな、今からでも授業に出ないか? これから真面目に授業に出るなら、出席日数をごまかしてやってもいいんだが」

 ん? なんだって? 出席日数をごまかす?

「理由は適当につけてやるから。骨折とかで入院とかでもいいし。どうだ? 悪い話じゃないだろ?」

 え? こういう話って教師がしていいもんなの? え?

「お前だって進級したいだろ?」

「うーん……」

 あたしは考え込んでしまった。そりゃ都合のいい話なんだけど、なんかまたもやもやする。

 そんなあたしを見て、田中先生は言う。

「まあちょっと考えてみてくれ。少しは待てるから」

 そう言うと田中先生は校舎へ戻っていった。

「んー?」

 なおも考えるあたしに、美紀が言う。

「なんだか、都合のいい話だったけど」

 そう、都合がいい。でもなんだかなあ。

「ドラマの裏取引みたい」

 美紀はそう言ってクスッと笑った。あー、なるほど。裏取引か。

「えー、でもそれって悪いことじゃん」

「そうだね」

 美紀は笑った。裏取引かー。良くないことじゃんかなあ。

 でもあたしはその時、それとは違う何かに引っかかっていた。



 ●



 久しぶりに帰ってみた我が実家は、なんだか小ぎれいですっきりとした印象を受けた。

 あたしは結局、出席日数の事に関して両親の意見聞くことにしたのだ。まあ、新旧がどうこうって話だから、親に相談するべきではあるよなと。そう思ったからなんだけど。

「いい話じゃない」

 母さんが言う。母さんはなんだか前よりも血色がよく見えた。隣に座る親父は顔色とかは変わらないけど、ちょっと落ち着いた雰囲気になった気がする。

「いい話なんだけどさあ」

 あたしは言う。自分が納得してないってことを。

「いいのかな? そんなことして」

「少なくとも悪い話じゃない」

 親父が口を開いた。

「お前は進級できるし、学校側も、私たちも得をするだけだ。誰かが傷つくわけでもない」

 親父の言葉に、ちょっと引っかかる何かがあった。

「んー?」

 あたしはまだ答えを出せない。なんだろう、何かが引っかかる。

「私は歌音が進級してくれるのはうれしいわ。ただでさえ不良なんて言われてるのに、進級も出来なかったらなんて言われるか……」

 母さんは悲しそうな顔をした。でも何だろう、この言葉も引っかかる……。

「まあ、先生もすぐに返事をしろとは言わなかったんだろう? 少し考えてみなさい」

 とりあえず、その場の話はそれで終わった。



 ●



「あー、なんだろ、このもやもや」

 いつもの喫茶店。おっさんとマスターに囲まれながら、今までの事を話してみた。

「よくある話、と言えばよくある話ですね」

「ふふ、そうだね。よくある話だなあ」

 そういう二人はなんだかわかってるような顔で笑ってる。

「なんだよー。人が悩んでるのに」

「おっと、これは失敬」

 おっさんがおどけてみせる。

「おっさんたちはあたしが何に引っかかってるのかもうわかってんの?」

 あたしの問いに、ただ周りの大人二人は笑って見せる。くそ、わかってて言わないなこのおっさんども。

「じゃあヒントだ」

 おっさんが言う。

「この話、得をするのは誰かな?」

「え?」

 あたしは考えた。つか、親父の言う通りみんなが得をするってことじゃないのか?

「みんなが得をする?」

 あたしはそのまま言う。だけどおっさんたちはその笑みを深くしただけだ。

「なんだよ、違うのかよー」

 まてまて、ちゃんと考えろ。おっさんたちが違うっていうことは、がいるってことだ。それはだれだ?

「んー」

 なおも悩むあたしに、マスターが言った。

聞いてごらん」

 自分の? あたしは考えてみる。この話、あたしにとってどうなのかってこと、か?

 あたしは今までのサボりを帳消しにして、進級できる。それはいいこと――、なんじゃないのか? いや、それはいいことなんだから引っかかるところじゃないよな。ということはそこじゃない何かであたしは納得できてない。だから結果として、この話を飲んだらってことのはずだ。

 そこまで考えて、今一度今まで言われた言葉を思い返してみる。

 学校側も、私たちも得をするだけだ――。

 進級も出来なかったらなんて言われるか――。

 ドラマの裏取引みたい――。

 あ。わかった気がする。あたしは唐突に思いついた。なんだか頭がスッとしたようなすっきりとした気持ち。ひらめきってやつだ。

「そうか、

 言った瞬間、おっさんはおおと驚き、マスターは小さな拍手をした。

「そうだよ、だって、あたしは別に進級はどうでもいい。でも、んだ。しかも裏取引まで仕掛けて――!」

 そう、あたしは別に進級のことは気にしない。むしろ学校は美紀と話すだけの場所だからやめたっていいくらいだ。だけど、周りの大人たちは気にしているんだ、に――!

「あー、クソ! わかったらむかっ腹が立ってきた!」

 あたしは頭をわしゃわしゃと掻いた。あの大人たちみんな卑怯者じゃんか! 自分たちの世間体とかを考えて裏取引まで持ちかけてきたってことだろ!? ぜんぜんあたしのためじゃないじゃん!!

「ぐああああああ、気持ち悪い!」

 あたしは背筋を走るおぞけを振り払うように言った。

「マスター! パンケーキ一つ!」

「おや、やけ食いかな?」

「そうでもしないと落ち着かねえ!」

 あたしはぞわぞわする体を抱きかかえてわめいた。あー、わからない方がよかったかも! だれも傷つかないからって自分たちのために悪いことしようぜって話じゃん!

「ふっふっふ」

 おっさんはそんなあたしのことを見て笑っていた。おいおい、目が語ってるぞ。それは絶対、若いっていいねえっていうあれだろ。

「おっさん、笑い事じゃないぜまったく」

 でもおっさんはひとしきり笑った後に言い始めた。

「でもまあ、学歴も確かに重要ではある」

「えー? そうなの?」

 まだちょっとぞわぞわしつつ、おっさんの話に耳を傾けた。

「この社会は学歴社会でもある。学歴が高いにこしたことはないってことさ」

 ただし、とおっさんは付け加えた。

「自分が思うことが一番重要ではあるがね」

「んー、難しい……」

 あたしは再び頭を悩ませる。

「学歴が高いとね、将来やろうとすることの選択肢が増えるんだよ」

 マスターがパンケーキを焼きながら言う。

「今の社会は学歴で判断するから、それいいものだと自分がやりたいことを選びやすいのさ」

「そんなこと言われてもなあ」

 あたしは聞いてみた。

「おっさんは学歴ってどんなもんなの? 大学行った?」

 するとおっさんは眉を上げておどけたように答えた。

「ああ、行ったとも。東京大学だよ」

「へー、東大かー」

 ふーん、東大ねえ。おっさんも大学は出てるんだなあ。

 ん? なんだって? 東大?

「ちょっと、それ凄くない!?」

 東京大学って超いいところじゃん!

「あれ、でも待てよ……」

 確かおっさんて精神障害だったよな。それって東大とか平気で行けるんだろうか?

「おっさん、その、精神障害でも東大って行けるの?」

 失礼だなと思いつつも、聞いてみたかった。

「んー、それを話すには精神障害について二つの話をする必要があるな」

 言うとおっさんは指を立てて解説を始める。

「まず、精神障害を持つ人間は、

「それって、つまり隠してていいってこと?」

「そうだ。会社とか学校とか、そういうところに対して自分の障害を隠したまま通ってもいいんだ」

 そうなのか。

「でもそれって相手が知ってないと不便だったりしない?」

 あたしの問いに、おっさんは答える。

「それはケースバイケースだね」

「ケース――? 何?」

 だから難しい言葉はわかんねえって。

「その時次第ってことさ。障害を隠していても普通に通うことができるなら隠していた方がお互いに波風が立たない。逆に相手にも知ってもらうことで気遣ってもらえるということもある。障害者はこの二つのどちらか、自分が選んで生活できるんだ」

「ふーん」

 なるほど。障害を相手に教えないでも問題がなければそれでいいってことか。

「じゃあおっさんなんか何も言わずにどっかに就職したらうまく行きそうじゃない?」

「ふふ、それはそれでまたいろいろとあるのさ」

 そうなのか。いろいろ難しそうだなあ。

「それで、二つ目だが――」

 おっさんは立てた指を一本増やした。

「精神障害の発覚にはその時期に個人差があるってことだ」

「どゆこと?」

「つまり、それまでの生活では何ともなかったのに、生活する場所や環境が変わって初めて障害だとわかることがある」

 へー。生まれたらすぐにわかる、とかじゃないのか。案外ややこしいんだな。

「だから例えば、私の場合だと東大を卒業するまでは大丈夫だった。けれど、就職をして社会に出たら障害者だったと発覚したわけだ」

 なるほど。つまりおっさんは社会人になって初めて障害が発覚した。だから大学を卒業するまでは普通だったのか。

「でもそれって、どうして後から障害だってなるの?」

 素直な疑問におっさんは丁寧に答えてくれる。

「精神障害ってのはやっかいでね、一つの側面から見たら普通だけど、他の側面から見るとおかしいってことがあるんだ」

 ん? なんだか前にも似たような言葉を聞いたぞ?

「だからそれまでの生活で片方の側面しか使ってなかった。だから社会に出て他の側面を使うことになって、障害が発覚したのさ」

「ふーん」

 聞きながらあたしは考えていた。それぞれ違う側面があって、それがいいとか悪いとか、環境による、と。あれ、それって――?

「なんかさ、その、精神障害って普通の人間ならだれでもあったりする? その、環境とかで違う顔見せるって、ほら、おっさんの親父さんのこととか、それこそおっさん自身だってそうじゃん?」

 ちょっと言いにくいけど言ってみた。だってそうだよな、今まで聞いた話って、そういうことじゃないか?

 するとおっさんとマスターはまた二人で笑い出した。

「うん、鋭いね。前原さんは優秀だな」

「ええ?」

 あたしは頭が悪いから低レベルな学校に行ってんだぞ? しかも授業サボりまくってるし。

「知識と知恵は違うってことさ。前原さんはちゃんと知恵を持って物事を考えてる。立派だね」

「そ、そうなの?」

 ちょっと照れる。

「君が言うように、のかもしれない。ただ、私にとって社会という場所はだけかもしれないな」

 おっさんの言葉に思う。それっておっさん普通のひとじゃん。

「社会に適合しないってだけで異常だって言われてるってこと? なんだよそれ」

 不条理な話だ。納得いかん。

「はっはっは、まあ、今の世の中そんなもんだってことさ」

 おっさんは笑うけど、それでいいのかよ……。

「はー、なんか世の中ってわけわかんねえ……」

 あたしは机に突っ伏した。

「結局、あたしはどうするべきなんだろう……」

 そう、結局のところあたしの出席日数問題が解決したわけではない。

「はい、特性パンケーキおまちどうさま」

 マスターがクリームをたっぷり乗せたパンケーキを私の前に置いた。

「まあ、社会はそうできてるけど、歌音ちゃんの好きなように生きてみてもいいんじゃないかな?」

 マスターが言う。

「僕なんて好きなことやってこうして喫茶店やってるしね。人それぞれだよ」

「人それぞれ……」

 あたしはのろのろとパンケーキを口に入れる。く、悩んでいてもふっくらとした甘いパンケーキは旨い……。

「そうだね。人それぞれだ。マスターのように生きてもいいし、私のように生きるのはちょっとお勧めしないがね」

 そう言って、おっさんはくつくつと笑った。

「ふうむ……」

 パンケーキを食べながら、あたしは自分がどうしたいかを考えていた。



 ●



 次の日。あたしは学校の職員室に来ていた。

「しつれーしまーす」

 ドアを開けて中に入る。周りの先生たちが珍しいものでも見るようにあたしを見た。まあ、こんな場所にあたしが来るなんて珍しいだろう。

「おお、前原。どうだ? その気になったか?」

 田中先生が迎えてくれる。だけどあたしは自分の答えをきっぱりと告げた。

「センセー、あたし学校辞めます」

「はあ!?」

 田中先生のこの時の顔は、しばらくの間忘れられなかった。

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