時代遅れの鯨達

かわせつきひと

第1話 戸惑う修司

「………なんだ? これ」



何度も辺りを見回していた修司は、そこに有る筈の物が無くなってしまった事に漸く納得して、しかし思わず呟いた。



ちょうど夕方の帰宅時間。空はあけ色に暮れなずみ、帰途に就く人達が気忙しく行き交っている。



そんな中、ビルを見上げながら惚けたように佇む修司を気にもせず、ただ冷ややかに通り過ぎていく人の流れ。



修司とその足元に長く伸びた影は、まるで時が止まったかのように、暫く微動だにも出来ないでいた。



修司が服役していた十年の間に、この街の風景はすっかり変わってしまったようだったが、ふと気が付くと、あの【八百源】だけは記憶にたがうことなくそこに在った。店の前を素通りする人々をぼんやりと眺めている、源さんこと大塚源(オオツカゲン)の姿も見える。



修司は何気無く店先まで運び、暇そうにしているその店主と目が合わないように背中を向け、半身にした肩越しに声を掛けた。



「そこの林檎ひと山くれ。虫が喰ってるのは寄越すなよ」



「らっしゃい、まいど。でもあんちゃん。林檎は虫喰ってる位のが旨いんだぜ? うちの林檎は美味いよ~」



源は威勢のいいダミ声を張り上げながら、手際良く林檎を紙袋に入れ始める。



「でも虫と間接キスするのは頂けないんだがな~」



「仕方ねえな。じゃあほら、この綺麗なやつ……って……」



しかし、そのどこか聞き覚えのある言い回しに気が付いて、源はおもむろに顔を上げた。



「……やっぱり……しゅ、修ちゃん?」



「源さん、元気にしていたかい?」



修司は手渡された紙袋から林檎をひとつ取り出し、しげしげと眺めている。そして虫喰い跡が無いのを確認すると、勢いよくかぶり付いた。



源は暫くキツネに摘ままれたような顔をしていたが、やがて満面の笑みを修司に向ける。



「虫喰いを気にするなんて、修ちゃんみたいな奴だと思ったんだよ。懐かしいな、もう十年になるかい?」



修司がまだ駆け出しのチンピラだった頃。競馬賭博が好きだった源は、組からのご用聞きで頻繁に来ていた修司を大層可愛がっていた。その懐かしい顔が、今そこに有るのだ。



源はその強面を精一杯綻ばせて問い掛ける。修司はもうひと口林檎を頬張ってから、本題を切り出した。



「今日出所したんだけど、出迎えは無いし、帰ったらあの通り、組はもぬけの殻だし、途方に暮れてたんだよ。源さんは何か知ってる?」



以前は組事務所だった建物がゲームセンターに変わっていたので、修司は呆然と立ち尽くしていたのだ。



しかしこれを聞いて源の表情はにわかに強張り、そして力なさげにこう言った。



「……解散……したよ」




修司は目を見開いて信じられないといった顔で源に詰め寄り、矢継ぎ早に聞き返した。



「そんな! 解散だなんて……。親父は? 他の奴らは? 一体どうなったっていうんだよ!……ああ、ごめん」



思わず源の襟首を絞り上げていたことに気付き、修司は慌てて手の力を抜いた。



「いや、いいんだ。修ちゃんの気持ちも解るよ。でな……」



源はそれが自分のことのように肩を落とし、沈痛な表情で絞り出すように続ける。



「親分は……患っていた糖尿が悪化して亡くなった。元組員達は大抵カタギになって普通に暮らしていると思う。何人かはム所行きだったかな。……あまり詳しい事は知らないが、ヒロ君が近くに住んでいるから聞いてみるといい……」



修司は言葉を失い、そして静寂が二人を包んだ。外の喧騒が嘘のように、八百源の店先はひっそりと静まり返っている。



しかし混乱した頭の中を整理するのもそこそこに、修司は更に源を問い詰めなければならなかった。それがたとえほんの一握りでも、組に関する情報が欲しかったのだ。



「おやっさんが亡くなったとしても、か……解散ってどうしてだ。対抗勢力のせいか? それとも跡目を継いだ誰かが下手でも打ったのか?」



「いや、そういうことじゃない。修ちゃん、暴力団新法って知ってるかい?」



修司は暫く考えていたが、その内容にまでは思い当たらない。「もう少し新聞を読んでおくんだった」と後悔した。



「……ん、まあな。俺が務所に行く前に話題になってたアレだよな。でも、たかが法律だろ? それが何だってんだよ」




修司は軽く鼻で笑って、誤魔化しながら源に訊ねた。法律は人が作る物だ、それには必ず穴が有る、その穴を上手くすり抜ければ何の問題も無い筈だ。実際それまでもそうやって凌いで来たではないか。



だが源は冷たく言い放った。



「そうだ。暴対法とも言う。でもそれは、たかがとばかりも言ってられない物なんだ。暴力団や極道達を規制するだけならまだしも、この法律はその存在すら許さない」



「存在を許さないって、どういうことだよ」




修司は焦りを隠せない。世間を伺い知ろうとしなかった自分に、後悔どころか恨みすら覚えている。



「組の名前や、自分がヤクザだと言うだけでム所行きだ。公然とミカジメ料を集めるなんてもってのほか。しのぎというしのぎを片っ端から潰されて、全国の極道社会は大打撃を被った」



源は、胸ポケットから煙草を取り出してくわえ、修司にも奨める。



「一ミリだけど、軽くて済まんな」



首を振る修司に手のひらで囲ったライターの火を着けてやり、自分も最初の一服を肺一杯に深く吸い込んで、更に続けた。



「そう……修ちゃんが居た的場組だけじゃない、この国の極道社会全体が疲弊していった。組の名前を出せないから、まともにしのぎなんか掛けられない。アガリ(上納金)は払わなければいけないのに稼げないから、喰い詰めてしまった奴らは次々に組を離れていく。そして大概の組は分裂して、それぞれが勝手に活動しているよ。それまでは御法度だったカタギ狙いの仕事やシャブ、ついには草にまで手を出す始末だ」



「そんな……」




源はもうだいぶ暗くなってきた夕暮れの空を見上げながら二本目に火を着け、吹かしている。修司は手にしていた煙草がすっかり灰になってしまったのにも気付かずにいた。



「だから……極道は完全に表舞台から姿を消して、闇でしのぎを削るしかなくなった。まあ言うなればマフィア化だ。外国の組織も勢力を伸ばして来てるし、世の中どうなっちまうのかな……」



八百源を後にした修司は、随分長い間源と話し込んでいた気がして、左腕に目をやった。



「なんだ、まだ一時間も経ってないじゃないか」



空がすっかり暗くなってしまったからそう感じたのか、或いは剰りにも厳しい現実を突き付けられたからなのか……、修司の時間は遅々として進まず、周りから取り残されてしまったかのようだ。



「これじゃあまるで……浦島太郎だな。亀を助けた覚えは無いんだが、ハハ……」



そう呟いて笑ってはみたが、すっかり組をアテにしていた修司は、さして行く宛てが有る訳でもない。




しかしくよくよ考えていても仕方ないので、取り敢えずヒロの家に向かうことにした。



修司の舎弟分だったヒロは性格が良く、温和でお人好しな好人物だった。そもそもヤクザな世界には向いていなかったのかも知れない。



源によるとヒロは、組が解散した後はすんなりカタギになり、結婚はまだのようだが、機械整備士になって幸せに暮らしているという。



修司は、ヒロが自分を見たらどんな顔をするか、再会の瞬間だけを楽しみにして歩いた。暴対法やその他諸々の事は無理矢理にでも忘れて、今はそのことだけに集中したかったからだ。



源から書いて貰った地図を頼りに、暫く街灯も疎らな狭い路地を進んでいると、そこから更に奥まったビル脇の敷地で、数人の影が蠢いている。



「何だ……?」



修司は闇に目を凝らし、聞き耳を立ててみた。



「……いいから金出せよ」



どうやらその男達は、寄ってたかって気の弱そうな男性を取り囲み、金を要求しているようだ。



派手な刺繍が施されたジャンパーに、腰までずり下ろされた極太のデニム。



ジャラジャラと首にも腰にも垂れ下がったチェーンと、ゴツゴツした指にはめられた大振りの指輪。


ニット帽とサングラスで隠された顔からはその表情は窺えないが、一見して柄の悪そうな若者達である。



かつて修司が居た的場組では、昔ながらの人情を大切にする親分の影響で、地元の不良達を教育していた。人の道に外れたこと、殊更カタギ衆を狙ったユスリ・タカリはご法度だったのだ。



しかし今行われているこの光景が、この街の腐敗ぶりを物語っている。



それを修司が黙って見過ごす訳もない。彼はこの揉め事に、すぐ飛び込んだ。



「おい! お前らうちのシマで何やってるんだ!」



闇夜を切り裂くような修司の怒声に、若者達は一斉に振り返った……しかし。



「ああん? 何か用か、オッサン」



まるで人を舐め切った対応に加え、いきなりオッサン扱いされた修司の眉間には深く皺が刻まれたが、彼はどうにか堪えて名乗り始めた。



「俺は関東北辰……」



ここまで言い掛けて、修司は口をつぐんだ。組織名を出しただけでもブタ箱行きだと、源から言われたのを思い出したからだ。



「お、俺はなぁ、北原ってモンだよ!」



《す…すげぇ格好悪い。》



なんとも締まらない口上になってしまい、修司は堪らなく不便を感じた。



「関係無い人はあっちに行ってくれる? キ・タ・ハ・ラ・さん」



若者の一人がそう言うと、他のメンバーから一斉に笑いが起こった。腹を抱えて笑い転げている奴も居る。



「何が可笑しいんだよ!」



修司がそう言うと、彼らのリーダーと思しき男が前に進み出た。体格の良い彼らの中に在っては少々小柄だが、他のメンバーが素早く道を譲るあたりは彼の権威を物語っている。



「おじさんヤクザでしょ?」



剰りにも緊張感の無い男の態度に、修司は拍子抜けした。



「だったらどうした。それで何故そんなに平静でいられるんだ? ヤクザなんだぞ?」



男はヤレヤレという調子で肩を竦めて返答する。



「この辺のグループで、今時ヤクザなんかを怖がる奴は居ないよ。どいつもこいつも暴対法にビビっちゃってさ、おじさんだってその口だろ? さっき組の名前を口走りそうになって、慌てて言い直してたもんな」



この言葉に、またメンバー達は一斉に笑い出す。その嘲笑の冷たい矢は修司の心を貫き、そして十年間封印してきた何かが「カチリ」と音を立てた。



するとまた一人が修司の前まで歩いてきて、胸に人差し指を置きながらふざけた調子で言う。



「ほらほら聞いた? そういう訳。だからオッサン、目障りだからあっち行っ……」



男は言葉を最後まで言い切る事が出来なかった。修司が放った回し蹴りがこめかみに決まったのだ。男は頭からビルの壁に激突し、投げ捨てられた人形のように不自然な格好をしたまま動かなくなった。



すると修司は何事も無かったように残ったメンバーを見回して、声高に言った。



「要するに……だ。お前達は、全く怖いものを知らずにここまで来た訳か。それじゃ教育的指導が必要だな」



修司はゆっくり上着を脱ぎ、手近に有ったフェンスに引っ掛ける。一杯に吸い込んだ空気を細く吐き出しながら重心を落とし、構えを取った。



一瞬その場を張り詰めた空気が覆ったが、リーダーが静寂を破って言う。



「おじさん。それ、空手だね」



「ああ。大志館だ。金的以外は反則が無いフルコンタクト空手だよ」



修司は不敵に笑みを浮かべているが、構えは崩さない。目線まで上げられた左の手刀が指す矛先は、確実にリーダーを捉えている。



するとリーダーの目つきが変わった。



「おじさん。腕には自信が有りそうだけど、中途半端な技をひけらかすと死ぬよ? 多勢に無勢、謝るなら今の内だけど」



リーダーの後ろに控えた七人のメンバー達は、それぞれがナイフや鉄パイプ等の獲物を持ち、ニヤニヤしながら修司を見る。



しかし修司は、この状況に到っても全く動じる様子が無い。寧ろそのスリルを楽しんでいるかのようだ。



「指導をすると言ったろう? ヤクザはな、人の道に外れたことは許さない。俺の目が黒い内は、シマで勝手なことはさせない。ゴタクはいいから掛かってこい!」



修司の言葉を受け、リーダーが合図をした。



「行け!」



「クタバレや!」



メンバーの一人が、鉄パイプを最上段に振りかぶって修司に飛び掛かる。



「ぐわっ!」



その瞬間、男はくの字に折れ曲がったまま空中に投げ出され、腹を抱えて悶絶する。



弾け飛んだ鉄パイプがコンクリートの床に転がり、乾いた金属音が響いた。



「中段前蹴り。獲物を持ってるからといって油断してるからだ。腹ががら空きだったぞ? これを喰らったら暫くは声も出せないだろう」



メンバー達は固唾を飲み、倒れた仲間と転がった鉄パイプ、リーダーと修司とをかわるがわる見ている。ようやくリーダーが口を開いたが、その表情にはさっきまでの余裕は窺えない。



「おじさんは怖くないの? 俺達は未成年だ。人を殺しても死刑にならないんだよ? だから人殺しなんて簡単なんだよ?」



「命を惜しんでたら極道は務まらない。いいから思い切り来い、次!」




片頬に笑みを浮かべたまま挑発する修司に、次の男がナイフを持って飛び掛かった。



男はさっき見た蹴りを警戒しているのか、修司との距離を取って様子を見ている。



「そんなに離れてて、俺を攻撃出来るのかぁ?」



「うるせえ!」



修司に挑発された男は、ナイフを滅茶苦茶に振り回しながら距離を詰め、腹部目掛けて突き上げてきた。



「遅い」



「ぐはっ!」



何かに顎を跳ね上げられた男は、きれいな放物線を描いて背中から地面に叩き付けられる。



「なんだ? 何が有った……?」



「肘かちあげだ。よく鍛錬された技は、相手の意識を一発で刈り取る」



「左手で下段にナイフを払うと同時に、右肘で顎をかちあげたのか……すげぇ」



リーダーが感心していると、また修司が挑発を始めた。



「お前ら弱っちいんだから、束になって来いよ」



すっかりなめた態度でオイデオイデをしている修司を目掛け、リーダーを除いた全員が一斉に飛び掛かった。



「畜生! なめんなや!」「殺ってやる!」



一人目の男が降り下ろした鉄パイプを半身でかわし、その頸部に手刀を落として黙らせる。



次にナイフを腰に構えて飛び込んできた男の顎を掌底で打ち抜いたかと思うと、体を入れ替え、下段後ろ回しでそこに居た二人の足を払い、ひっくり返ったそれぞれの急所に正拳でとどめを刺した。



「畜生、こ、殺してやる!」



残る一人もナイフを持っていたが、修司は躊躇無く距離を詰めていく。



「うわぁぁー!!」



完全に怖じ気づきながら飛び掛かってきた男の腕を、いとも簡単にひねりあげて、腹に膝蹴りを叩き込んだ。



「ぐぇえええっ!」



その光景を見て、リーダーはただ呆然と立ちすくんでいる。一旦修司が攻撃に移ると、瞬く間に仲間達が地ベタに這いつくばるのだ。



高見の見物をしていられなくなった彼は、いよいよ覚悟を決めざるを得なかった。



「凄いね……。こんなに喧嘩慣れしている人は初めて見たよ」



修司はそれが当たり前だとでも言うように答えた。



「まあ、喧嘩が弱くても、チャカ一つさえ有れば極道は勤まるけどな……。獲物を使わないのが喧嘩師だった俺の美学だ。ところでどうする? やめてもいいぞ?」



その言葉にリーダーはプライドを傷付けられたようで、目を見開いて修司をにらみ返した。



「とても勝てそうに無いけど……逃げ出す訳にはいかないんだよ」



そう言いながら彼は修司との歩を詰める。そして……手に持っていたナイフを捨てた。



「どうした? 使ってもいいんだぜ?」



修司が武器を放棄した彼に問い掛けると、苦笑しながらもこう答えた。



「何でかな……。おじさんとは正々堂々と拳を交えなくちゃいけない気がするんだ」



修司は笑って言った。



「ハハ……さすがはアタマだな、根性だけは認めてやるよ。さあ、来な」



「くそっ!」



彼は二回三回と拳を振るが、それらは虚しく空を切る。



「この野郎っ!」



修司は渾身の力を込めた四回目の拳を掴んで、彼を叩き伏せた。そして仰向けになった彼の顔に合わせ、正拳を構える。



「いいよ……。覚悟は出来てるから」



修司は蚊の鳴くような声で呟く彼に言った。



「戦意を失った奴に攻撃する訳がないだろう、よく聞け。この辺りで悪さすると、北原っていう怖いおじさんが絞めに来るって、他の連中にも伝えておけ」



「わ……解ったよ」



「それともう一つ。目上の人間には必ず敬語を使え! 教育的指導、終わり! 返事は」



「わ……解りました」



修司はすっかり勢いが無くなったリーダーの頭をポンポンと叩いて立ち上がった。



「兄さん、怪我は無いかい?」



カツアゲされていた男性は、おずおずと修司の元へやって来ると頭を下げた。



「有り難うございます、お陰様で何ともありません」



「そうか、そりゃ良かった。じゃあ行きますか。ん? ん?」



修司は身振りで方角を示しながら男性を促す。



「はい、電車に乗るんでアッチです」



二人は暗い路地から出て駅の方へと向かう。その道すがら、修司は男性に尋ねた。



「最近は、ああいうタチが悪い輩がのさばってるのかい? ここには十年ぶりに帰って来たんだが……」



そして男性が発した言葉に、修司は度胆を抜かれた。



「そうですね、近頃は治安が悪くなって困っています。ああ、改めて助けて頂いて有り難うございました。【鼻歌の修司】こと……北原修司さん」



「えっ!? 今何て……」



それから修司は言葉を繋ぐ事が出来ず、彼の顔をマジマジと眺めるしかなかった。二人の間を突然の木枯らしが吹き抜けていく。



「はは、北原修司さんと言ったんですよ」



「おい兄さん、あんた何者だ?」



修司が訝しげに男性を睨むと、彼は笑みを浮かべて、しかし小気味良く名乗りを上げる。



「遅れまして申し訳ありません。手前は、関東共和会系石田組、組長の石田勝敏【イシダカツトシ】と申します。以後お見知り置きを」



修司は思わず立ち止まった。口をあんぐり開けながら、石田の顔をそれこそ穴が開く程に凝視している。



「どうかなさいましたか?」



修司に遅れて足を止めた石田の問いに、堰を切ったように質問をぶつける。



「どうもこうもない! 兄さんがヤクザだって? そのナリの何処がヤクザなんだ? 石田組なんて聞かない名前だが、いつから組を構えた? そもそもどうして組長さんが、あんな連中にカツアゲされてんだよ、そんなのおかしいだろうが!」



この問いに、石田は笑顔を崩さず修司に向き直る。



「修司さん。金持ち喧嘩せず、って言葉知ってますか?」



笑みを湛えたまま話す石田の格好は、ジーンズにTシャツ、その上にカジュアルなジャケットを羽織っただけの、どこから見ても極普通の一般市民だ。


流暢に話す丁寧語はヤクザとは程遠いものだったし、そこいらのチンピラにカツアゲされる組長など、修司が現役だった頃には考えられない話だ。



今にも石田に掴み掛かりそうになりながら、修司は声を荒げて更に問い詰める。



「でも、腐っても極道だろ? あんなのにナメられたら、商売あがったりじゃねえのかよ!」



石田はまるで、そんな修司を諭すように、ゆっくりと言葉をつむぎ始めた。



「武闘派で名を上げた修司さんがそう思われるのもごもっともです。しかし、ご存知かとは存じますが、くだんの暴対法の所為で、組の看板がその用を為さなくなってしまいました。


元々は、組の名前を出しさえすれば、それを恐れ、ひれ伏す輩が居たからこそ、そこに金が生まれ、生業を維持出来た。


我々はだからこそ、体を張って看板を守ったんですよね」



修司は黙って腕組みしたまま頷いた。



「ですが今はその看板が、命を賭けるブランドが、不要どころか、只の足枷にしかならくなった。組の名前を出すだけで御用ですから、身分を隠して暗躍した方が都合良いのです。



あの時おとなしくカツアゲされていたのも、身の上を知らしめるリスクと金銭的被害を天秤に掛けた上でのことなんです。



本当に奴らが邪魔になるようなら、ヒットマンでも雇って消せばいい。大規模な抗争は、極道が生きにくいこの社会の中で、更に互いの構成員を潰し合う消耗戦でしかない。無用な戦いは避けなければいけないんです」



石田の説明を聞いた修司は、軽く目眩がするのを覚えた。



「……そんなに……酷いのか?」



「はい。極道という観念そのものがなくなりつつありますね……。修司さんは出所されたばかりですか?」



「ああ……。やっとの思いで出てきたら、帰る所が無くなっていた」



修司は肩が落ちそうになるのをやっと堪えて、無理矢理胸を張っているように見える。



「ああ、知らなかったんですね、的場組はまだ解散してませんよ」



「何? それは本当か!」



途端に修司は顔を輝かせた。彼にはまだ、帰る場所が有ったのだ。



「ええ。先代が亡くなってから、一旦は解散する話が出ましたが、結局規模を縮小して、元の事務所から数キロ離れたビルに移りました……。今は加納秀明【カノウヒデアキ】さんという方が跡目を継いでいます」



「加納……あのヒデがか?」



その懐かしい名前を聞いて、修司は嬉しそうに頬を緩めた。



加納秀明は、ヒロと同じく修司の舎弟分で、頭が切れる上に先見の明があり、経済ヤクザとして当時から期待されていた。



「でも、あそこも今のご時世で、台所事情は楽じゃ無い筈ですよ。どうですか?先代が亡くなった以上、貴方はフリーのヤクザです。うちに来ませんか?【仏ホトケのタカシ】こと、権田隆史【ゴンダタカシ】さんもいらっしゃいますよ。確か貴方と外兄弟の筈ですよね」



「おお、タカシがあんたの組に居るのかい?」



意外な偶然に、修司は嬉しくなった。天涯孤独の浦島太郎ではなかったのだ。



「ええ。ヤクザ同士の抗争は減りましたが、外国からの第三勢力が力を付けて、縄張りにちょっかいを出してくるんで、客分としてお迎えしました」



修司が煙草に火を着ける。眉間に深い皺が刻まれたその顔が、一瞬闇から照らし出される。



「あいつの組もそうなのか?……」



「ええ、無くなりました。五年前になりますか」



夜のとばりを下ろした町にはネオンの花が咲き、空には星が瞬いている。星もネオンも十年前とさして変わらず輝いているというのに、修司達を取り巻く環境は著しく変遷してしまった。



「修司さん。先程の貴方の喧嘩の中に、真の極道の生き様を見ました。遠い昔に我々が置き忘れてきてしまった物を垣間見る事が出来ました。どうしても貴方が必要なんです。うちに来て頂けませんか」



「いや、組が存続している以上、元の組に帰るのが筋ってもんだ。気持ちだけ有り難く頂戴しておくよ」



沈黙が二人の間を席巻した。それは僅かな間のようでもあり、永遠に続くかとも思われた。そしてその静けさを破ったのは石田の控え目な小声だった。



「修司さん。もうひとつ理由が有るんです。実は今、貴方の的場組とうちは、或る雑居ビルの利権を巡って対立関係にあります。せっかく知り合えたのに、これが拗れて抗争ともなれば、貴方と殺し合わなければならなくなるでしょう」



「仕方ないさ。それが渡世の定めなんだから。タカシだって解っている筈だよ」



修司は笑顔で即答した。



「そうですね……。そういう渡世ですもんね」



「ああ。恨みっこ無しだ」



「ふふふ。修司さんとお会いして、久し振りに自分が極道であることを思い出しましたよ」



二人は笑顔で頷き合っている。真の極道ならではの心意気を互いに感じ、そこには友情や信頼に近いものが芽生えていた。



「それで石田さん。お恥ずかしい話なんだが、俺がムショ務めをしている内に、この界隈がどうなってしまったのかを教えてくれないか」



八百屋の源から聞いた話だけでは納得出来なかった修司は、自分と同じヤクザである石田からも事情を聞きたかった。彼はそれを快く承諾して話し出す。



「それはそれは酷いものですよ。暴対法が施行されてからこっち、どこの組も詐欺やシャブなどで堅気衆を食い物にしなければやっていけない程、追い詰められてしまいました」



修司は少し躊躇っていたが、意を決して尋ねた。



「的場組も……その……シャブを扱ってるのか?」



「いえ、あそこはまだやってないと思います。うちも同様に手を出さないで済んでいます。先程言った雑居ビルの利権がそれを助けているんです」



「そこはそんなにデカイ上がりが有るんだな」



「ええ。あそこにはパチンコやスロット、人気のヘルスやピンサロ、キャバクラやショーパブなどが何軒も入っていて、ミカジメ料が年間数億にものぼります。本当はこんなご時世ですから抗争は避けたい。ですが、その上がりが無ければ組は存続出来ない」



「それでその利権を巡って的場組と石田組が対立しているって訳か」



「ええ。本来であればテキ屋系のうちと、博徒系の的場組とは、住み分けがキチンと出来ていますから、シノギの奪い合いなんて有り得なかったんです。しかし暴対法に追い込まれた我々は、稼業以外のシノギにも手を出さざるを得なかった。だから今はまさに、一触即発の状況なんです」



「そうなのか……」



修司は腕を組み、すっかり言葉を無くしていた。





─────所変わって〇△市・ぼたん通り



「おい! その格好は何だ。お前ら一体どうした?」



「あ……ああ親分。こんばんは……」



関東北辰会所属、的場組組長、加納秀明は、地元の不良グループ『アスピリン』のリーダー、春日直樹【カスガナオキ】とそのメンバーに声を掛けた。



「怪我してるじゃないか。何か有ったのか?」



隠し通せる訳もなく、春日はその重い口を開いた。



「実は……喧嘩に、負けました……」



「ワッハハハ! どうりでしょぼくれてると思ったぜ。しかしお前らが喧嘩で負けるなんて珍しいな。チーマー同士のイザコザか?」



加納は豪快に笑い飛ばして、痛がる春日を羽交い締めにして戯れている。



「痛ててて……ギブっす、勘弁して下さいよ」



「なんだぁ、だらしねえ。だから勝てねえんだろうよ! 相手は何十人居たんだ?」



加納に頭を張り飛ばされながらも春日は続けた。



「相手は一人……です。最初は暴対法でひよったニセ極道だと思ってナメてたんです。でも、これが滅茶苦茶喧嘩慣れしてて、とても人間業じゃなかったんです!」



「なんだと? 一人にやられたって、お前らがか? 随分凄い奴が居るもんだな……。武器は持ってたのか?」



「俺達は持っていましたけど、向こうは素手で……見た所空手みたいでした」



加納は目を見開いて驚きを隠せない。



「武器を持ったお前ら相手に素手でか? それも一人で? いくら空手が出来てもそりゃ、相当の使い手だな。相手は若かったか?」



「年の頃は三十そこそこです」



そして春日は付け加えた。



「そうだ、そのオジサン。自分のこと北原……って言ってました」



「なにい?……もう一度言ってみろっ!」



突然ドスの利いた声になった加納に、おっかなびっくり春日は答えた。



「あ……はい。ええと……北原って……」



しかし加納はみるみる内に満面の笑みを浮かべ、普段春日達が目にした事がない程の上機嫌で言った。



「ハハッそれ、兄貴だ。修司兄貴に違いねえ、ワハハハ」



喜んでいる加納にバシバシ肩を叩かれながら、春日はメンバー達と顔を見合わせる。



「兄貴って……?」



すると加納は、そんな春日達を鋭い目つきで睨むと、いきなり叱り飛ばした。



「お前ら、一体何をやらかしたんだ? 兄貴は大儀が無きゃ、人に危害を加えたりはしねえんだよ!」



その迫力に、メンバー達は押し黙ってしまい、辛うじて春日だけが小声で呟く事が出来た。



「あの……カツアゲを……」



この瞬間、加納の罵声と同時に鉄拳が飛んだ。



「このバカヤロー!! だから兄貴が怒ったんだ! そんなみっともない真似してんじゃねえ!」



「つっ、痛てて。すいません……。将来親分のような本物の極道になった時の為に、練習しとこうと思って……」



春日の襟首を締め上げていた腕の力を抜いて、加納は溜め息をついた。



「あのなぁ……俺達も揺すりやたかりをやることは有るが、これも仕事だと割り切ってやっている。世の中には、金を返せない弱い立場の奴もいるが、一方で、大金を貸りている癖に、平気な顔で返さない奴がいる。それで俺達のような人間も必要になる訳だ。そして俺達はいつでもブタ箱に入る覚悟でやっているんだ、遊び半分のお前らと一緒にすんな!」



「すいませ……い、息が……」



また激昂した加納は、春日を締め上げていた。真っ赤になった顔で苦しそうに喘いでいる。



「クソッタレが」



加納は投げ捨てるように春日を放すと、他のメンバーを見回して怒鳴った。



「お前らもいいか? いつも言ってるが、極道なんかを目指すのは止めろ!


本物だろうが偽物だろうが、ヤクザは所詮ヤクザだ。八たす九たす三は、二十でブタなんだよ! そんなクソみたいなモンになってどうする! とっとと帰って勉強でもしてろ!」



春日達は加納の説教にすっかり萎縮してしまっている。



「……す、すいません……」



反省した春日達の様子を見て、落ち着きを取り戻した加納は、彼等の破れた服を見ながら呟いた。



「でも良かったな、兄貴が【闇空手】を使わくて」



「何ですか?闇空手って……」



加納は笑みを見せながら春日に言った。



「兄貴が本気になった時に使う殺人技だよ。十年前、兄貴はその技で組を一つ潰しちまった。相手は十人死んだ」



「……じゅ……」



呆然と立ち尽くす春日達。



「ワハハハッ。言葉も無いみたいだな。そうだ、教育的指導とか言われなかったか?」



「そう言えば……」



「ハハッ、兄貴も変わってねぇな。悪さをするお前達が、過去の自分を見ているようで可愛く見えたのかもな……。まあともかく、兄貴を見掛けたら『ヒデが待ってる』って伝えてくれ」



「は、は……い」



加納が立ち去った後、春日達は自分達が命拾いした事を知り、改めて身震いした。




───────所代わってヒロの自宅




「よぉ! 久し振りだな」



そう親しげに呼び掛けられて、ヒロはおもむろにドアを開ける。するとそこに有った懐かしい顔に、彼は思わず声を裏返して叫んだ。



「いつ出てらっしゃったんですかぁ、兄貴ィイイ!!」



修司は、半べそをかいて抱き付いて来たヒロの肩を叩いている。木下博士【キノシタヒロシ】は修司の舎弟分だった男だ。



「おいおい、重いって! ムショからは今日出て来たんだ。源さんから色々聞いてな、ここも源さんから教えて貰った」



「グスッ、すいません……。兄貴の晴れの日だってのに、お迎えにも行けなくて……」



鼻を啜りながら済まなそうに縮こまったヒロに、修司は笑って答える。



「ハハハ。ヒロ、いいんだよ。だってお前は立派に堅気としてやってるじゃないか。気にすんなって」



「でも……俺もそうですが、組の誰も修司さんが出所したことを知らない筈です。あの法律が出来てから、毎日事務所にサツが出入りして、資料という資料をみんな持っていきましたから。他の兄貴達だって、誰がいつ出てくるのかサッパリです」



ヒロはガックリと肩を落とした。



「随分色々と、大変だったみたいだな……」



「ええ。俺なんか腕っぷしも弱いし、商才も無いからすぐに食い詰めちゃって……。おやっさんに『お前は人が良いから、すぐ堅気に戻れる』って、杯を水にして貰ったんです。あ! 兄貴、中に入って下さい! お~い、裕美ぃ! お客様だ! 修司兄貴だよ」



「え? ヒロ、お前独りじゃなかったのか?」



修司が質問すると、ヒロは鼻をポリポリと掻いて照れている。暫くして、部屋の奥からぽっちゃりとした可愛らしい女性が顔を出した。



「裕美です、初めまして。大変お世話になったみたいで……お話はいつも主人から聞いてます。狭い家ですが、どうぞお上がり下さい」



「あ……いえいえ……俺は元気なヒロ……旦那さんの顔を見に来ただけだから。まだ組にも顔を出してないし、これで失礼するよ」



「ええっ? 兄貴、そうなんですか。……ああ、そりゃ勿論そっちが先ですよね。じゃあまた是非いらして下さい。積もる話がいっぱい有りますから」



ヒロはがっかりした様子を修司に覚られないよう、無理に声を張り上げている。



「ああ、そうさせて貰うよ、有り難う。しかし、あの坊やだったヒロが嫁さんか……驚いたな」



修司は平和に暮らしているヒロを見て安心したと同時に、自分が居なかった十年間の空白を少し寂しく感じた。



「じゃあ、また後でな」



「はい。でも兄貴、組に顔を出した後は、俺の家に寄る前にもう一軒訪ねて貰いたい所が有るんです」



「どこに?」



「もうっ、明美さんのトコですよっ!」



修司はその思い掛けない名前を聞くと、慌ててヒロに向き直った。



「ええっ!? もしかして、俺が出てくるのを待ってるってのか?」



ヒロは笑顔で頷いた。



「ええ。六丁目のイタ飯屋の二階、スナック【ラカルタ】で働いてますよ」



明美は修司が刑務所に入る前に付き合っていた女だ。数ヶ月だけの付き合いだったが、明美は心底修司に惚れ込んでいたのだ。



「あいつ……俺のことは忘れろって言ったのに……まさか十年も待ってるなんて!」



「明美さんは身持ちが固いって、あの辺りじゃ有名ですからね。色んな誘いにも乗らず、ずっと健気に待ってらっしゃいますよ」






ヒロの家を後にした修司は、様々な思いを胸に的場組事務所のドアをくぐった。



「お務めご苦労様でしたぁ!!」



地図を頼りにやっと組へ辿り着いた修司は、ヒロの連絡で待ち構えていた組員達から盛大な歓迎を受けた。



「有り難う。もう帰る場所は無いかと思ってたよ」



組長のヒデが一歩進み出て、改めて頭を下げる。



「正直、組を畳もうと思った時期も有ったんだけど……お勤めをしてらっしゃる兄貴達を思うと、負けてもいられないからね」



修司は、兄貴思いの弟分に思わず涙腺が緩んだ。そして急に畏まるとヒデに伺いを立てる。



「ところでおやっさん。今、的場組はどんなシノギで食い繋いでらっしゃるんですか?」



「兄貴ぃ、止めてくれよ。今まで通りヒデで頼むよ。堅苦しくていけねえや」



「いえ、おやっさん。こんなに苦しい状況なのに、きっちり組を守って頂いてるんだ。ケジメは付けさせて貰います」



腰を落として足を大股に開き、手のひらをヒデに差し出して仁義を切る修司。ヒデも慌てて修司に向けて控えた。



「いやいや。兄貴にはこれまでの多大な功績が有る訳だから、本来ならばそれなりの役職に就いて貰わないといけない」



「それにしてもオヤジはオヤジでしょう。子が親を呼び捨てになんか出来ません」



修司とヒデは暫くの間こんな押し問答を繰り返していた。しかし今の的場組は、若頭にも舎弟頭にも空席が無い。ヒデは正直、修司の扱いに困っていたが、現在対立関係に有る石田組の事を思い出した。石田組は客分として、修司の外兄弟である【権田隆史】を迎えている。



「ああ、そうだ。申し訳ないんだけど暫くの間、修司兄貴を客分としてお迎えする形を取らせてくれないかな。それなら今まで通り、ヒデと兄貴で構わないだろ?」



修司はニヤニヤと上目遣いでヒデを見ながら了承した。



「解りました。おやっさんがそう仰るなら」



「だから敬語もヤメてくれっての!」

両手を振り回しながら懇願するヒデに、修司はやっと仁義を切るのをやめて背筋を伸ばした。



「ははは。解ったよ、ヒデ」



「そうこなくちゃ」



組への挨拶が漸く終わったのは、時計の針がてっぺんを回ってからだった。修司はイタ飯屋の脇に有る階段を上り、余り新しいとは言えないドアの前に居た。



「ヒロが言ってたのはここだよな」



角が割れて中身の蛍光灯が見えてしまっているウイスキーの看板に、ラカルタの四文字が書かれている。



十年前のあの日。



「お前とはもう終わりなんだよ!」



泣いて足元に縋り付く明美を振り払って、修司は二人の部屋を出た。勿論それは、まだ将来の有る明美を思っての行動だった。



思い人を待つ時間は長く、苦しく、切なく、辛い。



それならいっそのこと、自分との事は明美の記憶から消し去ってしまえばいい。そう思って修司は、わざと明美に辛く当たったのだ。



気立てのいい明美の事だ。きっとすぐにでもまともな男を捕まえ、幸せな家庭を築いて楽しくやっていく筈だと、修司はそう思っていた。



そして十年が経ち。



明美には男の影すら無いという。



いつ帰ってくるとも知らずに、修司の帰りをただただ独りで待っていてくれた明美に対して、一体どんな顔をしていいかも解らないままそのドアを開けた。



ギイイ……カラカラン……



蝶番が鳴いて、ドアに掛かったベルが乾いた音を立てると、



「いらっしゃいませ」



薄暗い店内から声だけが聞こえてきた。ちょっと古臭い、昭和の匂いがする場末のスナック。週末だと言うのに客は一人も居ない。



カウンターには厚化粧で着飾った年増のママが居て、そしていそいそと厨房から出てきて席を案内する女性が居た。



「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」



「ああ」



その女性は修司の方を見ずにテーブルメイクをしているので、気付く様子はない。



「お一人でしたらカウンターになさいますか?」



まだ彼女は気付いていないようだ。修司は呟くように言った。



「明美の隣でボックスで……」



「嫌だわお客さん。演歌の題名みたいじゃな……い……」



手際良くテーブルを拭き上げながら声の主を振り返ったその女性は、凍り付いたように動きを止めた。



「しゅ……じ……?」



修司は女性の顔を見もせずに、ただ佇んでいたが、やがて意を決したように呟いた。



「明美、ただいま。……少し遅くなった」



明美は暫く、目の前にある状況が理解出来なかった。まだ同じ格好のまま固まっている。



「修司? ……修司なのね?!」



そして彼女の胸に少しずつ湧き上がってきた物はやがて勢いを増し、押さえ切れずに噴出した。



「修司、修司修司! 何時帰って来たの? 誰からここを聞いたの? 風邪は引かなかった? ご飯はちゃんと食べてたの? ああ修司、夢じゃないのねっ」



「おいおい……」



明美は修司に抱き付いたり、顔をこねくりまわしたり、首からぶら下がったりしてその喜びを表している。修司が返事をする隙もない。



そして漸く気持ちが落ち着いたのか、もう一度改めて修司に抱き付くとその胸に顔を埋ウズめ、胸一杯に修司の香りを吸い込んだ。



「ああ……修司の匂いだ。おかえりなさい、ご苦労様でした。ずっと……ずっと待ってたんだぞ」



明美のこの言葉に、そのはしゃぎように、そして抱き返した時の柔らかさに、刑務所勤めで乾ききった修司の心は潤いを取り戻していく。



「苦労……掛けたな」



修司の言葉をかぶりを振って否定するその瞳からは、大粒の涙が滴り落ち、修司の胸を濡らした。そして涙でグシャグシャになった顔を上げると、明美は精一杯の笑顔を作って囁いた。



「ごめんね……。こんなおばさんになっちゃって……」



あの頃には無かった笑いじわが目尻に線をなしている、肩は細く頼りなく、うなじにも筋が目立っている、そして修司の手に重ねられたその指には、水仕事で出来たであろう赤切れが痛々しく刻まれていた。



「変わってない。昔のままだ」



しかし修司はそう言って、明美をその十年の苦労ごと優しく、包み込むように抱き締める。



その光景を目を細めて眺めていた厚化粧の良子ママは、いそいそとカウンターのグラスを片付け始めた。



「さ、明ちゃん今日はもうおしまいだよ。人通りもまばらだし、どうせこのまま開けてても坊主だろうからね」



「でもまだ時間が……」



「いいのいいの! 後片付けはやっとくから、とっとと帰んな!」



良子ママは笑顔でシッシッと、明美を追い払うように手を振った。一見ぶっきらぼうにも見えるが、それが彼女なりの心遣いだった。



「良子ママ。ありがとうございます」



「さあ、早く。行った行った!」



少々乱暴だが、しかし限り無く温かい見送りを受け、二人は店を後にした。



時計は丁度2時を指している。どこからか抜け出して来たのだろう、首輪を付けた柴犬が寒そうに、だがリズミカルに、小走りで過ぎていく。



街路樹を眺めながら、二人はひとっ子ひとり通らない目抜通りをブラブラとあてもなく歩いた。



時折思い出したように吹く身を切る寒風も、何故か二人には心地好い。



秋も終わりに差し掛かり、すっかり少なくなった虫達が、光に誘われて弱々しく電灯の周りを飛んでいる。コンビニの店先に有る誘蛾灯が、ビシッと一声鳴いた。



「うち……来るよね」



「ああ」



逢えなかった空白の時間を埋める洒落た言葉など、二人には必要ない。似た者同士の不器用な修司と明美。ただ黙って肩を抱く修司と、ただ寄り添って見詰め返す明美。



青白く、煌々と下界を照らすのは十六夜[イザヨイ]月。二人はそれぞれ、大切な人との時間を精一杯楽しんでいた。



軽く食事を済ませて、修二はソファーに横たわっている。


深く息を吸い込んでみると、明美の誕生日に買ったあの懐かしいコロンの香りが鼻腔を充たした。


お世辞にも広いとは言えないが、きちんと整頓された部屋は窮屈さを感じさせない。


「うぅ~ん」


修司は手足を広げて、ひとつ伸びをした。

以前、修司が大きなシノギを果たした時に買ってやった、部屋とはミスマッチな輸入物のドレッサーがふんぞり返っているのも、「修司、今時こんなお土産買ってくる人居る?」と散々文句を言いながらも結局はピンで留められた犬吠埼のペナントも、酔っ払った明美が油性マジックで書いてしまった柱の相合い傘もあの頃のまま。


カーテンの柄が変わったのと、テレビが液晶になった事以外は、十年前とほぼ同じ部屋。


台所に隔てられた風呂場からは、明美の浴びているシャワーの音が微かに聞こえてくる。


「変わってないな……」


出所してからこれまで、自分を取り巻く環境が剰りにも変わってしまった事に落胆を隠せなかった修司だったが、明美の部屋が以前と変わらず迎えてくれた事は、彼に大きな安らぎをもたらした。


明美から提供されたその小さなオアシスに、終始強張っていた気が緩んだのか、修司はいつの間にか眠りに落ちた。


「……ん?」


すると突然。


明美が修司を気遣って電気を消したのだろう、真っ暗な部屋で寝ていた修司は、身体にのし掛かる圧迫感で目を覚ました。



まだ焦点の合わない修司の視界に、補助電球の赤い光がロングヘアーのシルエットを浮かび上がらせる。


「起きて、修司。やっと帰ってきたのに、まだ我慢させる気?……ねぇ、十年分愛して」


「明美……」


そしてベッドに倒れ込んだ二人は、お互いの唇を貪るように啄ツイバみ、甘い舌を絡め合った。


「明美」


「んんっ。しゅう……じ」


冬の夜はいつまでも明けない。今二人を支配しているのは、他ならぬ目の前に居る愛しい思いびと。


この世に存在しているのは、修司と明美の二人きりだと、そんな錯覚さえ覚えるほど、二人の世界に没入する男と女。


「修司に放っておかれたから……私が女だってことすっかり忘れてた」


「じゃあ、俺がしっかり思い出させてやるよ」


二人はそれから、何度も何度も繰り返し求め合った。


「このままずっと、夜ならいいのに……」


明美の呟きは夜の闇に溶けていったが、青白く光る月だけには聞こえていたようだ。真円に近い月が、ニッコリ微笑んでいるように見えた。








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