第4話 おっさんの過去

「こんちゃー」

 あたしは喫茶店に入っていく。もちろんおっさんの知り合いの店のあそこだ。

「こんにちは。あれ? 今日は一人かい?」

 店長、って言うと弁当屋の店長と被るな、マスターはあたしに確認をしてきた。

「うん、今日はあたしだけ」

 そう、今日はあたし一人でここに来たのである。

「珍しいね。カウンターに座るかい?」

「うん」

 マスターに答えつつ、カウンターに座る。

 あたしはブレンドコーヒーを頼んでから聞いてみた。

「マスターはさ、おっさんとはどういう知り合いなの?」

 あたしがここに一人で来た理由。それはおっさんのことを知るためだ。

 先日おっさんがあたしのバイト先である弁当屋の店長と知り合いだと知った時、やっぱりおっさんについて色々と知りたいと思ったのだ。

「先生と? そうだなあ……」

 マスターはちょっと考える。

「まあ、友達というか。そんな感じかな?」

 友達、か。じゃあある程度おっさんのことは知っているかもしれない。というわけで聞いてみた。

「じゃあさ、おっさんてどういう人なの? 何してたとか、知ってる?」

「うーん」

 マスターはまた考える。考えながらもコーヒーを淹れる手は止めない。

「自分で本人には聞かないのかい?」

 マスターは正論を出してきた。そりゃそうだよな、他人に聞くなんてなんか後ろめたくもある。

「んー、おっさんに聞いてもあんまり教えてくれなくてさ」

 そう。おっさんとはLINE交換までしてる。つまりいつでも聞けるわけで、実際聞いてみた。

 だけどおっさんは適当にごまかすだけで何も教えてはくれなかった。

「だから何か教えてよー」

 今一度マスターにねだる。

「でもなあ」

 マスターは困ったように言う。

「本人が言わないなら、他人からも言わない方がいいと思うなあ」

「えー」

 あたしがむくれると、マスターは諭すように言う。

「歌音ちゃんにとって、先生はどんな人?」

「ええ?」

 急に言われてちょっと困った。

「悪い人じゃないだろう?」

「まあ、うん」

「なら、それでいいんだよ」

 マスターの声はやさしくちょっと笑っている。

「そういわれてもなあ……」

 あたしはちょっと不服だった。



 ●



 喫茶店からの帰り道。

 今日はバイトがないんで暇なんだけど、とりあえず家に帰るかなあと駅前を歩いてた。そしたら駅前の銅像、その真ん前に小さな女の子がいた。

 背の低さからしても小学校の低学年とか、その辺だろう。くりっとした目を銅像に向けている。

 銅像は街の名物をモチーフに有名な作家先生に頼んでデザインされたっていう、いわゆるゆるキャラだった。

 女の子は目を丸くして、ぽかーんって感じで口を開けている。一体何してんだ? この子。

 そのそばを通り過ぎようとしたとき、ちょっと気になる思考が浮かび上がった。

 ひょっとして、迷子だっりして――?

 あたしはちょっと考えてしまったが、もし迷子だったらこのままってのも忍びない。とりあえず迷子かどうかだけ確認を取ってみることにする。

「えーと、お嬢ちゃん? 迷子かなんかだったりする?」

 あたしの声に、振り向いた女の子は少し考えると、ゆっくりうなずいた。

「あー、迷子だったか……」

 声をかけてよかったと思うと同時に、ちょっと面倒くさいなとも思う。

「あのね、人を探してるの」

 ちょっと舌足らず気味な喋りで、女の子は言う。

「人探し――。お父さんとかお母さんとか?」

 あたしの問いに、首を振って答える。

「おじちゃん」

 おじちゃん――? ああ、叔父さんかな。しかしたった一人探すったって当てもないしな。ここは交番の出番か。あんま行きたくねえけど。

「じゃあさ、お姉さんと交番いこっか。お巡りさんなら探してくれるよ」

 しかし、この女の子は首を振ったのだ。

「ううん、交番は行かない」

「なんで?」

 あたしの問いに、女の子は答えた。

「おじちゃんは人殺しだから、交番に行くとだめなの」

 おいおい、物騒な言葉だな。しかもその人物、心当たりがある気がするぞ……。

 あたしはやや小さな声で聞いた。

「あー、んん。そのおじちゃんて人はさ、ひょっとして自分のお父さんを殺したひと、かな?」

 すると女の子はしばらく考えた後、こっくりとうなずいたのだった。



 ●



 喫茶店。いつもの喫茶店だ。その場所にあたしは再び戻っていた。ただし、今度は例の女の子と一緒だ。二人でテーブル席に座って、が来るのをじっと待つ。

 ここでふと、思いついた。

「あー、お嬢ちゃんのおじさんってさ――」

 そこまで言って、やっぱりだめじゃないかなーと思い直す。

 実のところ、このお子様におじちゃん、つまりおっさんの事なんだけど、そのおっさんの過去を聞いたらわかるんじゃないかって思ったわけだ。でもそれはやっぱりなんだか卑怯というか。そんな気がして聞くのをやめた。

「うん?」

 お子様がその目をあたしに向けてくるが、なんでもない、とだけ返しておいた。

「いらっしゃいませ」

 マスターの言葉に入り口を見る。そこにはいつも通りのおっさんがいた。

 おっさんはテーブル席にあたしたちがいることを見ると、そのままこっちに歩いてきた。

「やあ、突然でびっくりしたよ。遅くなってすまない」

 そう言ってあたしの隣、お子様の目の前に座る。

「前原さん、すまなかったね。姪を見つけてくれて助かったよ」

「ああ、いや、偶然だったし。声かけたのがあたしで良かったってだけで……」

 まあ考えてみればこのお子様に声をかけたのが別のひとだったら困ったことになっていただろう。

「それで、静香さんはなんでここに?」

 おっさんがお子様に向かって聞く。なるほど、このお子様は静香って名前なのか。

「おじちゃんに聞きたいことがあったの」

 静香というこの子は、おっさんに何だか微妙な、なんだろう、危険な? そんな感じの目を向けた。

「聞きたいこと、か」

 おっさんは頭を掻いた。

 そこでちょっと気になったんで隣から聞いてみる。

「あのさ、この子のお母さんとかには、連絡は?」

「ああ、ちゃんとしてある。少ししたら迎えに来るそうだ」

 あたしはそっかそっかとうなずきながら、そっと黙った。いやあ、だってこの静香とかいうお子様、さっきから真剣におっさんを見てるんだもの。

 おっさんは、なんか、なんて言ったらいいんだろう? 何聞かれるのかわかってるような感じがする。そんな顔で、静香ちゃんに聞く。

「それで、聞きたいことって?」

 そこでこのお子様は、びっくりするようなことを聞いてのけた。

「おじちゃんは、なんでおじいちゃんを殺したの?」

 あたしは思わず息を飲んだ。もしコーヒーでも飲んでたら間違いなく咳き込んでいただろう。

「ねえ、なんで?」

 静香ちゃんの声が、妙にとげを持って聞こえる。いや、実際に攻めるような口調なんだ。だけど、おっさんが言われてると思うと、余計にとげが感じられた。

「んー」

 おっさんは頭を掻く。困ってるおっさんなんて珍しい。

「それは、相手が静香さんでも、話せないな」

 少しづつ、区切るようにおっさんは言った。

「なんで?」

 お子様の純真な目が、まっすぐな怒りと疑問をぶつけてくる。

「なんでと言われても、答えられないよ」

 おっさんは困ったようにまた、頭を掻いた。

「おじいちゃんが死んで、それからいろいろあったんだよ?」

 静香ちゃんは思い出しているのか、ちょっと泣きそうなくらいの悲しい顔だった。

「お父さんも、お母さんも大変で、おばあちゃんはもっと大変そうで――」

 あたしは想像した。身内が身内を殺したというその事実。実際に体験しないとわからないだろうけど、それでも様々な苦労があっただろうというのは想像に余りある。

「しかも、もうおじいちゃんには――」

 静香ちゃんはため込んだ感情を、そっと吐き出した。

「――もう、会えないって……」

 あたしは静香ちゃんの声に、締め付けられそうだった。

 確かにおっさんの過去は知らない。だから理由もわからないけど、この子にとっては平和な家族を脅かした人間なんだ。おっさんは……。

「ごめん――」

 おっさんは静かにそう言う。

「本当にごめんよ。だけど、どうしてとか、その理由は言えないんだ」

 おっさんの顔も悲しみに包まれていた。

「ごめんよ」



 ●



 しばらくして、静香ちゃんのお母さん、つまりおっさんの姉ちゃんから連絡があって、駅前に出た。

 迎えに来たおっさんの姉ちゃんはまだ若く見える人だったけど、その顔にすごい疲れが見えた。

 そして最後に、別れ際に言った静香ちゃんの言葉が忘れられない。

「おじちゃん、私、許さないからね……」

 許さない。静香ちゃんはそう言って、母親と共にバスに乗っていった。

 あたしはその言葉が、いつまでも忘れられなかった。



 ●



「なあおっさん」

 静香ちゃんを見送ったあと、駅前を歩いて帰りながらあたしは聞いた。

「おっさんって、良い奴? それとも悪い奴?」

 そう聞く。あたしにはよくわからなくなってきたから。

「ふむ」

 おっさんは一つ、ため息を吐く。

「少なくても、世間的には良い人間じゃないなあ」

「それは、自分の親を殺したから?」

「そうだね」

 おっさんはうなずく。それは事実だし、あたしもわかってた。けど――。

「でも、おっさんはあたしに優しいじゃん――」

 言葉を紡ぐ。

「なのに自分の身内から、あんなこと言われるなんて……」

 許さない。その言葉があたしの胸に何かを刻んでいる。

「そうだなあ」

 おっさんは言った。

「人間はいろんな顔を持っている。いろんな事情を持っているからね。だから、誰かに対しては良い人でも、誰かに対しては悪い人になりえる」

 そう言うと、おっさんは頭を掻いた。

「私は親族に対しては、悪い人なんだなあ」

 その言葉はなんだか、おっさん自身に向けられたように聞こえた。

「なんか――」

 あたしは口を開く。心がもやもやする。

「納得できない」

 そう。納得できない。あたしはおっさんと会えて良かったと思うし、おっさんは良い奴だと思う。でも、そんなおっさんが身内から許さないなんて言われるのは、あんまりな気がする。

「仕方ないさ。私は人を、自分の父親を殺したんだから」

 その声に、あたしはやっぱり聞くべきだと思った。このままじゃもやもやしっぱなしだ。

 だから聞く。

「おっさん、なんで自分の親父殺したの?」

「それを聞くかね……」

「だって、それがわからないとあたしは納得できない。おっさんが本当はどういう人間か、わからないよ!」

 あたしの言葉。おっさんはそれを聞いて、そして答えた。やはり頭を掻きながら。

「教えるよ。そこまで言われたら。でも素面で話すようなことじゃないな」

 そう言うと、おっさんは携帯でどこかに電話をかけた。



 ●



 そこは駅のすぐ近く、雑居ビルの一階を奥に進んだところにあった。看板で名前を確かめる。

 バー『件獣』。くだんじゅう、と読むらしい。

 でもそのバーの扉には、しっかりと「CLOSED」という札が下がっていた。

「閉店、って書いてあるけど……」

 あたしはおっさんに聞く。

「うん。今日は特別だ」

 おっさんはなんだか困ったような、でもいたずらでもするかのような、そんな複雑な表情で扉を開けた。

「こんばんは」

 おっさんが中に入りながら言う。

「いらっしゃいませ、先生」

 出迎えたのは小柄な女性だ。バーテンダーって言うんだっけ? その小柄なバーテンダーさんがカウンターへ通してくれる。

 店の中はちょっと薄暗い、でも心地良い雰囲気の空間だった。カウンターもテーブルもシックな木製で、飾られたアンティークが主張しすぎずに置いてある。

 カウンターに供えられた小さなソファーに座る。バーテンダーさんがおしぼりをくれた。暖かい、それにミントの香りがほんのりする。

「今日はすまないね、無理を聞いてもらって」

 おっさんがバーテンダーさんに言う。無理? ってなんだろう? あ、さっきの閉店って札と関係あるのかな?

「いえいえ、ぜんぜんかまいませんよ。ちょうどお客さんもいなかったですし」

 言うと笑いながらバーテンダーさんは続けた。

「先生がその分飲んでくれるでしょうし」

 おっさんも笑う。二人ともなんだか友人のような、そんな空気感だ。

「私はドゥドゥをソーダ割りで。彼女には、ノンアルコールで何か作ってあげてください」

 おっさんが勝手に注文する。いやまあ未成年のあたしはここで注文するものなんてちんぷんかんぷんだからありがたいんだけど。

「かしこまりました。何か嫌いなものとか、食べれない物とかありますか?」

 バーテンダーさんの丁寧な問いかけに、慌てて答える。

「あ、えっと、何でも食べれます! はい」

 こんなところ来たこともないから、変なことを言いそうで焦る。

「かしこまりました。少々お待ちください」

 そう言ってバーテンダーさんはあたしたちの飲み物、ドリンクって言った方がいいのかな? それを用意し始める。

 あたしはちょっとかしこまったように緊張していた。そっと横のおっさんを見てみる。うわー、すっごいくつろいだ顔してんな、おい。

「おっさんこういうところは慣れてるの?」

 聞いてみる。

「まあ、ほどほどにね」

 相変わらず適当に返してくる。あたしは最近わかったぞ。出来るっていう奴よりもちょっと遠慮してるくらいの奴の方が出来るんだ。大人ってのはなかなかずる賢い。などと思う。

「失礼します。お先にお通しでございます」

 バーテンダーさんが小さな皿をあたしとおっさんの前に一つずつ置く。皿の上にはビスケットにクリームのようなものを乗せたやつが二つ、見るからにおしゃれに置いてあった。

「本日のお通し、クリームチーズと大納言小豆でございます」

 バーテンダーさんの言葉に、ちょっとこんがらがる。チーズに、小豆?

「ふふ、私の好きなやつだな」

 おっさんが言うと、バーテンダーさんが答えた。

「はい。先生の好みだと思って用意してました」

「いやいや、ありがたいね」

 バーテンダーさんはおっさんの好みまで知ってるのか。これは相当通い詰めてるんじゃないか? このおっさん。

 とりあえず、あたしはそんなことを考えるものの、どうしていいのかわからずにただ座っているだけだ。

「ふふ、固くならなくていい。折角来たんだ、楽しんだ方がいいだろう?」

 そう言うと、おっさんはそのチーズと小豆を乗せたビスケットをほうばった。

「うん、旨い。君も食べるといい」

 まあ、そう言われたらもう確かにかしこまっててもしょうがない。それでもあたしはなるべく行儀よく見えるようにビスケットを齧る。

 口の中でなめらかなクリームチーズと上品な甘さの小豆が、一緒くたになって喉を通る。なんだこれ!? 超旨い!

 あたしは気が付くとビスケットを二つともペロリと平らげていた。いや、だってあの旨さは凄いって!

「はっはっは」

 隣でおっさんの笑い声がした。しまった、あまりに旨いんで速攻で平らげたけど、マナーとか考えてなかった。

「いやいや、それでいいんだよ」

 まるで思ったことを読み取ったかのようにおっさんが言う。

「別にかしこまったりマナーを気にしたりとか、そんな必要はない。他人に失礼じゃなく、迷惑もかけなければあとは楽しめばいいんだ」

「そ、そんなもんかな……」

 でもあたしはちょっと恥ずかしかった。いやあまさか夢中で食うとは自分でも思わなかった。

「よかったら私の残ってる方、食べるかい?」

「え? いいの?」

 思わず喜んでから、はたと思い直す。

「あ、いやその、大丈夫。うん」

 おっさんはそんなあたしを見てくっくっくとか声を殺して笑ってやがる。くそ、失敗したなあ。

「お気に召していただけたようで良かったです。ペロリでしたね」

 バーテンダーさんが笑いながらやってきた。くそ、見られていたか。

「こちらレイジードゥドゥのソーダ割りと、リンゴのフレッシュカクテルです」

 笑いかけたそのまま、バーテンダーさんはあたしの前にカクテルを、おっさんの前にソーダが弾けているグラスを置いた。

「これがカクテル……」

 考えていたカクテルとはちょっと違う。大きめの、なんだっけ、これ、ワイングラス? みたいなやつに注がれた透き通る黄色い液体。それにストローがさしてある。

「アルコールは使ってませんが、当店オリジナルのフレッシュフルーツカクテルです」

 バーテンダーさんが説明してくれる。

「ここのお客さんにはアルコールが弱い人も多くてね。アルコールなしのカクテルを作ってくれるのさ」

「へ、へー」

 あたしはそのカクテルの綺麗な佇まいに見とれていた。ちょっと気おされているような、そんな気もする。

「ま、飲もう」

 おっさんはそう言うとグラスを片手で軽く持ち上げた。あたしも真似してワイングラスを持ち上げてみる。ああ、ワイングラスって持ちかたこれでいいのかな?

「乾杯」

「か、カンパイ」

 おっさんはそう言うとごくりと一口、そのグラスの中身を飲み込んだ。

 あたしも自分のグラス、そこにささってるストローに口を付けて吸ってみる。

「旨い……」

 それは不思議な味だった。すごくリンゴの味と風味を感じる。でも甘すぎず、ソーダのしゅわしゅわ感が喉を刺激する。よく売ってるリンゴジュースとは比べ物にならない。いや、なんだか比べちゃいけない気がした。リンゴジュースって何気なく飲んでるけど、このカクテルの方がぜんぜんリンゴの味がする。そう、リンゴをしっかりと味わっているような感覚だ。

「旨いか。それは何より」

 おっさんはそう言ってにこりと笑った。あたしはなんだかここは別世界の様な気がしてきた。

 カクテルは想像したものよりもかなり量があったんだけど、もったいなくてあたしは少しずつ味わうことにした。すると、おっさんは早速一杯飲みほして、おかわりを頼んでいた。

「さて、そろそろ話そうか」

 注文を終えたおっさんが言う。

 そうだ、あたしはおっさんの話を聞くためにここに来たんだ。なんか堪能しちゃって忘れてた。

「どこから話すか――」

 そう言って、おっさんは迷った。

「まあ、まず端的に言おう。私の父はね、いわゆるろくでなしだったんだよ」

 そこからおっさんの過去が語られ始めた。



 ●



 おっさんの話が長いので、あたしなりにまとめてその内容を言おうと思う。

 おっさんの父親は、およそ人としてかなりのろくでなしだったらしい。酒癖が悪いのは当たり前で、煙草はいわゆるチェーンスモーカー。おっさんがまだ幼いころに家じゅうが煙草の煙で充満してたらしい。おっさんとその姉ちゃんが咳き込んで辛いといっても家の中で煙草を吸い続けていたそうだ。それに暴力。実際に殴るとかもそうだけど、言葉での暴力も酷かったらしい。ある日選挙があった時に、おっさんが父親と違う候補に票を入れただけでおっさんは父親に人殺しと言われたそうだ。意味わかんないだろ? おっさんはそんな父親とずっと一緒に暮らしてきたんだそうだ。

 なんか忘れがちだけど、おっさんは精神障害を持ってる。それもあって自分の家を離れることが出来ず、父親との生活を余儀なくされていたらしい。

 で、結局我慢できなくなったおっさんが父親を殺すことに至ったそうだ。しかもその殺した当時の状況を聞いたらちょっと反吐が出そうだった。

 おっさんがついに父親に手を上げた理由。それはおっさんのお母さんのことだった。

「母も難病でね。実に辛い思いをしながら暮らしてたんだよ。普段普通の生活をしているけど、ふとした拍子に時折体調を崩して、起き上がれなくなってしまうんだ」

 おっさんはそう言って悲しそうな顔をした。

 そういうときのお母さんは吐き続けてしまって起き上がれないどころか体力をどんどん消耗してしまうらしい。それでも薬でまだましな方なのだという。

「その日も、朝から母の体調が悪かったんだ」

 おっさんはあまり思い出したくないような、苦い顔で言う。

「そんな母を、父はあざ笑ったのさ。まいどまいど体調崩しやがって、お前は馬鹿だからそうなるんだ、ってね」

 その言葉でついにおっさんは父親に手を上げたんだという。父親が趣味で持っていた木製のバット。それで殴りつけたんだそうだ。

「若いころからいつかは殺してやると思っていたけどね。だからかな。殺した後は何だかすがすがしかったのも覚えてる」

 そう、おっさんは締めくくった。苦いような、悲しいような、ひどく複雑な表情を、でも優しげな眼のまま、顔に浮かべていた。

「そんなの、――そんなのそのクソ親父が悪いじゃん」

 確かに殺人は犯罪だし、良くないと思う。でもこんなやさしいおっさんが手を上げてしまうほど酷いクズだった親父が悪いのは明白だ。

「しかもおっさん、あのあと本当に自首するし……」

 あのとき。あの橋の上で初めて会ったとき、おっさんは自首するといって、本当に警察に向かった。おっさんはやさしい上に正直者だ。それにあのとき、おっさんと話ができたからあたしは今ここにいる。そうだ、おっさんはクソ親父を殺したけど、あたしを助けてくれてもいるんだ。自殺しようとしたあたしを……。

「でも、世間では私は悪人だ。それに実際、家族にも迷惑をかけてしまった」

 おっさんが言うには当時新聞記者とかテレビの取材とか、そういうのが押し寄せたらしい。それで親族はみんな疲れてしまったんだという。

「そんなの――」

 あたしは言う。言わなきゃいけない気がした。

「そんなの、関係ないじゃん。おっさん悪くないじゃん……」

 気が付くと、あたしは涙を浮かべていた。自分の事じゃないのに悔しかった。それは悔し涙だった。

「ふふ、不良娘の根は素直だな」

 おっさんが茶化す。おいこら、人がおっさんのために泣いてんだぞ。

「まあ、世間はそうだ。けど、家族はわかってくれてもいる。だから大丈夫さ」

「じゃあ、静香ちゃんは?」

 あたしは聞いた。あのお子様は、おっさんを許さないって言ったんだぞ。十にもなってないような小さな子供が。

「父は静香さんにだけはやさしかったからなあ」

 つまり、孫にだけいい顔をしてたのか。

「静香さんも大人になればわかってくれるさ。きっとね」

「じゃあ結局――」

 言葉が詰まる。でも、絞り出す。

「それまでまた、我慢じゃん……」

 おっさんはただ、そうだなあ、なんて言うだけだった。

 その後はもう、おっさんの過去については聞かなかった。ただあたしは悔しくて、そんな気持ちで旨いカクテルを飲むのが辛かった。

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