第11話 花火大会
「友達と花火を観る約束がある」
そういう俺の目が泳ぎ、聞くなよ聞くなよ、絶対に聞くなよと、どこかのお笑い芸人のように祈り続けた。違うのは、フラグでもなんでもなくて、本当に聞いてほしくないのだ。
「そうか。楽しんで来いよ」
「夕飯はいらない」
「分かった」
家を出るまで、同じ足と手が出てしまうほど緊張している。真夏の太陽の元に立ち、ようやくいつもの歩き方に戻った。熱さは命を奪う側にもなるが、正気を取り戻してくれもする。
蓮見和菓子店は、浴衣姿の人がちらほらいた。俺を見つけると、薫子さんは手を振った。
今日は手伝いはしなくていいと言われた。花火大会なので、気を使われたのだと思う。
「すみません、錦玉羹を一つ」
「ありがとう。お父さんのお使い?」
「いえ、友達の家に」
「そっか。楽しんできてね」
ついでに水まんじゅうもおまけしてくれた。
最寄り駅まで歩き、そこから端末で地図を出した。手書きで送ってくれた地図は分かりやすい。今日は裏道も込み合い、水面下で動きたくても結局表に出てしまう。なら、目立つ行動を控え、さっさと向かうのが一番だ。
白いマンションの三階。階段があっても上る気になれず、素直にエレベーターを利用した。
外の様子が丸見えだ。この階を選んだのも、星に近い位置を選んだに違いない。勇気を出してチャイムを鳴らした。先生の車に初めて乗ったときと同じ高鳴りだ。
──はい。
「一ノ瀬です」
──今、開けるね。
先生は緊張してないのだろうか。声のトーンがいつもと同じだ。胸元を叩いて落ち着かせようとしても、無意味な行動だ。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「外は暑いね。熱風が入ってくるよ」
「……風呂上がり?」
「昨日入ったけど、起きたら汗だくで。どうぞ」
「お邪魔します」
濡れた髪からシャンプーの良い香りがする。なんでそうなんだ。毎度毎度、薄っぺらい壁を破壊して近づこうとする。何なんだ、この人は。
「お土産です。錦玉羹と、水まんじゅうはおまけだそうです」
「ありがとう。金魚は泳いでる?」
「泳いでます」
こんなに喜んでくれるなら、買ってきて良かった。
「冷蔵庫で泳がせましょう。温いですよ、今食べても」
「………………うん」
紙袋から取り出して、箱のまま冷蔵庫に入れた。入れるだけで、なかなか閉めようとせず、名残惜しそうだ。
「アイスコーヒーあるけど、飲む?」
「いただきます」
「ソファーに座ってて」
シンプルすぎるくらい、何もない部屋だ。テーブルとソファー。小さめのテレビ。少なすぎて、ベランダに向けて設置されているものがいやに目立った。
「すげえ……」
「いいでしょ?」
ボーナスが形を変えて、存在感を放っている。目を向けろ、語れと、注目を浴びるためにあるようなものだ。
今はカーテンが閉められているが、夜になると開け、ここから月や土星を眺めているのだろう。
「天体望遠鏡ってこんなに大きかったんですね」
「持ち運びには不便だけどね」
アイスコーヒーと、アルミに包まれている焼き菓子を出してくれた。チェーン店で売っているお菓子らしく、フィナンシェに近い。バター味と、コーヒー味があるらしい。
二人掛けのソファーに座ると、肘が当たってしまった。先生は気にする素振りを見せず、お菓子に被りついている。気にしない、というのも、悲しい。少し距離をずらし、アイスコーヒーを飲んだ。
「……………………」
「どうかしました?」
何か言いたげにこちらを見ている。見捨てられた子犬のようで、ハムスターより犬っぽい。
「そっちに行ってもいい?」
肘掛けしかない。俺は距離を詰められずにだんまり状態でいると、先生はなんでもない、と言う。
心臓がはちきれそうだったけれど、苦しかったけれど、頭に手を乗せてみた。
驚愕し、肩が上がっている。けれど嫌がる声や素振りはない。もう少し、俺も勇気を出してみた。そう思っていたのに。
「………………雅人君」
驚いたのは俺の方だ。名前で初めて呼ばれた。先生の首元がほんのり赤い。
「……み、………………」
「み?」
勇気が足りない。本当は、俺だってずっと呼びたかった。先に呼ばれるなんて、思ってもみなかった。
「…………、…………」
「聞こえないよ」
先生は笑う。がっかりもしていないし、嫌がってもいない。懇親の勇気を込めて、口を開いた。
「みさき……先生」
先生は首を傾げる。たまにやるこの仕草が、たまらなく可愛い。やっぱり犬よりハムスターだ。
「なんで、雅人君は呼んでくれないんだろうって思ってた」
「緊張するだろ……」
「五十嵐先生は呼び捨てなのに?」
五十嵐い、と低い声で言う。俺の物真似だ。似てなさ過ぎて、笑ってしまった。
「みさき先生、頬膨らましてみて」
「こう?」
「思った通り、可愛い。ハムスター」
ぽすんとか弱いパンチを食らった。ダメージを受けるどころか、回復した。
「なんで、そういうこと、言うかなあ!」
「そういうこと?」
「可愛い……とか」
「本当に思ってないといえねえって」
憂さ晴らしのようにお菓子にかぶりつく。ますますハムスター。
夕食は先生が寿司を取ってくれた。こっそり俺の靴を靴箱に隠したのは、俺と先生の距離を表している。名前で呼び合っても、縮まらない距離。それは卒業するまで続く。卒業したら、俺と先生はどうなるのだろう。いても立ってもいられなくなり、念入りにグラスを洗った。何かしないと落ち着かない。
先生は、カーテンを開けて天体望遠鏡の準備をしている。花火の音は耳に入っているのかいないのか。
こっそり近づいても、先生は天体望遠鏡から目を離さない。なんか、悔しい。
ちょっとした悪戯だ。つむじに人差し指をさすと、先生の動きが止まる。首元もつついてみると、肩が震えた。
「雅人君、めっ、だよ」
「……………………」
「めっ」
「………………いい」
こんな可愛い生き物は、惑星を洗い流しても見つけられないだろう。
「もう。ここ覗いてよ」
「花火はいいんですか?」
「観たかった?」
「完全にどうでもいいって顔ですね」
「花火は好きだけど、星とか月を観てよ。ほら早く」
ベランダからは花火は見えないが、音だけは聞こえる。
レンズ越しに映ったものは、小学生のときに勉強したクレーターだ。テストで出題された記憶があった。
「穴が空いてる」
「ね? すごいでしょ?」
先生は別荘自慢のような、ちょっと鼻高々だ。
俺は中学時代に勉強した某小説家の言葉を思い出した。可愛いは言えるのに、たった一言が言えない肝の小さい俺。いい加減に認め、言えともうひとりの俺が背中を押す。身構える必要なんてない。大丈夫だ。
「…………月が、」
「ん?」
「……月が、綺麗ですね」
先生は瞠目し、顔を上げた。
目に透明な膜が張る。零れそうなほど、目も大きい。
「……そうだね。こんなに綺麗なら、死ぬ直前に観ても後悔しない。むしろ、死んでもいいくらい」
「そんなに? 死ぬ前なら、俺は肉を食べて死にたいけど」
体育座りのまま、月を見上げた。短い息を吐く。
「『私、死んでもいい』って聞いたことある?」
「なんですか、それ」
「…………夏休みの宿題、もう少し増やせば良かった」
「冗談。これ以上は無理だ」
どういう意味だろう。後ろを向いてこっそり端末を取り出し、台詞そのままを検索してみた。
「…………は、え……」
死にたいのは俺の方だ。夢だろうか。こんなことって、あっていいのだろうか。
「雅人さあ……僕、国語の教師なんだよね」
「な……ちょっと待て。からかわないでくれ」
「……そっちこそ、からかってるんでしょ? こういうことは、好きな人にしてあげて」
「勝手に決めるな。おかしいだろこんなの」
「冗談は、めっ」
傷ついた。クレーター以上に、大きな穴が空いた。でも先生も傷ついている。涙が頬を流れ、シャツに落ちた。
「ごまかすなよ。そんな言葉で。なんでいつもいつも、俺を避ける? こんな……縛るみたいな真似して、俺がどれだけ苦しい思いをしていたか」
首からネックレスを取り出した。俺にとっては月や星よりも価値のある代物だ。
先生はネックレスを見ては、さらに涙を落としていく。
「ほんとに……雅人君は……残酷…………っ」
「何が残酷なんだ?」
「こんなに……僕を……苦しめさせて……」
「先生も苦しかったのか」
「雅人君は……僕のヒーローで、いつも助けてくれて……、ダメなのに、止められない……」
俺だって止められない。伸びた手は先生の背中に回り、力いっぱい引き寄せた。抵抗は一瞬で、先生は黙って俺の中に収まる。
「先生……好きだ」
仲良くなりたいなんて、ごまかすのはもう止めた。本当は、根っこから繋がれるもっと深い仲になりたいんだ。
先生は泣きじゃくるだけで、何も言わない。
「……俺だって、いろいろ考えてないわけじゃない。教師だし、男同士だし、社会人だし。いろんな山が連なってるけどさ、俺のことを何とも思ってなくても、恋愛の意味で好きだって認めてほしい。先生に拒否されたら……つらい。でも先生の重荷にもなりたくない」
「僕の……何がいいの?」
「分かんねえ……何がいいんだろ……」
「なにそれ」
今度は笑って、肩が震えた。
「絶対にね、教師と生徒って関係を持っちゃいけないんだ。見つかったら、雅人君も罰を受けることになる。未成年の過ちじゃ済まない」
「ああ」
「だから……雅人君が卒業しても、今と同じ気持ちなら……もう一度言ってほしい」
「分かった。言う」
「物分かりが良すぎない?」
「先生が思ってる以上に、危ない吊り橋を渡ってるって分かってます。先のことを考えると、慎重にもなる。盛り上がって下降するだけの恋愛で終わりたくない」
「雅人君は大人だなあ……僕が高校生のときなんて、やさぐれてたのに」
「先生のやさぐれって興味ある」
「自暴自棄になってたよ。女性とは恋愛ができないし、人を好きになっても、相手から好いてもらうなんて無理だし」
「俺は? いるじゃん」
「……………………」
返事はなかった。けれど、今はこれでいい。気持ちを伝えれば、先生を困らすことは分かりきっていたし、今日は言えただけで充分だ。
抱きしめても怒らないのは、ちょっとは好意があると信じたい。抱き寄せて膝の上に乗せてみると、悲鳴が起こった。
「ぎゃあっ」
「特撮に出てくる怪獣の鳴き声に似てます」
「ハムスターじゃなかったの?」
「食べてるときはハムスター」
「こんな感じ?」
膨らませた頬に、ちょっとは悪戯してもいいんじゃないかと下心が膨らむ。いろんなものが膨らんでいるけれど、先生はトイレの心配をしてくれた。高校生なんて十秒に一回くらいは、いかがわしいことを考えているもんだ。素直に謝るしかない。
「先生……キスしたい」
「さっき慎重になるって言ってなかったっけ?」
先生は困ったように笑う。
「ほら、いいよ」
伸びた髪を耳にかけた。
透明感のある肌に、色気も何もない唇をくっつける。先生の頬は柔らかい。おまけに良い匂いがする。
顔を覗いてみると、また先生は涙を流していた。
今度はどんな涙なのか考える間もなく、先生からキスをくれた。頬でも唇でもない微妙なところにされ、軽く腰を揺らしてしまった。笑いながら叩かれた太股が気持ちいいなんて、俺はそういう性癖があるのかもしれない。
花火の音を聞きながら、先生の過去の話を聞いてみた。ゲイだと家族に知られ、母親が発狂し、家にはいられなくなったこと。田舎に住む祖父母のところに連れていかれ、少なくとも実実家にいるよりは多大な幸せを噛みしめていたこと。今は都会で一人暮らしだが、休みの日は二人に会いに行っていること。
「車で一時間くらいかな。田んぼと畑しかないよ。写真送ってあげる」
道の駅での写真や、桜の画像だ。春に行ったもので、道路にも桜の花びらが舞っている。
「ここに売っているまんじゅうがね、すっごく美味しいんだ。小売店だと出回ってなくて、おばあちゃんの好物でもあるし、必ず買って帰るんだよ」
「道の駅から近いんですか?」
「道路沿いに一本だからね。林と畑に囲まれた家」
時代の流れに逆らった古き良き家だ。
「地震も多いし、危ないって言ってるんだけどね。口ではそう言っても、想い出深い場所だし、実際は僕が気に入ってる」
「俺は好きです。こういう場所。でも住むならやっぱり都会がいい」
「僕もだよ。都会の便利さを感じちゃうと、住むのは難しいかも。本当に何もない場所だから」
花火の音が止んだ。外から拍手の音が聞こえる。時刻はもう二十一時だ。
「そろそろお開きにしよっか」
「うん…………」
「そんな寂しそうな声出さないで。これから楽しい学校生活も待ってるんだし」
「の前に、テストが……」
「期待しててね」
応用をきかせた問題を山ほど出してくれるだろう。先生からの期待にも答えたい。
「今年はさ、たくさんの良い想い出を作りたいと思う。クラスの子たちとも。雅人君とも」
最後じゃあるまいし、とは続かなかった。月明かりの下で俯く先生は妖艶でとても綺麗で、唇に近い頬にまたもやキスをされた。
俺は、何も言えなくなってしまった。
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