第10話 夏休み
「私、死んだわ」
生きながら死を宣告した世良は、一枚の紙を手に机に突っ伏した。高校二年間の人生が詰まった用紙は歪み、赤い印と数字が見えている。
「先生が困ってるぞ」
眉毛のハの字がなんとも可愛らしい。じゃない、気の毒だ。公平に点数をつけた先生には何の罪もない。
伸びた前髪を切ったのは、心境の変化からか、単に伸びたからなのか。大きな目がレンズの向こう側に見える。
「えーと……今回赤点を取った方、夏休みに補習があります」
こんなブーイングを聞いたのは、小学生の遠足が雨で行けなくなったとき以来だ。俺たちくらいの年になると声変わりをして、あのときより重みが違う。
「国語だけですか?」
「三つ赤点を取った人です……僕の国語は、赤点を取っていなくても参加したい人はしても大丈夫……です」
点数は八十六点。赤点からは程遠い。ぐったりと精気を吸われている世良を見るに、三つ以上取ってしまったのだろう。
「国語って社会に出てそんなに使う?」
「むしろ、今も使っていると思うけど……」
「補習受けなかったらどうなるの?」
「赤点のままです。ちなみに一点たりともおまけはしません」
「今回難しすぎるわ」
「平均点は六十点です。普段と変わりません」
非難の声に丁寧に答え、すべてを論破していく姿勢は、さすが教師と言ったところか。向いていないと悩んでいても、貫き通す心術は、俺は好ましく思う。
「習った漢字をしっかり勉強していれば、三十点は取れました。四十点すら取れなかった人は、そういうことです。もうすぐ修学旅行もありますので、夏休み中に払拭しましょう」
生徒によっては魔のホームルームとなったが、俺は赤とは無縁の長期休暇で穏やかに過ごせそうだ。夏休みの間に、少しのスパイスと甘味料も混ぜるつもりだが。
「先生」
人影が少なくなったタイミングで、星宮先生に声をかけた。
「俺も補習受けていい?」
「一ノ瀬君は八十六点じゃなかったっけ?」
「そうだけど……」
「もちろん、来て。赤点取らなくて、頑張ったね」
星宮先生は生徒の点数も把握しているのか。記憶力がいい。
「あーあのさ、前髪切ったんですね」
「うん……どうかな?」
「似合います……可愛い、と思う」
「ありがとう」
廊下に生徒がいなくなったタイミングで良かった。人に対して可愛いなど、こっぱずかしい。
「その、この前の月と星の……」
お礼を言おうと思った。俺は言葉が続かなかった。
人差し指を立てての含み笑いは、次に繋ぐ単語を失わせるほどの効力があった。
先生は職員室の中に入っていき、お礼を言いそびれてしまった。確かに、学校ですべき話ではないが、学校以外だと話せない。俺と先生の関係性が、距離感に繋がる。
長期休暇に入り梅雨も明けて、自転車通学のスタートだ。
「部活か? なんで学校に行くんだ?」
「補習」
「赤点取ったのか……俺の息子でありながら……」
「取ってねえよ。クラブの打ち合わせもある」
そこはしっかり否定をしておかないと、後々ややこしいことになる。
学校に着くまで太陽の押しつけがましい熱をめいっぱい浴び、タオルで顔を拭った。地獄から天国に一気に登った。
「一ノ瀬君、おはよう」
「星宮先生……おはようございます。なんでここに?」
「ちょっといろいろあってね」
先生も顔が赤い。タオルを差し出すと、戸惑いながら受け取った。渡してから、新しいものにすれば良かったと後悔する。そりゃあ戸惑う。
先生がここにいる理由は、わりと重要案件で。自転車のタイヤがパンクしたと報告が多数上がっているらしい。
「タイヤに画鋲が刺さっているのを発見して、多分それが原因だと思う」
「俺らでも刺せそうですね」
「え」
「だってほら、高校生で釘やナイフをもってる人は珍しいぞ。家にもないしな。画鋲なら家でも学校でも手に入る」
「それは……そうだね。一ノ瀬君も、何かあったら伝えてね」
タオルは洗って返すと言う。別に構わないのに。首を横に振るので、任せることにした。
校舎の角を曲がる寸前に後ろを振り向くと、先生はタオルに顔を埋めていた。泣いているわけではないだろうが、少し気になる。
教室に入ると、世良は手厚い歓迎をしてくれた。
「よ、赤点仲間!」
「残念だったな。俺は赤点じゃない。真面目に補習を受けに来ただけだ」
「ひど! 水島も補習受けてるし、仲間だと思ったのに! あと今日はスイーツクラブの活動をするわよ。焼きそばを作ります」
「もはやスイーツじゃねえな、それ」
一限目は数学だ。二限目は国語、三限目は自習で、星宮先生がいてくれる。三限目に宿題を済ませたいし、一石二鳥でもある。
二限目に教室に入ってきた先生は、いつもより機嫌が良さそうに見える。浮かれているというわけではないし、ほんの少しだけ、声が高い。
自習時間になると、世良は先生を呼び止め、何か耳打ちをしていた。星宮先生は驚き、はにかんで頷いている。何を話しているんだ。
先に調理室に行けと世良が言う。よく分からないまま向かうと、疲れきった顔の水島がいた。俺を見るなり、ここ最近で一番の笑顔だ。
「よお、心の友!」
「残念ながら、俺は赤点はない」
「お前なんて顔見知りレベルの人間だ」
「ちなみに世良は赤点だぞ」
ここまで分かりやすい百面相は初めて見た。
「なんで今日は焼きそば?」
「さあ。世良が食べたくなったんじゃないのか。来るまでに下ごしらえはしておこうぜ」
人参を切っていると、待ち人はやってきた。一人ではない。包丁が斜めに入った。
「な、なんで?」
「ふふふ……喜びなさい。私が誘ったのよ。みさき先生の歓迎会も兼ねてね」
「よろしくね……」
自信なさげな顔は、授業のときとはまた違った一面だ。受け入れてもらえるか心配なのだろう。
「みさき先生は焼きそば好き?」
「たまに作るかな。でも僕はそんなに料理上手じゃないし」
「一番好きな食べ物は?」
「甘いものと、ポテト」
「ポテト?」
「おばあちゃんの作るジャガイモが美味しくて好きなんだ。サツマイモも好きだけど」
先生はポテトが好き。過去に作ったジャガイモ料理を並べてみると、ベーコン巻きやみそ汁、肉じゃがと、それほどレパートリーは多くない。
「それじゃあ……大学いもは?」
先生の目が輝いた。
「好き、好きっ……大好き」
「そ、そんなに好きなんですか」
「……好きだよ」
先生の『好き』は不思議だ。気持ちが弾むし、穏やかにもなるし、落ち着かなくなる。大学いもに対する『好き』だと分かっていても、自惚れが頭をよぎり、まな板で寂しそうにしている人参に集中した。話題に上がらずとも、俺は人参も好きだ。
「水島君の髪の色はどういうことなの? 教師に怒られない?」
「めちゃくちゃ言われる。オレンジに染めてみたんだけど、どうかな?」
「うん、校則違反だね」
「ですよねー。五十嵐に見つかってこっぴどく怒られた」
聞きたくない名前が出てしまい、豚肉を油に投入した。ついでに火の通りにくい人参も入れる。
「この前、みさき先生って五十嵐と相合い傘をして帰ったんでしょ?」
「なんで知ってるの?」
認めてほしくなかったが、実際に見ている。俺も同じ状況で、見られたくなかった。
「一年の近江が言ってました」
「車で送っていきますって傘に入れられたんだけど……」
「一緒に帰ったんですか?」
「途中まででタクシーを呼んで帰ったよ」
一度トレーに戻し、麺を解しながら蒸し焼きにする。今度はすべての具材を入れ、火が通ったところでソースを絡めて完成だ。
「一ノ瀬君、すごい。料理上手だね」
「みさき先生はやらないの?」
「休みの日くらい。普段はコンビニやスーパーで買っちゃうかな」
話題を変えてくれて助かった。焼きそば様々だ。
「一ノ瀬君も、してたよね」
「え」
星宮先生は消え去りそうなほど小さな声で呟いた。世良と水島が同時に顔を上げる。
「お前……同じ童貞だと思ってたのに……」
「なんでそうなるんだよ! 飛躍しすぎだ」
「良かった童貞は否定しないでいてくれた……お前は仲間だ」
「相手は誰よ?」
「近江だよ。ほんの数分だけで、方向も違うし走ってバス停まで行った。長時間同じ傘に入ってたわけじゃないからな。そういう関係じゃないし誤解するなよ」
「アンタは否定しすぎ。必死すぎて逆に怪しいわ」
「ああもう、黙って焼きそば食え」
先生はすでに食べ始めている。
「こういうクラブ活動は楽しいんだけどね、補習がなかったらなあ」
「世良さんは国語何点だったの?」
「三十九点です……あと一点……」
「惜しかったね。でも赤点は赤点だから。補習がんばろうね」
相合い傘の話は気にしないでほしい。ついでに童貞の話も。
「花火大会までは宿題も全部終わらせるわ」
「いつだっけ?」
「八月三週目の土曜日。絶対晴れるわ、大丈夫」
保証の問題ではなく、願いだ。一年に一回の特別な日は、参加するにしないにしても晴れてほしい。星宮先生は興味があるのだろうか。どちらかというと、花火より星が好きそうだ。
焼きそばを食べ、クラブ活動はお開きとなった。予定があるという世良と水島は早々に帰り、結局作るのも片づけも俺だ。
「……………………」
「……………………」
二人が帰った後はなぜか先生も話さなくなって。俺も話題を探すのに必死だ。世良とはくだらない話で盛り上がれるのに、星宮先生とはうまくいかない。きっと、生徒と教師だからだ。
「そういえば、先生ってハムスターに似てます」
「ハムスター?」
「焼きそばを食べている顔が。頬膨らんで、似てた」
「おばあちゃんの家でハムスターを飼ってたんだ。懐かしいなあ。大好きだよ」
大好きなのはハムスターとおばあちゃん。俺じゃない。
「一ノ瀬君は、花火大会に行くの?」
「えっ」
「恋人とか、いるのかなあと思って」
「水島に童貞仲間とか言われてたのに。その通りですよ」
先生が吹き出した。ああ……やっぱり可愛い。じゃなくて、魅力的だ。
「和菓子屋で手伝いかも。親父にお小遣い請求できるし」
「和菓子店に行ったら、一ノ瀬君に会える?」
どういう意味だろうか。ありもしない欲が浮かんでは消え、もうひとりの俺がストップをかけてくる。
「まだ……働くかどうかは……」
「そうだよね……。お店で限定商品とか出さないの?」
「花火大会限定ってのは多分出さないです。あるのは八月限定商品なら。錦玉羹は、金魚が泳いでます。先生は花火を観に行かないんですか?」
「行かないよ。そもそも行く相手はいないし。花火より星が観たいかな」
今度は俺が吹き出してしまった。
「えー、なんで笑うの?」
「先生ならそう言うと思って」
「家に天体望遠鏡があるんだけど、本当に立派なんだよ。土星も見えるし、ボーナス使って良かった」
「土星? 見えるんですか? すごいな」
「土星の環もちゃんと見えるよ」
先生は自慢げに、ふふ、と笑った。
「ますます見たくなるな」
「…………来る?」
廊下から笑い声が聞こえた。どこのクラスかも分からない生徒が、じゃれ合いながら通り過ぎていく。
先生は、今なんて言った?
「…………なんでもない」
「ちょっと待ってくれ。今……」
「ばかみたい、ほんと」
「なんでもないは止めてくれ」
「……どうして、そんなに必死になるの?」
「先生こそ、泣きそうな声を出さないでくれ。行きたい。行ってもいいですか?」
曲がり角を曲がり、生徒がいなくなったところを見計らった。
「必死にもなる。俺は……」
とことん運が悪い。今度は別の生徒が廊下を走っていく。もしかしたら、星と星の距離が隣り合わせにならないように、阻まれる運命なのかもしれない。
調理台に手をつき、がっくりうなだれた。
「一ノ瀬君」
星宮先生は距離をつめてきた。先生の腕は俺より冷たく、気持ちがいい。
「ほら」
通話アプリのIDが表示されている。俺も出し、すぐに登録した。
星と星が隣り合わせにならなくても、流れて近づくことはできる。できるならば、一番近い距離で留まりたい。
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