ラストカマクラ(宇宙最後の愛)
早稲田暴力会
ラストカマクラ(宇宙最後の愛)
クジラの死体が打ち上げられていた。トレインチャンネルに映るローカルニュースはそう告げて、幾度も見たことのある浜が映し出される。黒々とした巨大な異物が横たわっていた。腐敗が進んでいるらしく、すぐにしかるべき団体が処理を行うそうだった。ぼっかりとした穴。クジラは黒く、いきなり現れた巨大な穴のようだった。吸い込まれるようなそれは、何か見覚えがあったが、思い出せない。
車窓の奥で工場と樹木が均等に並び、空は太陽が落ち込んで、昼も終わりかけていた。向かいに座るサラリーマンはメガネがずれて、いまにも眠りに落ちるところのようだった。車両が揺れるたびに自分の頭が小刻みに窓を打ち、そのリズムで私も寝付きそうだったが、ふと燃える陽光が目を刺した。
「たまには、いいもんですね。電車も」
「あまり、乗らない?」
「佐喜子のお迎えと夕飯のお買い物ぐらいでしか出かけませんから。もっぱら車で」
アナウンスが流れる。会話を少し止めて、耳を傾けた。隣の席で同じようにする十志子さんの、電光掲示板を見るぼんやりとしたまなこが黒くて重たい。
どうやら、間隔調整のために数分停車するようだった。
「佐喜子ちゃん。元気にしてる?」
「相変わらず大人しくて……心配になるくらい。」
「いいじゃない。遥香は口ばっかり達者で。生意気になった。亜紀は家を出たから、手が離れたけど。また従姉妹会やりたいって言ってたよ。佐喜子ちゃんがかわいくてしょうがいないみたい」
「それはそれは、うれしいです。遥香ちゃんももう高校生か。来年、受験ですか?」
「そうそう。いま、高校二年生」
「靜代さんも大変だ」
遥香の受験について、次ぐ言葉を見つけられず、会話が途切れる。神経質な娘は、自分のことを他人に話されることがあまり好きじゃない。娘に限ったことじゃない、思春期の子供なら当たり前のことか、と自分の高校時代をふと思い返した。娘の成績を井戸端会議の議題にする母のデリカシーのなさを恨んだものだった。
電車が動き出して、再び一定のリズムで頭に窓が当たる。盗み見るように十志子さんの横顔を覗くと、さっきまでの私と同じように窓の奥を見ていた。変わらず、黒々と濃い瞳だった。会話は立ち消えたまま、蛍光灯はこうこうと彼女を照らしていた。
〇
真夜中だというのに、灯油の入った赤いタンクがやけにはっきり見える。それと、薄黄緑色のエコバッグを持つ十志子さんの生白く肉付きのよい腕も同じように、夜闇の中で浮きあがっていた。私も同じようにポリタンクを腕にぶら下げる。他になにか持っていくものありますか、と聞くと、後部座席のレジ袋を、というので言われたままに持ち出した。それは軽く、中身はお徳用マシュマロとビスケットと、ボディーソープだけだった。
「ボディーソープ?」
「ああ、それ、なんかクジで当たって」
「そうですか」
ポリタンク、重いですね、と喋りかけると十志子さんは、でも、寝入った子供に比べれば全然、と母親らしい笑顔で答えた。子供がもう十七歳にもなり、そんな答えは想像もしていなかったので、確かに、と笑う。第二次性徴のただなかにいる娘の脚や腕を思い返すと、とてもじゃないけれどもう背負うことは出来ないなと老いを感じた。
真っ黒い海に、猫の爪みたいな三日月が細く光を落としている。深夜も三時を回ると、普段は人通りの多いこの辺りも出歩く人はすっかりおらず、疎らに車が通り過ぎてゆくだけだった。横断歩道の先を行く十志子さんの汗ばんだ髪先が街灯に照らされて、透ける。そういえば、シャンプーが切れそうだった。
「もう、すぐなんで。この通りの先です」
「知ってる知ってる。なんか、小洒落たスペインバルが近くにあるとこでしょ」
「そこのバイトとも、満、不倫してたんですよ」
流れるような不倫の暴露に、思わず吹き出してしまう。情熱の国、スペインには大した思いいれはない。バブルが崩壊する前に勤めていた会社の接待で仔兎のパエリヤを食べたことがある。
それから、アヒージョ、ハモン・セラーノに、オイルサーディン。味付けの濃いそれらをバケットでいただく。想像したら、少しお腹がすいた。
「それは、また……手近なところで」
「なにが、アトリエだっつー話ですよ。ラブホテルもいいとこですよね」
「でも、ほら」
「そう。今日はBBQ会場ですからね!」
めずらしく大ぶりなジェスチャーで拳を突き上げた十志子さんに合わせて、私もYEAH! と小さく叫んだ。お互いにほほを寄せて笑いあって、ほとんどスキップみたいに駆ける。今日のために買ったというスタッズの光る十志子さんのピンヒールがアスファルトを蹴って、スタッカートのリズムを刻んだ。お互い、今日はドレスアップして集合しましょう、セレブレーションですからね、という言葉のとおりに、十志子さんは見事なヘアセットと、ドレスに、ジュエリーだった。手元の灯油は軽やかに振り回されて、重さなんか感じられない。ポリタンクの赤色は差し色のように、今日のコーディネートを仕上げていた。赤いタンクで愛されコーデ! 一体だれに? 不倫をして、子供に暴力を振るう夫を持つ十志子さんは、今更誰かの愛を手に入れようとは思っていない。復讐と、悪戯心の足取りは軽く、無責任だった。復讐はなにも生まないなんて言うけれど、何かを生む必要なんてどこにあるんだろう?
海沿いの一等地にかまえるアトリエに着くと、あたりに人はおらず、絶好のBBQ、もとい放火日和だった。庭に入り込んで、佐喜子ちゃんがもっと幼いころに作ったというブランコに座ってみる。ギ、と窮屈な音がしたけれど、前、後ろ、と揺らしていくうちになんだか楽しい気分になってきた。今日のパーティのための、一張羅のワンピースの裾が翻る。こんな絵画あったような、と思い返しながら目線を足元から正面へ変えると穏やかな海があって、ブランコと同じように、波が寄せては返していた。
「いい見晴らし」
「本当に。こんなとこで不倫出来たら、そりゃ、最高ですよね」
「最高だねえ」
ここ入るの、たった三回目なんです、と十志子さんは続けて私が座るブランコに、後ろから足を乗せた。ブランコの二人乗りなんて、何歳ぶりだろうか。ギーコ、ギーコ、と勢いを合わせて揺らしていると、童心に返るようだった。ここに入れるのは、と後ろに立っていて、表情の見えない十志子さんが声を落とす。満のインスピレーションとかいう、バカの性欲を掻き立てる、若くて淫らな女だけなんです。若くて淫らな女。アダルトビデオかエロ本かという惹句には、どこか現実離れした感触があった。十志子さんは呆れたような笑い声をあげて、ひときわ大きくブランコを漕いだ。
「セックスしてんだか、絵描いてんだか!」
「どっちなんですか?」
「曰く、恋をしているそうですよ」
「それは、なんともロマンティック」
確かに! 十志子さんがそう叫ぶのを合図に、私たちはブランコを足で止めて、降りる。柔らかな庭土がヒールにべったりと付いたのも気にせず、十志子さんは家から持ってきたというバーボンをエコバッグから取り出す。靜代さんのぶんもありますから、と彼女が手にしているそれと同じガラス瓶が投げ出される。
「これはこれは。一人、一瓶?」
「回し飲み、ちょっと苦手で。今夜は私がホストですから、奢りです」
「そういうことなら」
私は直箸も回し飲みも気にならないたちだけど、バーボンを瓶から直で飲むという荒々しさが映画のようで気に入ったので、十志子さんの好意をありがたく受けとることにした。これから犯罪をしようというのに酔っぱらってしまうのは大胆というよりもただのバカなのかもしれない。でも、たまには愚者でもいいじゃない。そんな不思議な高揚があった。あまり刺激のない日常を送っているものだから、いきなり訪れたメロドラマみたいな復讐の甘やかさに、脳が反復横跳びしている。ワイドショーで取り上げられるような目の前の出来事が、私をシャボンみたいにふわふわさせた。玉虫色に、よろめいて光る。
「そろそろいきますか」
「はい」
十志子さんは放っていたポリタンクの蓋を外して、灯油を垂れ流しながら、アトリエをぐるっと一周してみせた。まだまだ余ってる! と笑うので、どんどん流しちゃいましょう、と答える。私も並走して、ドレスを揺らしながら灯油を撒いた。庭土の上を蹴ってまわって、ハイヒールが二人分、しっかり跡を残していく。名前は知らないけど、お店で買ったら高そうな派手な花ばっかりが植わった花壇をとびきり呑気なステップで荒らした。ポリタンクとバーボンを両手にアトリエの周りをスキップして、でも、決してバターにならないくらいの足取りだった。
「メリーゴーランドみたい!」
そう唄うように十志子さんがポリタンクを揺らし、手首のスナップを効かせて灯油を振りまいた。静かな海の水面が月の光を反射してちらつく。まるでミラーボールで、銀色のきらめきが濃い青の奥で揺れた。
「空っぽになりましたね」
「腕つかれちゃいました」
空っぽのポリタンクは、ちょっと高いところから放ったら横向きに転がる。だらだらと注ぎ残した灯油が漏れ出した。十志子さんはピンクの百円ライターを取り出して、かち、かちと鳴らしてみせた。握力が、利き手でも十三しかないらしく、両手で力を込めていたけれど、うまく火がつかない。親指の先が真っ赤になって、爆発しそうだった。
「かわりましょう」
「でも、私がつけないと」
「じゃあ、チャッカマンにしましょう」
私が予備で持ってきたチャッカマンを手渡すと、十志子さんは簡単に点火させることができた。満足気に微笑んでから、かわらず重たい目をこちらに向けた。
「私、子供のころからできないことが多くて」
「できないこと?」
「そう。今みたいに。雑巾を満足に絞るとか、配られたプリントはその日のうちに親に渡すとか、お習字のすずりはしっかり洗うとか、曲がっていない、きれいな蝶結びとか」
「苦手な子は、苦手ですよね」
十志子さんのランドセルを背負った幼い姿を想像してみる。佐喜子ちゃんをヒントにしたけれど、あの子は父親似だから、たぶん本物とは全然違うのだろう。
「だから、同じ地区に住んでた委員長みたいな女の子が、いつも面倒を見てくれていて。家に電話をかけてきて、明日の時間割を教えてくれたり」
「いますよね。面倒見のいい子」
「私、そういうことはできなくても、お勉強とか、絵を描くことは得意だったんです」
「ああ」
なんとなく想像がついた。生活の要領がつかめなくても、教科の勉強が得意な子供は多い。小学生のうちは、どうしても生活面が成績と直結しているようなイメージがつきがちだけれど。十志子さんはチャッカマンの群青色を指でなぞって、便利なものがありますよね、とほほえむ。
「だから、あんまり気にしてなかったんです。その、いろいろできないことを」
「はあ」
「でも、それがその委員長……恭子ちゃんはなんだか気に食わなかったみたいで。いまならその気持ちもわかりますけど、まあ、なにぶん子供でしたから」
「面倒見てやってんのに、みたいな」
「たぶん。それで、ちょっとお勉強が難しくなってくるころ、五年生ぐらいのときには周りからの評価も、とろくてどんくさいだけの十志子じゃなくなったんです。でも、そのころからだんだん疎遠になっていって。向こうが私の悪口を言うのも聞こえていたんです」
「悪口ですか。いやですね」
「いやでした。……『十志子は、私がいないとまともに学校に通えないくせに自信満々で、ナルシストだ』って」
「ああ……」
知ったばかりの言葉を使いたがる子供の言いそうな悪口だった。自分や、子供たちが小学生のころにも覚えがあるような話だ。
「ナルシストの、十志子だから、『ナルコ』って陰口をたたかれていたんです」
「そのまま」
「そのままですね。でも、暴力を振るわれたり、悪戯されるわけでもないから先生や親に言うのも恥ずかしくて。しばらくしてほかの友達もできましたし」
「よかったですね」
「はい。でも、なんだかずっと気にかかっていたんです。私は、ナルシストのナルコなんだ、って。ひとりじゃなんにもできなくて、ちょっとお勉強ができるだけなのに自信満々の、ナルシストなんだって」
海が揺らめいて、三日月は雲に隠れた。石灰色の奥で朧げな光が重たく空にぶら下がっている。さっきまで走っていたときは忘れていた寒さが体を震えさせた。冷えた汗が手に濡れ広がっていく。
「小学校の卒業式以来、恭子ちゃんとは会ってません。でもふとした拍子に、ナルコ、って頭の中で響いていたんです。高校でも、大学でも、働き始めても。いやな記憶ほど薄れにくい」
「私にも覚えがあります」
「ですよね。……満と付き合って五年目の、同棲してすぐ、荷物を片しているときに、ふと今の話をしようとしたんです。彼がアルバムを見返して、自分の子供のころの話をしたから、つい私も、と思って。打ち明けようって」
十志子さんは左手にはめたままの結婚指輪を見つめた。ダイヤモンドの鋭い光が目を掠める。
「『昔、小学生のころ、私、ナルコって呼ばれてたの』って。話を始めたら、彼がすぐに『なんで?』って。『ナルココリードの、ナルコ?』って言ったんです」
「ナルココリード?」
「メキシコの民族音楽です。ナルコはメキシコの麻薬密売カルテルのことで、彼らをたたえる物語り歌のことです。メキシコでは、公共の場で演奏することを国によって禁じられているんです」
日本では、普通に聞くことができます。そう言ってユーチューブを開いてみせた。それから、メキシコの麻薬戦争を題材にした映画、『皆殺しのバラッド』のあらすじに話が逸れるところを、引き戻す。
「小学生のあだなの話ですよね?」
「そうなんです。だから私つい、笑っちゃって。誰にも小学生のあだ名をいまだに引きずっていることなんて、恥ずかしくって話せなくて、勇気をもって話そうとしたらそんな風に言われたから」
「それは、たしかに」
「その時、あ、満と結婚しようって思ったんです。段ボール山積みなのに、子供のころの写真見て長話はじめて、ナルココリードのCDかけ始めちゃうような人と、結婚したいって、思っちゃったんです」
「それは、軽率ですね」
「バカでした」
深くため息を一つ吐いて、結婚指輪を外してから、勢いよく放り投げた。ベタですね、と笑いあいながら、私も投げるものがなかったかしらとポケットを探る。ホームセンターのお釣りを突っ込んだままの九枚の小銭、計四八五円が出てきた。お賽銭として投げ込むには惜しい金額だったが、えいやと放る。チャリンチャリンと高い音がした。
「いくら?」
「四八五円です。奮発しました」
「お賽銭って、金額によって意味があるんですよ。ちょっと待って、調べてみます」
スマートフォンを取り出した十志子さんが、お参りの雑学と題されたホームページを開いて見せた。
「『四方八方からご縁がありますように』だって」
「はは。疲れちゃいますね」
「その時は、また、こうして家を燃やせばいいんですよ」
そうですね。私がうなずくと、十志子さんはチャッカマンで灯油にに濡れた草木を燃やし始める。退散退散、と私たちは長いドレスを翻して駆けた。今度は私が先を歩いて、歩道橋を駆け上がる。濃紺に塗られた鉄の固まりは意外と低い音で、ごんごんごんごんと私たちの足音を響かせて派手なドラムだった。
階段を上り終えると、二人ともすっかり息切れして、笑いあう。橋からだらだら走る車を見ている十志子さんのいつも重たい黒の瞳はヘッドライトを照らし返して、眩しかった。
「はあーっ、つかれましたね」
「汗、べたべたですね。でも、楽しかった」
「なんか、かわいい服きて、走って、燃やして、あれみたいですね。あの、女の子が戦う」
「セーラームーン?」
「プリキュア。娘が見てたんですよ、ついこないだまで。よくはしらないけど」
「ああ……」
私たち二人は地球がどうなろうとどうでもよくって、とにかく生活が大事だった。
〇
久しぶりに実家に帰ってきた上の娘と一緒に、家から二駅のところにあるバラ園に行くことになって、最寄り駅から海沿いをずっと歩いていった。亜紀は初めてできた後輩社員の愉快なミスを語り、私はあふれ出てくる固有名詞と記憶を結びつけるのに必死だった。澁谷さんが上司で、『ポッポ』は使えない同僚、『たんね』は会社裏の喫茶店。英単語の小テストみたいだな、と数十年前の感覚を思い出しながら横断歩道をわたる。
強く風が吹いて、海を見ると青空の下でも濃い灰色で、陽光を反射した部分だけが白かった。大して綺麗でもない海は夜見るに限る。十一月の寒々しい浜に人の姿はなく、トレインチャンネルを越して見たクジラの姿も当然無かった。あまりにも巨大な死はとっくに自治体が依頼したなんとかいう団体に回収されたんだろう。回収した後、クジラの死体はどうするのかな。燃やすのかな。クジラを燃やしたらどんな匂いがして、どんな色になるんだろう。クジラは腹が白くて、背が黒いモノトーンだから、葬式向きの哺乳類だと思う。パンダの赤ちゃんとホッキョクグマは結婚式で、還暦のお祝いはムック、だからサバンナモンキーはMIUMIUのコレクションパーティ。バラの香りの中でそんなことを考えていると、娘は生まれも育ちも鎌倉の人間らしくローズヨコハマをダサいとかバカにしていた。
「見て、アーチだ。写真撮ろうか」
「とる、撮る。私の携帯でも撮って」
黄緑色のiPhoneを取り出すと、ちょうど十志子さんからラインの通知が表示されていた。『画像を送信しました』とある文言に、何の写真だろうとわくわくしながらタップする。しばらくして表示された、最新のスマホに変えたばかりと言っていただけあって高画質の写真には、十志子さんと満さんと佐喜子ちゃんが写っていた。夕空を背景にしたどこかのサービスエリアで牛串とフランクフルトとソフトクリームをそれぞれ持っていて、いかにもな家族写真だった。勤労感謝の日を合わせた三連休で、旅行にでも行ったのだろうか。しばらくして、もう一枚写真が届く。アトリエの立派な庭で、見事な赤色の着物姿の佐喜子ちゃんと、義父と義母、それから満さんと十志子さんが五人並んでいる写真だった。しばらくして『前の写真、間違えちゃいました。昨日七五三やってきました♪ 佐喜子、帯が苦しくてぐずりそうでしたけど(笑) 着付けのお店の紹介、ありがとうございました!』と送られてきた。
「ねえ、佐喜子ちゃん、七五三だったみたい。ほら。かわいい」
「あ、もう佐喜子ちゃん、七歳になったの? はやいね。あー、ほんとだ。かわいいな」
亜紀は従妹の七五三の写真を食い入るように見てから、自分たちの七五三の思い出話を始めた。同じように帯が苦しくて、お祝いで食べにいったイタリアンは味がよくわからなかったこと。千歳飴は妹の遥香にほとんど食べられてしまったこと。妹の七五三の時に着たおでかけ着のワンピースのこと。たまたまモノトーンだったから、その直前にあったお通夜にも着ていったけれど、縁起が悪かったんじゃないかということ。
「私たちが着た七五三の着物さ、あれもともと、お祖母ちゃんのなんでしょ」
「私の方のね。結婚式の着物を、仕立て直したんだよ」
「そっか。じゃあ、佐喜子ちゃんが着てるのは違うのか」
「これはレンタルって言ってた。一人娘だし、買うお金は成人式にとっとくって」
「それがいいかもね」
しばらく間をおいてから、子供はすぐ成長するからね、と亜紀がつけ足して、再びローズヨコハマの悪口を言い始めた。
〇
三千五百円のランチコースも終盤にさしかかり、ブラッドオレンジのジェラートがサーブされる。濃い赤色の味はほんの少し苦い。十志子さんはちょっと冷えちゃいますね、と笑ってティーカップをありがたそうにさすった。
「おいしかった。なんかもっとハイソな感じかと思ったけど」
「わりと気軽な感じですよね」
十志子さんは照れくさそうにちょっと笑って、私もにやにやと応える。
「知り合いがやってるんでしょ。今日は?」
「いそがしそうだから」
「繁盛してるもんね」
見渡す限りテーブルは埋まっていて、騒がしいといった様子はないが決して静かでもなかった。落ち着ける程度の喧騒の中で、同じような女性複数人のグループがおしゃべりに花を咲かせている。
「ちょっと風が吹いてきましたね」
私たちが座っているのはちょうどみなとみらいを見下ろすテラス席で、夜になればさぞかしムードのあるだろうロケーションだった。この店の支配人をやっているという十志子さんの知り合いが気を利かせて眺めの良い席を用意してくれたらしい。
「この頃、朝夜はめっきり冷え込んで。足先が凍っちゃうくらい」
「本当に。テラス席もこの頃でぎりぎりですね」
デザートで体が冷えたらしい十志子さんはカーディガンを羽織り、私もなにか足しの上着を持ってくればよかったと後悔する。みなとみらいの海は穏やかで、豪華客船がどっしりと構えていた。赤レンガ倉庫の賑わいが耳に届くような、のどかな風景に思わずため息が出る。
「ああ、そうだ、ありがとうございました。演劇の衣装」
「うん? ああ、いいのいいの、趣味みたいなものだから」
「本当に助かりました。裁縫、苦手で」
「いいって。その代わり、劇のビデオ見せてね」
「もちろんです」
佐喜子ちゃんが通う小学校は、キリスト教系ということもあってクリスマスはそれにちなんだ演劇をおこなうということで、その衣装を十志子さんの代わりに作ったのだ。裁縫は昔から好きだったし、娘たちが大きくなってからは久しく手を付ける機会もなかったので、ありがたく引き受けた。胸元には大きなリボン、裾にはフリルが重なったピンク色のワンピース。少女趣味ではなかったのでこうした服は娘たちにも作ったことはなかったが、作ってみると意外と楽しいものだった。
「クララ役、主人公なんて佐喜子ちゃん、すごいね」
「うーん。もともとそういうのが得意な子よりも、苦手な子に割り振っているような気がする」
「穿ち過ぎじゃない? ほら、佐喜子ちゃんかわいいし」
「はは。目元が旦那に似たのはよかったかも」
そう言って、十志子さんはリップクリームを塗りなおしたので、私もお財布を取り出す。お札を四枚取り出そうとすると、十志子さんが慌てて止めた。
「今日は、私が出します。お礼のつもりなので」
「いやいや。いいって」
「出させてください。そんなバカ高いわけでもないですから」
「そう? うーん……」
そういわれると、演劇の衣装と三五〇〇円くらいならちょうど釣り合うのかも、と思えてくる。財布のジッパーを一度閉めて、もう一度開けようとする。すかさず十志子さんが切り込んできた。
「私、裁縫、本当にできないんです。佐喜子が生まれてからなんとかできるようになろうって、思ってるうちに老眼はじまっちゃったし」
「それは私もだけど……」
「まあまあ、いいじゃないですか。知り合いの店だから、割引も効くんです、実は」
「そこまでいうなら……」
そうはいっても年下に出されるのは気が引けるな、と思い財布をカバンに仕舞うのはためらいがあった。十志子さんは話を逸らそうと、それ、いい色ですね、と私の財布を指さした。
「これ? 誕生日に旦那に買ってもらったの」
「ああ。渉さん。いい旦那さんですね」
「そんなことないよ。ほら、うちはマンションだから。すぐ裏、山あるし」
燃やせないんですよとは言わずに、ちょうど一口分残っていたコーヒーを口に含んだ。十志子さんがうつむいたまま言葉を返してこないので、私は甘えてみなとみらいの景色を堪能する。ちょっとずるいかもしれない。子供たちには見られたくないと思った。
「でも、私も老眼きつくなってきたし、これが最後かな。糸が見えにくい」
「老眼鏡とか、試さないんですか?」
「……私昔から目が悪くて」
十志子さんが自分の財布を出そうとして、もう一度鞄に仕舞った。小さな鞄はよく手入れされた革製で、もう二十年使っているらしかった。私の鞄は若いころ、独身OL時代に付き合っていた上司からもらったものだということを思い出す。半年付き合って異動で別れたけれど、ついぞ私には不倫が楽しいと思えなかった。
「小学校から、高校を卒業するまでずっと眼鏡をかけてたんです」
「はあ」
課長は三十五歳かそこらで、今の私よりも十五歳も若いことに驚く。今の旦那との結婚式には呼ばなかったし、呼ぶような関係でもなかったけれど、やたら感傷的なメッセージカードが贈られてきていた。ジューンブライドに合わせて紫陽花のイラストが入っていて、過去の不倫相手に送るには風流すぎるものだった。
「学校って、ほら、毎年春に視力検査があるでしょう。その辺うるさい学校だったから、規定よりも見えていないと親に眼鏡を変えてくださいって連絡があって」
ちょうど今と同じような、みなとみらいが一望できるホテルに泊まったこともあった。流行りのブランドの指輪や、鞄や靴をやまほど買い与えてもらった。バブルがはじける直前で、フグをしょっちゅう食べさせてもらっていた。
「そのころ私、いじめられていて。まあ大人しい女の子ばっかりの学校だったから、今みたいな激しいいじめじゃなくて、無視されたりとか、陰口たたかれるくらいだったんだけど」
「覚えがあります」
「うん。だよね。そういうの。だから、漠然と毎日、あー、死にたいなって思ってたんだけどね。毎年、毎年春になると母が眼鏡を買ってくれるのね。子供なんだから、安い眼鏡でいいのに、あんたには勉強頑張ってもらいたいからって、たぶん、すごく高いの。うち、自転車操業の自営業でお金持ちじゃなかったから、デパートなんて行くの、その時だけでね」
お酒や音楽を知ったのはその半年で、恋愛を知ることは出来なかった。スリルも背徳感も私には不安要素でしかなかった。結局、毎日デパートに連れて行ってもらえるような高揚感に飢えているだけだと分かって、別れたのだった。クリスマスにはしゃぐ子供と同じ。それだったら、自分には型落ちの炊飯器でご飯を食べているほうが性に合っていた。
「だから、毎年、視力検査が終わるたびに死ねないなあって思うの。良い意味でね。そもそも痛そうだし、そんなことする度胸はなかったんだけど。今は、それが子供たちになっただけで、燃やせるなら燃やしてるよ。でも私、パートだし」
「……人質?」
「殴るよ」
「ごめんなさい」
しばらく間をおいてから、会計に向かった十志子さんの背中を見送って、紙ナプキンで唇をぬぐう。少し剥けた唇が季節を告げていた。冬は空気が乾燥していて、物がよく燃える。鎌倉なんてどこもかしこも山だらけだ。マンション開発の手が山が切り崩して建てた私たちの家は、火をつけて、うまくまわれば七十世帯と裏山もまるごと焼野原だろう。うちの旦那は、満さんの無粋だと言ってカメラをつけないような芸術家気質は持ち合わせていないから、玄関にどでかい防犯カメラが付いているし。そのあたりは、兄弟とはいえまったく似ていないものだった。
会計から戻ってきた十志子さんが、小さな包みを手渡してきた。クッキーが入ったそれは、知り合いが特別に用意してくれたという手土産らしかった。
「わあ。うれしい」
「お礼だそうです。口コミで広めてって」
「友達少ないんだけどな。……あ」
「はい?」
「この前の、ビスケット。食べ忘れたね。スモアにして食べようって言ってたやつ」
灯油タンクを振り回した後に、結局忘れて食べられなかった。私が手に持ったまま帰ってしまったのだ。キッチンの棚に手を付けないまま残っている。
「ああ! 忘れてましたね。食べちゃってください。コンビニで買ったやつですし」
「あの量を? なんかハイになってたくさん買っちゃったし。遥香あまいもの食べないんだよね。この後うち来る? スモアにしましょうよ」
「靜代さんち、IHじゃないですか」
「七輪あるから。持つべきものはアウトドア趣味の夫」
「はは。じゃあ、お呼ばれしちゃお」
店を出ると、潮の匂いが鼻を抜けていった。真昼の陽射しが目をさして、つい細める。横にたつ十志子さんは決して目を閉じることなく、重たくて黒い目をずっしりと海に向けていた。
「そうだ。実家から蟹、届いてるんです。帰ったら食べましょう」
「剥きましょう」
「幸せになりましょうね」
「なりましょう」
ラストカマクラ(宇宙最後の愛) 早稲田暴力会 @wasebou
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